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AI

AIは人間を越えられるのか?

本質的にコンピュータって答えのわかっているモノに対しての答えしか持たないもの。例えば、わたしはブッダとか老子の思想がとても好きだったりするのだけど、コンピュータに彼ら知の巨人を超える思想が生み出せるのかと言ったら、、、答えのない領域に対して、人間超えはありえない、とわたしは思う。けれども、そもそも、この議論は見当違いなのじゃないかと、このところわたしはよく思わされる。

世界を観ているのは常に生身の人間「私である」。

この前提に立ち返ったとき、シンギュラリティ(コンピューターが人間の能力を凌駕するといわれている特異点)が、意味するところは少し変わってくるような気がしている。

コンピュータ、およびコンピュータが生み出すあらゆるモノ、ソフトウェア、流行りのメタバース。こういったものは全て基本的に人工物である。だから、そこにどれだけ斬新さや、自由があると言ったって、それは人工物としての設計図の中における「自由」でしかない。Web3.0、DAO、ブロックチェーン、ディセントライズド、これらのアイデアは、あくまでその人工的な創作物の域から出ていない。

一方で、シンギュラリティーの話に戻すと、コンピュータが人間の理解を越えて生成と消費のバランスが崩れた時。そこには、人間が「想像」すると同時に、あるいはそれ以前に「創造」が起こるような逆転現象が起こる。そこには広大なブラックボックスの海が広がる。なんで花が咲くのかわからないけど、結果的に春になると花が咲く。。。みたいな。それは知性といったものではなく、限りなくロジカルに制御された混沌の世界。ここにはもはや恣意的な意図が「届かない」。ある意味「自然」なフィールドが出現する。これがデジタルネイチャーと言われる、人類がこれから向かおうとしている新たな自然界、ということになるのだろうと思う。

繰り返すけれど、これはわれわれの知っている知性とは違ったもの。シンギュラリティーというのは、つまり人間の知性を機械が超えるということではなく、理解を越えた新たな自然現象が世界に誕生するということに近いのかも知れない。

機械は人間の知性を越えられるのか?

この答えはやはりノーであることには変わらない。しかし、この新たに出現するデジタル現象の前に人間の「知性」は今ほどの意味を持たなくなるだろうとも思う。

人間は変わらない

存在は常にその生身の「わたし」を通して認知されることで存在する、という点はデジタルであっても現実の世界でも同じである。つまり、世界は「生成」されているのではなくて、起点は常に「認知」なんです。世界にどのような理解不能な現象が発生しようとも、それは「わたし」によって認知されるのを待っているのです。量子物理学であれ、仏教哲学であれ、世界を観測する者・世界を観る者がいてはじめて自然は在ることができる。

シンギュラリティ後のデジタル世界で、生成と消費のバランスが逆転してしまうと、静的なコンテンツみたいなものはもしかしたら近い将来なくなるのかもしれない。そうであっても、「わたしは誰か/何者か」を知覚する「わたし」の感性はあり続ける。シンギュラリティを語る時、どうしても人間の知性を超えるとか、知性とは何かといった外面的な議論に傾倒しがちだけれど、本題はどこまでいっても、それを認知する「わたし」の側にある、という単純な事実を忘れている。

大切なのは、世界がどのように変わろうとも、それを認識するものは人間の生身の感性であり、五感であり、精神性なのだと思うのです。

りなる



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