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正解は結果のなかにしかないんだよ

近年、狂ったように即座に「正解」を求める人が増えてるように思います。お店にいってお金を払えばその場で望みのものが手に入るし、ネットで検索すればほとんどの答えは瞬時に提供される。そんな環境に浸っていると、ビジネスだけじゃなく人生においても正解はなんなのか、すぐに答えを求めたくなってしまうのかもしれません。

そんな世の中が複雑になって簡単に答えがわからなくなっているなか、最近流行りの主義があります。「立場至上主義」ってやつです。(あ、これは、わたしが勝手に命名しました。)正解をものごとの本質ではなく、それを発信している発信者の立場によって判断するといったものです。

盗人の善意

情報過多の時代で正しく情報を得るには、あるていど「信頼のおける人」やその「立場」にある人の言葉を信用するというのはとても有効だと思います。その信用度に応じて発言の内容の信憑性を図ることで自身の思考プロセスを省略することができる、とても賢い取捨選択の方法です。

ただ注意も必要です。例えば、こんなお話があります。お店の主人がちょっと目を話したスキに売り物の干し柿がなくなってしまいました。そこへ盗人の前科のある男が通りかかり、野良猫が商品をくわえて走っていくのを見たと善意で伝えたのです。ところがお店の主人はそれに納得できず、前科のあるお前が盗んだんだろう?という疑念を抱きます。お店には人だかりができ、あいつは以前こんなものも盗んだんだ、あんなものも盗んだんだと男の前科に対する批判が強くなり、結局その男は役人につきだされてしまうのです。

悪人の主張は悪なのか?

男の置かれている前科者という「立場」と彼の行いや主張は何の関連もないことはみんなわかっているはずです。けれども、◯◯のくせに何を言ってるんだといった発言は世の中からなくなりません。

悪人の主張は常に悪なのか?

問題は悪人にあるのではなく、正誤を判断できないわたしたちの心の弱さにあります。わたしたちは課題解決のための十分な知識や知恵をもっていないとき、目の前にある問題を即座に「こうだ!」と判断できなくなってしまいます。すると、目先のわかりやすい判断材料(それが関連のないものであっても)に選択を委ねてしまうのです。この場合、発言者が前科者であるというわかりやすい事実に流されてしまうのです。

よくワイドショーなんかをみてると、好感度の高かった芸能人がお酒に酔って暴力沙汰を起こしたとか不倫をしただとか、そういう行動によって、「あーー、もう、信じられない」「いい人だと思ってたのに」などと言いたくなる気持ちはとても良くわかります。ところがその感情ばかりに流されてしまうと、暴力事件なんか起こしたやつの言ってることは信用に値しない = 間違っている、という思考が働き、続いてこれまで彼らがやっていた行いや言動のすべてが遡って悪いものであるかのように錯覚してしまうのです。

当事者こそが真実

ちょっと賢い人はここから少し思考が離れます。盗人であれ悪人であれ、彼らが本当のことを語っているかは「当事者」しかわからない。だから当事者の声こそが真実なのだという主張に行き着くのです。

「当事者でもないのにどうして偉そうなことが言えるんだ!」とか、「当事者の声に寄り添いましょう!」とか。現場の声に耳を傾けたり、マイノリティーに寄り添う姿勢だったり、当事者を第一に考える行為そのものは優しい社会の在り方の一面だと思います。だから盗人の善意の話と比べると、これは一見とても賢く優しい態度のようにも見えます。最近の報道番組やTVのドキュメンタリーなどはこの立場を取ることが多い。

でも、それだけが指標でよいのだろうか。わたしはこれもまた形を変えた「立場至上主義」だと思っています。

現場の声が最善なのか?

わたしはエンジニアなのでシステム設計をするときによく陥りがちな例え話をしたいと思います。失敗するシステム設計はたいてい現場で実際に仕事をしている人たちの声を聞いていません。責任者であったり役員の理想や思いだけでシステムを構築してしまうと、実際の業務との乖離ができてしまうからです。その意味では、現場で「当事者の声」を聞かなければ真実はわからないという姿勢はまったくもって正しいと思います。

でもここにも注意が必要なのです。では現場で当事者の主張や要望を100%とりいれたら成功するのか?といえば、やっぱりNOなのです。なぜなら、現場にしかわからない事実がある一方で、現場スタッフにはシステム設計の本質が分かる人はあまりいません。だから現場の声だけに耳を傾けると、結果としてシステムの特性を活かせないとっても非効率なシステムができあがってしまいます。

当事者の声に耳を傾けるのはとても良いことです。真実は当事者にしかわかりませんから。だからといって、当事者の声こそが「最適解」だという理屈は必ずしも正しくありません。

これも形を変えた「立場至上主義」なのです。当事者の声こそが真実だということに固執しすぎてしまうと、本質的な最適解がわからなくなってしまうでしょう。最近の地方再生だとかの議論も、当事者でもない部外者が口をだすなと言われてしまうと何もできなくなってしまいます。当事者の声こそが真実だという本質的な部分も含んでいるのでやっかいです。特に原発問題であったりその地域以外の外部要因が絡んでいる場合はなおさらです。

正しさを再考する

立場至上主義の問題点は、判断の基準をカッコつきの ”正しさ” をその立場にある他人に求め、自ら感じ自ら判断することを放棄していることです。

正しさってなんだっけ?ということをしっかり考えないといけません。立場至上主義は確かにその複雑に絡まる正しさを端的に判断できるお手頃なアプローチかもしれません。しかし、それでは求めている答えにはたどり着けない。なぜなら、そこに本質がないからです。よくよく考えてみると、正しさというのは多くの場合は結果論なんです。後から、「あぁ、あれは正しかった」「それは間違ってた」と思うだけなんです。正しさは常に後出しジャンケンでしか語れません。

わたしはよく「正しさは未来にしか存在しない」と言ったりします。それはつまり未来から今を振り返って、「結果的に」正しかったと思うだけのことだからです。すると、今に生きるわたしたちにとって正しさとは何かと言えば、どのような結果になろうとも「さもありなん」と言える心の在り方なのです。そうでしかありえないということです。

感性を養う

正しさを端的に判断しうる絶対的な価値観を会得したいという願いは理解できます。でも、そんなことは原理的に不可能です。正しさというものは本質的に存在しないのですから。それでも、正しさに近づきたいのであれば不断の努力が必要になります。正しさを判断する心が常に未来に向かって変容するからです。正しさとはそこに静的にまたは定量的に存在するものではありません。だから正しさと正しく付き合うには、より広い視野を持った知恵とデータによる知識を学ぶことだけでなく、心の鍛錬とそして感情や心の在り方を養う努力こそがとても大切です。

客観的な視点で視覚化、データドリブン、ファクトフルネスなど、物事を数値化することで明瞭に物事を白黒つけてしまいがちな社会の中にあって、そこに定量化できない「感情」や「心の在り方」をみつめ、物事を鋭く観察する感性を養ってほしいと願っております。

りなる



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