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会社を辞めようか迷ってるんです

最近ね、「雇われる」ということに、なにか期待と不安の入り混じったグニャリとした感情が引っかかることがある。それはよく言われる「束縛されたくない」とかいうこととは違ったもの。むしろ、好きな人とはずっと一緒にいたいのに!という虚しさ、みたいなもの。

例えば、「一緒に仕事しましょうよ!」なんて話で盛り上がることがありますよね。このとき、これすごく不思議なんですけども、相手が「大好きな人ほど」そう言われて、ワクワクする嬉しさもひとしおである反面、心の隅っこにそれと矛盾する拒絶が湧き上がってくることがないでしょうか。大抵は嬉しさとワクワクが大きいので、放っておくと消えてしまうほど隅っこのほうに。

つい先日、ある会社の若手の社員から、ちょっとした相談を受けたんです。きっと、わたしみたいな社外の人間には話しやすかったんでしょう。

「実はいま会社をやめようか迷っているんです。」

そのとき、わたしのなかで何かハッとした。あぁ、そうか、社員って入社した瞬間に、いつかこの"最期の日"がくることが決まってしまうんだ。「雇われる」という枠の外に居られるからこそ、関係性を望む限り続けることができるし、好きな誰かとずっと友達でもいられる。でも、社員は退職した瞬間、誰でもないただの他人になっていってしまう。退職は「雇われた」からこそやってくるイベント。だから「雇われた」瞬間にその日が来ることが宿命付けられてしまうとも言える。

「市場規範」という言葉がその瞬間、脳裏に浮かんだ。これは必ずしも社員じゃなくても、雇用関係には必ずつきまとう。で、それに引きづられて、こんなnoteをぼんやり書いたりしたのでした。

好きな人と一緒に居られることはとても心地がよい。一方で契約関係の中で働くということは、その相手がどれだけ好意的であっても、半ば強制的に市場規範へと移行することにならないだろうか。「雇う・雇われる」と言った瞬間に、まだ始まってもいない関係に「期限」が垣間見える。それが頭の隅っこに微かに立ち現れたグニャリとした「虚しさ」の正体だとわかった。

5年後に彼はこの会社にいるのだろうか?10年後に彼女はここでまだ働いているのだろうか?出会いには必ず別れがある。それは新しいステージへの旅立ちなのだから、むしろ喜ばしいと胸を張る人もいる。確かにその通りだとわたしも思う。でも、人生の分岐点による友人との分かれと、市場規範の解消による別れが、わたしにとって同じものとどうしても映らない。

限られた出会いのなかで、人間関係と市場関係が複雑に絡み合っている職場という環境。。。深い「絆」ってなんだろう。その絆はなにによって結びついているのだろう。そんなことを思った一日だった。

りなる



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