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R.4 2.14

『バレンタインデー』


これは、私が学生時代にアルバイトをしていた、小さな喫茶店での話である。


その喫茶店は、60歳近いマスターと、その奥さんで営んでいる小さなお店。お客様もスタッフさんもそんなに多くはないが、常連の方が毎日いらっしゃる、素敵なお店だった。もちろん、マスターの作る料理と、サイフォンで淹れるコーヒーは絶品。


そんなお店でアルバイトを始めて、約半年。
それはバレンタインデーの夜のこと。
私はその日、マスターと2人でお店に立っていた。平日の夜ということもあって、お客様はそのときはもう誰もおらず、今日はこのまま閉店かな、と思っていたその時。



…あ、いらっしゃった…。



その人は平日の夜、週1回くらいのペースで、夕食を食べに来られる、常連のお客様だった。
おそらく歳は30代くらいで、いつもお仕事帰りなかんじ、といった印象。


…あぁ、今日も素敵だなぁ。



背が高くて、黒のロングコートが映えるスタイルの良さ。切長の目と、とてもよく似合っている、ショートカットの黒髪。

どれも素敵なのだが、私がその人の中で一番好きだったのは、綺麗に手入れされた、その手だった。長くて細い指、整えられた爪、だけど決してネイルなどしていない、透明感のあるそれ。白魚のような、とは、まさにである。

まだ学生だった当時の私は、こんな大人になりたいなぁと、憧れを抱かずにはいられなかった。



「こんばんは。いつものお願いね。」



お冷とおしぼりを持っていった私に、そう告げて、その方はいつも、その綺麗な手で文庫本のページをめくりだす。…と今日も同じことをするのだと疑わなかった私だったが、その日は様子が違った。

なんだかいつもより落ち着きがなく、そわそわ、目線も泳いでいて、たまにこっちを見るから、ときどき目がぱちっと合う。


…どうしたんだろう?


「何か他に注文などございましたか?」
と聞いてみても、


「あ、ううん、ごめんなさい、大丈夫。」


…??


でもその後は、いつも通り、マスターの料理を食べ、食後のホットコーヒーを飲み終え。しかし、その間もどこか落ち着かない様子だった。


その後、お会計も終えて、


「今日もありがとうございました。
 またお待ちしております。」


と声をかけ、私はマスターの片付けの手伝いをするため、厨房へ。…が、何故か、その方はお店の扉を出ていこうとせず、こちらを向いて、固まっていた。そして、今まで気付かなかったけれど、その綺麗な手には、某有名チョコレート店の小さな紙袋。



…あ、そういえば今日って、バレンタインデーだっけ。



私がふとそう思った瞬間。

その方が、その紙袋を握りしめて、こちらへ向かって、ズンズンズンズン、ものすごい勢いで迫ってくる。


…え……??もしかして、私に!?
でも私、女だし…?!



「あ、あの、これっ!
よければ、食べてください!!」



その、ほんのり赤くなった、綺麗な手が差し出された先には、私の後ろで、ぽかーんと口をあけたままのマスターが。



「え…??あ、ありがとうございます?」



マスターに紙袋を渡すと、そそくさと出て行ってしまった、黒のロングコートのその人の、いつもの洗練された雰囲気とは全く違う、意外な行動に、私は驚いたのと同時に、途中まで、まさか自分に…!?と期待してしまった、意味不明な恥ずかしさで、行き場のないモヤモヤを抱えることに…。




…が、やはり一番驚いたのはマスターだったようで。



苦笑しながら一言。



「いやぁ、男の人からもらったのは、初めてだよ。」





……ちゃんちゃん┐(´∀`)┌

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