脱会のステップ【第3章④バウンダリーオーバー】

宗教を脱会したいけれども辞められないという人に向けてその手順を解説しています。
私自身のエホバの証人(jw)という宗教団体での経験をもとにして書いております。


第3章では、「jw組織の教理がもたらす心理的影響」について解説しています。

今回の記事は、宗教を辞められない問題の核心部分に関係していると思っています。

今、書いている記事ももちろんそうなのですが、
この第3章を通してお伝えしたいのは、
辞めたいのに辞められないという状況に陥っている方は、
宗教を辞める辞めないとは別の心理的問題を抱えている方が多いということです。


これを理解することにより、これまで見えてこなかった問題の解決策が見えてくることがあります。

そして、
自分は宗教の問題で悩んでいるのだと思っていたが、
実は、人間関係に悩んでいたのだ。
と気づく場合があるのです。


つまり、なぜ脱会がそれほど困難なのかと言われれば、
・宗教的な問題(神を信じるかどうか、組織を信じるかどうかなど)

・人間関係の問題(アダルトチルドレンやバウンダリーオーバーなど)
二重で枷(かせ)になっているケースが多いと思います。(私もそうでした。)


この二つの問題がお互いを強化し、組織にとどまればとどまるほど辞められなくなっていく状況に陥っていくわけです。

そこで、今日は「バウンダリーオーバー」について書いていきたいと思いました。


バウンダリーとは「境界線」のこと


バウンダリーオーバーとは直訳すれば「境界線を越える」ということです。
この「境界線」という考え方は心理学の分野で用いられる概念であり、
私は心理学やカウンセリング関係の書籍を通してこの考え方を学びました。


国境などの境界のことを「ボーダー(border)」と言いますが、
「バウンダリー(boundary)」はそれと綴りが似ていますね。

バウンダリーは「境界」を意味しており、
心理学の分野では、一人一人が持っている個人的な領域と外の世界との境界を表す言葉のようです。


すごくわかりやすく言えば、「人権」のイメージだと思います。

私たちは生きている人間が一人一人異なる存在であり、
それぞれの生き方を尊重し、尊厳を重んじるべきであることを知っています。

ゆえに、ハラスメントやいじめ、DVや虐待といった行為に対して、嫌悪感を感じます。

もちろん、こうした関係性を考える時にも「境界線」の考え方が用いられるのですが、もっと身近なことにおいてもこの考え方は適用されます。

例えば、
・何を食べようか
・どんな服を着ようか
・何をして過ごそうか
・どんな音楽を聴こうか
などなどの生活上行う様々な決定、自分の価値観の部分でも「境界線」という考えが大切になってきます。

そして、主に心理的影響を考える場合には、こちらの「境界線」が侵犯されていることが多いのです。



境界線が侵犯される時


先述の通り、バウンダリーオーバーとは「境界線を越える」ことであり、
自分の価値観や日々の選択など、
自分の権限で行えるはずのことを他者に委ねなければならないことのストレス
といえるでしょう。

身近な例で言えば、自分のことに必要以上に干渉してくる親や、
何をするにも許可を求めるように言ってくる束縛彼氏(彼女)
などがこれに当てはまります。

それを受ける側は相当のストレスがかかります。

なぜなら、自分の人生を自分でコントロールしている感覚が得られず、
不自由さを感じる
ためです。

文字通り、「相手が自分の境界線を踏み越えてきている」と感じます。



相手に必ずしも悪意があるとは限らない


この「境界線」問題の厄介なところが、
相手も自分のことを思って善意からそうしてくれている場合があり、
一概にそれをはね除けることができない
という点です。


相手が悪気があってそうするわけではないから、その要求をなかなか断れないという人もいます。
私も「境界線」という考え方を学ぶまでは、そう思ってしまうことがありました。

自分のことを心配して言ってくれているのに、それを拒否するのは自分が悪いのではないかと思っていました。


また、境界線を越えられてしまいやすいタイプの人というのもいるようです。

・自分に自信がない
・他人から嫌われることを恐れる
・ノーと言えない
・自分さえ我慢すればその場が収まるならそれでいいと思ってしまう
・誰かの役に立って初めて、自分には存在意義があると思える

こうしたタイプの方は他人や身近な人から境界線を越えられてしまいがちだと言うことです。



教団による境界線侵犯


さて、それではエホバの証人の組織との関連性について説明します。

私がエホバの証人の方と研究を始めた時、

「想像以上にプライベートな領域に踏みこんで来るな。。」

と思いました。


・職業選択について
・大学に進学することについて
・娯楽の選択について
・服装について
・選挙や輸血などのしてはいけないこと
・祝祭日を祝ってはいけない

などなど

生活の至る場面での指針のようなものを学ばされ、その通りに生きることが神を愛しているものの生き方だと教わりました。

とてつもない違和感を感じました。

しかし、
「クリスチャンというのは生き方であり、単なる知識を得て終わりというものではない」
とも教わり、
それはそうかと思い、徐々にその教えを受け入れていくことになりました。


当時感じた違和感とは、まさに自分の境界線を越えられていたことに対する違和感だったように思います。

しかし、当時は「この違和感は自分がまだ聖書の教えの神髄を理解していないために感じるものであり、そのうちわかってくるのだろう」と考えていました。


他方、当時から今までずっと受け入れられない、違和感のままの部分もあります。

それは
どのように感じるかという価値観さえも指針が示されている
という点です。


それは教団が発行している出版物の次のような文体に表れています。

・〜〜だと思うに違いありません。
・〜〜したいと思うはずです。
・私たちも〜〜と同じ気持ちを抱いています。
・クリスチャンであれば、当然〜〜と感じるでしょう。
・〜〜(教団が考える悪い例)のようでありたいとは思いません。

もちろん、妥当な範囲で例えば、
浮気や不倫に対して

クリスチャンであれば、当然浮気などに対して嫌悪感を感じるでしょう。

と書かれていれば、納得がいくでしょうが、


エホバとイエスに感謝を示すために、お二方が導いておられる組織の指示に忠実に従いたいと思うに違いありません。


などとしれっと書かれていたりするのです。


どうも私はこのあたりに一定の価値観を教え込もうとする意図を感じずにはいられません。


本来、人の価値観とは(よほど社会的に有害となるものでなければ)自由であるべきです。

それを特定の価値観しか認められないとするのは、やはり生きていて苦しいと思うのです。


だったら、教団に入らなければいいではないか
という話になるのですが、

神の存在は信じていたので、
組織を否定する=それを導いている神を否定する
と思い、それはできませんでした。

※私を含め、多くの信者は神と組織を別にして考えることができないのです。

ゆえに、自分では違和感を感じながらも、それが神のご意志であると信じ、
境界線侵犯を許していってしまうという図式があると思います。


その末路は、
自分の境界線を完全に放棄し、
組織に支配されているように感じるという感覚さえもなくなり、
自分は組織の一部であるような感覚へと変わっていきます。


教団の出版物で示されるような思考回路で選択、行動し、
それが本来の自分が望んでいたことだと錯覚する。


そして、このような状況下で何年も過ごしたため、
今更、組織に疑いを持って辞めたいと思ったとしても、
その教えからなかなか自由になることはできず、
また、かつての自分がどのように感じていたかが分からないため、
脱会に非常に時間がかかるということになってしまうのです。

教団の教える価値観を抜きにした、自分の価値観というものがわからないのです。



対策


最後にバウンダリーオーバーに対する対策を書いて終えたいと思います。

まずは、自分が境界線を越えられていたと自覚することが大切です。

これだけでも、今後教団から入ってくる情報に対して注意することができます。

一度気がついてしまうと、
これまでいかに教団が私生活に踏み込んできていたかがわかります

私はそれに対してある種の「気持ち悪さ」のようなものを感じましたが、
それは一人の自由意志をもった人間として普通の反応だと思います。



次に、教団の出版物を読んだ時、統治体が何かを言っているとき、
「それはそれとして自分はどう思う??」
と問いかけてみてください。


最終的に、教団の指示に従うかどうかの前に、
あなたがどのように感じるかは完全に自由であり、
それを禁止することは神ですらもできません

そうでなければ、神は私たちになぜ自由な意思と感じる心を与えたのでしょうか。


まずはその部分に意識的であれるようになることを目指していきましょう。

それで、現時点ではこれまで通り組織の指示に従うということにしたのであれば、それでもいいと思います。

しかし、それは教団に従ったのではありません。
自分の決定でそうしたのです

このnoteでは何度か書いていますが、
少しずつ人生の主導権を組織から自分へと取り戻していく。
そうやって取り戻した主導権を行使して、新たな人生を選択し直してもいいと思いますし、改めて個人として神に仕えるのならばそれはそれでいいと思います。
そうして自分の感じたことを大切にし、自分の責任で決定していくことの積み重ねが、組織依存から脱却する(=脱会する)のにとても大切だと思います


<補足>
今日紹介した「境界線」は信者間での夫婦関係でも当てはまります。
それはしばしば「共依存」という形態へと発展していきます。
そして、それがより一層脱会を困難にする要因となります。
それについては、また別の機会に解説したいと思います。


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