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脱会のステップ【第3章⑤二元論を乗り越える】
宗教を辞めたいけれど辞められないという方に向けたシリーズ記事。
私自身のキリスト教系の宗教、「エホバの証人」での経験を基にして書いております。
本日は、「二元論を乗り越える」というテーマで書いていきたいと思います。
二元論とは何か
さて、現代文の授業などで聞いたことがあるかもしれませんが、「二元論」とは一体なんでしょうか。
二元論(にげんろん、dualism)とは、世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分に分けられるとする概念のこと。
つまり、物事を二つの基本原理で考えることを二元論と言います。
私たちは、日常生活の至る所で二元論的な発想を頼りにしながら生きています。
・男性と女性
・昼と夜
・平日と休日
・偶数と奇数
などなど
本当に身近すぎて意識に上らないくらいです。
この二元論の中で、宗教に関連して扱われるのが
・善と悪
の二元論です。
これはキリスト教に限定したものではなく、
世界中の宗教や神話に善と悪の二元論が存在します。
したがって、このように考えてしまうこと自体は仕方ない部分があるのですが、
実際に世界は善と悪しかないのかと言われればそうではないでしょう。
「正義の反対はもう一つの正義」とはよく言ったもので、どちらかが絶対的に正しく、その反対サイドは絶対的に間違っているなどということはほとんどないと思います。
しかし、唯一正しいと称する組織に所属していると、こうした考え方が徐々にできなくなっていきます。
よく、カルト宗教の危険性として「白黒思考が身についてしまう」ということが挙げられていますが、その白黒思考というのがまさに二元論のことです。
二元論の危険性
こうして、二元論が身についてしまうと次のような考えを自然とするようになっていきます。
・自分たちが唯一正しい宗教組織である
・つまり、自分たち以外は間違った組織であり、神の怒りを買う滅びに至る偽りの宗教である
・偽りの宗教(=悪)に所属している信者は、ことごとく不幸であり、自分たちの教え(=善)を受け入れてもらわなければならない「かわいそうな人たち」である
・自分たちは、正しい組織(=善)に属しているので、相手の宗教(=悪)についての話を聞く必要はないし、まして相手の宗教の集まりに出席するなどもってのほかである。(ただし、相手は自分の宗教の集会に出席すべきだと考えている)
冷静に第三者としてこの言い分を聞けば、ずいぶん偏りのある考え方だと気が付くのですが、組織の中にいるとこのように考えることが非常に難しいのです。
二元論という考え方は、物事をシンプルにするのにとても有効です。
実際、無秩序に思える世界の有り様を、AかBかの二つだけに分類して考えられるならば、それは非常にわかりやすくなります。
しかし、実際の世界というのはそんなにシンプルではありません。
ここに二元論の危険性があります。
二元論というのは、一体何が危険なのでしょうか?
それは、一言で言えば第三の立場を認めないというところにあります。
世の中を善か悪かの二つで考えてしまい、
その「どちらでもない」立場を認められなくなってしまうのです。
例えば、
・聖書の真理を聞いて、それを受け入れるか拒絶するかのどちらかしかない。
・サタンの道を選ぶか、エホバの道を選ぶかのどちらかしかない。
・世の中での成功を選ぶか、エホバから見て成功することを選ぶか。
などの二者択一を常に迫られるようになります。
しかし、そんなに簡単にいかないというのが現実です。
・聖書の一部は評価しているが、一部の記述に対しては信じていない
・世の中でもエホバの証人で良いと教わっていることを実践している人はたくさんいる
・エホバの証人でありながら、世の中でも一定の成功を収めている人だってけっこういる
これが現実なのですが、
二元論的な考え方に陥ってしまうと、AかBかどちらかの人しかいないという見方をするようになってしまうのです。
そして、この考えが本noteのテーマである「脱会」をより困難にしていきます。
この教団の外部は、悪魔によって支配されている世界であり、
その外部の世界で何をしたとしても満たされることはない。
それは偽りの幸福である。
と教わり、
その思考が染み付いているがゆえに、教団を抜ける勇気が出ない。
また、たとえ脱会できたとしても、その先の人生で何かつまずいた時、
「ああ、やっぱり教団の言っていたことは正しかったんだ。自分が間違っていたんだ」とまた、戻っていってしまうこともあり得るのです。
なぜ二元論に陥ってしまうのか
それでは、なぜ私たちはこうした二元論的な考え方にハマってしまうのでしょうか?
一つは、その教えが非常にクリアーかつシンプルだということです。
自分たちが唯一正しい、他のものはどんなに良く見えても悪から出ている
という善ー悪二元論は非常に分かりやすいです。
だからこそ、子供向けのアニメや漫画では、シンプルな善悪ニ元論を土台としたストーリー展開になっています。
そして、その善悪の関係性は、基本的に揺らぐことはありません。
悪はこれまでも、これからもずっと悪であり、自分の側はずっと善(=正しい)のままである。
この「不変性」が快適さにつながり、そこから抜け出すことが面倒になっていきます。
もう一つの理由としては、
「はっきりとした解答を与えてくれる」からではないかと思います。
よく、「白黒はっきりさせたい」という言い方がありますが、
私たちは誰でも、先が見えない不明瞭な状態や、どちらでもないグレーゾーンというのを嫌う傾向があります。
・自分の告白の返事がOKなのか、ダメなのか
・入試の結果が合格なのか不合格なのか
・小説の結末がハッピーエンドなのか、バッドエンドなのか
などなど、確定できない未来に対して、もどかしさを感じてしまいます。
こうしたもどかしい気持ちから解放してくれるのが「二元論」的思考です。
「白黒はっきりさせてあげる」ことにより、
もうこれ以上それについて悩まなくていいよ、
と私たちの背中を押してくれるのです。
確かに、時と場合によっては、早めに白黒はっきりさせてしまった方が、
次へと進むためには大切なこともあります。
しかし、危険なのは、「十分な思考を行わないまま、二元論の結果に安易に飛びついてしまう」ことに他なりません。
このnoteを読んでくださっているみなさんには、ぜひ「どちらでもない立場」の重要性に気づき、そこにとどまっていただきたいと思っています。
JWが善、他の宗教が悪
でもなければ、
他の宗教(or世の中)が善で、JWが悪
でもないのです。
それぞれにいい面、悪い面があり、それらを考えながら、
自分はどう生きていきたいのかを選択していく。
結論としては、すごくありきたしですし、面白くないのですが笑
「ありきたり」であることから逃げない。
これは本当に大切なことだなと思います。
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