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真実はいつも一つか?

これまでエホバの証人という宗教団体に入信し、
その中でそこそこ熱心に勉強また活動してきました。

やがて、教理に疑問を抱き始め、
いろいろな方のブログなどを読み漁り、、

いまではその教えは真の神を伝えるものではないなと思い至ったわけですが。



その過程を経て、
現在は、

「たった一つの真実にこだわる必要ってあるのだろうか」

と思うようになりました。


たった一つの真実見抜く!
見た目は子ども、頭脳は大人。。


っている名ゼリフが某有名アニメにありますが、(私はけっこう好きです)


こと聖書に関してはというか、
世の中のほとんどのことは
これが唯一の正解だと決め切れないことで
満ち溢れている
ように感じます。


有名な話ですが、
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、
この3宗教はいずれも同じ神を崇拝しています。

ただ、
どこまでを聖典として認めるか、
誰を預言者、誰をメシアとして認めるか、
世界はどのような結末を迎えるか、
救いに値するのは誰か、

こうした部分の立場の違いから、
3種類の別々の宗教として現在存在し、

悲しいことに、
多くの人の命が奪われてきました。


素人の私の立場から見れば、
「そんなにその違いって大事なんだろうか」
と思ってしまいます。

そして、確かに
高校生の時、
世界史の授業で宗教戦争について学んだ時の私は
そう感じていました。


それが、いつの間にか、
エホバの証人という組織に入って、

「他のキリスト教はすべて大いなるバビロンで、
神が憎まれる宗教組織である」
「唯一、エホバの証人だけが、神のご意志を行っている」

と思うようになっていました。


全く同じです。


自分と異なる意見を認めないその姿勢。

もちろん、エホバの証人は自ら武器を取って、戦争に参加したりしませんが、
「来るハルマゲドンで、間違った全ての宗教は滅びる」
という発想は、
根本的に戦争で異教徒を倒そうとするそれと変わらないように思います。



これまでの宗教が神について正しく教えてこなかった。
だから、この組織こそ、地上で最も正しく神のことを教えている。

これまでの組織は真実ではない→だから、この組織が正しい

この考え方というか、方向性自体が間違っているような気がしています。


どこかにただ一つの正解が存在していて、
それを見つけさえすれば、その正しい組織さえ見つければ、
自分は正しい生き方ができるのだ。


このような考えを元にしている限り、
たとえ今辞めたいと思っている宗教を無事に辞められたとしても、
結局、同じ轍を踏むことになるような気がします。

もちろん、私自身への自戒も込めて書いております。


そもそも、聖書の唯一正しい解釈など
まさに「神のみぞ知る」領域であり、

その答え合わせができるのは、
神が私たちにはっきりと分かる方法でその真理を開示した時ではないでしょうか。


・三位一体を認めるかどうか
・死後の人間の状態はどのようなものか
・輸血をしてはいけないのか
・崇拝に十字架を用いるのは正しいことか
・クリスマスを祝ってはいけないのか


エホバの証人の説明が妥当であるように思えるものもありますし、
既存のキリスト教の説明が納得できるものもあります。

そして、
どちらの意見も、もっともに聞こえるものだってあります。

そこで考えたいのは、

なぜ神はそのような状態を許したのでしょうか

ということです。


そもそも、
誰がどう読んでも、
そうとしか解釈できないように聖書を書かせれば良かったのではないですか


そうすれば、宗派の対立をめぐって命が奪われることもなかったし、
お互いの宗派を批判し合い、憎み合うような状況は生じなかったのではないかと思うのです。


まして、愛の神なのであれば、
なぜそうしてくれなかったのでしょうか。


ここで、
聖書の神は、じつは愛の神ではない。
という分岐ルートを考える方もいるのですが、今回の本筋とは逸れるのでそれには触れません。しかし、それはそれとして面白い考え方だと思います。


さて、話を戻します。

もし、聖書の神が愛の神であるならば、
そこからある答えが導かれます。


それは、
そもそも神はそうした宗派の違いを気にしておられない。
ということです。


私は、この見解に至った時、
一気に自分の視界が広がっていくのを感じました。

つまり、誤解を恐れずに言えば、
どんな宗派であれ、
真の神に畏敬の念を抱き、
その愛に倣おうと努力する人であれば、
その生き方は神に受け入れられるものである
のだと思っています。


諸宗派で解釈が分かれるものがある一方で、
キリスト教を掲げる宗派が共通して伝えている教えがあります。


それは、
・世界には始まりがあって、それを作った存在を神という
ということです。

つまり、聖書に立脚する限り、これだけは信じてもよい部分だと言えると思います。


そして、教理面でも無数の宗派がある中で
唯一?諸教会で一致していることがあります。

それは、
神は私たちに隣人愛を示すようにと願っている
という点です。

平たく言って、人に親切にしましょう。
という教えは、どの教会でも共通ではないでしょうか。
つまり、解釈にブレがない

少なくともこれだけは、神が願っていることだとわかります。



正直、

それだけでいいじゃん。


って思いました。


自分の身の回りの人に対して、親切にする。
自分自身のように愛する。

これって、口にだす何倍も実行することが難しいですし、
何度も失敗することでしょう。

その日々の中で、
昨日よりも今日、
今日よりも明日、
少しずつ愛を示すことのできる人間になっていく。

神が私たちに望んでいることは
そうやって生きていくことだけなんじゃないかと思います。



結局、
・十字架を認めないとか
・誕生日を祝わないとか
・戸別伝道をしているとか


そういうのって、

あいつらは間違っていて、
自分たちだけが唯一正しいことを行っている。
だから、自分たちだけが救いに値する。

という選民意識の表れではないかと思います。


ただ、これは宗教に限らず「人間あるある」なのかなとも思います。

著名な音楽グループのファンの人たちが、
・自分たちが一番このバンドのことを理解している
・この曲の良さを理解できないのは、本当にこのバンドのことを理解していない。

と言って派閥を作るのに似ています。


ここに人間の不完全な部分というのが出ていると思います。
欲張りというか、自分たちだけ独占していたいというか。


だから、本日の結論としては、

どこかの組織、教団だけが正しいことを教えている
という想定自体をやめた方がいいかもしれない


ということです。


そういう意味で、
自分たち以外の宗教は全て
神の憎まれる「大いなるバビロン」である
という立場をとるエホバの証人は
私には受け入れられませんでした。


たくさん良いことを教えている部分もありましたし、
信者の方々も誠実な方がたくさんいらっしゃいます。
それは全く否定しません。

しかし、
そこだけが唯一の救いの道だとは思いません。


それ以外、救われる道がないという教え自体が、
神の全ての人間に対して臨む愛を矮小化してしまっている
気がします。


以上が、現在の私の見解です。

本日は、少しカジュアルな文体で失礼いたしました。



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