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Break a Leg! - プロデューサーズ 千穐楽 12/6 マチネ

 千穐楽に合わせて、プロデューサーズの感想を公開するつもりで用意をしていた。そして、2020/12/6 18時現在。
 私はその公開を躊躇い、新しくこの文書を書き始めている。
 なぜなら、千穐楽のプロデューサーズはこれまでのプロデューサーズとは根を同じくした全くの別物だったからだ。

 2020年12月6日ー
 朝5時に起きた私は11時には都内にいる予定だった。
 ところがトラブルに見舞われ、東横線渋谷駅地下ホームに降り立ったのは11時55分。ただでさえスタンスの広い歩幅をいつもよりさらに10センチ広く早歩きで歩を進め、東急シアターオーブの席に座ったとき、時計の針は11時59分を指していた。
 コートを折り畳み観劇の体制整ったところで長針と短針が12の上で揃い、場内の照明が落ちた。

 さぁ、ショーのスタートだ。最後の幕をあげよう。

Disclaimer
・以下、ネタバレがあります。
・一部演出に対する苦言があります。
・千穐楽についての感想になりますので、Wキャストのレオ・吉沢亮さんについては別掲します。
・別の感想において「長い」「アドリブやMCだけでいい」というご意見を頂戴したので、先に書いておきます。今回も「長い」です。千穐楽のレポートではありますが、プロデューサーズ全編の総括にもなっています。
・思い入れや余談がなければ私の感想ではなくなってしまうので趣向が異なる方はご覧にならないことをお勧めします。

プロデューサーズ - 12/6 マチネ(千穐楽)

 暗くなった場内に勢いのあるOvertureがオーケストラにより奏でられる。
 真っ赤なベルベット調の緞帳に煌めく電飾。古き良き時代のBroadwayをイメージした時の「王道」の組み合わせだ。
 この公演が発表された時、ガッツポーズしたことがふたつある。そのひとつが「Overtureがある」ということだった。

 Overtureはそれひとつで、物語の世界に没入できるスペシャルインビテーションだ。オペラのそれを踏襲するこの招待状は、これから始まるミュージカルの世界観を約5分に凝縮しており、観客の気持ちは否が応でも高揚させられ、直前に飛び込んできた者でさえ一瞬でその世界の住人にさせる。
 また、出演者もその瞬間、緞帳の裏で武者震いしているのだろうと思うとまた私自身も肌が泡立つような感覚を覚える。
 そして、ミュージカルの魅力のひとつはリフレインにあると私は思っているが、Overtureで演奏された数小節が本編で出て来ることで、既視感ならぬ「既聴感」に心の振幅が大きくなる。

 近年Overtureのないミュージカルが増えてきているが、Overtureは「やっぱりたまらない」のだ。
 そして万雷の拍手の中、緞帳が上がる。

STORY
落ちぶれたプロデューサーと気弱な会計士が
タッグを組んで一攫千金ボロ儲け!?

 かつてヒット作を生んだブロードウェイのプロデューサーであるマックスは、今は落ちぶれて破産寸前。マックスのもとを訪れた気の弱い会計士のレオが帳簿を調べると、舞台が成功するより失敗したほうが利益を生むことに気づく。マックスは、わざと舞台を失敗させ、資金をだまし取るという詐欺を思いつき、レオを巻き込んで、最悪のシナリオ、最悪のスタッフ、最悪のキャストを集めて、大失敗作を作り上げようと計画する。
 お金持ちのホールドミー・タッチミーを言いくるめ資金を調達。ヒトラーをこよなく愛するフランツが書いた『ヒトラーの春』というハチャメチャな脚本に、最低の演出家であるロジャーとその助手カルメンのゲイ・カップル、主演女優には英語が話せない女優志望のウーラを迎え、舞台は大コケ間違いなしと思われたのだが——。
出典:ミュージカルプロデューサーズ 公式ホームページ > STORY

Act 1 §1シューバート通り

 BroadwayのSHUBERT THEATREではマックス・ビアリストックの新作ミュージカル、シェイクスピアのハムレットを下敷きとした「FUNNY BOY」が初日を迎えていた。
 終演とともに客は出て来るや否や酷評を始める(Opening Night)。

 この酷評でさえ、Overtureのワクワク感が続く中、同じアップテンポで歌われるものだから、観客も「FUNNY BOY」という筆舌に尽くしがたい駄作を観劇したかのような気分になってしまう。
 そして、初日ーOpening Nightはそのまま、Closing Nightへ!観劇をしていない通りがかりの者さえもヤジを飛ばしている。
 Broadwayのシビアさは有名だが、1日でクロージングに漕ぎつけられる駄作など、個人的には寧ろ興味しかないのだが…それもOn Broadwayでというのだから、ビアリストックというプロデューサーが如何に一世を風靡していたのかという点がわかるのだけれども。

 観客と野次馬の大合唱でOpening Nightが終わると舞台中央スポットの中にこの舞台の主役ーマックス・ビアリストック演じる井上芳雄が現れる。
 マックスは肩をすくめ酷評の書かれた新聞を拡げながら少々居心地を悪そうに周囲を伺っているが、その表情はすねた子供のようにも見える。

 マックスが過去の栄光と低迷する現状について滔々と歌うThe King of Broadwayはマックスが全力で歌う数少ない一曲だ。
 おそらく何の予備知識を持たずにこの舞台に足を運び、井上さんを少なからず知っている人ならば、おそらく2曲目にして面食らっただろう。歌詞は韻を踏んでいるのでさらっと流れていくが、金と女の臭いがする歌詞がぽろぽろと出てきて、多少ぎょっとするような部分もあるからだ。
 舞台を観ていない方は、映画のThe Producersをご覧頂きたい。多少の違いは有れど、ほとんど同じ歌詞になっている。そして、ブラックな風刺に満ちたこの歌詞を訳した戸田奈津子さんのセンスに脱帽すること必至だ。

 井上芳雄というミュージカル俳優が凄いところのひとつは、いつ観劇しても安定した歌声を劇場に響かせるところにある。声が裏返ることや音が外れるといったことがない。
 たかが1音でも、外れた瞬間、現実世界に引き戻されてしまうこともある私としては、井上さんの絶対的安定感には本当に助けられている。だが、常時満点を叩き出す井上さんが「それ以上」を出す瞬間がある。
 井上さんの真骨頂は歌に感情や情景を乗せるところにあり、空気が一変するというのは常だが、空気が声に共鳴し、座っている足元が揺らぐような感覚に陥るときがあるのだ。

 千穐楽のこの日、その瞬間が早々に来てしまったのだ。The King of Broadwayは朗々と歌い上げるタイプの曲ではないのだが、オーケストラの音が消えたところに響く井上マックスの声に観客が思わず拍手をした。
 衝動的に拍手をした者、シーンを中断させてはいけないと控えめに小さく拍手する者-様々な客がいた。
 だが、まばらと言うにはあまりに多く、客の大半が手を叩いたとは言い難い中途半端な拍手に、拍手を始めた観客自身が戸惑いだした。
 「どのように止めたらいいのだろう」という空気が広がり始めたのだ。

 予期せぬ拍手が起きたこのシーン、本来一拍おいてオーケストラと同時にマックスが歌い出すポイントであった。歌いだしをどのように合わせるのだろうー観客が手を握りしめた瞬間、それまで役の表情のまま立っていた井上マックスは、会場を見渡し軽く3回頷くと、ちょっとイジワルないたずらっ子のような笑みを浮かべ、井上芳雄の顔でこともなげに言った。

 「(拍手を)するならする、しないならしない。どっち!」

 それまで拍手を我慢していた客席からどっと拍手が起きたことも、その結果ショーストップとなったことは言うまでもない。

 今回の指揮を務める上垣聡さんがBlogにてこんなことを書いていらした。

(略)彼の凄いのはアドリブをツッコんだあと必ず元の台本の台詞に必ず戻るところ。普通ならツッコんだあとグダグダになるのに。僕ら指揮者にとってはアドリブのまま音楽インとかになるとかなり大変なんですが、ちゃんと台本に戻ってくれるので安心。(略)
出典:自称指揮者・上垣聡「井上芳雄くんの凄さ!」
https://ameblo.jp/saty0221/entry-12639920373.html

 井上さんの視野の広さというのは常々感じていた。他者に対する想像力の豊かさに改めて驚かされるエピソードだと思い拝読していたのだが、思いがけずそのシーンを目の当たりにし、頭を殴られた気分だった。

 「ありがとう!」
 感謝の言葉で拍手を打ち切りながら、指揮者とアイコンタクトを取り完璧なタイミングで曲に戻っていった。そして、圧巻の歌声で歌いきると、再び場内は割れんばかりの拍手に溢れた。アンサンブルメンバーが舞台袖へと入っていくまで大きな手拍子は続いた。

 「するならする、しないならしない。どっち!」
 このひとことは千穐楽を観劇する観客をある呪縛から解放するトリガーとなった。観客らが自身のリミッターを外して舞台を楽しむことを決意させたのである。

 思えばこの日の客席は暗転のその瞬間から「おかしかった」。
 緞帳が上がり、客席案内係(可知寛子、福田えり)に照明があたるや否や大拍手。観劇後、友人がその様を「宝塚みたいだった」と表現した。

 コロナ禍による緊急事態宣言が解除された後も劇場がその活動を再開するまでには長い時間がかかった。6月末から徐々に再開されるも、その多くはコンサートなどフィジカルディスタンスを確保できるものばかりだった。
 7月末、芝居やミュージカル形式の舞台再開の先陣を切ったのは宝塚だった。だが、出演者やスタッフにコロナ罹患者が発生し、公演は再び中止に追い込まれる。同時期に開催されていたコンサートでの罹患者がいなかったことから、演劇に関わる人々、そして観劇を趣味とする人たちの誰もが近距離で芝居をすることのリスクの高さを認識し、後に続く舞台がどうなるのだろうとの不安を覚えたことと思う。

 そして、コロナ罹患者の増加から第三波到来が囁き始められた11月半ば、プロデューサーズと時を同じく幕を開けたシアタークリエの“RENT”でコロナ罹患者が複数発生し、11月16日以降に予定されていた地方公演含めた全公演が中止となったのは決定的な出来事だった。
 会場の規模や演目による演技者の距離の近さに多少の差はあるものの、キャスト同士の距離が近くなるシーンも多いプロデューサーズというミュージカルは無事に千穐楽を迎えられるのかー
 観劇をする者は口に出さずとも祈るような気持ちで足を運んでいたのだ。

 千穐楽の朝においてさえ、公演中止の文字がありやしないかと公式ホームページを確認し。家を出て劇場に向かうまで、それどころか劇場に入って幕が上がる瞬間までも怯えていた。
 緞帳が上がった瞬間に沸き上がった拍手は観客から出演者に対する「千穐楽おめでとう」の掛け声そのものだった。

 最終公演に並々ならぬ心意気で挑んでいたキャストと、万感込めて迎えた客席ー
 そんな中、発せられた井上さんのひとことで、客席は千穐楽の舞台を一緒に作り上げる一員になったように錯覚したのだと思う。作り上げるなどと書くと大げさに聞こえるが、大したことではない。
 いい演技に拍手をし、面白いシーンでアクションをとるという当たり前のことを当たり前にしようという空気が充満した。

 「演者にとって辛い舞台だ」
 今回の日本のカンパニーで初観劇した当日の日記に私はこう記している。面食らってしまい笑えないシーンやコメディに不慣れな故の反応の鈍さを差し引いたとしても、発声を伴う笑いを抑えなくてはならないという空気が客席にはあったのだ。
 私がこの舞台をBroadwayで観た日、観客たちは大いに声を出して笑い、手を叩き(きわどいネタに客席からスラングが飛び役者がそれに答えるアドリブシーンもあった)、誰もが舞台を楽しんでいた。

 コメディにおいて、客の反応が読めないというのは最もつらいことだ。ただでさえ自己表現が苦手な日本の観客がコロナへの恐怖と戦いながら観劇していたら何が起きるか想像に難くない。
 私が観た数回は客席の空気があまり動いていなかったのだ。面白がっているという雰囲気は客席にいるとわずかに伝わってくるが、それを役者が実感しづらい状況だったと思う。

 実は声に出さずとも「楽しんでいる」ことを伝える手段は色々ある。だが、笑うという一番シンプルで波及効果が大きい表現手法を失った客席が戸惑いながら自制することでカンパニーの加速を妨げているように感じた。

 千穐楽にしてそのリミッターを外した観客は、拍手で感情を伝えるという「暴挙」に出るようになった。

§2 マックスのオフィス

 場面切り替わり、マックスの事務所に会計士のレオ・ブルームがやってくる。千穐楽のレオは大野拓郎。扉の窓から事務所内を覗き込んでいた大野さんが舞台上に出てくると再び大きな拍手が起こる。

 「ビアリストックさん?」
 大野レオが何度呼びかけても井上マックスが出てこない。
 舞台中央のソファーで新聞紙を被りだんまりを決め込んだ井上マックスは舞台上で右往左往するレオをいつもの倍以上はたっぷりと放置。

 コメディは精緻な計算の上に演出がなされ、基本の型を大きく崩すことはない。様々な時間的制約もある中「崩せるギリギリを攻めるぞ」との指令が井上マックスから出されたことを理解した客席。マスク越しにもクスクスという笑い声が聞こえる。
 コメディを観に来た観客のスイッチが入れば、あとは役者が突き進むだけだ。

 レオが大野拓朗の顔になりかけた瞬間、跳ね起きたマックスはレオに詰め寄る!
 「誰だ、おまえ?なんで拍手もらったんだ!?」

 大野さんのレオは気弱で軟弱。小学生を前に成長が止まってしまったかのようなキャラクター設定だ。大野さんの恵まれた体格との対比でそれだけで面白い。

 レオが訪れてすぐ、マックスの舞台の出資者のひとりホールドミー・タッチミー(春風ひとみ)がやってくる。マックスはレオをお手洗いに追いやり、金づるのホールドミー・タッチミーを部屋に招き入れる。

 ここからのやり取りは下ネタ連発だ。春風さんも井上さんも、ともに品のある俳優である。そのふたりが、85歳超の性に飢えた老婆とそんな老婆たちを金づるとしか思ってない冴えない中年を演じる。この時点で観客が抱く役者のイメージとのギャップが面白い。
 ふたりはきわどい下ネタを連発するが、下品には聞こえない。下ネタに眉を顰めることはあっても、それを演じる役者に嫌悪感を感じることはないのだ。これをそもそも下品なイメージのある人が演じるとなると全く面白くない。(観客が下ネタをどれだけ許容できるのかという観点もあるが、これはまた別の問題のためここでは割愛する。)

 金をせびるマックスは悪びれることなく、ホールドミーにすり寄る。
 「小切手ちゃんは用意してくれたかな」
 「言われたとおりに書いたわよ。それにしても"CASH"って現金って意味でしょ。なんて変な演目ね」
 「"RENT"だって家賃って意味じゃない」

 そして、ホールドミーの去り際。
 「必ずまた会いましょう!」
 「またね、必ずね!」

 RENTカンパニーへの最大のエールだった。
 「子バトちゃん、いつもより多く羽ばたいて~」
 マックスのリクエストに忠実に対応し、嵐のようにホールドミーは帰っていった。

 ホールドミーが去った後、レオは会計士としてマックスの会計帳簿の問題点を指摘しようとするのだが、マックスは彼に喋らせることを許さず、ナーバスなレオはヒステリーを起こす。マックスが近づいたり触ったりしようとすると全身使って拒絶反応を示すのだが、どれだけ飛んでも跳ねても井上マックスは止めようとしない。

 「面白いからもうちょっと見てよかな♪」
 「あれっ?高く跳べてないよ」

 いつもの倍を超える時間をゆうに放置するマックス。だが、レオ…というより大野さんにも限界あり。
 「もっと見たいけど、お前の身体が心配だから…俺もヒステリーだ!」と遂にレオのヒステリーが伝染したマックス、「僕が跳んじゃう!」と上手に下手に横跳びを2回して舞台上にコケる始末。もう、ハチャメチャだ。

 今でこそ書けるが、大野レオ、初見の感想は「もったいない」だった。
 恵まれた体格なのに彼は舞台上でひどく窮屈そうだった。気弱なレオを表現するのにフィジカルに体を縮こませがちで動きが小さい。結果、身体を自由にコントロールし辛くなっているが故に、コメディを演じる役者に求められる演技の柔軟さまでも欠けているように見えてしまったのだ。
 Broadway(若しくは映画)のマックスとレオを考えると、確かに井上マックスと対峙するのに大野レオは体格ではだいぶ大きい。だが、このふたりだからこそのコンビの造形があるし、マックスと比較してレオが貧弱である必要はないので気にしない限るのだが。

 だが、この千穐楽のハチャメチャの中で彼は自由だった。無理に体を縮こませることもなく、四肢は自然に動いており。だからといって舞台上のバランスが崩れるということも当然なかった。
 コメディの演技はもっとボケることができたと感じており、そういった意味でもまだ伸びしろがあると思う。だが、そこは舞台。パートナーの井上マックスが突っ込みを入れ、きっちり笑いに変えていた。

 レオは帳簿を見るうち「確実に失敗する作品を上演できれば成功作を作るよりもプロデューサーが儲かる」という会計上のからくりに気が付く。もちろん、失敗すれば監獄行き。馬鹿げた机上の空論に過ぎないのだがー
 成功や名誉以上にカネに飢えているマックスはレオの独り言を逃しはしない。そして、レオの大きすぎる独り言に反応するマックスの動きがいちいち面白い。

 ソファーで寝ていたマックスは背筋をピンと伸ばし姿勢よく座る。さらに、レオの独り言に合わせ、上半身平行のまま腰だけを横にスライドさせ。次に左肩と首だけをやはり横にスライドさせ、最後に全身を使ってレオの方を振り返る。
 この間、表情はほとんど変わらず、足の位置も変えることはなかった。動きだけでマックスは心が高鳴る様を表現し笑いを取りにくる。王道の表現ではあるが、きっちりと王道の型にはめることで生まれる適度な笑いの気持ちよさを感じた瞬間だった。

 マックスは全盛期の彼の名作を見てプロデューサーにあこがれているレオにプロデューサーとして「絶対に儲かる計画」の「共犯者」なろうと誘う(We Can Do It)。

 "夢にまで見たブロードウェイ・プロデューサーになれる!?"
 目をキラキラと輝かせるレオにニカッと悪い笑みを浮かべるマックス。
 "…いや、できない…"
 横跳びしてコケるマックス。ご丁寧にヒステリーだと言い跳んだ時同様、上手・下手に1回ずつ計2回跳ぶあたり、井上さんは勘所がいい。

 「できる!」「できない…さようなら!」
 「誰か、金をくれ~!」
 レオがマックスを訪ねてきてから、押し合いへし合いの末、部屋を出ていくまで…長い、長かった!観劇時には思わなかったが、今こうして振り返るととても長かった。1幕全体で8分程度押していたが、その大半はここだった気がする。

 余談だが、井上さんの1回目の"We can do it! できるさ"と歌うところが好きだ。"We can do"までが英語発音なのだが、"it"が英語と日本語の中間の発音になり、そのあとの日本語へと自然につながっていくところが個人的にこのミュージカルの歌唱の中で一番気に入っている所だったりする。

§3 ホワイトホール&マークスのオフィス
 ~ §4 マックスのオフィス

 正直な小心者のレオは会計事務所に戻り、嫌みな公認会計士・Mr マークス(朝隈濯朗)の下、同僚と仕事を再開する。
 「不幸だ。とっても不幸だ」とつぶやきながら(I Wanna Be a Producer)。 
 そんな環境下にいれば空想の世界に逃げ出したくもなる。まして、憧れていたプロデューサーになって一緒に仕事をしようなんて言われた後ならなおさらだ。

 プロデューサーズという作品は実にくだらなく、そしてよくできた作品だと思う。ストーリー自体は短く明快、コメディ要素だけで2幕にわたるエンターテイメントを成立させるのは難しいが、途中にショーの要素を取り入れることでバランスを取っている。
 ミュージカル作品として世に出たのは21世紀に入ってからだが、作品の作り方・構成には私が大好きな1950年代のミュージカルの匂いがある。

 不幸なレオが現実逃避し、空想の中プロデューサーとして歌い踊るシーンはそんなショーの要素に溢れている。会計事務所の灰色の世界では短調の調べが続くが、自然とショーのリズミカルな楽曲に変化していくとそこにはブルーバックに電飾煌めくショーの世界になる。綺麗(!?)なショーダンサーと華やかに踊り、仕事では文句のひとつ言えない上司のマークスは給仕としてレオに跪いている。
 このあたりの皮肉が効いた構成も魅力的だ。マークスと給仕を素早く切り替える朝隈さんにはブラボーだ。特にマークスと同一人物が演じていることを一瞬で客に理解させなくてはならない給仕の登場シーンは腕の見せ所だ。
 帝国劇場で上演されていたビューティフル然り、アンサンブルのレベルが高い舞台は気持ちよく作品の世界へ没入できる。

 大野さんの体躯について前述したが、こういったショーシーンは特に彼の伸びやかな身体が映えるので迫力がある。レオはシルクハットにステッキを手にしてこのナンバーを踊るのだが立ち姿が美しいのだ。
 初見時はマックスが出ていないこのシーンでも大野レオは窮屈そうに見えたので、役者にとっての無意識の意識は演技の最大の敵なのだと思う。

 空想の中でプロデューサーとして成功したレオにショーダンサーたちは無言で問いかける。"できる?"かと。
 「…できない」
 レオがそう言った瞬間、ショーの電飾は消え、目の前には現実が戻ってくる。この感覚はおそらく誰もが一度は経験したことのある感覚だと思う。
 あぁ、レオ、筋書のあるお芝居の中にいる君でさえ、その不幸から逃れられないのかー客がそう思った瞬間、レオは叫ぶ。
 「ちょっと待って!("不幸だ"のメロディーを)止めて!」 

 「何やってるんだろう、俺」
 "強欲"公認会計士のマークスにサンバイザーと三菱の2Bの鉛筆を押し付け、事務所を飛び出す。

 余談だが、公演が始まる前、私はこんなことをつぶやいていた。

 ローカライズというのは簡単なようで難しく、やりすぎたらオリジナルの良さや文化を損なってしまうし、感覚的にずれてしまうということも多分にある。そういった意味で"三菱の2Bの鉛筆"というのは世界観を崩さず、適度にローカライズされ、日本で育った人からするとくすっと笑えるいい小ネタだったと思う。

 レオはマークスの元を飛び出し、マックスの元に。
 こんな些細な言葉遊びに至るまで、よくできた作品なのである。

 「ただいま、マックス!」
 ふたり揃って歌う「We can do it! できるさ!」はそれまでより少しだけテンポが速くなっており、観客のワクワク度を一段あげるのに一役買っている(We can do it (Reprise))。
 ここの振付はボックスステップをベースにしたシンプルなものだが、そのシンプルさがかえってマックスとレオが同じ方向に歩きだしたことを表現するのに適度だと思う。
 オリジナル振付はスーザン・ストローマン。コミカルでストーリーの緩急にあわせた振付が魅力の方だと思っていたが、さもないシーンを気持ちよく魅せてくれるセンスが好きだ。

§5 マックスのオフィス 
 ~ §6 フランツのアパートの屋上

 最悪の舞台を作るため、相棒を手に入れたマックスは早速準備へと取り掛かる。

 Step 1 マックスとレオは最悪のシナリオ探しを始める。
 読んでも読んでも最悪なシナリオが見つからないと嘆くレオを尻目に、不敵に笑いだすレオ。1週間の上演どころか「4ページ目までさえも辿り着かない」「大災害、大惨事、全人類、全宗教の人に失礼な」傑作を掘り当てる。
 作品名は「ヒトラーの春」、作者はフランツ・リープキン。ふたりはリープキンを訪ねにオフブロードウェイエリアにある彼の自宅へと足を運ぶ。

 ちなみに、マックスが「ぐちゃぐちゃで嫌いだよ」と言ったリープキンの住むジェーン通り61番地周辺、現在は言うほどぐちゃぐちゃでもない。あえて言うならば人の歩く動きが予測不能なエリアではあるけれども。
 ただ、ソワレや夕食(美味しいメキシカンがある!)に行くときは現地の友人か男友達と一緒でなければ足を踏み入れたくないエリアではある。

 「ヒトラーの春」の作者フランツ・リープキンは自宅アパートの屋上にたたずんでいる。フランツ役を演じるのは佐藤二朗だ。
 ハトを抱き、その身体を撫でながら佇む姿はそれだけで可笑しい。佐藤さんが自分の体形や佇まいを理解し舞台に立っているのでこの面白さが生まれる。

 この日一番のサプライズは、佐藤さんの歌の上手さだったと思う。
 そして、千穐楽の後、指揮者・上垣さんの後日談を拝読し、私は「ありえない!」と叫ぶことになる。

(略)中でも僕が一番好きだったのは佐藤二郎さんが千穐楽だけ全ての歌をわざと外したりせず完璧に歌ったこと。そうなんです、わざと外すのが演出意図だったのですが、ご本人いわく最後くらいはちゃんと歌って驚かせようと思ったらしいです。(略)
出典:自称指揮者・上垣聡「『プロデューサーズ』裏話」
https://ameblo.jp/saty0221/entry-12642755005.html

 そもそも、佐藤さんについては今回様々な懸念があった。発端となったのは稽古中に発せられたツイートだった。

 そこまで自信がないならミュージカルの仕事を引き受けないで欲しいとまで思ったくらいだ。彼をよく知るファンならば佐藤さんのキャラクターだと思っていたのだろうけれども、全く知らない者からしたら彼のこの発言に寛容になどなれなかったのだ。このツイートにより、初見の日まで、全く彼のことを信用することができず。不安しかなかった。

 ふたを開けてみれば、ダンスに歌(声)、いずれもリープキンという役柄を考えた時に「見るに堪えない」といったレベルではなく、役に求められる以上の水準は満たしており、その点杞憂に終わったのだが、正直なところ彼の芝居、即ちリープキンの役作りを魅力的だとは思えなかった。
 佐藤さんはリープキンの姿をしているし、もちろんリープキンを演じてもいるのだが、佐藤二朗に戻る時間があまりに長かったのだ。

 お芝居にもコメディにも。正解というものは必ずしもない。
 だから、あくまでも一意見として聞いていただきたいのだが、コメディの面白さは、役者本人と演じる役柄のギャップに生まれると思っている。それがあるので、役として舞台に立っている最中、ふいに出てしまった役者自身の素の部分を含めて笑いが生まれるのだとも。

 佐藤さんが強烈で魅力的なキャラクターの持ち主であるのは理解する。それこそが、ミュージカルに殆ど出演しない彼をこの演目に起用した理由であるということも。
 だが、最もインパクトを与える登場シーンで佐藤二朗然としたところを前面に出し、その後もことあるごとに佐藤二朗に頻繁に戻るという演出をされてしまうと、登場の一瞬が面白くとも、その後は面白いことをしていても面白いとは感じられないし、何より物語の世界に集中できない。
 他の役者のシーンは、意図せず素に戻ってしまったところ、もっと言えばそこから頑張って役へと戻ろうともがくところに面白さが生まれるのだが、佐藤さんのシーンだけは、素に戻ってしまうと構造的に面白くなくなってしまうのだ。

 千穐楽、その佐藤さんが「佐藤二朗」であることを封印し、リープキンとして朗々と歌いあげたのだ。それも、音程通りに。
 上垣さんによれば、音程を外して歌うのは演出だったという。では、その演出はリープキンの何を表現しようとしたものだろうか。佐藤二朗という役者のどの能力をリープキンのキャラクター造形に活かそうとしたのだろうか。

 リープキンは第二次世界大戦が終わってからもヒトラーを敬愛し続ける変人だ。見た目からしてー服装から髭、立ち居振る舞いに至るまで、ヒトラーへの愛に満ちている。ヒトラーの愛した歌を歌い、戦争に備え伝書バトの世話をせっせとする男だ。この設定だけで十分面白い。
 敢えて音程を外す要素はどこにもない。

 例えば、佐藤さんが音痴で、その部分をリープキンのキャラクター造形に利用したいと演出家が思ったのならば、理解もできる。だが、彼は音痴ではない。かといって、ミュージカル俳優のレベルで歌が歌えるわけではない。
 歌が上手い俳優がわざと音を外して歌うならば、そこにキャラクターや面白さが生まれただろう。だが「普通に上手い」佐藤さんが音を外したところで面白みはない。
 むしろ、その行為がかえって「佐藤二朗」を想起させてしまう。

 もし、音程を外すことで佐藤二朗が演じることに「意味」が生まれる、若しくはリープキンのキャラクターが明確になるならばこの演出は理解ができただろう。だが、そういう要素もなかった。

 マックスとレオがリープキンを訪ねるこのシーン。マックスがリープキンに声をかけると、リープキンは「自分はヒトラーの残党でも何でもない、戦争とは関係ない」とお経のように台詞を唱えるのだが、その台詞回しは佐藤二朗のテイストに満ちている。もし、このセリフ回しのテイストが薄ければ、音程を外して歌うのは効果的だったかもしれない。

 千穐楽、佐藤リープキンは朗々と故郷への哀愁(ふるさとバイエルン)を歌いあげた。これにより、リープキンという人物の輪郭がくっきりとし、場面がぐっと引き締まった。

 リープキンは傍から見ると「ボケ」たキャラクターだが、本人は至って真面目に生きている人物である。だからといって、その演技がボケ一辺倒、弛緩しきっているのでは面白さがない。
 最も印象を残せる登場シーン、それも佐藤さんのキャラクター故、佇んでいるだけで笑いが起きるほどの強いインパクトの中、音を外さず本気で歌ったことで面白くなる素地ができたのだ。
 この登場シーンでしっかりとリープキンを見せ印象付けることができていたならば、極論、他のシーンが「佐藤二朗」であったとしてもある程度は面白くできたと思う。

 こと、コメディにおいて役者の素顔は多分に有効活用するべきだ。役によっては素を多く露出した方が面白くなることも理解する。だが、何でもかんでも見せればいいというものではない。やりすぎないこと、抑えるべきポイントをしっかり押さえた演出が肝要だ。
 特に、この歌唱のあとはリープキンのキャラクターが故に引き起こされる笑いの要素に満ちたシーンになる。場面冒頭が引き締まったことで、あとに続くシーンとの間にギャップが生まれた。場面内に大きな緩急がつけられることになり、場面全体にいい流れができたのだ。
 今更言っても詮なきことだが、最初からこの芝居で観たかった。

 マックスとレオは「ヒトラーの春」のブロードウェイ独占上演権を自分たちに与えて欲しいとリープキンに頼み込む。
 そんなとんでもない依頼にリープキンは笑いが止まらない。
 「はっはっはっはっはっ…」
 笑いが止まることはなく、リープキンが飼っているハトたちは頭をグルグルと回し続けている。さぁ、いつまで笑い続ける…となったところで「明日まで笑ってやろうかと思ったけどやめた」と佐藤さんは自らオチを付けた。
 ヒトラーの名誉回復ができると喜ぶリープキンは8匹のハトにその喜びを伝える。ハトは全てドイツやスイス、ナチスが支配した中東欧に所縁のある名前となっており、其々アンサンブルが声をあてている。そのうちの一羽・ヴォルフガングは千穐楽においても絶好調(不調?)。低音の美声を響かせ続けていたのだが「結局、あんたずーっと調子悪いのね」と弄られていた。

 上演権を渡すには自分の信じるものを君たちも信じていると証明せよ。
 リープキンはヒトラーお気に入りの一曲「グーテンタークピョンピョン」を歌い踊るよう命じる。
 まず「裾をめくり半ズボン」にするのだが、マックスのソックスガーターに視線が集中するのが傍目にも面白い。なお、こちらはBroadway版から続く衣装だが井上さんの細い足に何度見ても思わず目が点になる。コアとなる筋肉をきちんとつけているからこその足の細さではあるのだけれども、Broadway版(映画)のNathan Laneのむっちりとした体系(といっても、それなりに足は細いのだが)で見慣れている所為か、心配になる細さである。
 そして、大きくステップを踏むとめくりあげたズボンの裾が下がってくる。マックスとレオ、揃って右足それが落ちてくるのがさもないことだが面白い。なおこの日のレオは大野さんだったが吉沢さんも同じように落ちていたので、右足に負担のかかる振付なのだろうと勝手に思っている。

 踊りたくもない歌とダンスに興じ、やっとサインしてもらえると思いきやリープキンはヒトラーへの忠誠「ジークフリートの誓い」をたてることをふたりに要求する。
 右手人差し指をたて、自分の誓いの言葉を追いかけろとリープキンは言うが、バカバカしいと無表情で誓いをたてるマックスの右手は気が付けば中指が立っている。こんなバカげたことやってられるかというアクションだが、ユダヤ系のマックスがこんな誓いをたてさせられてること自体が荒唐無稽で面白い。
 「アドルフ・エリザベス・ヒトラーに誓う」
 もはやこのミドルネームを聞いてまじめな誓いなんてたてられるかと中指さえも立てることを止めたマックスと怯えた笑いを見せるマックス。ふたりの表情の違いと至って真面目なリープキンの並びが楽しい1シーンだ。

 こうして、リープキンからのサインを得ることになったのだが、ノリにノった千穐楽、リープキンは契約書にペンを突き刺す…までは、いつもの通りだったのだが、その一撃で契約書は見事真っ二つに!
 「…これって契約書として有効ですかね?」
 マックスの冷静なツッコミにリープキンひとこと。
 「…セロハンテープでとめておけ」

§7 ロジャーの邸宅

 上演権を無事に獲得したふたり。さぁ、お次はStep 2 最悪のスタッフを求め演出家ロジャー・デ・ブリの邸宅へ。
 照明が点くと舞台中央にはカルメン・ギアを演じる木村達成。客席が同時にオペラグラスをあげるのはこの舞台の風物詩となったような気がする。

 今回の舞台、全キャストのビジュアルが解禁になったとき、一番最初に思ったのは木村さんのカルメンの演技に私は果たして笑えるのかということだった。もちろん、見た目は見た目でしかないのだが、あまりにも美しすぎること、カルメンのキャラクター、それからゲイであるという点含めて、笑えないのではないだろうかと思ったのだ。

 「こういう人、いる」
 だが、舞台に現れた木村さんのカルメンはリアリティに満ちていた。歩き方、立ち姿、そして体の使い方。昨年のルドルフの時は伸びやかな体躯をどこかコントロールしきれていないように思えたが、今回は違った。
 このリアリティが彼の演技をしっかり支えており、終幕まで彼の一挙手一投足に大いに笑うこととなる。

 マックスとレオの訪問を迎えるカルメン「どなたでスーーー」と語尾を伸ばすのだが渾身の千穐楽、どこまでも伸ばす。マックスが適度に茶々を入れるものだから、息が続く限り伸ばせる状況が生まれ、自然と湧き上がる拍手。まだまだ伸ばすぞと客席を煽り更なる拍手を求めるカルメン。
 「チャン チャチャ チャン」というリズムの拍手で切りたかったようなのだが、うまくタイミングが合わず。あまりのロングブレスを披露したがために息も絶え絶えのカルメンにマックスより「GDGD(グダグダの意)だなぁ」と容赦ないツッコミが入る。

 カルメンはふたりに用向きを尋ねるのだが、この間の動きはフラミンゴが優雅に歩くかのよう。そして、カルメンはレオのことが本能的に気になる。パートナーであるロジャーが興味を示すであろう人物であることを瞬時に見抜き、レオの周囲を執拗に歩いて回る。この辺りの動きは豹のようなしなやかさと隠し切れない警戒感が漂っている。
 木村さんの動きがどこを切り取っても美しく。また、体の動きの緩急によってくすっと観客が笑えるようなポイント、客席を温めるというコメディならではの空気感も自然に作っていた。

 木村カルメンがしっかりと会場を温めたところに豪華なドレス姿のロジャー・デ・ブリ(吉野圭吾)が登場する。
 マックスの問題作「FUNNY BOY」が素晴らしかったわとべた褒めするロジャーとカルメンに、顔をしかめつつもこのふたりに任せれば間違いなく大コケするとの確信を得るマックス。
 だが、ロジャーはなかなか首を振らず、ロジャーの説得にかかるが、それも不発に終わる。「だって、私のテイストじゃないわ」ロジャーの頭は「ヒトラーの春」よりもその日のパーティーに着ていく衣装のことでいっぱい。

 ロジャーは「クライスラービルにしか見えないわ」と言わなくてはいけないところを「まるでエリマキトカゲよ」なんて本音をポロリ。
 このシーン、「クライスラービル」というのがひとつのキーワードになっており、この固有名詞が出てこないと台詞がつながらない。
 レオは役柄から、カルメンは後に続くセリフからこれを言うことができず、吉野ロジャーがその台詞を口にしないのを見かねたマックス、ドレスに意見を求められたところで「クライスラービルにしか見えません」となんとかキーワードを挟み込んだ。

 歯止めが効かなくなりつつなっていたところをバッチリ軌道修正をかけたのはカルメンの木村さんだった。自分のセリフを大幅にカットして自然にそのあとの流れにつながるようにした。1幕が8分押しにかろうじてとどまったのはこの木村さんの機転によるものだ。
 良くも悪くも、ボケを全て拾いに行く井上マックス、そこに吉野ロジャーが飛び込んで行ったがために収拾がつかなくなりつつあった。
 そのまま木村カルメンが台詞を続けたとしても、勿論、舞台は成立した。だが、笑いを生むには緩慢になりすぎたテンポをきっちり元に戻したことで、観客の気持ちが冷める要素を排除したのだ。この対応力は見事のひとことに尽きるし、木村さんの舞台センスを見せつけられた瞬間だった。

 演出を引き受けるか否か、クリエイターチームに尋ねるというロジャー。
 クリエイターチーム4名はロジャーに反対するが、ロジャーの心の迷いを何処か感じているカルメンは本当にそれでいいのと尋ねるようにロジャーの顔を見ている。きびきびとした美しい動きなものだから、ついつい目がカルメンを追ってしまう。

 なかなか引き受けてくれないロジャーにマックスは口八丁を並べ立てる。
 「トニー賞だって!」
 ロジャーのようなマイノリティの心をくすぐるには十分すぎるひとことだったと思う。ロジャーはついに演出を引き受ける。
 「戦争に負けるなんて暗くてありえない」「おネエ度が足りない」
 ロジャーのハチャメチャ演出アイディアを失敗する気満々のマックスはすべて受け入れる。

 しかし、この脚本を書いたメル・ブルックスの皮肉…というか当てつけは本当にすごいと思う。ユダヤ系のマックス・ビアリストックが見つけたヒトラーの風刺劇をゲイのロジャーに演出をさせるのだ。皮肉以外の何物でもない。(最もメル自身がユダヤ系であるし、理解はできる。ちなみに彼の息子の名前はマックス・ブルックスだったりする。)

 このシーンの最後は全員で「明るく・楽しく・おネエ(な舞台に)」と歌い上げるのだが、今回の演出の中で気になったのはこのシーンかもしれない。この作品が生まれたのは1960年代後半、舞台化されたのは2001年。性的マイノリティに対する見方というのは大きく変わってきた。
 そして2020年の現在、多様性が叫ばれる世の中で「おネエ」という表現はいかがなものだろうか…そして、ここではインディアンの格好をした人やオールバックの浴衣姿の内股で走る男性(おそらくゲイの人を表現しているのだろう)などが入ってきて歌い踊るのだが、多様性というには雑すぎるのだ。
 1968年に作品が生まれた時、メル・ブルックスはゲイの表現をどうするか時間をかけて検討したという話が残っている。男性や女性と同じようにゲイやレズビアンといった性別が市民権を得ているとはまだ言い切れない今の世の中、丁寧さが足りなかったと私は感じている。

 「サインを!」
 「ロジャー・エリザベス・デ・ブリ」

 何がともあれ。最悪のシナリオと最悪のスタッフを見つけることに成功したマックス。
 お次はStep 3 200万ドルのお金集めだ。

§8 マックスのオフィス ~ §9 おばあさまたちの国

 ふたつの契約書を入手し、疲労困憊で部屋へ戻ってきたマックスとレオ。
 きっちり半分に破れた契約書はしっかりセロハンテープで修復されており、ここでもしっかり笑いを取りに来る。

 マックスのオフィスに戻るや否や、訪問者がやってくる。
 金髪ナイススタイル、強烈なスウェーデン訛りの英語を話す、ゴージャスでセクシーな美女、ウーラ・インガ・ハンセン・ベンセン・ヨンセン・ターレン=ハーレン・スヴァーデン=スヴァンソンだ。
 「どこまでがファーストネームかな?」
 「全部、ファスト(ファースト)ネーム。ラストネーム、聞く?」
 「…ウーラって呼んでいい?」

 ウーラを演じるのは木下晴香。
 木村達成のカルメンと並び、不安だったキャストのひとりだ。
 不安だったのは「彼女の実力」がという意味ではない。
 マリリン・モンローの「紳士は金髪がお好き」以来の「金髪美女はセクシー、ただし頭はからっぽ」というジョークがジョークとして認識されていなかった時代の作品だ。
 以来半世紀の時代が経ちー時代錯誤も甚だしい、ただのおバカちゃんという役に演出ひとつでなりかねないという不安である。

 「カスティング、カスティングする?オーディチョン」
 木下ウーラは舌っ足らずの英語を話すが、母国語ではない不自由さや訛りのキツさを前面に出て来る。そして、今の木下さんの年齢相応の健全で爽やかな色気も。

 「いいもんもってんなら見せろよー!」
 レオがマックスの事務所へやってきたその日、事務所のバルコニーから見つけたゴージャスな美女にマックスはこんな暴言を吐いていたのだが(この発言自体、如何にも当時のプロデューサーといった感じなのだが)、それを聞いていたウーラ、ちゃっかり歌を作って"オーディチョン"されにやってきたのだ。

 ピアノ1音を弾くのにも、大きな目をクリっとさせ、腕と腰をかわいく動かしながら鍵盤を押す。メリハリが効いていて動きがコミカル。
 そんなウーラが歌い出すと訛りは皆無、サンバリズムに合わせて腰を左右に振る動きも色気を振りまいて男性を誘うものというよりも、振付として自分自身がかわいいと思っている体やその動きを見せようと思っている動きに見える。そんな腰の動きにバッチリ合わせて首を振るマックスとレオなのだが、勝手に妄想し勝手に悶えているように見え、それはそれで面白いのだ。
 舞台の広さを考えれば、ウーラはもっと腰を振る幅を広くすることができた。ただ、そうすると色気が前面に出すぎてしまうので、ぎりぎりで動きをとどめた感じである。

 「ウーラ、がっつり歌ーう!」
 いつもでさえ、しっかりトップギアに入れて歌ってくる人が、千穐楽にさらに一段二段あげてきて鳥肌が立つ、というのは井上さんを観て知っていたはずなのに。
 本気を出してきたウーラの声はビリビリと心臓に突き刺さるような声だった。その声は愛らしいではなく、ジャズシンガーのような格好良さで。この一曲の歌唱だけのために、千穐楽を観に行ってよかったと言っても過言ではないほど、素晴らしい歌唱だった。
 話すと舌っ足らず、歌えばソウルフルなシンガー。ウーラが魅力的なキャラクターにならないはずがなかった。

 「君にいくつか仕事をオファーできそうなんだ」
 「舞台が始まるまで秘書兼受付嬢として働きませんか?」
 「ウーラ、電話、取る。ビアリストックと(吐息)…ブルームです。
  千穐楽、おめでとうございまーす」
 「できるぞ、想像以上に使えるぞ!」

 歓喜するマックス。ホールドミー・タッチミー筆頭に85歳以上の女性しか立ち入ったことのないオフィスに言葉はちょっと怪しいが若い女性秘書がめでたく誕生した。
 しかし、プロデューサーの彼女用に役を用意するというのはまぁ、時代的にも聞く話だが…失敗させたい舞台にこれだけ歌える女性をキャスティングする時点で、本気で失敗する気はないよなぁ…とこの作品を観るたびに思う。

 簡単に女性に流されてしまう憎めなさも含めてマックスというキャラクターはよく考えられたキャラクターだと思う。この手の作品の成否は物語の破たんをカバーさせるキャラクターを如何に設定するかというのが大きなポイントで、メルのコメディはこのあたりが魅力的だ。

 「マックス・ビアリストックはおばあさまの国へ旅立つ!」

 マックスはいよいよ計画のコア、出資者からの資金集めへと出かける。
 忙しくなるからしばらく会えないとレオに言い残し、マックスは"おばあさま"とのデート用の服に舞台上で着替えをする。
 歌いながら脱ぎ着をしたり、不安定なソファー上での歌唱等など、どこまで行っても井上さんの歌唱は安定している。
 今回のマックスの洋服のテーマカラービロード系の落ち着いた赤なのだが、オフィスにいるときのガウンローブはワインレッド、タキシードベストは茶色のかかったバラ色でそこまで派手な衣装はないのだが、おばあさまとのデート服だけはちょっと特別。少し深みのある深紅の薔薇色の上下のスーツだ。ピンクと白で統一された舞台にスカイブルーのドレスのおばあさま方と深紅のスーツのマックス。舞台を引きで観た時が美しい。

 おばあさま方が歩行器でタップをする演出の可愛さと迫力は映画でも味わえるがやはり劇場で観るそれは一味違う。歩行器から出る音もそうだし、少ないキャストで上演するからこそ、男性も一緒に踊る面白味も出る。
 NY中のおばあさま方とのデートを終え、遂にマックスは上演資金の200万ドルを手に入れる。

 舞台にはその他のキャストが三々五々集まってくる。レオ、ウーラやロジャーとカルメンのカップル、ロジャーのチームにリープキン…
 全キャストが其々を象徴する歌のパーツを順番に歌い、その後は全員同時にもう一度自分のパーツを、そして最後は全員での大合唱で一幕は終わる。
 この辺りのつくりも王道のミュージカルで、スカッとした気分で休憩時間に入ることができる。

Intermission

 千穐楽当日、休憩時間にこんなツイートをしている。
 文章を書くという行為は、公演を思い起こす、つまり千穐楽の追体験をするということに他ならないのだが、この日は1幕が終わった段階で演者のパワーに完全にあてられていたと思う。
 …自分で書くことを決めた(かつ文章のスタイルも決めた)にもかかわらず。感想も休憩にしたい衝動に駆られている。

Act 2 §1 マックスのオフィス

 真っ白なオフィスにブルーのワンピースドレス姿のウーラがひとり。
 そこへやってきたマックスとレオは、部屋を間違えたと去ってしまう。
 「ビアリストックさん?ブルームさん?」
 声をかけても帰ってくる気配のないふたりにウーラは外に向かって再び声をかける。
 「マックス、レオ」

 マクアイ(幕間)に頑張っておかたづけしたウーラにより、マックスのオフィスは北欧風の「何から何まで」真っ白な部屋に。白が背景になると特に照明が映えるし、動きも良く見えるので2幕のドタバタにはもってこいだ。

 ウーラの造形がただのおバカちゃんにならなかったのは木下さんの役作りが良かったからということは前述したが、小ネタとなる台詞の選び方もよかったと思う。
 いつ、部屋を真っ白にしたのかとのマックスの問いに「休憩中」「幕間」といったちょっと難しい言葉を理解しているように遣わせ、他方で「片づけ」という平易な言葉は分からないと言わせる。
 そして、あざとさを見せることなく「片づけ」という言葉を知らないと演技した感性と合わせ、いい組み合わせだった。

 公演が進むごとに変化していった数々のアドリブ風のセリフがあったが、2幕冒頭はマックスが「ウーウーウーワ―ワーワー」歌いながら両肘でわき腹を叩く振りがあるのだが、千穐楽はお前もやってみろと大野レオがまず餌食に、大野レオの腕の動きに合わせて動いていたウーラもそのままその振りをすることになった。

 劇場の支払いのために部屋を出て行こうとするマックスは悪い笑顔を浮かべてつぶやく。
 「この金を集めるために、俺が何をしたのか誰も知らない」
 「ウーラ、知ってる。NY中のおばあさんと寝たよ」
 身もふたもないウーラのひとことに
 「そうそう、ずっこんとばっこんとずっこんと…」
 とあられもないセリフを言う羽目になるマックス。おばあさま方の歯形が首筋に残っているというと、ウーラは「がおっ!」と噛む音を入れる。

 井上マックス、千穐楽のおまけとばかりに、オフィスを出るのに再び「ずっこんとばっこんとずっこんと…」と繰り返すと、すかさずウーラが「がおっ!」っとツッコミを入れた。
 「わ~っ、ありがとーっ!」
 お礼を言いながらマックスは去っていった。

 当然、ウーラが突っ込まなければ自分でツッコミを入れる用意が井上さんにはあったと思うのだが、このウーラの機転の効いたツッコミはいいエッセンスだった。
 本当はこの「ずっこんと…」が始まった段階で十分可笑しくはあったのだが、客席から笑い声が聞こえるということはなかったので、やはりツッコミは入れざるを得ない状況だった。
 井上さんが今回「周囲がボケしかいないのでツッコみ疲れを起こしている」と発言していたが、ひとりでボケてひとりでツッコむのには限界がある。そして、おそらく井上さんが自分でツッコむことになるとしたら「何してんだ、俺」か「誰か、止めてくれ」程度のものしかなかっただろう。
 他のシーンとのつながりを考えればそれはそれでありなのだが、マンネリ感は否めない。ボケのキャラクターであるウーラが「がおっ」というドンピシャのツッコミを入れたことで空気が軽くなった。
 木下さんはコメディ初挑戦とのことで、このツッコミも内心ドキドキだったのでは推察するが、躊躇なく飛び込んだそれは間合いも完璧なものだった。臨機応変な判断と対応ができる能力の高さの片鱗がうかがえ。また別の作品で拝見したいと思っている。

 劇場への支払いにマックスが出向く間にレオとウーラはいい雰囲気になる(あの顔!)。ここでも、千穐楽の大野レオはよかった。
 Broadwayのオリジナルキャストも映画キャストも、ウーラはレオより大きく存在感がある女性が演じていた。木下ウーラがいくら高いヒールを履いたところで、大野レオは絶対に彼女の身長よりも高くなってしまう。
 ウーラがデスクの上から降りられないから手伝って欲しいというシーン、大野レオはその身長を活かして直立する彼女をリフトで地面に降ろすのだが、そのシーンだけ彼が不自然に体をしゃんとするものだから、それ以外のシーンで無理に縮こまっているように見えてしまっていた。

 千穐楽、ウーラがいつにもまして思いっきり踊ったせいもあるが、彼女のキックをかわすシーンで、大野レオの腰が引け、背中が丸くなり肩が少し内側に入った。背筋を伸ばして堂々と踊るウーラと腰が引けたレオ。身長差ということではなく、ふたりのパワーバランスが自然に見えた瞬間だった。

 支払いを終えて戻ってきたマックスにウーラは声をかける。
 「大変、遅刻よ。オーディチョンよ!」

 さぁ、いよいよ計画の準備も佳境、あとは、Step 4 最悪な出演者を選ぶだけだ。

 手をつなぎ部屋を出る3人。狭い扉を並んでいこうとするものだから、必ず浮足立ったレオが引っかかる。
 1幕から幾度となく出て来るマックスのオフィスだが、必ずといっていいほど、出かけるシーンは部屋から退場して場面が切り替わるようになっている。暗転で終えてもいいところだが、きちんと部屋から出ていくのだ。
 シーンに応じて、部屋の出方もコミカル、そしてバリエーションが多い。
 その理由をずっと考えていたのだが、シンプルなミュージカルのわりにシーンを跨いでのリフレインが圧倒的に少ない作品なので、「出ていく」という動きでリフレインをつけて、舞台の調子を整えていたのだろうと現段階では考えている。

§2 劇場のステージ

 「アラベスク!プレパ!ピルエット&ターン!」
 カルメンの声が響くオーディション会場にマックスとレオ、そしてウーラがやってくる。元々、個性の塊のオーディション参加者たちだが、この日は誰も彼もが自由で、プリンシパルメンバーに目が向かないほど「わちゃわちゃ」としていた。

 このシーンで舞台始まってから一番の進化を遂げることになったのはおそらくカルメンに「猫シアターに帰りなさい!」と言われたミストフェリーズ風の猫。当初、振付だけが猫だったのが気が付けばしっかりメイクまで(今こうしてみると、ヒトラーの髭付き!)。千秋楽はピルエットの回数も大サービスだった。

 プリンシパルキャストが大弾けする千穐楽というのはよくあるが、このカンパニーはアンサンブルに至るまで盛大に弾けたカンパニーだった。
 「俺が一番台本通りに演じてる」
 そう佐藤リープキンに言わしめるほど、この日のカンパニーは「ぶっ飛んで」いた。

 そんなこんなで始まったヒトラー役のオーディション。
 一人目はジャック・ラピダス。
 母親に連れられてオーディションにやってくる青年だが、どう見ても主役が母(可知寛子)なのである。ささやき女将のようにジャックの後ろに常に控えており、ロジャーから質問(とも言えない質問なのだが)が来るたび、ジャックは振り返り「ママ…」と助言を求める。
 母はオーディションに来ていたリープキンに挨拶に行くのだが、日々違うネタを刷り込んでいく。千秋楽は「母です。今日のためにシャツを新調してきました」だった。
 そして、いつかやるだろうと思っていたことを可知さんはやってくれた!
 ジャックが歌うタイミングで朗々と歌い出したのだ!それも、彼女はこのシーンでマイクは使っておらず、マイクをつけているキャストのマイクに音が入るようにして歌っていたと、最後の挨拶で暴露していた。

 本当は、ジャックが2回歌うシーンなのだが、ここでも木村カルメンは母の歌唱のみでバッサリとシーンを切り捨てる。舞台全体が良く見えていることにただただ感心する。
 この時点でマックスとレオ、そしてリープキンは役として座っているとは思えないほど舞台上で必死に笑いをこらえていた。

 2人目のドナルド・ディースモアは「小さな木彫りの男の子」を歌う前に早々に返され…

 3人目のジェイソン・グリーンに至っては「ドイツのバンドをきいたことがあるかい?」をいつも以上にふざけて歌っている。これが舞台序盤だったら、おそらく観客がついていけなかっただろうが、もう十二分にあったまった客席はワンフレーズごとに笑いが止まらない。

 「やめろーっつ!…あのね、最後まで僕は聴きたいんだけれどね、止めなきゃいけないから止めるけどね」
 佐藤リープキン、どこまでジェイソンに自由にやらせるのかと思っていたが、ようやく止めた。「とっとと帰れ!」とリープキンの呟きが始まる。
 「今すぐ家に帰り、ルービックキューブの一面をそろえ…」

 こういったところが演出家・福田氏のテイストなのだろう。
 佐藤二朗を表現するときに「ぐだぐだ」という言葉がよく遣われるが、この舞台でも「わざわざ」「長々」と「ぐだぐだ」させる趣向が随所にあった。このシーンもそのひとつだ。リープキンとしてのぐだぐだの中に素の佐藤二朗が出てきてしまうならば構わない。だが、佐藤二朗に演じることをそもそも求めるつもりがない演出というのは如何だろうか。
 素を出すのは、ワンポイントだからこそアクセントになる。役からあまりにかけはなれたセリフもあまりに多くなってしまうと白けてしまう。これにより、舞台のテンポが悪くなっていたことは私にとって許容範囲外だった。
 幸いにして千穐楽は観客の笑いのスイッチが完全にオンになっていたこと、また「家に帰って新しいライオンキングの映画を観て…プンヴァを~(2019年公開のライオンキング実写版で佐藤二朗はプンヴァの日本語吹替を担当)」といったミュージカルネタが挟まれていたことで、そこまで気にならなかった。

 公演期間中「エゴサ」を細君より止められていた佐藤さん、最後は「今日はエゴサをしまーす!色々すみませんでした。今日までありがとーう!」だった。

 千穐楽を観ていなければ、プロデューサーズにおける佐藤さんに対する印象は悪いまま終わったと思う。千秋楽を観て、その根源が演出だということ…そして「本気の佐藤二朗」は魅力的だということも分かった。
 舞台上で発言したものとはいえ。細君から「エゴサを止められるほど」の指摘が来ていることを理解しながらも、ただ求められるモノを愚直にアウトプットし続けていたのだ、佐藤さんは。
 次は福田作品ではない舞台作品で彼を観たい。

 リープキン「♪ドイツのバンドがきこえるか
  ほらバン ほらブン ほらバーン
  我らドイツ人が好きな音楽~」

 マックス「ヒトラー決まり!」

§3 シューバート劇場の外

 最悪のシナリオ、最悪のスタッフ、最悪のキャストが集まり、いよいよ舞台の幕が上がる。
 1幕冒頭のOpening Nightが再び流れる中、マックスとレオ、そしてリープキン、ロジャーとカルメンが次々に劇場へとやってくる。

 初日の挨拶をMerde(ロジャー)、Toi Toi Toi(カルメン)、Hals-und Beinbruch(リープキン)と交わす中、レオが「Good luck!」と叫ぶ。
 フリーズする一同、そしてあることに気が付いたマックスがひとりフリーズから一転、笑みを浮かべる。

 初日に「Good luck!」と言ってはならないことを知らなかったレオ。皆がレオにその理由を解いている(初日にそれ言っちゃダメ!)背後で、最後にすばらしいヒントを得たとばかりに、マックスは劇場へやってくる人を捕まえては嬉々として「Good luck!」を色々な言語で伝えていく。
 関係者から暴言を投げられてもどこ吹く風。「間違えていっちゃった!」という空気を醸しながら言うなんてせこい芝居までするものだから、チケット係からさえあきれ顔でお小言を言われる始末。

 開演5分前、幸運を祈る言葉「Break a leg!」の声に見送られ、リープキンが楽屋入りするが、本当に足を折ってしまう。このシーン、誰かが「Break your leg!」、つまり本当の意味で「骨折しろ」を言うかなと思ってみていたが、流石にブラックすぎるからかこの言葉遊びはなかった。

 幕が上がらなければ入場料は返金、計画は頓挫する。なんとしてでも幕をあげようと、マックスは全てのセリフを覚えているロジャーを代役に推薦する。

 この期に及んでも逃げようとするロジャーをカルメンが一喝する。
 カルメンが上手いなぁと思ったのは、一喝するときにおいてもゲイのままであるということ。カルメンがどのように自分の性を自覚し、生きてきたのかは分からない。だが、漫然と生きてきている女性よりも完璧に美しい所作を身に着けたカルメンが身体の性、つまり男性の部分を見せながらロジャーに迫るというのはちょっと考えられなかったのだ。
 ひとりの覚悟を決めた人間の潔い格好良さがギリシャ神話のアテナのようで、惚れ惚れしてしまう。

 ついに舞台に立つことを決意するロジャー。お守りにスワンソンぼくろをもってきて欲しいとカルメンにお願いするあたり、可愛げがあるし、ロジャーが如何に小心者かが見えるシーンにもなった。

 ひとつ。カルメンがロジャーに対し「(貴方は)ヒステリックおかまクイーン」と表現している。ゲイであるロジャーに対し、同じくゲイであるカルメンが、発破をかけるという目的があるにせよ「おかま」という言葉を簡単に遣うことに疑問がある。
 もっとも、当時のゲイが傍からそう見られているのだから「偉大なブロードウェイのスター」になって帰ってこいというエールであるという捉え方もできるが、それでもかすかな違和感が消えることはない。
 ナーバスな題材を扱うコメディであるにも拘らず、この辺りの言葉に対しアンテナがたっていない点は返す返すも残念だ。

 「いよいよだな グッドラック レオ!」
 「グッドラック マックス!」

 さぁ、序曲が始まる。開演だ。

§4 シューバート劇場の舞台上

 1幕のアクセントとなるシーンがレオのI Wanna Be a Producerであるならば、2幕のそれはこのヒトラーの春であることは疑いようもない。ともに、舞台序盤で観客のハートをがっちりつかみにかかってくる。

 「ヒトラーの春」は風刺に満ちた演出が成されている。オープニングのほっぺたを赤くしたドイツ国民の姿からして「馬鹿にしている」。
 そこにどう考えても、タイトルには関係のないプレッツェルやウィンナーを頭に乗せた露出の多い女性たちが出て来る。挙句、ライヒスアドラー(鷲の紋章。ハプスブルクの双頭の鷲もこれに該当する)は達磨姿のキラキラになってしまい…ロジャーの演出、恐るべしである。

 初回観るときは、このシーンを知っているにもかかわらず、目が点になってしまった。本当に全部その通りにやったぞという喜びと、果たして日本の観客はこれを受け入れられるのかという心配のふたつが心のうちに同居したのである。実際に劇場で観た観客たちもこんな感覚だったに違いない。

 そして、このショーシーンはロジャーの吉野さんがようやく覚醒したシーンだった。当初配役をきいたとき、ロジャーは吉野さんの当たり役になると思っていた。だが、舞台が始まったときに感じたのは物足りなさだった。
 木村カルメンの存在感がロジャーの造形が甘いと感じさせてしまうほど圧倒的で、吉野ロジャーのパワーが木村カルメンに喰われ気味だったのだ。なので、このシーンでスーパーエンターテイナーっぷりをいかんなく発揮する吉野さんを観ることができて本当に良かった。

 男性的な潔さを感じさせる美しい所作のカルメンとは対照的に、どちらかといえば女性的な頼りない動きがメインのロジャーは少々自信なさげに舞台に登場する。
 ゲイということである種色の眼鏡で見られてきたロジャーがまぶしいライトを浴びる中で存在感を高めていく。「ヒステリックおかまクイーン」が「偉大なブロードウェイスター」になる姿がきちんと表現されていた。最後にはヒロインのウーラにキスをして観衆にこたえるというジェントルマンシップまで披露してしまうのだけれども、吉野ロジャーのどこか憎めないお調子者なところとマッチしている。

 衣装から舞台の構成から、「ヒトラーの春」の演出は古き良きブロードウェイの香り、もっと言うとオールドタイプなところが多分にある。誰もが思い浮かべるであろうワクワクするショーの要素がたっぷりだ。
 マックスがThe King of Broadwayで「みんなが褒めた、ジーグフェルドのようだと」と歌っていたけれども。ジーグフェルドのレヴューの過激さを考えれば、ヒトラーの春なんてかわいいものだと思う。
 余談になるが、ジーグフェルドの死後、彼の作品は映画化されている。
 特に"The Ziegfeld Follies(Broadwayでは1907年から上演、映画化は1945年)"、は機会があればぜひご覧いただきたい。若かりしジーン・ケリー(雨に唄えば、パリのアメリカ人の主役)が初々しいタップを踏んでいる。
 なお、マックスが上演した「FUNNY BOY」もこのジーグフェルドプロデュース作品「FUNNY GIRL」からきていることも、付記しておく(但し、シェイクスピアは関係ない)。

 アンサンブルがヒトラーを称賛する歌を歌い継ぎ、全員のコーラスで主役のヒトラーが迎え入れたり、ヒトラーダンサーズがタップを踏むというのもショーを華やかにリズムをよくするのに一役買っている。
 ダンスによるショーシーンはもちろん、スターリン、チャーチル、ルーズベルトを緞帳前で蹴散らすシーンもコミカルにリズムを損ねないように作られていて、つなぎとしていいシーンだ。
 最後には舞台上でダンサーとマネキンが卍を作るのだが、客席にその形を見せるため、舞台上に鏡を釣っている。古典的だが、今でもブロードウェイのリバイバル作品ではよく使われる手法である。舞台の広がりが一気に増すので、特に舞台の狭いエリアを使った演出(今回の場合は緞帳前のみでの演技)のあとにこれが来ると、ガッツポーズをしたくなる。そして、これが結構ワクワクドキドキさせられて私は気に入っている。

 そして、このシーンはアンサンブルが慌ただしく歌い踊るのと同じくらい、ウーラの木下さんが東奔西走の活躍だった。
 こんなに激しいダンスが出来る方だとは存じ上げず。達磨姿で舞台を横切るだけのシーンでも、足をあげて降ろす角度、ステップがきちんとリズムを刻んでいてそれだけで美しかった。

 木村達成さんに木下晴香さん。若手の素敵な俳優さんが急激に成長するその瞬間を目の当たりにできたのも、この舞台の大いなる魅力だった。

§5 マックスのオフィス

 大成功の裡に終わった舞台に傷心のマックスとレオ(なんで大成功?)。一生懸命作った作品が初日で打ち切りになるものが、計画的に作った失敗作が大ヒットになる。素晴らしき皮肉だ。
 マックスが「♪絶対嫌がられるように ユダヤ人の客ばかり集めても」と歌うのだが、そもそもユダヤ系のマックスがヒトラーへの皮肉に満ちたこのショーの仕掛人なので、集めたところでむしろ称賛を受けるのではという疑問はあるのだけれども。
 いずれにしてもロングラン決定。レオが警察に自首しようと舞台の会計帳簿の取り合いをするのだが、ここで問題のセリフが出て来る。

 「ブタ…この、ブタ…!」
 この舞台が決まって、マックス役が井上芳雄と聞いたとき、一番に思い浮かんだのが、オリジナルでマックスを演じたNathan Laneのことだった。

 彼はちょっとぽっちゃりとした体形で、身体はけっして伸びやかではない。ちょっとたれ目でぽっちゃりとしたフォルムのNathanが顔じゅうの筋肉を顰めると、これが本当に憎たらしかったりする。その上での「ブタ」なのだ。まさかそのまま使うとは思わなかった。

 「言われたことない」「うわ~新鮮で傷付く」
 そうか、そちらの方向へもっていくかと。
 人をけなす言葉というのは本当に難しい。実際には違うから笑えるというものもあるし、コメディだから許されるというものもある。「ブタ」という単語はそのまま訳したことで結果、誰も傷つけなかった。
 このセリフを言うときの井上さんの棒読みっぷりと合わせて笑ってしまった。

 ロジャーとカルメンが訪問してくるが、マックスは舞台を成功に導いたロジャーに暴言を吐きカルメンと大喧嘩になる。そこへ拳銃を持ってたリープキンが「ヒトラーを馬鹿にしたな!」と登場し、オフィス内はカオスに。
 そして、リープキンが銃を乱射した音を聞きつけ、警官がやってくる。

 アイルランド移民に警官が多かったということで、この警官たちのアイルランド訛りは薩摩訛り。ダンカン・キャンベルの「アイルランドよ永遠に」をもじったりと脚本は原作に忠実だ。
 「ブタ」が誰も傷つけない訳だったと書いたが、この薩摩訛りはきわどいところを紙一重ですり抜けたと思う。オリジナル言語を訳してどう表現するかの難しさを感じる。

 リープキンが連行され、一息ついたが、マックスの悪だくみは露見する。チョンボで帳簿が見つかってしまったのだ。
 「ひとつは国税庁用」「ぜってぇ国税庁に見せねぇ用」
 レオ、君はもうちょっとまともな表紙を作るべきだった…

 マックスが連行され、警官が去った後に部屋へやってきたウーラは隠れていたレオに「自首」か、残されたお金を持って「リオ(・デジャネイロ)」に逃避行するかの2つの選択肢を提示される(レオはリオに)。
 そして、ふたりはサンバのリズムに乗ってオフィスを去る。

§6 留置所

 マックスはひとり留置所にいる。逮捕されて10日、レオが弁護士を連れてやってきてくれると信じて待つが、彼が来る気配は一向にない。
 そこへ、リオからの絵葉書がやってくる。差出人はレオだ。

 計画時、リオに高跳びしようとマックスがレオに持ちかけていたというのに。レオはウーラを連れてリアのビーチでいちゃいちゃ。そして、このろくでもない計画によって留置所にいるマックスは計画の立案者であるレオへの恨み辛みを歌い上げる(裏切り者)。

 このミュージカル最大の見せ場である。
 舞台が始まってから2時間余りーこれまでに起きてきたことは全て、このシーンのためにあるのだ!マックスは、レオと出会ってからの全ての出来事を大ダイジェストで歌い上げる。
 そして、私はこの一点を書きたいがために、この必要以上に長いレポートを書くことになったのだが。ここまでに書いてきたセリフを通して読んでいただければ、ご覧になった方はなんとはなしにその意味は分かると思う。

 この舞台が決まったとき、ふたつのガッツポーズをしたと冒頭書いたが、そのもうひとつがこの「裏切り者」という大曲を井上芳雄が歌うということだった。

 実のところ、この舞台でマックスは出ずっぱりではあるが、歌があるかと問われれば、歌唱シーンは少なめで、コメディの進行役を演じることに終始する。井上芳雄というミュージカル俳優を考えると曲数という意味では少々物足りない。
 だが、この作品の何が魅力かというと、短くも大迫力のこの一曲のために、全てのシーンがあるという点にある。この贅沢さがたまらない。

 私は井上芳雄というミュージカル俳優が好きで、彼に演じて欲しい役や歌のリストが手元にある。その中には、ほとんど出番がないが、場の全てをかっさらう一曲を歌うような役も入っている。だが、そんな「井上芳雄の無駄遣い」は今の彼の人気を考えればおそらくあり得ない。
 そんな中で、このプロデューサーズという演目の主役・マックスには、相応の出番もありつつ、これぞミュージカルというとんでもない大曲も入っている。
 最高に「無駄遣い」ができる作品なのだ。

 もう少しだけ、このマックスと井上芳雄について書きたい。
 マックスという愛すべき曲者を井上芳雄が演じるというのは中々のニュースだったと思う。

 デビュー作のルドルフ皇太子(エリザベート)のイメージからか、キャスティングされると破天荒なところがあったとしてもどこか育ちの良さを感じさせる品のある役が多い。そして、ちょっと情けないが心優しく芯が強いといった役もよく見かける。
 グレート・ギャツビーのジェイのような影を持った役も演じてきてはいるが、基本的には「いい人」、そうでなかったとしても同情を禁じ得ないような役が多い井上芳雄が、プロデューサーズのマックスを演じるのだ。

 ミュージカルというのは不思議なジャンルで「悪者」が出てこない。
 レ・ミゼラブルのジャベールに代表されるように、そのキャラクターなりの信念がありその信念故に「憎まれ役」となることこそあるが、本当の意味での「悪者」がいない。(これがストレートプレイになってくると「ベニスの商人」のように全観客の憎悪を受け止めざるを得ないようなような役が出て来るのが面白いところでもある。)

 その代わり、マックスは観客の誰からも感情移入されることはない。同情されることすらない。そして「かわいげ」つまり、演じる者のキャラクター一本で勝負をしなくてはならない、実は結構な難役だ。

 マックスのことを「愛すべき曲者」なんてかわいい書き方をしたが、はっきり言ってただの「ロクでなし」だ。BroadwayでNathan演じるマックスを観た時、そのロクでもなさに開いた口がふさがらなかったのだが、そこまで「ぶっ飛んだ」ロクでもなさがあったが故、大爆笑できたのだ。

 もし、この演目に井上芳雄をキャスティングするならば、彼が30代前半だった頃にレオ役をオファーを出すのがセオリーだと思う。だが、敢えて40歳を超えた井上芳雄に実年齢よりも上、そして観客が感情移入はおろか、応援することもできないマックスという役を持ってきたというのが、嬉しい喜びだったのだ。
 彼の演じるノーブルな役は好きだ。だが、実は舞台の芝居がストレートプレイでも十分に通用することを知っている身としてはこういった役は将に観てみたい役だった。

 実際に幕が開くと、コメディの筋の良さも感じられ、オリジナルとはビジュアルも趣が異なるが想像以上に魅力的なマックスに仕上がっていた。
 他方、他者を傷つけない精神からか、相手のおふざけに過度に乗ってしまったり、それゆえにテンポを悪くするところがあったのはもったいないポイントだった。
 他の出演者が安心して弾けられるほど、井上さんの「ツッコミ」としてのレシーブ能力が高かったことには驚いた。だが、時にはスルーするスキル、捨てる勇気も必要だ。拾わないことから生まれる笑いもあるし、拾いすぎて観客を疲れさせてしまっては本末転倒だからだ。
 ただ、コメディの基本はしっかり押さえられ、努力ではどうにもならないセンスもあった。コミカルな動きにはダンスのステップが応用されていて、どこを切り取っても絵になるという点も特筆すべき点だったと思う。

 歌・ダンス・芝居・コメディ。

 たくさんの役をひとりで演じ一気呵成に畳みかける。
 その歌唱方法もまちまちだ。
 全てが揃ってこその、この「裏切者」。
 私が観たかった井上芳雄がすべて詰まっていた。

§7 ニューヨーク市裁判所

 マックスが裁判にかけられている中、レオはリオから帰ってくる。「妻」のウーラを伴って。
 レオはマックスの情状酌量…とは言い難い証言をしに出て来ているが、いつの間にか本当の友達となっていたマックスへの思いを歌う(彼が)。

 「レオ…歌、さらにうまくなったな」
 この歌を歌うレオにはもうおどおどしたところはなく、優しい笑顔が浮かんでいる。そして、裏切り者とまで思っていたレオが戻ってきたことへの喜びをストレートには出せない、そしてレオの顔を正視できずにいるマックスのクシャっとなった顔。
 ふたりともいい顔をしている。

 このシーンでは裁判官と検察官がコメディ…というよりもおふざけ要員に。千穐楽以外でも同じ演技で、これが福田テイストかと実感。
 こんなことをしなくても十分面白いのだ。せっかくの流れが切れてしまうので、こういった演出はよくよく考えて入れて欲しいと切に願う。

 判決は「ふたりをシンシン刑務所に懲役5年の刑に処す」

§8 シンシン刑務所~シューバート通り

 ここからはハッピーエンドに向かって怒涛の急展開だ。

 シンシン刑務所には先に刑務所送りとなっていたリープキン(まだ骨折が治っていない!)がいる。
 マックスとレオは囚人にミュージカル「愛の囚人」を上演していた。凶悪犯らが音楽を通じ更生したことが評価され、恩赦が出される。

 ブロードウェイに戻ったふたりはヒトラーの春の主演コンビ、ロジャーとウーラを主役に「愛の囚人」を上演し、スマッシュヒット。ミュージカルはロングラン公演4年目を迎えていた。

 ブロードウェイのプロデューサーにしかかぶれない帽子を遂にマックスはレオにプレゼントする。
 ビアリストックとブルーム。プロデューサーと会計士のでこぼこコンビが、ブロードウェイを席巻するプロデューサーコンビ、マックス&レオになった。

 ふたりは次々にヒット作を手掛けていく。
 夜のブロードウェイ、ふたりがステッキを振ると、次々と舞台のタイトルが闇に浮かび上がる。小ネタに満ちた電飾にいちいち笑顔になってしまう。
 ふたりは肩を組み、ブロードウェイの道をまっすぐに進んでいく。
 大団円だ。

 余談だが、このラストシーンには元がある。雨に唄えばのBroadway Melody Balletのリプライズだ。
 替え歌になるので大元の歌詞はGotta singーではなく"Gotta dance!"だ。
 プロデューサーズのラストシーンのように。ブロードウェイの電飾の中、歌い踊るジーン・ケリーは茶目っ気たっぷり。
 メルの皮肉に満ちた舞台が不快なものにならないのは、脚本のそこかしこに散りばめられたマックスたちが生きた古き時代のブロードウェイへのオマージュに因るものだ。

 大団円のラストシーン、マックスとレオの後ろ姿は影絵のようになる。
 気持ちが浮きだつような楽しい音楽の中、影だけで人物を表現するという段において、井上マックスは通常よりも足を外旋させ、少し蟹股になるようにしたうえで、ちょっと大げさに足をあげて歩く。
 照明がシルエットだけを映すため、舞台にも拘らず3Dでの表現ができなくなるところを、井上さんは2Dのアニメのキャラクター、例えるならばミッキーマウスなのだが、のような歩き方で表現しきった。

 過日、ダディ・ロング・レッグズの感想の中でこんなことを書いた。

役として立てる、歩ける、座れるというのは俳優にとって、こと観客の視線に晒され続ける舞台俳優にとって必要な素養であることは言うまでもない。

 このことを再認識したシーンだった。

 カーテンコールの最後はGood bye!
 劇場を出る最後の最後まで楽しませようというテイストは、ちょっとの不満くらい軽く吹き飛ばしてくれるパワーがある。
 ショーの国アメリカの好きなところのひとつだ。

 こうして千穐楽の幕は閉じた。おそらく、カーテンコールの映像は東宝HPに掲載されると思うので、割愛させていただく。
 備忘で、いつもは大野レオが井上マックスを背負い舞台に別れを告げるがこの日は井上さんが大野さんを負ぶった。
 「重い、重いよ!」
 カーテンコールにはこうしてピリオドが打たれた。

 演出に注文を付けたいこともある舞台だった。
 ただ、満員の客席で、オーケストラの演奏も入り、ミュージカルの楽しい舞台を観ることができた。
 半年前にはこんな観劇が叶うなんて思いもしなかった。
 そして、この演目が上演されることが決まったのは感染症等予想だにしなかった時期だったが、鬱々とした2020年の最後を、バカバカしくも面白いコメディで終えることができたというのも結果的にラッキーだった。

 今回の舞台は、劇場で観劇できることの喜びを改めてかみしめる演目となった。コロナによって、舞台の配信は増加し、これまでチケットが取れなければあきらめざるを得なかった舞台が観られるようになった。
 だが、やはり舞台は生ものなのだ。劇場で観劇するー役者と客席のコミュニケーションがあるライブの良さ。幸せな日々だった。

 千秋楽から10日余り。東京の感染者は800人を超え、満席の劇場での公演はいつまで続けられるのだろうかと思う。
 奇跡のような時間だった。

 全くの余談だが、マックスとレオが拠点とするSHUBERT THEATREはブロードウェイの中心部、オペラ座の怪人などを上演するMajestic Theatreなどの並びにある。
 3階まで客席があって、足が震えそうになる3階の傾斜の感じはちょっとだけシアターオーブに似ている。シアターオーブの方が階層間の高さがあるけれども。

 日本と異なり、まだまだ、再開が遠いブロードウェイ。
 マックスとレオがふたり肩を組んでブロードウェイを闊歩できる日が一日も早く訪れることを願ってー

プロデューサーズ
2020/12/6 12:00
東急シアターオーブ 1階13列センターブロック

井上芳雄
吉沢亮/大野拓朗(Wキャスト)
木下晴香
吉野圭吾
木村達成
春風ひとみ
佐藤二朗

脚本 メル・ブルックス/トーマス・ミーハン
音楽/歌詞 メル・ブルックス
オリジナル振付 スーザン・ストローマン
日本版振付 ジェームス・グレイ

演出 福田雄一
音楽監督 八幡 茂
翻訳・訳詞 土器屋利行
美術 二村周作
照明 高見和義
音響 碓氷健司
衣裳 生澤美子
ヘアメイク 富岡克之
(スタジオAD)
音楽監督補・指揮 上垣 聡
歌唱指導 山川高風、やまぐちあきこ
稽古ピアノ 宇賀神典子、宇賀村直佳、石川花蓮
オーケストラ 東宝ミュージック、ダット・ミュージック
演出助手 伊達紀行
舞台監督 菅田幸夫
振付助手 青山航士、吉元美里衣、福田響志
制作助手 廣木由美、土器屋利行
プロデューサー 岡本義次、田中利尚

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