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精神世界への目覚め

                        
はじめに

これからここに書くのは、10年ほど前に私が書いた手記に、現時点で加筆をしたものです。

以前、Twitterのプロフィールに、夫のうつ病を通して人生感が変わったと書いていました。夫のうつ病は西暦2000年に発症。2人目の子どもが生まれて5か月目のことでした。

うつ病の重篤な時期(自殺未遂も含めて)は2年ほどで脱し、薄紙をはがすように回復。仕事にも徐々に復帰。

辛い時期でしたが、周りに助けを求めることで乗り越えられました。そのときのことはまた別のnoteに書きますね。


この手記を書いた2009年には夫はすでにすっかり鬱病を克服。そのあと我が家にはもう一つの苦難の時期がありましたが、それも超えたころが2009年です。

私の世界観が少しずつ変わっていったのが2008~2009年頃でした。

それから10年。

今の私になっています。


2009.1.21の手記

夫がうつ病を克服するという人生の転機の過程で、新たな人生観を確立していった。
夫は直観と多くの偶然の出会いに導かれ、真言宗、密教、理趣経を学んでいった。そこで得た、空の思想、輪廻転生、カルマ、等々。それらをもって自分と向かい合い鬱病も乗り越えていった。

霊的なこと?精神世界?

夫は自分が得た知識や気づいたことを私に対しても事あることに話してくれたが、私はいつも完全スルー。現実主義で、小さな子ども2人を抱えて、生活するだけでいっぱいいっぱいの私には夫の言っていることが全く理解できず「またか」、「何言ってるんだか」、と半分うんざりしながら聞き流すことに徹してしまっていた。

私にはそういう霊的、精神的なものを受け入れる準備が全くできていなかった。

ところが2006年頃、我が家を襲った生活の激変の中で、一生の中でも最も大きな怒りや、不安、悲嘆、を経験し、その後受容するという経験をした。

そのあと何かに導かれたように、図書館に新しい職を得、自分の1つ目の天職と出会う。仕事をしながら資格取得のための勉強もし、自分自身に自信を得て、ありのままの自分を認められるようになった。

内面的な変化だけでなく、初めて額を出す髪型に抵抗がなくなった。パーマもかけず、髪も染めず、額を出したそのままの自分が一番良いと思えるようになった。


内面の変化

生活を切り詰める必要の中で、児童向けファンタジーでありながら子どもからお年寄りまでのファンが多い「精霊の守り人」シリーズを読み、主人公バルサをはじめとする登場人物の人間らしさに惹かれる。決して物質的に恵まれてない厳しい生活やご都合主義でない生き方に共感を覚える。油紙一枚にくるまり野宿する姿に人間の強さを感じる。

また、3万年前の人類の生きる姿を描いた「エイラ―地上の旅人」シリーズで、本当の人間らしさについて考える機会を得た。「生きる」ということの本来の姿は、シンプルで厳しくかつ喜びに満ちている。有り余る物に囲まれ、それでもなお飽くことなき消費行動におぼれ続け、そのためにあくせくとお金を求めて働き続ける現代人の生活は、本当に「生きている」といえるものだろうか、と感じてしまったのである。


宗教感の変化

私の生まれ育った場所は、かつて明治時代に国策でお寺がとりつぶされた地域で、お葬式も神主さんがあげる神式のものである。お仏壇でも、ご先祖さまに柏手を打って拝む。さまざまな地域信仰も受け継がれている、伝統行事を大切にする社会で育った。

一方、結婚してからは10年来、エホバの証人の方が訪ねてきてくださっていた。聖書の中の、家族に関する知識を教えて下さり、家族への向き合い方や自分を許すことを教えてもらい、おかげでいつもイライラして夫にあたり散らしていたかつての自分は卒業できた。全部の教義が受け入れられているのではないので入信しているのでもなく、時おり通ってきてくださっている証人の方には申し訳ないが、それでも聖書の教えの中には、人間が「よりよく生きる」ための知恵がたくさんつまっていると実感している。

さらに、現在の家に引っ越してきてからは、地域の氏神様の氏子会に入り、祭りや地域の行事において活動している。初詣にいくし、折々にはお祓いも受けている。

今までの生活では仏教にはあまりご縁がなかったが、夫は自宅で般若心経をはじめとするお経を読むし、輪廻転生をはじめとした仏教の思想を時折話してくれる。

宗教的には無節操といわれるかもしれないが、私にとっては、「より良く生きる」ということを求める点においてすべての宗教は同じなのではないかという思いがあった。そんな中、「世界の宗教がわかる本」という本に出会い、世界の3大宗教をはじめとする宗教の概要やそれらの流れを知ることができた。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神が本来おなじ神であることを知った。


2009.5.6の手記


 ここまでの文章を書いてすぐ、1月末に子どもがインフルエンザで学校を休んでいる間、図書館で出会ったニール・ドナルド・ウォルシュの「神との対話」シリーズをじっくり読むチャンスを得た。

私はすべての答えをここで得た。


偶然に手に取ったわけではなく、私の準備ができたときに読むべくして読むことになった本だと実感している。

「神との対話」1,2,3巻、そして、「神へ帰る」、繰り返し読むたびに、手にとってページを開くたびにその時々に私が必要としている問題の答えが見つかる。常にいつ何時も、創造する神は私とともにあり、耳を傾ける用意さえあれば、自分の心を通して回答は得られると気付いた。


それ以来、自分で自分の人生を再創造するべく、毎朝出勤時の車の中で、「私は図書館員として、みんなの役に立つ仕事を楽しく元気にやっています」と大きな声で宣言している。アファーメーションだ。


そうすると必ず、毎日「誰かの役に立った」と実感できる場面が、日々の仕事の中で実現するようになった。


自分の感情に正直になり、悪い感情が起こるときは自分の思考を見直すように心掛けることになった。肉食は極力避け、野菜中心の食生活になった。

プラス思考が自然とできるようになり、「あなたには価値がある」ということを誰にでも伝えられるようなメッセンジャーとして存在することを意識している。誰にでも、そのままでその人の価値があることを認めれば、その人の能力以上のことを求めてイライラする必要もなくなる。良い、悪いと判定するのではなく観察するということを心掛ける。


自分の体調も、自分自身が創造している。すべてうまくいっているということを選択すればそのようになる。そうして3月までとても良い状態で乗り切った。1月末からは、常用していた薬も必要なくなり、良い感情のみを保つことで体の調子もすっかり良くなった。

4月、実家に預けていた子どもを迎えに行ったときに、首を痛め、背中の上部と首の痛みが取れなくなってしまった。整体に2度行くも思わしくなく、体調のコントロールだけでなく仕事のプレッシャーもかかり、夜眠れなくなって、ひどくなる前にまた薬を服用し始めた。

ゴールデンウィークになり、「神との対話」シリーズから一時離れ、ケン・フォレットの「大聖堂」の続編シリーズ、「大聖堂―果てしない世界」を読んだ。嫉妬、妬みなどのドロドロした人間の感情に息苦しくなり、一方で勇気、愛情、献身といった生き方を選ぶ主人公達への好感を抱いた。

作者の前シリーズ「大聖堂」との違いは、保身に走る聖職者らの描き方と主人公の一人カリスの生き方が対照的で、作者が「神との対話」に共感しているのではないか、と想像できたことである。カリスの人々への医療を通じた献身的な生き方と、自分の感情、特に愛情に対する正直な行動は、自分らしくあることを伝えていると感じている。作者のケン・フォレットもまたメッセンジャーであると感じる。

「大聖堂」の続編の読後、再び開いた「神へ帰る」では、「自分自身」に、「あなたは自分が送り出す振動によって、エネルギーによって、あなたの現実を創造している」ということを思い出させることにより、以下のことが起こると記載されている。

引用する。 

 第一に、あなたは二度とふたたび、心に否定的な思考をいだきはしないだろう。

第二に、否定的な思考が滑りこんできたら、あなたは即座にそれを心から追い出すだろう。はっきりと意図して、何かほかのことを考えるだろう。要するにそれについての自分の心を変えるだろう。

第三に、「真の自分」を理解しはじめるだけでなく、それを貴び、外に向かって示すだろう。つまり、あなた自身の進化の手段が「知る」ことから「経験する」ことへと移行するだろう。

第四に、ありのままの自分自身を充分に愛するだろう。

第五に、ほかのすべてのひとについても、ありのままを充分に愛するだろう。

第六に、ありのままの人生/生命を充分に愛するだろう。

第七に、すべてについて、すべてのひとを赦すだろう。

第八に、意図してほかの人間を―感情的にも物理的にも―傷つけることは決してないだろう。まして神の名において他人を傷つけることは絶対にないだろう。

第九に、二度と、一瞬たりとも誰かの死を嘆くことはないだろう。自分の喪失を嘆くかもしれないが、そのひとの死を嘆くことはないだろう。

第十に、二度と、一瞬たりとも自分自身の死を恐れたり、嘆くことはないだろう。

第十一に、すべては振動であると気づくだろう。すべてだ。だから食べるもの、着るもの、見るもの、読むもの、聞くもののすべて、それにもっと重要な自分が考え、語り、することすべての振動に、もっともっと関心を払うだろう。

第十二に、自分自身のエネルギーと自分自身が周辺に創り出している生命のエネルギーの振動が、真のあなたについての最も高い知識や想像しうるかぎりの最も偉大な経験と共振していないと気づいたなら、それを調整するために何でもするだろう。

 「神へ帰る」ニール・ドナルド・ウォルシュ著,
        サンマーク出版, 2007,p.268-269

  

2009.11.7(土)

 昨日までの3日間、仕事に必要な講習を受講するため、東京の某所まで通っていた。その往復の電車の中、再び「神との対話」の1冊目を読み返し、いろいろと考えていた。ちょうどこのところ、夫がよそよそしく、いらだっているように見え、先月には、「私のことを嫌いでしょう?」と責めてしまっていた。

特に今週に入ってからイライラしている様子がみえ、私は水曜日の帰りの電車の中で、「神よ、いったいどうしたらいいんですか」と問いかけながらページを開いた。

するとそこには、「人生は自分で体験して自分で考えていく人」と「人のいうこと、書いたことを判断基準にしていく人」がいると書いてあった。

夫は自分の体験しか信じない、私のように「この本に書いてあった」からといってすぐ受け入れたりはしない人だ。あ、夫は、自分で体験していく人だった。違いがあることを受け入れるべきだった。

それを改めて思い出した私は「夫と私は愛し合っています。」と何度も口の中で唱えながら、電車にゆられていた。また、「人生で起こるすべての困難は、自分が何を選択するかの機会で、すべて成長のためのチャンス」だという文章を読みながら帰宅した。

すると偶然にもその日、夫から会社であった事柄を聞かされた。いわゆる、クビを前提とした自宅待機。

以前の私なら絶句したか、怒り出したか、取り乱したか、パニックになったことだろう。でも、「大丈夫、大丈夫。これは成長のためのチャンスだよ。」を平然と受け止められたのだ。

そして、心が乱れることもなく、自分が自分らしく成長することだけを考えて、3日間の講習をすべて無事受講して昨日の帰り道。

「神との対話」のライフワークについての対話を読んでいた。わたしは、1月から「最も偉大なビジョンの最も壮大なバージョンの自分を再創造します」と宣言してきたが、実は、自分の最も偉大なビジョンが何かがはっきりわからないままであった。

キーワードは、「人間、創造、図書館、サポート」だとなんとなくは気づいていたが。。。突然、直観でひらめいた。


「図書館員のスペシャリストとして、人類が創造し蓄積してきた知の泉を、その情報を必要とする人たちに結びつけ、その人達の新たな創造をサポートすること」と。
なんだか、嬉しくて、嬉しくて、この人生での自分の目的がつかめた気がした。

帰宅してから、家族に向かって、私の人生の最も偉大なビジョンがつかめたことを報告し、聞いて!と宣言した。

「図書館員のスペシャリストとして、人類が創造し蓄積してきた知の泉を、その情報を必要とする人たちに結びつけ、その人達の新たな創造をサポートすること」と。子どもたちは良かったねー、と喜んでくれた。夫は、「そうだな。人のサポートが確かにおまえらしい。」というようなコメントをくれた。

幸せな気分のまま、今日は出先で、会う人達に幸せを分けてきた。
ネットのサイトにもこのことを書きこんでみた。私は、自分が成長しつづけることを知っている。そして、すべての出来事はチャンスであることをしっている。
だから、不安や心配はいっさいもうなくなった。すべては愛である。魂の声にしたがって生きていく。


おわりに

およそ10年前に今の私の考えや生き方のベースの部分ができたのだなぁと感じました。

このnoteで書いたように私のこの人生での役目は「情報と人とを結びつけることでその人の人生をより良くすることのお手伝いをする」ということと、以前2人目の子どもが生まれた時に気づいた、「すべての人に価値がある」ということを伝えることが大きな2つの役目だと思っています。


人生にはいくつもの転機があります。

直観や出会いを大切にしていると、自分の本来の生きる目的に近づいていけるようです。

目に見えている世界だけが世界ではないと感じることができると、世の中の見方がすっかりと変わります。

「神との対話」は「神」という存在ありきで書かれていますが、何か壮大な宇宙を動かしているエネルギーのようなもの、「サムシンググレート」と呼ぶ人もいます。

人間より大きな力を持った何かが存在すると信じるということが、私にとっての「精神世界への目覚め」でした。

ここまで読んでいただいて、どうもありがとうございました。



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