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ヤマアラシのほにゃらら

 心理学用語で「置き換え」というものがある。

 欲求不満フラストレーションや葛藤に対処しようとする適応機制で、簡単に言うと八つ当たりなのだが、ギックリ腰や慢性の腰痛なんかも無意識下の怒りや感情の抑圧が原因で起きている心身症であるケースが多いそうなので、これも広義の置き換えということになるのだろう。
 まあ、僕は医者ではないし、大学で心理学を専門的に学んだわけでもなんでもないので、上記は話半分かそれ以下で受け止めていただきたい。ぶっちゃけ適当にぐぐって目についたワードをコピペしながら既知の知識をザツにくっつけただけだから信憑性はお察しだ。もし興味があったら各自の責任で調査と掘り下げをよろしく。

 要するに、人間の行為と心理の結びつきは単純ではない、と言いたいわけだ。瞬間的に口を突いて出た「バカヤロウ!」という怒声ひとつを取っても、本人が自覚できないほど過去の記憶や感情がこじれた結果であるかもしれない。それが傍目に強烈なものであれば、なおさら。

 
         ○
 

 うちがレーベルとして「𝕏」Twitterから距離をとり、二週間ほどが過ぎた。

 当初は完全撤退してアカウントの運用を一切停止する予定だったが、永元千尋名義で運営するこのnoteと、Flypaper名義のCi-enで何か動きがあると更新情報が流れる連携機能は残すことになった。
 あと、𝕏アカウントの「いいね」欄を見てもらえればわかると思うが、日々それなりにTLは眺めているし、心惹かれたポストについて反応も残している。ただしRepostはしていない。そこまでするとフォロワーのTLへ能動的に関わっていくことになるし、Postも普通にしたくなる衝動に駆られるだろう。これでは以前と何も変わらない。それだけは絶対に避けたかった。

 ざっくり言うと、𝕏から完全撤退 → 𝕏での活動半減、という形に変化し、そこで落ち着いたわけだ。
 自分の言葉で何かを発する時は、noteやCi-enの記事という形をとって、それなりの文章量で、一応の推敲をして、しかるのちにネットの海へ放流する。自分の気持ちとしては、どうやらこれで満足をしたらしい。

 ────そう、満足したらしい、のである。

 イーロン・マスクが無理だの嫌いだのって話はどこいった??????

 
         ○
 

 僕は基本的に、怒りだの嫌いだのという負の感情で駆動している人が苦手だ。呼吸するように暴言を吐く手合いも同じく。映画やアニメを見て「駄作」だのとこきおろしたり、ゲームをやって「クソ」だの言う行為は本当に無意味だと思う。
 こうした人は自分の意見や正直な気持ちを表現しただけと考えていることが多いが、表現には常に責任がついて回ることを失念しているのだろう。感情的にわめいて許されるのはせいぜい子供の間だけで、大人になれば「で、君は結局何が言いたいの? 世の中に何を問いたいの? しょせん自分一人の好みの問題かもって考えない? 周囲がどう感じているか察しもつかない? 百歩譲ってそれ自分の得になる? みんなや社会の利益になる? そうでなきゃせめてオチつけて笑わせてくんない?」と真顔で詰められておしまいだ。具体的な言葉として投げかけられなくても、これらは無言で必ずジャッジされているし、他人も離れていってしまう。
 百歩譲って「いいこと言うね! 俺も同じこと思ってたよ!」という共感を得られたとしよう。しかしそれは常日頃から怒りや嫌いだのという負の感情で駆動し、呼吸するように暴言を吐き、駄作だのクソだのとこきおろすことに何の躊躇もしない類の人たちである。そんな人たちに寄ってたかられ共感してもらってもいいことは何もない。マジで。
 
 だから僕自身も、負の想念を剥き出しにすることに対して、かなりの抵抗感がある。あったはずだ。
 なのにイーロン・マスクに対してはこの有様である
 某少佐の演説パロディでネタっぽく読み流せるようにしてはいるが、ヘルシングを知らない人が読んだら普通にドン引きだ。何をそこまで怒り狂ってるんだコイツは、と思われるのが関の山。
 そもそも今の自分は、曲がりなりにも𝕏を使い続けているのだ。少なくとも完全に拒絶はしていない。そしてこの距離感に満足しているのである。

 あのとき、自分の心の中で、いったい何が起きていたんだ……?

 
         ○
 

 今にして思うと、このエッセイの冒頭からして、少しおかしかったのだ。

 なにが「𝕏」だよイーロン・マスク!!!!!!!!!!!
 俺の愛したTwitterを返せ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

ひとりてらり:第1話 めんどくさくさ

 「俺の愛したTwitter」ってなんだよ。
 そもそもTwitterを愛していたことなんて一度でもあったっけ?
 
 耽溺していたことはあった。病みつきだったことも。今はTLに貼り付いてる場合じゃないのに。こんなレスバトルして何になるんだ。いつもそう思いながら、適切な距離を取ることができなかった。
 こんなものが愛であるはずがない。
 
 自分はいま、永元千尋という名義のほかに、R18作品でのFlypaperという名義を使い分けているが、Twitterというメディアは日本国内のR18系作家にとってまるで優しくない場所だった。国内法と国内倫理においては可とされる表現でも、本社のあるアメリカの基準で否であるとされた。ちょっとロリっぽい絵柄でエッチな雰囲気のイラストを描こうものなら即BANを食らい、あるいはシャドウバンによってTLという社会ソーシャルから排除された。時にはDLsiteやFANZAといった合法の一般企業が運営するサイトへのリンクを貼るだけでNGギルティと見做されてきた。
 幸いにもFlypaper個人とLIBERTYWORKSそのものは実害を受けていなかったが、大好きな作家やサークルが理不尽な仕打ちを受けている様子に歯噛みしていたものだ。Twitterが我々を愛してくれていると感じたことは一度もなく、故に、我々がTwitterを愛する道理もなかったのである。

 そこへ颯爽と現れたのが、Twitterに表現の自由を取り戻すと豪語して同社の買収に乗り出した世界的大富豪であり実業家のイーロン・マスクだったわけだ。当時、彼のことを無辜なユーザーに対して理不尽な仕打ちを続ける青い鳥をこらしめてくれるヒーローのように認識していた人は、決して少なくなかったはずである。少なくとも永元自身はそうだった。
 
 実際には、彼の本当の狙いはまったく別のところにあったことが後に発覚。単なるコミュニケーションアプリに留まる気はないとして「𝕏」と改名されたあとも、運営体質そのものは旧Twitter時代から劇的に変わったとは言い難い。ていうかほぼ「まんま」の感覚で使ってるよね、みんな。
 
 つまり自分は、旧Twitterを愛していたわけでもなんでもなかった。
 であるなら、イーロン・マスクが同社に対して何をしようが知ったことではないとなるのが道理だろう。
 
 でも実際には、あの日あのとき、自分のポリシーを曲げてまで「イーロン・マスクが嫌いだ」と言い放った。他のところでも、彼を指して「傍若無人なビリオネア」とまで表現しているのである。

 これはちょっと、尋常なことではない。
 今にして思えば「何もそこまで」としか言い様がない。

 
         ○
 

 結局のところ、あれは「置き換え」だったんじゃないか。
 イーロン・マスクに対する発言はただの八つ当たりにすぎなくて、自分が本当に怒っていたのは────

 自分自身、だったんじゃないのか?

 旧Twitterに耽溺し、病みつきになり、TLに貼り付いて、不毛なレスバトルに熱を上げる。そんな自分に「これじゃダメだ」と思いながら、ついぞ適切な距離を取ることができなかった。
 そんな旧Twitterとの関係を清算する絶好の機会だと、そう思っていただけなんじゃないのか?
 自分は旧Twitterを愛していたということにして、それを変質させて顧みないイーロン・マスクを諸悪の根元とみなして嫌い、思い切って距離を取った。そして、離れすぎると自分にも不利益があると認識したから、ほんの少しだけ歩み寄る。結果、なんとなく納得のいくところに落ち着いて、だいたい満足。イーロン・マスクを特に嫌う必要もなくなって、𝕏のタイムラインを眺めながら「いいね」を押すくらいは厭わずやるようになり────

 ────嗚呼。
 自分で言うのも何だが。

なんだよこの永元千尋とかいうやつ!!!!!
ホントにめんどくせえな!!!!!!!!!!!!!

 
         ○
 

 ひとつ言えることがあるとしたら……そうだな。
 こうしてエッセイの形で読み物的な文章を書くことに少なからず納得感があって、今のような形で𝕏と相応の距離を取れたことに「満足」しているのなら、きっかけをくれたイーロン・マスクには、怒りや嫌悪ではなく「感謝」を捧げてもいいのかもしれない。

 ごめんよ、イーロン。
 君のこと、大して嫌いじゃなかったよ。
 事業は好きにやっていいよ。だって君の会社だもんな。

 それはそれとして、僕個人は、別にスーパーアプリとか必要ないんで。
 たぶん今以上に𝕏を使うことはないと思うけど、勘弁ね。


2023/08/12

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