感情と社会 27

暴力の諸相 ⑷「知識」

コロナ禍以来、たくさんの「知識人」「有識者」「学識経験者」がメディアを賑わせていますが、そのほとんどの人々が、この状況に対してかなり無力であったり、あるいは明らかに間違いであろう「知見」の喧伝に執心しているという印象を持っている人は、少なくないのではないかと思います。ワクチンの開発とその効果に覚えるもどかしさやデータの不透明さ、また、各国や地域ごとに違う対策の、どう見ても必ずしも科学的とは言い切れなそうなまちまちさ。
こんな状況は、「知」という、homo sapiens という名称にも反映されている人類の<栄誉>が、果たして栄誉なのかどうかを、立ち止まって考えてみる絶好の機会だろうと思います。
この節では、「知識」と呼ばれる、一般的には、情緒とは別物の<認知作用>として、感情や情動とは別の活動をしていると思われている活動が、じつは情動に動かされていること、そしてその情動が暴力性、つまり他者の排除や他者の蹂躙と直結しているらしいことを、お話ししてみようと思います。

ホモ・サピエンスのうちで、言葉の操作や組み合わせにやたらに長けている人々(学者、知識人、学識経験者、有識者)は、ずいぶん長い間、なぜか<上級の>人間と考えられてきた節があります。
すでにアリストテレスは、「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。」(『形而上学』冒頭)といきなり言ってのけていて、ぼくたちに、「知」についてそれ以上の考えを巡らせることを拒絶しています。これは、「知的な人」は「優れた人」だという、一般的な偏見を信じきっている場合には、高らかな宣言としか思えないでしょう。でもそれは、表彰台のてっぺんで、一番綺麗なメダルを手に入れた人を、あたかも優れた人であるかのように感じる偏見と、さしたる違いはありません。(これはもちろん、比喩ではありません。競合という暴力発動と制御の仕組みを思い出してください。)
どうして、また、いつ頃から、どんな事情があって、ホモ・サピエンスは、「知ることを欲」したり、「知ること」が良いことであると思ったりするようになったのか。そんなことを考えたことがある人ならば、アリストテレスのこの断言が、「知ること」そのものへの問いかけは問答無用なのだ、という乱暴な発言らしいことに気がつくと思います。この発言自体が、「知る」人、つまりおそらく自らが<上級の>人間だと思い込んでいただろうアリストテレス(彼は強大極まりなかったあの支配者、アレクサンドロス大王の家庭教師をしていました)の暴力的な性格、反論する者を抑え込んで上に立とうとする態度を、よく示しているように思えます。
「知」という、あるいは「知」をありがたがるという社会的な営みは、時折いわゆる「反知性主義」的な暴政によって攻撃されてきましたが、それとは別に、そもそもこの「知」という営みが称揚され、教育の原動力ともなり、しまいには自分の名称 (homo sapiens) にまで祭り上げられている社会的習慣が、はたしてその絶賛に値するものなのかどうかを疑った人は、さほど多くないようです。
たしかニーチェが、どこかで、知ることとは区別をすることであり、区別はすでに差別なのだ、つまり暴力性を帯びているのだ、といった趣旨のことをちらっと言っていたように思います(典拠を見つけることができないので、どなたかお教えいただけたら幸いです)。

ニーチェは、ぼくにとっては、暴力的以外の何ものでもない言葉の羅列を撒き散らした人としか思えないんですが、そのニーチェや、もう一人、ヒトラー政権に親和性を覚えて政治的な暴力にまで喜んで加担したハイデガーを熱心に勉強したという、ミシェル・フーコー。彼がこの二人に私淑したということは、それはそれで興味深いので後ほど触れますが、そのフーコーの、難解すぎるという悪評の高い『知の考古学』は、「知」という、アリストテレスにとっては疑うなど論外だという人類の営みに、不思議な影を投げかけているように思います。(この書物は、やたらに難解で、ぼくも彼が言っていることを理解できているかどうかはまるでわかりませんが、この難解な書きっぷりのことにも、後ほど触れたいと思います。)

主に書物を通じて連綿と繋がっているように見える「知」の歴史の、ありがちな見方(彼はよくそれを「思想史」と呼んでいます)に対して、フーコーは異議を唱えます。世間ではいとも簡単に「心理学史」とか「医学史」などと言うのに対して、フーコーは、そうした区画自体がじつは思ったほどに堅固でもなく、直線的な連続性もなく、むしろ、絶えざる切断や、忘却や、歪曲などにさらされていると言います。さらにフーコーは、そうした「知」がもたらす「知見」が、ある対象物と、それに対する分析と論証の結果である、というような、言葉による物の描写という見方も間違っていると言います。
こうしたありがちな「知」の見方に対して、フーコーは「言説 discours」という概念を提案します。その企てを、彼はこう簡潔に言い表しています。
「言説のうちでのみ粗描される諸対象の規則的な形成=編制 formation をもってすること。これらの<対象>を、<物の基礎>との照合なしに、しかし、それらを、言説の対象として形成=編制することを可能にし、かくしてそれらの歴史的出現の条件を構成する諸規則の総体に帰着させることによって明確化すること。言説の対象の歴史をつくること。」(フーコー『知の考古学』中村雄二郎訳p.75)

いろいろな発言(これをフーコーは「言表 énoncé」と呼びます)が集まってできる言説 discours は、一つのまとまった書物、一つのまとまった説教や演説、講演、あるいは一人の学者が書いた物や言ったことの記録全部に限ったものではなく、ありとあらゆる知的な「言表 énoncé」の総体も指しています。引用が示しているように、フーコーは、言葉による知的な営みの全部を考察できる概念を想定しています。また、言説discours は、現代の知識人たちが好んで使う、検証可能な理論などではないとも考えています。つまり、検証可能性、<対象>の<客観的な>分析、実験による<実証>とその再現可能性などを声高に謳う昨今のscience であっても、その言説 discours は、決して物そのものを扱っている、あるいは扱い得ているのではなくて、ひたすらに、言説 discours という総体の中でのあるタイプの formation を述べ立てているにすぎないと、こう言っているわけです。つまり、言説 discours という概念から眺めてみると、「知」というのは、言葉の内部での出来事でしかない。

この主張には、ぼくは個人的に実感があります。大学の教員をしているので、いくつかの学会に所属して、そこで学術論文を読んだり、学会発表を聞いたりという経験がかなりありますが、ぼくは、ひとつの専門分野に身を捧げるというよりは、さまざまな分野を経験してきたので、まずは体験的に、どこでもほとんど、ある専門の学術の場では、他の専門分野なら扱い方も考え方もまるで違うことを、ほぼ知らないか、あるいはちょっと気になっていても無視するかというスタンスでやりすごしているのです。フーコーが、言説 discours の総体の中に、「諸対象としての規則的な formation」が頑強に根づいていて、いわゆる<専門家>たちは、そこから出ようとしない、あるいはその中だけでやりくりをしようとしている、と述べていることが、手に取るようにわかります。この奇妙な態度、戦略的とか、政治的と名づけるのがふさわしい、かなり意図的ではないかと思われる排他的な態度、あるいは無知、あるいは無視(これらすべて、<保身>というのっぴきならない感情のなせる業なのでしょう)が、歴史上どんなものだったかは、フーコーの『狂気の歴史』に詳しく述べられています。
実体験からして。たとえば文学の研究者は、時折、宮沢賢治や、カフカや、プルーストのように、臨床医学的に見て興味を惹かれそうな作家を扱う際に、決してその作家たちを「臨床」が使いたがるような言説discours では分析しません。反面、臨床医学の専門家たちがこうした作家を扱う際には、ほとんどの場合、作家の作品はひたすら「臨床的な分析の資料」という言説 discours の中でしか、扱われることがありません。両者が歩み寄るような場面に遭遇するチャンスは、絶望的なまでに奇跡に近い出来事です。あるいはまた、両者の立場が両方ともふさわしくないのではないか、などという視点は、皆無と言っていいでしょう。それだけでもう、研究者が扱っている<対象>を、彼らがそれに即して考察しようとしているわけではなく、彼らが属している学会の伝統的な言説で、彼らが手にしている道具で、<対象>を処理しようとしている様が見えてきます。あるいは、同じ<対象 objet>を扱っているように見えて、じつはすでに、それぞれの立場から切り出してきているpositionner ものが違っている、と言ってもいいでしょう。
さらに、ある研究者、あるいはある研究分野が、英語文献を読むことに熱心な場合、その同じ研究者、あるいは同じ研究分野に関わる人たちが、他言語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語、スペイン語、イタリア語、ギリシア語、ラテン語など、英語以外の言語で書かれている文献や、そういった言語による言説discours を同等に扱っているということは、じつはかなり稀です。それどころか、「彼はフランス流だから」とか、「ああ、それはドイツの伝統でしょ、ぼくはイギリスが専門だから」とか言って憚らない学者が大多数。自分には読めない言語圏の学説には、まるで興味を持たないか、あるいは持ってはいても、自分の研究にはさほど影響がないと思えるか、なのでしょうか。自閉症スペクトラムの研究の先駆者であったアスペルガーの論文は、たまたま戦乱の最中にドイツ語で書かれていたために、英語に翻訳されることもなく、数十年間も埋もれたままになっていました。
ぼくはぼくなりに、ある程度の外国語は、興味があって理解したいという欲求のために四苦八苦しながら読むのが当然だと思っています。でも、これが、じつは当たり前のこととはとても言えないのが、少なくとも日本の学界の実情です。「知的」な探究心のこの中途半端さもまた、研究者はいわゆる<知的好奇心>とやらの、それ自体がなんであるか、(アリストテレスのように)知識人自らによって明言も概念化もされたことがない情動に動かされているわけでもないことがはっきりする点です。少なくとも、大多数の「学者」たちが、自分自身が巻き込まれている営みである「知」の歴史を振り返ろうという視点を持っていないようですし、結果的に彼らは直前の(大抵は大学時代とその折の指導教員の)習慣を引き継いでいるだけです。

フーコーに戻りましょう。「知」を考えるための、言説 discours という概念の提案は、まず、ある論文、書物、学説などに<真理価>があるかどうかという検討を棚上げにします。また、そうした「言表 énoncé」の集まりの<論理的整合性>も、言語分析による明確化も棚上げにします。その言表と、言表によって指示されている対象との間の照合も棚上げにします。さらに、その言表を行なっている個人の心性を推理することも棚上げにします。そして、ある論文、書物、学説の言表の塊が、どのような言説 discours の中で、いかなる特殊な formation を受けているかに着目します。その際、時系列も、〇〇学という分類も、伝統による境界も、時代による画期 époque も、もちろん言語の違いも、棚上げにされます。
こうして、種々雑多な言表の、ある程度の規則性があったり、まるでなかったりの寄せ集めからなる言説discours が、歴史の惰性によって区分けされてきたものとは別の姿で現れる可能性が出てくる。フーコーはその試みを、『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』『監獄の誕生』などで行いました。その絡まりともつれの様は、次の文章によく要約されていると思います。
「一個の言説——博物誌、経済学、臨床医学、などの言説のような——の実定性 positivité は、時間を通じてその統一性を特徴づける。しかも、個人的な諸作品、さまざまな書物やテキストの彼方で統一性を特徴づける。」(中村雄二郎訳p.194)
歴史上起こったことからして、たとえばニュートンは、彼が物理学の理論を打ち立てたから物理学者であったのではなく、それに(時間的にも、空間的にも)先駆けて、すでに「物理学」という言説 discours のなんらかの統一体があって、ニュートンはその中で言表を行なっていた、ということになります。なんだ、当たり前でしょそんなの、と思う方もいるかもしれません。たしかにぼくたちは、大学に入るときには、「物理学」なり「法学」なりの<専門分野>を選ぶのが慣習となっています。これに居心地の悪さを感じる人はいるでしょうけれど、これがおかしいと感じる人は、さほどいないでしょう。この習慣的で圧倒的な力を、フーコーは言説 discours の考察という観点から、明るみに引っ張り出したわけです。この力には、まさに「実定性positivité」があるとすら感じられます。それは実在物、物と名指すのが憚られるなら、実在の社会的な仕組みだと。「物理学」も、「法学」も、ちゃんと存在しているじゃないかと。しかしじつはそれは、言説discours 、さらにはこれを総体的に観察するための名称としての集蔵体 archives の中での、戦略的な駆け引き、忘却と偶然、いい加減さと極度の綿密さなどの結果にすぎない。

ぼくたちが通常知っている「知」の区分(臨床医学、実験心理学、経済学、経営学、哲学、思想史、物理学、化学などなど)が、どんな事情でそうなっているのかを、フーコーは『知の考古学』の中ではあまり頻繁には語りませんが、その数少ない記述は、注目に値すると思います。
「言説は、一つの富——完結し、限界を持ち、望ましく、役に立つ、——その出現の諸規則のみならず、適合と実現の諸条件をもつもの、として現れる。その富は、その存在以来(そして、単にその「実際的適用」においてばかりでなく)、力の問題を提起する。その富は、本性上、たたかいの、政治的闘争の対象でもある。(中村雄二郎訳p.185)
「富 richesse」「望ましい」「役に立つ」「実際的適用」「力」。客観科学という栄光とはちょっと違う響きを持った言葉が並びます。そして、言説 discours は、「富」、つまり持っているとそれなりの力が発揮できる何かであり、その「富」は「力」と関係していて、ついにはそれは、たたかいと政治的闘争の獲物であると、結ばれている文章です。
この文章の表題で、ぼくは、「知」が暴力の諸相のひとつだということをお知らせしていました。フーコーは、「知」の言説 discours という営みが、力の闘争の対象物であることを指摘しています。しかも、それは「本性上」だとまで言っています。単に観念的にではなく、先にもご紹介した学界の人々の奇妙な閉鎖性、他の分野との接触の排除あるいは欠如、それに、いわゆる知識人たちに見受けられる居丈高で傲慢な態度、時折報道にも現れる、金銭や地位や名誉に対する執着の強さなどを、日々肌で感じている身として、このフーコーの「言表」は、ぼくにはとても納得がいきます。
「知」に価値を置き、その「知」で武装しているということは、他者を排除するという行動とほぼ同意な場合がほとんどなのです。<有識者>や<学識経験者>が言うことはもっともらしい、という光景を、舞台裏から眺めてみてください。舞台裏から見える景色は、もっともらしい言葉で相手を説得すれば、自分は一歩彼らより抜きん出ることができる、という欲求です。残念なことに、学会における論文の審査もまた、誰が誰をより上手く言い負かすことができるか、という原理で動いているのが実情です。「知」という現場が、グールドが指摘した差別主義で成り立っているということは、言うまでもなく。
「知」をそうしたものとして、つまりぼくたちが慣れ親しんでいて、歴史を見てもどうやらありがたいもの、富、力に通じるもの、もう少し上品に言うなら、homo族の栄光をいやが上にも高める価値と感じているのは、じつは「知」と言われる何ものか(なんでしょう、それは、science なんでしょうか、ぼくにははっきりわかりませんが、大学、学術機関、教育機関、知識人、有識者などの仕組みからして、大多数の人にとっては positif 実定的、実在的、そして有益有用なもののようです)の<中身>ではなく、その言説 discours と、その総体である集蔵体 archives をそれたらしめている、何か他の要因なのです。
「言説はその欲望、被った影響、生活の諸条件などの矛盾によって、内部から永遠に掘り進められている」(中村雄二郎訳p.227)
先ほども言いましたが、フーコーは言説の運動の背後をあまり語りません。でも、いま引用した部分でお分かりのように、やはり彼も、言説が、したがって「知」が、欲望や生活の諸条件によって変化し続けている動態だということは指摘しています。「知」はやはり、真理を求めるいとも気高い(とはいえやはり)欲求ではなく、どうやら、他人に抜きん出るという欲求を満たすための道具である面が強い。歴史を振り返ってみても、ごく小さな有機体に世界中が振り回され続けている現状を見ても、フーコーを読んでみても、そう思わざるを得ません。

ぼくが奇妙に感じるのは、ここまで「知」と、それを運ぶ便利な装置としての言説 discours の formation が、政治的欲望、暴力性、他者に対する示威などに「永遠に掘り進められている」と言いながらも、その言説をめぐる人間の心性をテーマとすることを、フーコーが生涯を通して頑なに拒み続けたことです。ぼくはずっと、社会の考察にとっていかに感情や情動が重要かということをお話しし続けてきましたし、学術界でも、情動論的転回 affective turn が流行しています。ヒトという生物を眺めるのに、心のあり方が決定的な要因だという確信が、ぼくにはありますが、なぜかフーコーはそちらへ向かう考察を退けています。これは構造主義論争が華やかだった頃の、フーコーなりの時事的な対処だったのだという見方もあるかもしれませんが、このことについて、ぼくなりに感じていることがあるので、最後にそれをお話しさせてください。

フーコーもまた、集蔵体 archives に加わる言表をあやつるという職業に就いていました。これには決定的な意味がありそうです。彼の著作に特徴的な難解さ、定義もしないでいきなり意味不明の造語を使いまくり、ずいぶん後になってからその言葉を解説し出したり、奇妙な一人称複数形を操って理解が困難な文を書いたり、誰に当てたのかも判然としない二人称が突然現れたり。衒学と呼ばれても仕方のない書きっぷりです。フーコーがニーチェとハイデガーに私淑していたということは先ほどお話ししましたが、この2人もまた、お世辞にもわかりやすいとは言えない文章を書いています。
ぼくが強く感じるのは、言説という概念を持ち出して、「知」という営みをある程度突き放した視点から観察できる足場を組みながらも、やはりフーコーは、「哲学」という独特で特殊な言説 discours の formation の内部で生きるという桎梏から逃れられなかった、あるいは逃れる気がなかった、ということなのではないかという点です。高度な専門家だけが理解できそうな文章を臆面もなく書くというのは、たとえば物理学者の世界では当たり前ですが、フーコーの打ち立てた概念は、そうした風習そのものを、その「富」や「役に立つ」性からは離れて、描き出すことができうるものなはずです。しかし彼はそうしなかった。結局彼は、彼にとってとても居心地がいい、哲学という言説の formation を自らの棲家にしてしまって、そこに閉じこもってしまったように感じられます。つまり、彼自身の言表が、彼が持ち出した概念を裏切ってしまった。
もしぼくのこの「感じ」に、それなりに真実味があるとすれば、20世紀の後半に、これほどの影響力と起爆力を持った考えを提案したフーコーが、よりによって暴力性に裏打ちされた二人の哲学者を熱心に読んでいたということが、どことなく納得できる感じがします。『狂気の歴史』の中で、サドに繰り返し言及するフーコーに感じたのと同じ、なんとも言えない違和感があります。そのどちらにも、フーコーを動かしていたかもしれない、暴力につながる欲求を強く感じとりますし、いったいそれが彼にとってなんだったのか、彼は彼としてどこに行きたかったのか、察してみたい気持ちになります。ぼく自身、おそらく「知」というものをいじくり回す職業に就いていますから、自分の中に巣食っているかもしれない「知」の暴力性を、しっかりと感じ取っていなければ、と思います。

補遺

同じような、読む人のことをほぼ考えていない、じつに凶暴と言ってもいいくらいの文章を書いていたドゥルーズとガタリを、フーコーは評価していたようです。フランス哲学界の formation の強さ、根深さを感じさせます。ドゥルーズとガタリのあまりにもやりたい放題の文章のせいで、ぼくはまだこの二人のénoncé をとても満足に感じ取れているとは言い難いのですが、彼らが目論んでいただろうことについて、特に彼らの『アンチ・オイディプス』には、いずれ少し触れてみたいと思っています。

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