見出し画像

あなたにとっての安心と安定。変化する人生を楽しむ。

自分にとっての安心感のある場所。人は誰しも安心と安定を求めて生きている。とはいっても、日本に住んでいる大半の人たちは生まれたときからすでに両方を手にしているだろう。私たちは生まれたと同時に母親の愛情という安心感を享受し、命を危険に晒すこともなく、毎日衣食住が満たされた安定した生活を送りながら大人へと成長していく。

しかし、不思議なことに多くの人たちは成長するにつれて、安心と安定を手放してしまうことになる。いや、正確に言うと「いつの間にか失っていた」が正しいのかもしれない。自分の周りにいる大人たちを見てみればそれがわかるだろう。本来なら子どもから大人へと成長してより自由になっていくはずが、大人になって社会へと羽ばたいていったがゆえに、不自由な人生を送っている人がどれだけ多いことか。

もちろん、社会人になって自分でお金を稼ぎ、子どもの頃にはできなかったことや欲しかったもの、やりたかったことを思う存分やって楽しみながら生きている人もいる。でもそれはほんの一部だ。大多数の大人たちは子どもの頃に持っていたもののほとんどを手放し、常に持っていなくちゃいけない大事なものまでも見失ってしまっている。

安心や安定を求める気持ちは人間の中でも比較的強い部類の欲求だ。食欲や睡眠欲、性欲といった生理的欲求が満たされた後に湧いてくるのが、安定や安定を求める欲求である。誰だって毎日命の危険を感じながら生きたいとは思わないだろうし、来月の生活費で悩みながら暮らしたいとは思わない。人はみな居住の安心と収入の安定を求めながら生活しているのだ。

しかし、人生とはとても残酷である。あなたの安定と安定を求める欲求なんて運命はこれっぽっちも気にしちゃいない。あなたが借金まみれで寝る場所はおろか食べるものすら買えない環境にあったとしても、運命の女神は助けてはくれないのだ。人生はすべて自分でどうにかするしかない。どれだけ不安定で不確実な世の中で生きようと、私たちは生き抜かなければならないのだ。

だが、そもそも人生に安定や安心など存在するのだろうか?赤ちゃんのときは無条件に誰もが安心と安定を享受してはいたが、大人になって自立した人間の人生において、安定と安心などというユートピア的な状態がはたして存在するのだろうか。

結論から言うと、大人に安心や安定なんてものは存在しない。それは大人であるがゆえに、誰もが安心と安定を享受できる状態にはならないからだ。というのも、子どもと大人の欲求は異なり、一般的な大人が望む欲求が叶う世界はどこにも存在しない。これは本人の安定と安心の定義にもよるが、少なくとも、多くの大人たちが望む安心と安定は一生かけても手に入らないものである。

あなたが求めている安心とはいったいどういったものだろうか。家族や親戚、友達や恋人、同僚や気の合う人たちと過ごす時間。ストレスを感じずに心の休まるまま落ち着ける場所。そういったものが安心だと思っている人は多い。一方、クビになったり倒産したりする可能性が低い会社に勤めること、いつまでも仲良く一緒にいられる人たちと時間を過ごすこと、毎日代わり映えのない日々を送ることを安定だと感じている人も多い。

しかし、人生は諸行無常であり、万物は流転していくものであり、世の中には変わらないものは何一つ存在しない。自分も含めすべては変わりゆく運命にあり、変化こそ人生である。そうした中で安心と安定をずっと享受し続けるのは不可能だ。私たちが実感できるのは一時の安心と安定だけであり、ずっと安心と安定の状態にあるのは人生ではない。

つまり、私たちは常に不安定かつ不確実な世界で生きているのだ。どこまでいってもこの事実は変わらない。そうであれば、必要以上に安心と安定を求めるのは不合理であることに気づく。幸せと同じように、安心と安定も求めれば求めるほど遠ざかっていくものなのである。

人間の性質的に安定と安心を求めるのは仕方がない。こればっかりは生まれ持った性質なのだから、あなたが人間でありたいのであれば否定するべきものではない。でも、だからといって必要以上に求めるのも良くない。欲求や欲望は得てして、求めるすぎることで身を滅ぼすようにできているからだ。

安心と安定を求めながらロボットのような平々凡々な毎日を送るか。それとも、予想外の出来事に胸を躍らせながら、刺激と変化にまみれた人生を前向きに楽しむか。私たちが暮らす不条理な現実世界は、あなたの心意気によって天国や地獄にも変化する。欲求は、求めすぎることで人間を生ある生き物ではなく、失う恐怖にまみれた屍人へと変えてしまう。昔からの教訓のとおり、何事もほどほどが一番なのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?