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限りある景色の中で

ある晴れた平日の午後、娘と2人で小田急線に乗り、ガラガラの車内で座って外の景色を眺めていた。娘はその頃ちょうど、生死についてのなんとなくの概念を得ている最中だったようで、生きることと死ぬことについてよく聞いてくるようになっていた。

私は幼い頃から、死ぬのが、怖い。幼い頃の記憶をほとんど残していない私が、曽祖母の葬式から火葬場、納骨まで参加したことを未だ容易に思い出す事ができる。死ぬことは不可逆なんだ、みんな平等なんだと初めてまざまざと感じた時間だった。
それに、無鉄砲な子供だったので危険なことをしでかしては「そんなことしたら死ぬぞ!」とよく大人たちに叱られていた。きっと、その頃から、知らず知らずのうちに何層にもなって植え付けられた恐怖なんだろう。だから、自分の子供には死への過剰な恐怖を感じさせないようにしようと中学生の頃から心に決めていた。

娘は意味がわかっているのかよくわからないけど、車窓を眺めながら「死にたくないから、生まれなきゃ良かったよねぇ〜」といつものニコニコした笑顔で無邪気に言い放った。「納豆ご飯食べたいなぁ〜」と同じくらいの感じで。
私はギクッとした。

子供を産んで、その子がある程度大きくなるとよく聞かれる「2人目は?」「きょうだいは作らないの?」という定番の質問がある。だいたいの人は別に真剣に聞いているわけではなく、ただの世間話の延長線上にある質問として聞いている(たまによく知らない人にきょうだいの良さや一人っ子の欠点を熱弁されることもあるけれど)。
でも、もう子供をもつことを積極的に考えていない人にとってはまあまあ嫌な質問で、『おお〜それ来たか〜』といつも思っていた。最近では『おっ、このタイミングでくるか?』と予測すら出来るようになった。それくらいよくぶつけられる質問で、ずっと苦手なのには変わりない。

なぜ苦手か。それは本当のことが言えないからというのが大きな理由だ。話したとて、こんな理由言ったら、みんな引いちゃうんだもん。考え過ぎだと一蹴されたことだってある。
それに、それを隠そうとどんなに適当な理由をつけたとしても、大して親しくもない相手に『持っていないこと』を晒す必要がある。まぁそのうちなんてかわしても、ちっぽけな悲壮感が漂うだけでほぼ高確率で『持っていること』を見せつけられて終わるだけなのを知っている。

私は死ぬことが嫌だ。まだまだやりたい事が沢山あるし、見たい景色が沢山ある。リストだって作っている(勿論、ミクシィにだ)。
スカイダイビングをしてみたいし、オーロラだって見たい。光り輝く無数の星たちを眺めて、流れ星が近くに落ちたらそれを拾いに行きたい。一緒にそれらを体験したいと思う人だっている。

死ぬときに、生まれて良かったと思うかもしれない。でも、まだ死にたくないって思うかもしれない。それは、その時にならないとわからない。ただ絶対に言えることは、生きることは、死と共に歩む必要があるということ。
だから、もう、生まないのだ。だって私、本当は死にたくないんだもん。


これが世間話に対する私の答えで、ここを克服しない限り、新しい命を望んでこの世に届けることはないと思うし、たとえ克服したって、その頃にはもう生殖能力は残っていないだろう。

娘の放った言葉はまさに私の本質だった。別に生きることが辛いのではない。脳みその中まで躍っちゃうくらい胸が弾むことや、生きていて良かったと心のひだが震える瞬間はこれまでも沢山あった。それに、きっと、これからもそう感じる時間が未来には沢山転がっているんだと思う。でも、だからこそ、出てくる考えなのだ。

無邪気な5歳児に、私は「あなたと会いたかったから生まれて良かったよ。あなたも生まれてきてくれてありがとう」としか言えなかった。私はそれをいつもの調子で、やさしく、少し冗談ぽく返すのに必死で、娘の反応がどうだったかなんて観察する余裕すらなかった。
そしてなぜか電車の中でわんわん泣きたくなった。
この答えが正しかったのか、間違っていたのか、はたまた正解があるのか分からない。でも、これが、あの日小田急線の車内にいた私の出せる素直な答えだったし、今でも、いくら考えてもこれ以上の返事はできないのである。

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