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その手を伸ばして

旅行はとても楽しい。見慣れないものに対する好奇心でこころのなかがいっぱいになるからだ。特に海外旅行はそうだ。異国のお菓子のパッケージや看板、道端のベンチにいるただのおじさんでさえも、何やら新鮮で、ついつい感動し、ワクワクしてしまう。それは『旅人の視点』というものだ。こころのアンテナが常に張り巡っていて、魅力を感じるものを赴くままにキャッチできる。この視点を持つことで得られるこころの機微のために、わたしは旅行を欲しているのかもしれない。

自由に旅行をすることが難しくなってしまい、非日常を経験する機会がめっきり減ってしまった。GoToキャンペーンも始まったが、わたしの住む東京都はまだ対象外だ。非日常を体験したい気持ちがついにピークになり、都内のホテルに家族で1泊した。いつもと少し違えばいいや、という淡い期待を抱いて。

東京に住みながら東京のホテルに泊まるチャンスはなかなかないので、思いきって、いつか泊まってみたかった、普段はなかなか泊まれないであろうホテルを選んだ。ホテル業界も厳しいのか、通常よりもとても安くで泊まることができたからだ。

部屋から見える浜離宮と、ゆりかもめやモノレールに首都高。海の向こうにはお台場が広がっていて、晴海地区や新市場のある豊洲もちらり見える。足下には更地になった旧築地市場が広がっていた。ひとつの窓のなかに、江戸時代からこれまでの歴史が存分に詰まっている。浜離宮は何のために造られたのか。そしてわたしが今いるこの場所には元々何があったのか。首都高がゆるやかにカーブしているのは浜離宮を避けるためなのか。首都高とモノレールとゆりかもめはどういう順番で出来上がったのだろうか。気が付くと、窓の前にイスを並べ、気になることを片っ端からスマホでGoogle検索にかけて、街の成り立ちについて調べていた。都内にいながら、旅人の視点が急にふっと降りてきたのだ。
とても、とてもよい裏切りだった。

旅行のたのしさは、旅人の視点から得られる心のひだの震えにある。日常にもその視点を落とし込めたら、毎日がとてもたのしく、新鮮になるのかもしれない。見慣れた街の風景も、娘がわたしを呼ぶ「ママ」の声も、実は毎日違っているのかもしれない。いつも同じものだとおもうのかそうじゃないかで、見てこなかった景色が顔を出していくのかもしれない。なぜ、今まで、それができなかったのだろう。視点が生まれたとしても、とても儚く、すぐに摘み取られてしまうような、小さいものだったのだろう。
きっとそれは、日常の扱いの雑さに凝縮されているような気がした。そしてその雑さは、自分自身に対する雑さが根本にあるような気がしている。自分自身を心から愛すること、細かく小さいことでもいいので、自分で自分を褒める作業こそが日常に旅人の視点を存在させる第一歩なのかもしれない。大きな大きなコンラッド東京の窓の前で、そんなことを考えていた。

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