【図解】[歴史]001 エーゲ文明・ギリシア文明・ヘレニズム時代
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ヨーロッパの文化の源流は、地中海のギリシア文明にあります。
1.エーゲ文明
その前に、エーゲ海で、エーゲ文明が栄えました。
(1)クレタ文明
最も古いのが、エーゲ海に浮かぶクレタ島のクレタ文明で、紀元前2000年から1400年頃栄えました。
中心地のクノッソスでは、クノッソス宮殿跡が発掘されています。
この遺跡には城壁がなく、壁画には、イルカなどの海の生き物たちが写実的に描かれていました。城壁がないことからも、平和で明るい、海洋文明であった、と言われています。
クレタ文明は、紀元前14世紀には滅亡しました。南下してきたギリシア人の一派のアカイア人に滅ぼされた、とも言われています。
(2)ミケーネ文明
その滅亡と前後して、紀元前1600年頃、アカイア人がギリシアのペロポネソス半島にミケーネ文明を作りました。
中心はミケーネとティリンスという町で、20世紀にドイツのシュリーマンが、ミケーネの遺跡を発見しました。
その遺跡には城壁があり、クレタ文明とは対象的に、好戦的・軍事的な文明であった、と見られています。
ミケーネは、クレタ島や、エーゲ海を渡った現在のトルコ西岸の小アジアにあったトロイアまで勢力を伸ばしました。トロイアはギリシア神話の「トロイの木馬」の舞台となった文明で、シュリーマンの遺跡発見により実在したことが証明されました。
ミケーネ文明は紀元前1200年頃滅びてしまいますが、その原因は、ギリシア人の一派のドーリア人が滅ぼしたという説や、紀元前13世紀末から12世紀はじめに地中海を席巻していた「海の民」という謎の少数民族集団に滅ぼされたという説などがあり、詳しくは分かっていません。
(3)謎の「暗黒時代」
その後、地中海地域は、ドーリア人や海の民の侵入などで混乱し、史料が乏しくてよく分からない「暗黒時代」が400年ほど続きます。
2.ギリシア文明
(1)ポリスの形成
ドーリア人、イオニア人、アイオリス人などを総称して、ギリシア人といいます。彼らが紀元前2000年頃に、バルカン半島を南下してきて、定住し始めました。
「暗黒時代」が終わりに差し掛かる紀元前8世紀頃、ギリシア本土や小アジアのイオニア地方の各地に、有力者を中心に集まって住む様になり、「ポリス」と呼ばれる小さな都市国家を築いていきました。
ポリスは、「アクロポリス」と呼ばれる小高い丘の麓に、人々が集まって住む「集住」をして、形成されました。
アクロポリスの頂上には神殿が建てられました。アテネの「パルテノン神殿」が有名ですね。
この神殿は住民たちの信仰上の中心であるとともに、戦争など緊急時の避難や籠城する場所ともなりました。彼らの生活の中心は、アクロポリスの麓にある、「アゴラ」と呼ばれる公共広場でした。
アゴラでは、交易や集会、裁判などが行われました。
各ポリスは対立することが多かったのですが、同時にギリシア人としての民族意識もあり、自らを「ヘレネス」、異民族を「聞き苦しい言葉を話す者」という意味の「バルバロイ」と呼んで区別していました。
この「バルバロイ」は野蛮人を表す「バーバリアン」の語源になっています。
ヘレネスは別々のポリスに分かれていても、同じオリンポス12神を信仰し、政治や外交の重要事項の決定の際には、デルフォイというポリスの神殿に出向いて、祀られているアポロン神にその是非を問う「デルフォイの神託」を行っていました。また、4年に1度オリンピアというポリスに集まって、様々な競技の祭典「オリンピア」を開催していました。
この祭典はゼウス神に捧げる宗教行事として行うとても重要なものであり、各ポリスはたとえ戦争を行っている時でも休戦して「オリンピア」に参加していました。女人禁制で男性のみが集まって行いました。
ギリシアには山が多く、穀物を栽培できるような広大な土地がなく、雨もあまり降らなかったため、オリーブやぶどうなどを栽培していました。それらを加工して、エジプトなど穀物が豊富に取れる地域と、船を使った交易を行っていました。
農業と貿易が発達し人口が増えてくると、人々は土地を求めて地中海沿岸に植民活動を行い、各地に植民市を建設するようになりました。
主な植民市としては、現在のイスタンブルであるビザンティオン、現在のナポリであるネアポリス、現在のマルセイユであるマッサリアなどがあります。
当時のポリス社会はどのようなものだったのでしょうか。
ポリスを形成する際に中心となった有力者は、のちに貴族となり、平民、奴隷という身分階層ができます。ポリスの市民としての資格を持つのは、貴族と平民です。
一般の市民も奴隷を所有しており、農作業などをさせていました。奴隷と外国人には市民権がありませんでした。
ポリス形成当初は、貴族が政治の中心でしたが、のちに、平民たちを含めた、直接民主政を確立していきます。
(2)アテネ
ポリスがどんな仕組みで運営されていたのかを知るために、典型的な「アテネ」というポリスと、例外的な「スパルタ」というポリスについてお話します。
まずは、典型的なポリス社会を形成していた、アテネです。
前800年頃、イオニア人のポリスの一つであるアテネでは、貴族政治が行われていました。やがて海外貿易が盛んになり貨幣経済が広まっていくと、平民の中にも財産を蓄える者たちが現れました。
当時、ポリス間の争いに参加するのは騎兵として戦う貴族だけでした。ギリシア人にとってポリスを守るために戦うことは名誉なことでもあったのです。そこで、富を蓄えた平民たちは自分たちで武器を調達し、「重装歩兵」として戦いに参戦するようになりました。
重装歩兵は、青銅でできた兜、鎧、すね当て、盾と、先が鉄でできた長槍で武装します。そして、一列8人が8列で隊列(「ファランクス」)を組んで、長槍を前に突き出して、密集して敵陣に突っ込んでいきます。
戦闘が貴族の騎兵から重装歩兵に比重が移っていくと、戦闘に参加した富裕市民たちは、「自分たちもポリスを守ったのだから政治に参加させてくれ」、と参政権を要求するようになり、貴族たちの独占政治に対する平民たちの不満が高まります。
貴族たちにとっては、重装歩兵である富裕市民たちは貴重な戦力ですが、政治の独占は保ちたいと考えます。
そこで、富裕市民たちの不満を抑えるため、前621年、ドラコンという人が、それまで貴族同士の慣習として定められていた法律を成文化(「ドラコンの立法」)して、平民たちに公開しました。
平民たちはその成文法に従っていれば、貴族からの不当な扱いを避けられるようになり、地位が向上しました。
次に、前594年、ソロンという人が改革を行い、「財産政治」と呼ばれるものを実施しました。それは、平民たちを財産に応じて4つの等級に分け、参政権と兵役義務を与えるものでした。つまり、身分ではなく財産が政治参加の条件になったということです。
しかし、これだけでは、財産を持たない平民たちは不満を持ったままです。そこで、それら平民たちに対しては借金を帳消しにし、また借金のために奴隷となっていた債務奴隷を救済しました。
貧乏な平民たちにとっては、富を蓄えれば政治に参加できるようになったり、借金がチャラになったのは嬉しいことでしたが、まだまだ圧倒的に政治に参加できない貧困層の平民が大多数を占め、不満はさらに高まります。
そんな平民たちの不満を聞いて、「それなら、貴族たちから力づくで政治権力を、奪ってしまえばいい」、という者が現れました。
それがペイシストラトスという人で、彼は貴族層から非合法的に権力を奪い、紀元前561年から528年の間、独裁政治を行いました。
これを「僭主政治」といいます。「僭主」とは、正当な形を取らずに、権力を握った君主を意味します。
ただし、独裁政治と言っても、ペイシストラトス自身は、貧しい平民に対し、亡命した貴族の土地や財産を分配したり、中小農民を保護するなど、経済的に助ける政治を行いました。
ペイシストラトスの死後、息子が後を継ぎますが追放され、その後は「悪い独裁」を行う僭主が続きます。そんな状況の中、一人の男が改革に立ち上がりました。
紀元前508年に、改革に乗り出したのが、クレイステネスです。
クレイステネスは、従来の貴族たちの、血縁による、4部族制度を廃止して、デーモスと呼ばれる、地縁による地域割りの、10部族制に編成し直しました。
そして、10部族から、くじで各50人を選出し、計500人での五百人評議会を設置して、アテネの民主政の基礎を築きました。
また、僭主のような者が、現れないように、市民たちが、「あいつは将来独裁者になりそうな、危険な奴だ」、と思う者の名前を、割れた陶器のかけら(「陶片」)に刻んで、投票し、得票の多い人物を10年間、追放する、「陶片追放」、という制度を定めました。
このようにして、いくつかの改革を経て、アテネの民主政が、確立されていきましたが、まだ政治に参加できるのは貴族と富裕市民たちだけでした。
その後、資産を持たない市民たちも政治に参加できるようになるのは、紀元前5世紀前半の、ペルシア戦争を経てからでした。
(3)ペルシア戦争
当時ギリシアの東で巨大な勢力を誇っていたのが、アケメネス朝ペルシアでした。
紀元前500年、アケメネス朝ペルシアが支配する小アジアのイオニア地方にあったミレトスというポリスが、アケメネス朝に対し反乱を起こしました。
反乱自体はすぐに鎮圧されてしまいますが、その反乱をアテネが支援していたため、それに怒ったペルシアのダレイオス一世がギリシア本土に軍隊を派遣し、紀元前449年まで続くペルシア戦争が始まりました。
といってもこの間ずっと戦争をしていたわけではなく、断続的にいくつかの戦いがありました。
最初の大きな戦いが、紀元前490年の「マラトンの戦い」です。
マラトンは、アテネの北東に、約30km離れた、海岸沿いの村です。そこにペルシアの大軍勢が上陸してきました。
対するアテネは、少数ながら強い結束を誇る市民たちによる、重装歩兵で、立ち向かいます。
ペルシア軍は、アテネの、重装歩兵の突進による戦術に混乱し、大きな被害を出して海上へ逃げ、アテネ軍は撃退に成功します。
海に逃げたペルシア軍は、アテネ市街に攻め込もうと、半島を回り込みますが、アテネ軍は、アテネ市が無防備なことに気づき、重装備のまま約30kmを走破して、なんとかペルシア軍より先にアテネ市街に戻り、海岸に布陣すると、それを見たペルシア軍は、諦めて退却していきました。
マラトンの戦いから10年後の紀元前480年、「サラミスの海戦」が行われました。この海戦で活躍したのが、武器を持たない、貧乏な無産市民達でした。
当時の軍船は、船の先に衝角という突起を付け、それを船同士がぶつけ合って相手を沈めるという戦法でした。
船は櫂の漕ぎ手を3段に配置する「三段櫂船」というものでした。一つの船に180人の漕ぎ手が必要だった、といいます。
200隻とも300隻とも言われる軍船の漕ぎ手となったのが、それまで武器が買えず戦争に参加できずにいた無産市民でした。
「自分たちの手でアテネを守るんだ!」という無産市民たちの士気は高く、それに対してペルシア軍の漕ぎ手は士気の低い奴隷たちでした。
またアテネ軍は、海流や暗礁の位置を熟知しているサラミス湾にペルシア軍を誘い込み、地の利を活かして戦って見事、勝利しました。
そして、紀元前479年、アテネ・スパルタの連合軍が、ペルシアの陸軍を「プラタイアの戦い」で破り、ギリシアの勝利が事実上確定し、紀元前449年、カリアスの和約が成立して、ペルシア戦争はようやく終結しました。
アテネでは、サラミスの海戦で漕ぎ手として活躍した無産市民たちが参政権を要求して認められました。
こうしてアテネでは、全ての市民に参政権が与えられることとなりました。
ただし、ここで言う「参政権を持つ市民」には女性や子供、奴隷や外国人は、含まれませんでした。
農業などの労働は、奴隷たちにやらせ、暇な市民達だけがアゴラといわれる公共広場に集まって政治を行うという、いわば、奴隷制度に支えられた民主政、というわけです。
ペルシア戦争後、紀元前443年から429年の、将軍ペリクレスの時代に、アテネの、民主政が完成します。政治の最高議決機関となったのが「民会」です。
現在の民主主義に見られる代議制ではなく、18歳以上の成人男性市民なら、誰でも参加できる「直接民主政」でした。民会は1年に40回ほど開かれました。
当時、アテネで参政権を持つ市民は、約4万人ほどいましたが、実際の参加者は、6千人くらいだったようです。
役人は、市民の中から、抽選で選ばれました。現在なら、突然くじにあたった素人が行政を担う、なんて考えられませんが、当時はまだ、それほど複雑な行政社会ではなかったため、このような直接民主政が成立したのです。
ただし、公職の中でも、将軍だけはさすがに、素人の市民に任せることはできず、選挙で選ばれました。
ペリクレスは将軍職に、15年連続して選ばれ、政治を指導しました。ペリクレス時代は、アテネの全盛期でもあり、数あるポリスたちのリーダーとなりました。
ペルシア戦争で勝利したものの、いつまたペルシア軍が攻めてくるか分かりません。そのため、ポリスたちは、アテネを中心に「デロス同盟」と呼ばれる軍事同盟を結成しました。
同盟を通じて、アテネは、全ギリシアを率いる、盟主となっていきました。
(4)スパルタ
これまでにも何度かその名前が出てきた「スパルタ」は、アテネなどの民主政が発達したポリスたちとは異なる、特殊な国の制度を持っていました。
スパルタの人民は、3つの身分に分かれていました。
支配層は、市民身分であるスパルタ人で、その下に、農業や商工業に従事する「ペリオイコイ」と呼ばれる人たちがいました。
彼らには兵役の義務はありましたが、政治には参加できませんでした。
最も下の層が「ヘイロータイ」と呼ばれる農民奴隷で、スパルタ市郊外の農村に住んでいました。
アテネでは、市民が18万人で、奴隷は11万人だったのに対し、スパルタでは、市民2万5千人に対し、奴隷はなんと20万人で、圧倒的に奴隷の方が多かったのです。
8倍もの人数のヘイロータイを支配するために、スパルタ人が取った方法はなんと、「一人ひとりがめっちゃ強くなる」、でした。
そのため、スパルタでは、男子は7歳で親元を離れ、合宿所に入り、ひたすら肉体を鍛え、軍事訓練を繰り返すのです。厳しい子育てを行う「スパルタ教育」という言葉の由来ですね。
成人して軍事に携わるようになると、将軍の管理の下、兵舎に集まり共同で食事を取り、政治談義に加わりました。
妻をめとっても、夜には兵舎に戻る生活でした。
女性も、健康な子供を産むために、体を鍛えることが奨励されました。
スパルタの政治体制としては、2人の世襲の王が並立していましたが、その権限は戦争時における軍の指揮権など限定的でした。
「長老会」というものがあり、兵役免除に達した60歳以上の中から、全市民参加の民会で選出された28名に、2人の王を加えた、30名で構成されていました。
「長老会」は、民会の決定に対して拒否権を持っており、事実上の最高決定機関でした。
また、30歳以上の市民の中から、毎年5人の「エフォロイ」という公職が民会で選ばれ、王を含む全市民に対して、監督権と司法権を保持し、政治を行いました。
(5)ポリスの対立とギリシアの衰退
ペルシア軍の再来に備えて、ポリスたちはアテネを中心に「デロス同盟」と呼ばれる軍事同盟を結成しました。
アテネは「デロス同盟」の盟主となりましたが、同盟のポリスに対し自分たちの政治のやり方を強制するなど、自分勝手で高圧的に振る舞うようになっていきました。
また、各ポリスから集めた同盟としての資金をパルテノン神殿の建設費に流用するなどしたため、次第に他のポリスから反感を買うようになりました。
そんなアテネに対抗して別の同盟を組織したのがスパルタです。
スパルタを盟主として「ペロポネソス同盟」を結成しました。「ペロポネソス」とは、スパルタがあった半島の名前です。
紀元前431年、同盟に加盟しているポリス同士の争いをきっかけに、アテネとスパルタが、ギリシアの覇権をかけて、激突しました。
紀元前404年まで続く、「ペロポネソス戦争」の始まりです。
ペロポネソス戦争の間、アテネでは疫病が流行り、将軍ペリクレスも病死してしまいます。それでも戦争は終わりません。
30年近く続いた戦いで、果樹農場は荒れ果て、ポリス社会は荒廃していきます。
ペリクレス死後のアテネの指導者は、膠着する戦争に苛立つ市民たちに対し調子のいいことを言って人気取りする「扇動政治家(デマゴーグ)」と言われる人たちがでてくるようになり、民主政はすっかり堕落し「衆愚政」という状態に陥ります。
戦争の終結を願う富裕市民たちに対して、軍船の漕ぎ手や歩兵として日当がもらえる貧しい市民たちは戦争の継続を望むなど、市民たちの政治姿勢もバラバラになっていきます。
最終的に戦争はスパルタの勝利に終わり、一旦スパルタがギリシアの覇権を握りますが、そこに第三の勢力、テーベというポリスが台頭し、前371年にレウクトラの戦いでスパルタ軍を破り覇権を奪います。
やがてそのテーベも凋落し、ギリシア全体が衰退していきます。
3.アレクサンダー大王の帝国<ヘレニズム時代>
ギリシアがポリス同士の対立で混乱している様子を北方から虎視眈々と狙っていたのが、フィリッポス2世率いるマケドニアでした。
マケドニア人は、ギリシア人の一派でしたが、ポリスを形成せず、王と貴族による支配が行われ、言葉も多少違っていたため、民主政を行うアテネなどギリシア文化の中心の人々からはバルバロイとして蔑視されていました。
フィリッポス2世は、青年時代にテーベにいたことがあり、ギリシアの重装歩兵の強さを知っていました。そのため、貴族の騎兵中心だった軍に農民の重装歩兵を導入して改革を行い権力を強化しました。
そして、紀元前338年、カイロネイアの戦いで、アテネ・テーベ連合軍を破ります。
その後スパルタ以外の全ポリスを集めて「コリントス同盟」を結成し、その盟主としてギリシア世界を支配下におさめました。
しかし、フィリッポス2世は紀元前336年に暗殺されてしまいました。
すると、各地のポリスで独立反乱が起こってしまいます。
フィリッポス2世の若干20歳の息子であるアレクサンドロスが王位を継ぎました。アレクサンドロスはすぐさま軍を掌握すると、全ギリシアを制圧しその政治手腕を示しました。
全ギリシアの盟主となったアレクサンドロスは、対ペルシア戦最高司令官となって、前334年、長い長い東方遠征に乗り出します。
まずメソポタミア地方の入り口にあたるイッソスでペルシア軍と激突すると、重装歩兵に騎馬隊を組み合わせた機動力のある戦術でペルシア軍を破ります。
勝ったアレクサンドロスは、南に進み、ギリシアの海上貿易の競合だったフェニキア人の都市ティルスを攻略します。
その後さらに南下し、エジプトに入ると、エジプトではペルシアの支配への抵抗が強まっていたため、アレクサンドロスは解放者として迎えられました。
再びメソポタミアに軍を進めたアレクサンドロスは、アルベラの戦いでペルシアの大軍勢を見事破り、アケメネス朝ペルシアは事実上滅亡しました。
アレクサンドロスは、その後敵対する勢力を破りながら東へ進み、ペルシア領だった地域を制圧し、大帝国を築き上げました。
そしてついに前326年にはインダス川を渡りインドに侵入しますが、8年にも渡る東方遠征に兵士たちは疲れ果て、それ以上の前進を拒んだため、遠征軍は帰途につきました。
しかし、祖国マケドニアに帰り着く前に、アレクサンドロスはバビロンで32歳の若さで急死してしまいました。
アレクサンドロスは、新たに征服した領土に彼の名前を冠した「アレクサンドリア」という都市を70以上も建設しました。
その中でも最も繁栄したのが、エジプトのナイル河口に築いたアレクサンドリアです。各地のアレクサンドリアに住んだのはギリシア人です。
アレクサンドロスは征服したペルシア領土の文化や体制を維持し、ギリシア文明とオリエント文明の融合をめざしました。
アレクサンドロスの死後、後継者問題が起きました。彼には子供がいなかったため、マケドニア人の有力な将軍たちによる後継者争いの戦争が起こり、その結果、広大なアレクサンドリアの帝国は、マケドニア及びギリシアの「アンティゴノス朝マケドニア」、旧ペルシア領の「セレウコス朝シリア」、エジプトの「プトレマイオス朝エジプト」の3つに分裂しました。
一番領土が広いセレウコス朝シリアは、遠方の中央アジアまで治めきれず、紀元前255年頃、中央アジアのギリシア人総督が「バクトリア」を建国しました。
さらに今のイランにあたる地域でペルシア人が紀元前248年頃に「パルティア」を建国しました。
アレクサンドロスの帝国の流れを汲む国々は「ヘレニズム諸国」と呼ばれ、東方遠征から最後のヘレニズム国家であるプトレマイオス朝エジプトがローマによって滅ぼされるまでの約300年間は、ギリシア人がオリエント地方を支配した「ヘレニズム時代」と呼ばれます。
参考書籍
【次回予告】
次回は「ローマ世界」を予定しています。
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