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【図解】[歴史]002 ローマ世界 (1)ローマ共和政の成立と地中海制覇

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1.ローマ建国

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紀元前1世紀にヘレニズム諸国を滅ぼし、地中海を囲む一大帝国となったのがローマです。ローマは、紀元前8世紀頃、ラテン人によって建国された都市国家がその始まりです。

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建国当初は王政でした。紀元前509年まで約250年ほど全部で7代に渡って王政で、後半3代はローマの北方で生活していたエトルリア人が王となりました。

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7代目の王タルクィニウス・スペルブスを追放した後、ローマはラテン人による共和政を敷きます。

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政治の中心となったのは貴族たちでした。政治を主導したのは、有力貴族で構成された元老院です。その人数はとても多く、はじめは定員300名とされましたが、のちにさらに増加しました。

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政治のトップとして取り仕切るのが「コンスル(執政官)」と呼ばれる役職で、任期1年で、独裁にならないよう2名選ばれます。
平時には2名が話し合って意思決定をすれば良いのですが、非常時には迅速な対応が必要です。
そのため、非常時にのみコンスルの上に「ディクタトル(独裁官)」が置かれました。任期は半年、1名が選ばれます。
コンスルやディクタトル、元老院議員のいずれも「パトリキ」と呼ばれる貴族から選ばれます。

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この貴族政治に対して、ローマでもギリシアのように、「プレブス」と呼ばれる平民から不満が起こります。
ローマの平民もギリシア同様重装歩兵としてローマを守っていたからです。
不満を持った平民たちは紀元前494年、政治参加を求めて聖山に立てこもりストライキを起こしました。
そこで、元老院は、「護民官」というポストと、平民の議会である平民会を設置しました。
平民の代表となる護民官は2名選ばれ、コンスルの政策が平民にとって不利益であると判断した場合には、拒否権を発動することができました。

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さらに、紀元前5世紀半ばには、それまで貴族社会の慣習法として明文化されていなかった法律が、「十二表法」として制定されました。この際、元老院はアテネのドラコンの法を参考にしたとされています。

紀元前367年には、リキニウス・セクスティウス法が制定され、コンスルのうち1名を平民から選出することとなりました。

続いて紀元前287年のホルテンシウス法により、平民会の決議が元老院の承認なしで国の法律となることとなり、平民も立法権を持ちます。

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これらの改革で形式的には貴族と平民は対等になりましたが、実質的に政治の権力を握っていたのは、その財力で平民会の意思を操ることができた貴族たちでした。

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政治が安定してきたローマは軍事力を高め、周辺の都市国家や部族たちを征服していき、紀元前272年にはイタリア半島を統一するまでに至りました。

ローマは降伏した都市に対して、服属都市としての条約を結ばせました。
服属都市は戦時の出兵の義務がありましたが、納税義務はありませんでした。
また、各服属都市との条約は都市ごとに待遇に差がつけられていました。
そうした待遇の差別によって、服属都市同士の利害が一致せず、服属都市たちが結束して反旗を翻すことがないようにしていました。
「分割統治」と呼ばれます。
また、服属都市の貴族たちにはローマの市民権を与えたため、服属都市はローマに逆らうことはなくなりました。

こうしてイタリア半島の安定統治に成功したローマは、いよいよ海外へと勢力を伸ばしていきます。

2.カルタゴとのポエニ戦争

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地中海対岸のアフリカには、フェニキア人の都市国家「カルタゴ」が、西地中海の貿易を支配しており、イタリア半島に近いシチリア島もその勢力圏内でした。
このシチリア島を巡って、紀元前264年、ローマ対カルタゴの「ポエニ戦争」が勃発します。

ポエニ戦争は三回に渡り争われました。
第一回(紀元前264年〜241年)はローマが勝利し、初のイタリア半島以外の植民地としてシチリア島を手に入れました。
第二回(紀元前218年〜201年)は、「世界史上最高の名将」とも言われるハンニバルが活躍したため、ハンニバル戦争とも呼ばれます。

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当時制海権はローマが握っていたため、ハンニバルは奇策に打って出ました。
海から攻め込まずに、なんと現在のスペインがあるイベリア半島に渡り、イタリア半島の北にそびえるアルプス山脈を越えてローマに攻め込みました。
その際ハンニバルは37頭の象を引き連れていったといいます。
紀元前216年のカンネーの戦いで8万を超えるローマ軍を撃破し、その後もハンニバルはローマ軍に勝ち続けます。
ローマは持久戦に入り、ハンニバルはイタリア半島の各地を支配下に置きますが、10年かかってもローマを降伏させられません。

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そんなにらみ合いの戦況の中、ローマに登場したのが将軍スキピオです。
スキピオはハンニバルがイタリア半島に居座っているので、逆にカルタゴは手薄だと考え、カルタゴを直接攻撃します。
たまらなくなったカルタゴはハンニバルを呼び戻し、紀元前202年のザマの戦いで、スキピオとハンニバルが激突、不敗の名将ハンニバルはついにスキピオに敗れ去り、紀元前201年にカルタゴは降伏しました。

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カルタゴは国としての存続は許されたものの、本国以外の領土は全てローマのものとなりました。
第二回ポエニ戦争で敗れはしたものの、カルタゴは海上貿易で復興を果たし再び繁栄します。
ローマ内にカルタゴを滅ぼせという声が高まり、紀元前149年〜146年、第三回ポエニ戦争が行われました。
ローマ軍の指揮官は、スキピオの長男の養子である小スキピオで、圧倒的な兵力でカルタゴを包囲し、紀元前146年、ついにカルタゴは陥落します。

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この同じ年、ローマは東方のマケドニア・ギリシアも征服し、地中海を囲む一大帝国が誕生しました。
ローマは征服した各地を属州とし、有力貴族を総督として派遣し、税を納めさせました。また征服された多くの人々は戦争奴隷としてローマ市に送られました。

【次回予告】

次回は、「内乱の1世紀・カエサルの時代・ローマ帝国の成立」を予定しています。
お楽しみに!

【参考書籍】


【図解PDF】

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