ヴォルターベンヤミン アウラを考察する


アウラ

「ここで失われていくものをアウラという概念でとらえ、複製技術の進んだ時代の中で滅びてゆくものはアウラである。」

「複製技術時代の芸術作品において滅びゆくものは作品のアウラである」というキーフレーズは、芸術作品が技術的に複製可能になる過程を、作品のもつ権威や鑑賞の一回性の喪失と捉え、それにともなう芸術とひとびととの関係が、礼拝的価値から展示的価値へと劇的に変容することを示したものだ。
 この論文が書かれたのは、1930年代半ばのことだ。ハリウッド映画をはじめとするアメリカ産の商業映画に「大衆」が熱狂した時代であり、同時代の知識人たちも映画に注目。そのなかにあってこの論文が特異なのは、文化産業による搾取や文化の低俗化のプロセスとして嘆息するのではなく、まさにそうした事態そのもののなかに、社会の決定的的な断層を読みとり、新しい複製技術の内側から社会を再編成していく理論的可能性を見出していたことにある。
 
「遊戯」(シュピール)だ。一回性が肝要だった従来の芸術は、自然を制御することをめざしていた。ところが、映画のような新しい複製技術の根源は遊戯性にある。彼はそう述べている。ベンヤミンはこの言葉をわりあいあっさり登場させているけれど、これはもしかしたら「アウラの喪失」よりもずっと重要な指摘かもしれない。

 遊戯性、遊びの感覚。それは「儀式」とか「正義」とか「権威」とかといった目的に奉仕する合目的なものではない。遊戯とは、広い意味での何らかのルールにしたがってゲームを遂行していくことであり、しいていえば、戯れ遊ぶことそれ自身を目的にするものだ。と同時に、ゲームの遂行とは、そのルールを逸脱し、ズラし、書き換え、新しいゲームを編みだしていくことでもある。ルールとは(ヴィトゲンシュタイン=クリプキが述べたように)つねに無根拠なものだからだ。

 複製技術において志向されているのは自然と人間との共同の遊戯であり、いまや芸術の決定的な社会的機能は、まさにこの共同の遊戯を練習することにある。映画という新しい技術のシステムと密接に関係する新しい知覚や心性を、まずここに適合させていくことで、逆に、いまはそのシステムの奴隷となってしまっている現状を変革していくことを可能にする。それがベンヤミンの見立てなのだ。ベンヤミンは、メディアの根源に「遊び」を見出した最初のひとであるということができるだろう。


写真

複製によって本当にアウラなくなるのか?写真のオリジナルプリントは、レイ・マンなどでは高額な値段がつく。これこそアウラではないか。ロバート・メイプルソープは、70年代にエディションナンバーをつけてプリント枚数を管理。版画化することで、一回性の保証をしているのだ。となると、複製芸術は、実はアウラのみで成り立っているとも言えるのだ。
では服はどうか?服にアウラがあるのか、着る人にアウラがあるのか?誰かが着ることで唯一性が与えられるのか?オリジナルに感じるアウラと大量生産された工業品がもつアウラと2つあるのではないのか。万年筆、カメラ、車などは好例であろう。

オリジナル幻想

本当にオリジナルは存在するのか?すべてがコピーではないのか?人はオリジナル=善と言う幻想にとりつかれている。「この人の感覚」や「この人の発想」などを物差しにしている。固有の素質をオリジナルとして捉えている。より重要なことは、アウラ=本物ではないのだ。ピカソでも駄作はある。アウラのある、なしの作品も山ほどあるだろう。オリジナルといっても必ずしもアウラがあるわけではないのだ。我々は、オリジナルを下敷きにしてアウラを考える傾向が強いのだ。作者と作品の関係ではなく、作品自体がアウラを含んでいるのではないか?アウラが宿るのは「状況」である。
一回性であればよいのか?という疑問は避けられない。一方、ダメなクリエーターは自己模倣する。一度、当たるとパターン化して反復するのだ。仮に1つ当たっても次に引きずらないことが重要である。しかも、それはアウラではなく、「潔さ」の問題である。

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