クリステヴァ 恐怖の権力 を考察する

エディプス・コンプレックス


「エディプス・コンプレックス 子供が両親に対して抱く愛および憎悪の欲望の組織的総体をいう。その陽性の形ではコンプレックスは「エディプス王」の物語と同じ形であらわれる。すなわち同性の親である競争者を殺そうとする欲望と異性の親への性的欲望とである。

今までの精神分析は父性の分析に偏重、母は忘却されていた。ここに注目したのがクリステヴァ。

エディプス構造は、父母子の三角形
前エディプス構造は母子の双数
ここでは、母子の分離はなく、一体化、融合、共生している状態。と同時に分離が待ち構えている。

母の分離

母子の融合状態では、永遠に主体の誕生はおきない。主体が生まれるには、融合から分離・棄却へのステップが不可欠である。最初の距離付けが肝要なのだ。さらに興味深いのは、棄却するためには前状態を「抑圧」することが重要であり、すなわち母を分離し排除することである。

アブジェクション

この抑圧、原始的距離付けのメカニズムを言語化した概念がアブジェクシオン。アブジェクシオンとは「おぞましさ」という意味。「おぞましさ」にはむろん多くの意味があるし、それこそおぞましい候補がある。
 
ごく素朴な意味は、嫌いな食物、汚物、はきだめ、死体などに対する嫌悪感。さまざまな生理的な経験にもとづいている「おぞましさ」。しかし、なぜそれらがおぞましいかはわからないときも多い。大嫌いな人物はおぞましいが、その嫌悪の理由がつきとめにくいときもある。写真や映像として見せられたものがおぞましいことも少なくないが、なぜそのように思ったのか、いつもすぐに目をそむけたためによく見ていなかったということもある。その目のそむけ方はまことに速い。それとともに、誰もが経験があるように、父親がおぞましいと思うこともあるし、自分がおぞましいと思うときもある。
 おぞましさとはまことに広い心情あるいは心性なのだ。けれども、その理由を明確にすることは、案外むずかしい。
  
アブジェクシオンという言葉はもともとフランス語の"abject"から派生した言葉で、「分離するためにそこに投げ出した」という原義をもっている。そこから一般的には「放擲」とか「棄却」という意味となった。さらにabには、分離・遠隔を意味する接頭語。


 クリステヴァはここに、あえて"abjet"という1字ちがいの造語を孕ませたのである。これは"abject"からクリステヴァが勝手に派生させた概念で、察する通り、"objet"とは微妙に裏腹の関係をもつ。obは対立・反対を意味する接頭語。すなわち"objet"(オブジェ)が「対象」をあらわすのに対して、"abjet"(アブジェ)は「いまだ対象になっていない」というニュアンスをもった。 そうすると、このような"abjet"を含むアブジェクシォンは、二つの意味が相反して絡みあうことになっていく。「面前に対立する形で投げ出されたもの」だ。

アブジェクシオンには2つの意味が絡む。ひとつは「禁忌しつつも魅惑される」という意味であり、もうひとつは「棄却する」という意味である。これらが二つながら孕む。ということは、アブジェクシオンとは、身に迫るおぞましいものを棄却しようとしている一方で、その棄却されたものが自分にとって実は身近なものであったという意味作用をもつとともに、それに関して自分の中をさらけだすこと自身をおぞましく思っているというニュアンスもつきまとうというような、そんな状態や作用をあらわすことになったのだった。いまだ対象となっていない分離すべき、おぞましき前対象と言える。
融合・共生状態の中でも自他・内外の対立を孕んでいるという矛盾をバネとして分離作用が働くのだ。 クリステヴァは、禁忌していたのに魅かれる作用が秘められている問題に注目したのである。避けているのに惹きつけられるもの、「浄め-穢れ」や「魅力-嫌悪」といった対比的で裏腹な関係がアンビバレントに襲ってくるようなもの、それをアブジェクシオンとよんだのである。さて、そのように見てみると、アブジェクシオンは必ずしも個人の生理的な基準によって対象化されたものだけでなく、そこには社会や歴史や民族や家庭が"abject"していたものもありうることになる。


アブジェクシオンと宗教

集団において棄却されるものは母であり、女性的なるもの。それとの対決が近親相姦タブーである。排除→お祓い→清めが宗教の根底を成す。アブジェクトのコード化である。
①穢れの儀礼
穢れは汚物と経血に集約。これらは肉体の廃棄物で、身体の境界から外に出されたものである。特に幼児のトイレ訓練では、母の役割は決定的。母の権力の象徴であり、それを排除。

②食物禁忌
母親の権力の分離が行われると、次のルールは食べ物。父系制とその宗教(旧約聖書)が表す象徴的事象。例えば仔山羊を母乳で煮てはいけないなど。これも母なるものからの分離。さらに死体のタブー。血は穢れ、どんな肉も血を流してはいけない(ベニスの商人)。

③罪
新約聖書になると新しい体系が出現:棄却されるものは外部ではなく内部にある。真の脅威は内部。穢れの内在化は精神化である。これが罪の誕生。「口から出る物が人を穢す」(マタイ)これにより人は排除されるべきものを抱えた存在となる。悪魔と神に引き裂かれた存在。穢れ、罪は「罪深き肉欲」として排除の標的。しかし精神化されているので排除方法も、昇華、信仰や言葉になるのだ。「聖体拝領」またマリア崇拝は典型。異教的な母神を昇華させ、キリスト教へとつないだ。おぞましい身体の排除と昇華の道。
言葉による排除。「告解」によって免罪。「神の子」という矛盾の中、罪びとは罪びとのまま許される。この矛盾、逆説が「最高の罪が最高の美」に転換するパラドックス。キリスト教がおぞましさの処理を真理ではなく、快楽において行った。さらにマリアのような美的昇華をしたことが、芸術が宗教を核として発展したという事実でわかる。ある意味、芸術がアブジェクシオンを祓う機能を持っているのだ。また精神分析が「話す」こと、言葉と転移を通じてアブジェクションから脱出する可能性を示している。

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