チェスタトン 見えない男 を考察する

このトリックがなりたつのは犯人が「現実的な人物」だからなのだろうか。こ
の「見えない男」が存在しうるのは、あくまで本格推理小説のワク内だけなのだろうか。
チェスタトンはその当時のイギリスに「見えない」人々が蔓延しているのを現実の問題としてとらえていた。この作品は一面では、今もなお続く英国社会の宿痾、階級社会の弊害を暗に告発したものだったのである。
 イングランドは、太古以来、ヨーロッパ大陸側から幾度もの征服の波が押し寄せ、その度に支配者がいれかわることで形成されてきた国である。そもそも英語で牛肉、豚肉と生きている牛、豚がまったく違う言葉で呼ばれるのも、肉を食べるだけの貴族と、家畜を世話する農民がまったく異なる言語的・文化的伝統を背負っていることに由来する。  
十八世紀の産業革命以降、貴族以外の出自の人々から経済力を得て支配層に食い込む人が現れ、「紳士」という新しい階級ができると階級社会はかえって固定的なものとなった。紳士はかっての同胞から自分たちを区別するため、ことさら下の階級に無関心な態度をとったからである。紳士を含めた上流階級にとって下の階級の人々は単なる労働力にすぎなかった。そして、社会の矛盾のために貧しい境遇に追いやられた人々は良くて慈善の対象、より一般的には犯罪者の群れおよびその予備軍とみなされたのである。
 そこにシャーロック・ホームズを初めとする世紀末探偵小説のヒーローたちの活躍の舞台が準備された。ホームズは紳士階級でありながら、下層階級の社会への知識を駆使して、犯罪の渦中へと乗り込んでいく。また、ホームズは紳士の家に潜り込む時には鉛管工や馬丁に変装しているが、それは紳士といわれる人々が最下層の労働者の顔など見ようともしないことをよく知っていたからである。
つまりホームズの変装がうまくいったのは、彼が当時の英国社会に「見えない」人々がいるのを知っていたからなのである。  奇妙なことにホームズを生んだはずのドイル自身は、この「見えない」人々にも内面があることに気づかなかった。ホームズは潜入した先の家の小間使いに、結婚してやると偽って情報を探ったりもする(「チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン」)。だまされた娘の悲しみについてホームズは、そしてドイルは斟酌することがない。  ところがブラウン神父はその「見えない」人について、「彼等とても人間ですから情熱もある」と語り、その姿を明らかにした上で二人連れ立って歩み始めるのである。
  「見えない男」の秀逸さは、三つの部屋の描き分けにも現れている。冒頭では、どこにでもあるような菓子屋の日常的な光景が詩情豊かに語られ、そこがやがてロマンスの舞台になるであろうことが自然と予感させられる。アンガスを迎える場所である。 フランボウの部屋は前半生をスリルと美の追求に過ごした男のデカダントな価値感を表しながら、そこにあたかも家具の一つででもあるようにブラウン神父がいることでこの部屋の主の回心のあり様をも示している。フランボウはその部屋に帰っていった。
 そして永遠に主を失ったスマイスのアパート。そこでは頭のない自動人形がたたずんでいる。「スマイスの物言はぬ召使」の広告は次のようなものだという。
「ボタン一押し-一滴の酒も飲まぬ召使頭」「ハンドルを一ひねり-けっしていちゃつかぬ女中十人」「一生つむじをまげない料理人」
「スマイスの物言はぬ召使」は、当時の紳士たちが求める使用人の理想像かも知れない。彼らは使用人の労働力を求めたが、その人間味には関心がなかったからである。だが、チェスタトンはこの魂なき使用人を一種の怪物として描いた。
 彼らに頭がないということは重要である。自分の使用人に頭(精神)があり、顔(個性
)があることなど気づきもしないか、あるいは、そんなものなどない方が煩わしくなくて
よいと思っている人にこそ、この機械の召使はふさわしいというわけだ。『フランケンシュタイン』は、神の手によらずして魂を与えられなかったものの悲劇だった。だが、その後のロボットSFでは魂をもたない者の恐怖がしばしばテーマとなる。「見えない人」のタイトルがウェルズを皮肉ったものであることは前述したが、この魂を持たない機械人形というガジェットもまたウェルズ流の未来予測をからかうために引っ張り出されたようである。

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