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話が難しくならないように。 〜まとめ

 3回にわたって「話が難しくならないように。」というタイトルで考えてきましたが、今日でまとめたいと思います。読書会や話す時間で、話が難しくなってしまうことがあるのですが、できればなくしたいと思い考えてきました。きれいに論理的にまとまってきたわけではありませんが、少しずつでも考える時間をとったことで私のなかでまとまった感覚があるので、書いていきたいと思います。



話が難しくなるという課題の裏にある「いい状態」

 まず、「話が難しくならないように」と考えているということは、話が難しくなってしまうことを課題だと思っているということが暗に示されています。コンサルの人が書くような課題解決の本では、課題とはあるべき姿と現状とのギャップであると言われます。ということは、話が難しくなってしまうことを課題だと感じている私は、それに関連するあるべき姿をもっているということになります。その漠然とでももっているあるべき姿にとって、話が難しくなっていくことは解決していきたい課題であるということです。
 では、そのあるべき姿とは何なのか。あるべき姿というと少し固いし、ありたい姿と言い換えても、「姿」というほどカチッとしたものをもちたいわけでもありません。ですので、ここでは「いいと思っている状態」という程度に言い換えておきたいと思います。
 この読書会や話す時間におけるいいと思っている状態はこれまでに書いてきましたので、そのまま転用します。以下の3つが思い浮かびました。

1.せっかくだから、みんなで参加する
 ただその場にいるということではなく、それぞれの方が「参加できている」という感覚をもてていることを意味します。なにかのきっかけや偶然のなかで集まった人たちですから、その縁を大切にという価値観でもあります。

2.知をより使いやすく、そして豊かに
 本には難しいことが書いてあることもありますが、それを人と話すことで、その知が自分のなかに落とし込まれていろいろな場面で生きてくるように思います。著者という他者の言葉や知識ではなく、自分の言葉や知識になり、自分の周りともそれを共有できるようになっていくということです。

3.その場その時に生まれるものを楽しみたい
 ひとつには、アフリカを出て世界を旅するように巡ってきたヒトは、やっぱり好奇心をもっているのだと思います。自分一人だけでは世界が狭くなってしまう。誰が来るのかわからない、何が読まれるのか何が話されるのかわからない、その偶然性のなかで生まれるものを楽しみたいのだと思います。
 そしてふたつには、仮にその人にとってのテーマがあったとき、思考の袋小路に入ってしまったり、まとめようとし過ぎるがあまり視野が狭くなってしまうことがあります。それは「視野を広げよう」という意識だけでは突破することが難しい問題であると感じています。だから、おなじく偶然性のなかで、適度にストレッチする時間が必要なのだと思っているということです。

「話が難しい」とは

 「話が難しい」とは何を指しているのか。これは重要な問いです。なぜなら、その意味を取り違えてしまうと、まったく違う方向に場が進んでいってしまうかもしれないからです。まず明確に否定しておかなければいけないのは、「難しい話をしてはいけない」ということではないということです。これについてはここまで何度か書いてきました。量子力学や、哲学的な問いや、純文学などを、読んだり話したりすることを避けたいわけではありません。
 「話が難しい」の意味するところは、さきほど挙げた「いいと思っている状態」との対比のなかで見出されます。つまり、そこにいる人の参加を難しくしたり、言葉の種類や数は多いけど思考や興味や対話が生まれてこなかったりする状態を、話が難しくなっていると言っています。だから、話が難しいのここでの意味を言い換えると、話が通じていないということなのだと思います。
 よく「あの人には話が通じない」ということがありますが、それはどこかで通じない相手を下にみた表現であるように思います。しかし、ここではそのような上・下はまったく視界にありません。話が通じるとは、その人のなかの何かとその話が通じる・リンクするということだと思います。その何かとは、知識や経験や、感性や感覚あたりなのではないかと思います。それらと話が通じたとき、なんとなく分かると思えたり、漠然とでも興味が湧いたりするのではないでしょうか。そしてその感覚はそのまま「参加できている」という感覚にもつながるように思います。

話が通じているようにするには

 では、話が通じている状態にするにはどうすればいいのでしょうか。
 話が通じるというのが先に述べたような、その人の知識・経験・感性・感覚と通じている・リンクをするということなのであれば、その状態をつくり出すのは対話であると言えるのかもしれません。
 ある人が話していて何だかよくわからないという顔をしている人がいたとします。その時そのわからない人が「それはこういう意味ですか?」などと聞き返しながら理解していくというのは、実際の場面として出くわしたことがあるのではないかと思います。この過程は、わからない人が自分の言葉で質問をして回答を受け取るなかで、よくわからない話を自分にとっての既知のものと結びつけているプロセスなのではないかと思っています。ですので、話し手の方も、その質問やその人の既知のものを感じとりながら、表現を変えていくことになります。話し手は言わんとすることは変えないけど表現は変えてみる、他に必要な情報がありそうならば追加で出しながら話していく。そういうプロセスを経て、その話がそこにいる人のなかで通じていくのではないかと思います。
 では、「対話の意識をもとう」と周知すればいいのでしょうか。これは一つの手ではありますが、実は難しいようにも思います。対話というのは様々な意味や受け取られ方があるでしょう。それを定義してもいいのですが、その意味合いを参加者全員にしっかりと伝えるだけで会は終わってしまいそうです。
 ですので、やはりここはファシリテーションではないでしょうか。「話が通じている状態にしたい」と思っている人が、意図的にそのための対話を促すということです。
 「対話の意識をもつ」という解決策は全員に共有されないと成立しませんが、ファシリテーションは一部の人ができるだけで成り立ちます。だから初参加の方や対話が苦手な方がいても、ファシリテーションが持ち込まれれば話が通じている状態というのはつくりやすいのではないかと思います。

 これまでは、場の流れに本当にただ任せていました。意図的に場をコントロールするということは、偶然性やそこにいる人の個別性に蓋をすることだと思っていたからです。しかし、「話が通じるようにしよう」という意図であれば、そのような窮屈さは生まれにくいかもしれません。ですので、そのような意図のファシリテーションを要素として入れていきたいと思います。
 ファシリテーションは、読書会の担当者・司会者が必ずしも担わなくてもいいと思っています。参加者のなかにもその意図を理解し実践してくれる人がいれば、その人に任せてしまってもいいと思っています。そして同時に、特別な知識やスキルがなくてもファシリテーションできるようにしたいとも思っています。その場の話を分かりやすくまとめなければいけないということであればファシリテーションはハードルが高くなるでしょう。しかし、誰でもいいから話が通じるように言い換えてください、みたいに促すのであれば知識面などのハードルは下がるように思います。ですので、これからやっていくことは、この会で意味するファシリテーションの本質を明らかにして、その本質の部分だけを実践する人が会のなかで増えていくようにしていくということだと思います。
 ただ、そうなると、やっぱり話がカチッとして、日常会話感がなくなってしまうかもしれません。それが「何かがちがう」と思えば、また調節をして、いい状態をつくっていくということでやっていきたいと思います。

(よしだ)

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