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平成、この佳き日に。(Ⅰ・平成二年)

「ミヤちゃん。見て、このあいだうちのお姉ちゃんが結婚式あげたんだ」
その日は確か、校庭のイチョウが小さな鳥の形をして舞い落ちる金色の秋の日だった。
ミヤは制服のスカートのプリーツを整えながら、現代文で習った歌を思い出したりしていた。
同級生のアキが両手で差し出してきた写真には、花嫁花婿とその家族たちが笑顔で写っていた。幸福そのものの形をしたそれは、アキの祖母譲りだという金色の混じった長い髪の毛と一緒に、秋の陽にきらめいていた。
友だちのえくぼが、いつもよりも下手くそな形をしている気がする。
「お姉さん、遠くにいっちゃうんだね。さみしくない?」
プリーツのほつれた糸に気がついた時と同じ調子で、ミヤがほつりと呟くと、
「……さみしいよ、」
いつだって女学生の快活さで笑うアキは、途端に糸が切れたように涙を浮かべて、それから涙を零した。
昼休みの教室で、人目もはばからずにぽろぽろと落ちる涙の粒が、五線譜から転げ落ちる音符みたいだった。

これがミヤの、結婚に関する最も古い記憶だ。
あの日、ショパンの木枯らしのような風が吹いていた。
「泣かないで、アキ、」
長年のピアノ経験が滲みでた指先でなんど涙をぬぐってやっても、アキの涙は繰りかえし繰りかえし頬を滑り落ちて、限りがなかった。
そのうちの一粒が、ミルクティーの缶の中にほとりと落ちた。
校門近くの自販機のミルクティーは購買のカツサンドとよく合うから、学生時代のお昼の定番だった。
薄い食パンと、味が濃くてしなっとしたカツと、申し訳程度に添えられたレタスが、甘ったるいミルクティーでぬぐわれるあのハーモニーがミヤは一等好きだった。


あの時のミルクティーは妙に美味しかったわ。
ひっつめ髪の新人が運んできたティーカップに唇をつけて、ミヤは遠い日の記憶に囚われた。もう十年近く昔となるアルミ缶のミルクティーが記憶として滴り落ちてきて、眩暈がしそうだった。
子ども舌なのか、それともノスタルジアなのか。
いずれにしろ、友だちの涙が混じったミルクティーは、今このティーカップに入っている紅茶よりも豊穣な香りだった気がする。

しとしとと、ホテルの外では雨が降っていた。この大都会東京では、雨が降っても緑が匂い立つことはないらしい。
「この紅茶美味しいね、ミヤさん」
朴訥な笑顔で褒める良一の歯はお手本のように白い。
そうか、この男はこういった味が好みの人なのか。そして、こういった場で味の感想を口に出す人なのか。
夫となる人の人柄を注意深く観察しながら、そうね、とミヤは微笑んだ。
学生時代のミルクティーの想い出が、どんな側面で切りとったとしても、今この場にはふさわしくない話題であることくらいはさすがに分かった。
紅茶を褒められた妙齢のスタッフは、そうでしょうと得意げに目を細めて良一にお代わりを勧める。ベージュ色のネイルがよく似合っていた。
妙齢のスタッフは佐倉、ひっつめ髪の新人ははにかみながら糸倉と名乗った。
奇妙な名前の類似に笑いだしたくなったが、全てがきちんとした高級な場でそんなことが許されるのか分からなくて、結局ミヤは中途半端に咳払いをしただけだった。
名刺を差しだした時も、式場の紹介パンフレットを取りだした時も、終始良一にばかりに釘づけだった佐倉の目線が、咳払いのときに初めてミヤを見やった。
「不景気とは申しますが、当ホテルでは料理はもちろん、食後の紅茶コーヒー、菓子に至るまで全てに厳選した品を使用しております」
「ああ、やはり、良い香りがします。さすが御三家のホテルだ」
良一と友人の紹介で出会って数か月、結婚を申しこまれて半月。今日は朝から都内のホテルへ式場の下見に来ていた。
下見とはいってもこの有名ホテルは良一の両親も結婚式をあげたところで、まあ実質選択肢なんて存在しないのだろう。
既定路線を覆すほどの何かが今日の下見で起きてくれないかしら、と願いながらも、生来の面倒くさがりだ。いくつもいくつも式場を探し回るよりは、既定路線がある方がかえって有難いのも事実だった。
佐倉は良一の方ばかりを向いて話すから、ミヤはまるで透明人間にでもなった気がする。
終始退屈で、ミルクティーの味ばかりに意識が集中した。
ああ、この気取った味の滑稽なこと。
早く外のコンビニでペットボトルのサイダーを買って、口紅も気にせず飲み干したかった。地元ではまだ珍しいコンビニが、さすが大都会東京では至るところに見つかった。
ひどく喉が渇いていた。
都内まで在来線を乗り継いで二時間ほどの実家に暮らすミヤにとって、この下見はちょっとした小旅行だ。次第に人の増えていく道々の駅を思いだすだけで、雨の一滴すら飲み干したいほどに喉が渇いた。
「やっぱりここにしようか、ミヤさん」
「そうねえ、」
雨音に紛れて、未来の夫の声が柔らかく耳を塞ぐ。
まあ断り切れないのだろうな。
六月の雨が粒の一つ一つをきらめかせながら降っていた。
耳の良いミヤには、ひとしずくひとしずくが窓を流れ落ちる音まで音楽のように聴こえる。思わずそちらに気を取られて、そっと耳に手をあてると、 
「このご時世、当ホテルで挙式をできるのなんて公務員くらいのものですから。よかったですね、奥さま」
奇妙に人工的な佐倉の笑い声が雨音のメロディを遮断した。
そうしていつのまにか、その笑い声は、良一がさらさらと契約書にサインをする音に変わった。
奥さまという言葉に、ミヤは桃色のルージュで黙って微笑んだ。新妻とはきっと、こういうときに笑って応えるものなのだろう。
しとしとと雨が降り落ちる。
雨だれのプレリュード、変二長調が心のうちで流れて、それだけがミヤの口元の曲線を支えていた。


 
「竹、お湯が冷めないうちに入っちゃいなさい」
「はあい」
生返事をしても、もうすぐ末娘が家を離れるさみしさからか母は小言を言わない。実際、東京まで出て高級ホテルで半日を過ごして、身体はすっかりくたびれていた。
小言を言われないことに甘えて、ミヤはだらしなくソファに臥せったまま、長年のピアノ経験がにじみでたほっそりした指先で分厚い雑誌をめくった。
ここのところ登場したばかりのウェディング情報雑誌たる代物は、楽譜とは質感の違うつやつやと光るペラペラの紙に、いやに鮮烈な色彩の夢ばかりがパッケージされていた。
「なあに、今の若い人にはそんなのがあるのね」
ソファの向こう側から母親が覗きこんだ。唇の色が褪せていて、一緒に過ごした二十年と少しの時間を物語っていた。
ペラペラの紙面には、オトクを謳う文句ばかりがグロテスクに踊っている。
「やっぱり不景気ねえ……まあ、このご時世に結婚できるだけマシなのかしら」
母親のため息に、あと数年早く結婚していれば、という言外の意をを感じとって、ミヤは肯定も否定もせずに立ち上がった。
風呂場へ向かう廊下の木目は、梅雨時のしとやかさで肌に馴染んでいた。
別にゴンドラで入場したいなんて願望は元からなかったのにな。
本人の望みなんてまるきり存在しないみたいに、母親はこの頃、ミヤがまだバブルの頃に結婚しなかったことをしきりになげいていた。可愛がってきた末娘には豪華な式をあげさせてやりたかったというのだ。
タオルを仕度しながら、ミヤの瞼の裏には、先ほどのえげつない色彩ばかりがゆらゆらと立ち上っている。
リーズナブル。お買い得。おトク。エトセトラエトセトラ。
この国全体が安く買い叩かれているみたいね。
バーゲンセールで売られていく若者たちを想像してミヤは笑った。人生を安く買われていく若者たち、その真ん中には自分もいるのだ。
おトク、おトク、おトク。
例えば土日祝日を避けて平日、仏滅、オフシーズンを選べば、どれだけ良い式場でどれだけ安く挙式を行えるか。東京を離れて少し足を延ばしただけで、費用がこんなに下がるなんてお買い得でしょう。
慶事にも安さを求める特集の華やかさは、あぶくのはじけた後を証明するかのようだった。
日本中が息の詰まるこのころ、閉塞感のなかで、空元気ばかりがカラカラとまわっている。下手についこのあいだまで高級な理想が手の届く距離にあったせいで、誰もがその理想をどれだけ安く買えるかに執心していた。
でもねえ、お母さん。私があんな有名ホテルで挙式できるのは、きっと不景気のおかげなんだよ。
首まで熱い湯に浸りながら、ミヤはゆっくりと瞬きをした。天井から水滴が湯舟に滴り落ちて、二重三重に波紋が広がったのを美しく眺めた。
県庁で働く良一が御三家と呼ばれるようなホテルで歓迎されるのは、この間まで飛ぶ鳥を落とす勢いだった民間企業の同級生たちが一転、悲鳴をあげている真っ最中だからだ。
格式あるホテルでの結婚は、足元に誰かの不幸が転がっているみたいで、なかなか気持ちが晴れない。
「難儀ねえ、」
タオルで湯くらげを作ってやると、薄い布ごしに空気が膨らんでゆっくりとほどけた。
梅雨時の風呂は肌に水がしっとりと馴染むから嫌いではない。
不運や不幸は誰の身にも訪れるけれど、ありふれた不幸であっても、それは驚くほどに耐えがたい。
目をつむってクラゲにキスをすれば、早期退職を迫られた父の哀愁が瞼の裏に浮かんだ。良一との結婚を承諾した背景には、退職してからついぞ元気のない父親を安心させたいという気持ちも間違いなくあったのだ。
それから、ミヤ自身の避けようのない事情も。
男女雇用機会均等法が施行されて、地元銀行にお試し女性総合職として採用されたミヤは、社会人になってこの方、ずっと一匹のエイリアンだった。
ロールモデルもないまま社会に放り出された世代だ。
それまでに例のない女性の総合職は、ネクタイの男性陣からも制服の女性陣からも、間違いなく異質な存在だった。男性並みに成績を出すことが求められて、ほかの女性陣と同じように気遣いと美しさと美味しいお茶を入れるスキルを求められて、会議のあとに充血した瞳で出社することも許されなかった。
男性と同じ働き方を、女性と同じ規律正しさを、両方を求められてエイリアンはますますエイリアンとして孤立した。
それに、丁寧にコーティングされた悪意という仄暗い他人の感情を、いなしたり拭い去ったりできるほど、ミヤは人間との距離の詰め方に慣れてなかった。
そのせいでここ数年は、すっかりエイリアンから腫れ物へ昇格だ。
バブルがはじけて、乱立していた銀行が次々と統廃合されていた。真っ先に退職を仄めかされたのも仕方ないな、とミヤ自身納得はしている。
エイリアンという定型にはあてまらないマイノリティと付きあうほど、この国の社会人はお人よしでも寛容でもないのだ。
「小さいときから、好きなものとしか付き合ってこなかったもんねえ。仕方ないね」
好きなように生きてきたから、後悔は驚くほどなかった。それでも、ため息が、紫煙のような風呂場の湯気に交じって消えた。

ミヤが得意なのはピアノと数式と、それから気の合う友人との距離の保ち方だけなのだ。
ほどよく女を見せてネクタイのおじさま方に気に入られることも、率先して机拭きに手をあげて制服のお姉さま方に可愛がられることも、最初から土台無理な話だった。
総合職には制服は支給されないから、三年の間、ミヤだけが女の身体を持ちながらスーツを着て、地元のお客様からも奇異の目で見られ続けた。
心が壊れずに済んだのは、生来の呑気な気質と、それからピアノのおかげだ。
お風呂のしずくがぴちゃん、と落ちる。
雨だれのプレリュードを湯舟で弾けば、くたびれそうな心だって慰められる。
幼いころに弾き始めた黒と白の鍵盤は、その前に座って音を奏でてさえいれば、いつだってミヤを十分な幸福のうちに、子供の情景にたゆたうことを許してくれた。
もうすぐ結婚を機に銀行を辞める。それは、ミヤの意思とは関係なく決められた道だった。
正確には結婚をすると伝えただけで、仕事は続けたいとも辞めたいとも言っていないのだが、課長補佐から課長へ、課長から部長へ、それは決定事項として伝達された。
「社会人って人間じゃないのね、私の意思はいらないのね」
今夜は湯くらげがミヤの話相手だ。
愚痴でも不満でもなく、思ったことをそのまま事実として零せば、ふかふかと浮いたくらげは可愛らしく頷いてくれた。
既定路線に強い不満があるわけではない。
銀行が始まって以来初のロールモデルになる情熱も気概も、もはや無かった。ミヤはピアノが好きで、同じくらいに勉強が好きで、勉強がしたくて大学に進んで、そのまま会社の面接を受けたら地元初の女性総合職になっていただけだった。
幼いころから勉強は好きだった。数式と、歴史と、哲学と、教科書のなかにはいつだって無限の世界が広がっていた。目の前の問題を一問一問解いているうちに、気がついたら地元で唯一の国立大学に進学していた。
婚期を心配されて、大学院までは進学させてもらえなかったが、それでも四年間も学問の世界に身を浸すことができた。
オーケストラの部活動で思いきりピアノに向き合うことができた。
女の子だからと、大学進学なんて最初から選択肢になかった中高の友人たちを思えば、それらは望外の幸せだった。
勉強が好きなだけで、社会人としてのあれやこれやが好きなわけではないとようやく気がついたのは、エイリアンとしての立ち位置に身も心もぼろぼろになった頃だ。
「会社勤めが性に合わないなら、家庭に入って好きなピアノに集中したらどうですか」
だから僕と結婚してください。
あのとき、夜景を背景にして微笑んだ良一は、ミヤにはエリオットに見えた。指輪のダイヤは、E.T.とエリオット少年の指先の光のように輝いて見えた。
ミヤが結婚すれば、人員を整理したい会社も、未婚の娘にやきもきする親も、家に待っている人が欲しい良一も、誰もが喜んでくれる。
これ以上ない妙案だった。だからエイリアンは、少年の手をとったのだ。

思考が湯煙で曇ってきたころ、玄関から兄嫁の帰ってきた音がして立ちあがった。
曇った鏡に、二十五歳を過ぎた自分が映っていた。
すっと通った鼻筋に白い肌、林檎のように赤い唇と厚ぼったい二重がアクセサリーのように華やかで、良一と良一の親を満足させるのには充分な美貌だった。
「竹、お義姉さん帰ってきたから早く洗面所あけなさい」
「はあい、」
早く風呂に入れと言われたり、洗面所をあけろと言われたり、まったくこの世は忙しない。
何が不満というわけではなかった。
大学へ行けた、好きな勉強ができた、働くという経験を積めた、ピアノという大好きなものがある、親しい友人がいる、父親は早期退職に決まったけれど退職金のおかげで食うに困ることはなさそうだ、そしてこの度寿退職がきまった。
わかっている、きっと幸福な部類の人生ね。
何が不満というわけではなかった。
ただ、ミヤというひとりの意思を持った人間の生き方が、社会の枠組みにきっぱりと当て嵌められていくことが途方もなく悲しかった。
ミヤの意思に関わらず、生まれ持った柔らかい身体のために、そっと人生の道が決まっていってしまうことが寂しかった。
ぐう、と食いしん坊のおなかが鳴った。夕飯までにはまだ時間がある。
この程度の悲しさ寂しさには負けない大食らいの身体が愛おしくて、そうだカステラを食べよう、とミヤは笑った。
黄色くって卵がいっぱい入った、絵本に出てくる甘いカステラを食べよう。


ソーダ水のような初夏が訪れようとしている。
あの下見の帰りの日、コンビニエンスストアで買ったソーダ水のようにさわやかな空だった。

今日は第一回目のドレスとタキシードの試着の日で、日曜日を利用してミヤは東京まで出ていた。数時間電車に揺られるだけで、何もない田舎から、こんなに多くの人間が猥雑に集まっている場所に移動することに毎回驚いて、上京には未だ慣れない。
数か月後には、この大都会が自分の日々の暮らしになるのだと思っても、ちっとも実感がわかなかった。
「ああ、それ、着けてくれているんだ」
「もちろん。流石に会社に着けていくのは難しいけど、休みの日にはできるだけ着けるようにしてるの」
電話で待ちあわせた場所で無事に落ちあうと、左手薬指に鎮座しているダイヤに気がついた良一が早速ほめてくれた。
先だって婚約指輪として贈られたもので、相好を崩す彼の様子に、やはり着けてきてよかったとミヤも笑ってしまう。良一が若いころから貯金をして貯めたダイヤは、ピアノを弾くには重いが、彼の隣を歩くだけならば何の問題もなかった。
初夏の太陽がふたりの影を濃く形作る。太陽のあたる位置のせいで、幾分かミヤの影の方が長かった。
「ミヤさんの歩き姿はすらっとしているねえ」
暑さのせいだけではなく、首元にじわりと汗が浮かんだ。
背が高いミヤはふだん背筋をのばして歩く。
友人達はバレリーナみたいだと褒めてくれるが、この間の顔合わせの時、義父と義母になる人に何度もちらちらと見られていたことが気になっていた。
背が高い女なんて可愛げがない、とは、幼いころから何度も浴びせられた言葉だった。
「嫌?」
「いいや、雰囲気があって僕は好きだよ」
鷹揚に笑う良一はちっとも気にしていない素振りだが、やはり花嫁が花婿より背が高いのは不格好だろうか。今は底が平らな靴を履いているからかろうじて良一より数センチ低いけれど、ハイヒールを履けば軽々と追いこしてしまうだろう。
東京の道は高い建物に囲まれていて、どこを見渡しても閉じこめられているみたいだ。
ホテルまでの道すがら、ミヤはずっと大柄が目立たないように背を丸めて歩いた。
靴の底をわざと擦りへらすように歩くフィアンセの片手をとっていいものか、戸惑って良一の指が空中を揺れ動いたが、結局ふたりの手は繋がれないままホテルに到着した。

初めて入ったホテル内の衣装室は、お姫様のクローゼットみたいだった。
裾の広がった真白いドレスから、バブル時代の名残のようなビビッドなドレスまで、百は超すであろう様々なドレスに囲まれて目が瞬いてしまう。
「ドレスってこんなに高いのね」
戸惑いながらミヤは鏡を見つめた。
勧められるがまま、ビスチェとロングガードルの上にとりあえず試着してみた一着は胸元のラインが美しかったが、裾のレースが少しごてごてしているのが気になってしまった。何より、このドレスを数時間レンタルするだけでミヤの給料の一か月分が飛んでいってしまうことを思えば、ぞっとして気軽に触れることもできなかった。
「両親もお金は出してくれるし、このあたりなら予算内だから好きなものを選びなよ」
「そうねえ」
ミヤ自身にも貯金はあったから、このご時世には珍しく結婚資金は潤沢だった。それを見越してか、安いドレスではミヤの美貌をうまく引き立てられないからか、スタッフはこぞって高級なドレスばかりを勧めてきた。
二着目に試したドレスは一着目のドレスよりもレースが少ない。
シンプルなシルクの白さが我ながら悪くないように思えた。
「気に入ったのならそれにしなよ」
「そうねえ」
すっかり借り物のタキシードに着られた良一は、ミヤが何を着ても、よく似合うね、と嬉しそうに笑うばかりだ。
生返事をしながら、ミヤは値段の高さとはまた別の悩みに頭を傾げた。
ウェディングドレスとセットのハイヒールを履くと上背がぐんと伸びて、どうしても良一の背を追い越してしまう。
花嫁が花婿よりも背が高いだなんて。
式当日の口さがない声が聞こえるようで、衣装室の冷房に剥きだしになった肌が泡立った。
「あの、ヒールを履かないドレスってないんでしょうか。私、どうにもヒールって苦手で」
それとなく問うても、正式な場ではやはり……とスタッフは言葉を濁すばかりだ。
一番低いヒールにしても良一の背を抜かしてしまう。往生際悪くそのあともいくつかのドレスを試した後、ミヤはようやく諦めた。最初のドレスを試着してから数時間が経っていた。
二着目のドレスのシルクの白さが、フランス料理に添えられている白パンのように柔らかなところが気に入った。
どのドレスを選んでもエイリアンはエイリアンのまま、花婿より背が高くなってしまうのなら、せめて好きな白さに包まれていたかった。
「うん、いいね。よく似合う」
背の高さになんて気づいてすらいないように良一はほめてくれたが、ミヤの頭の中では微かな不協和音が消えなかった。
左手で黒鍵を弾き違えてしまった時のような、不安でたまらない不協和音だ。
 
ホテルの従業員は糊のきいたシャツと蝶ネクタイで、この季節でもピシリとした装いを崩さない。
空気はじめじめと蒸し暑いけれど、空はかき氷のブルーハワイみたいに真っ青に澄んでいる。
秋の結婚式に向けて、もう何度目かの打ち合わせだった。
「申し訳ございません、あいにく、佐倉は体調を崩しておりまして……本日は私が担当いたします」
夏用の制服が真新しかった。佐倉からおふたりのことは引き継いでおりますのでご安心ください、と糸倉は笑った。
黒髪をひっつめた髪型は健在だが、一回目の打ち合わせの時よりもお茶を出す様子が手馴れていた。
「随分若いんだね」
「実を申し上げますと、今年の四月に就職したばかりでございます。精一杯務めますので、よろしくご指導ください」
良一が驚くと、敬語がまだ口に馴染まない初々しさで糸倉ははにかんだ。
佐倉のベテラン然とした規律正しさと比べると慕わしいあどけなさに、いつかの遠い秋の日のミルクティーが蘇って、ミヤはこの高級ホテルで初めて深く呼吸をすることができた。
「本日は招待状を決めると伺っております。いくつかパターンがございますが……、まずはトラディショナルな形式でお持ちしました」
そっと差し出されたサンプルは紅い枠で縁取りされて、いかにも高級そうな紙の厚さだ。

 皆様には益々のご清祥のことと
 お慶び申し上げます
 このたび
 茂 長男 良一 と 隆 長女 竹緒
 との婚約相整いまして結婚式を挙げる運びとなりました
 つきましては 幾久しくご懇情を賜りたく
 披露かたがた小宴を催したく存じます
 ご多用中 誠に恐縮ではございますが
 ご来臨の栄を賜りたく 謹んでご案内申し上げます

 謹白

 平成二年八月吉日
 秋月 茂   
 佐藤 隆

「ああ、いいですね。」
良一が鷹揚に頷いた。
一度しか顔を突き合わせたことのない男ふたりが差出人に並んでいる光景はひどく不可思議で、ミヤはそっと首を傾げた。それから、二十五年間をきっと一番傍で過ごしてくれた母親の名前を探して、黒黒とした瞳を何度も文面の上に滑らせた。
「新婦様のお名前、竹緒様とおっしゃるのですね。新郎様がミヤさんとお呼びしているので、私もミヤ様かと勘違いしておりました」
カラカラとアイスティーの氷を鳴らすと、光の加減で紅茶色の影がデスクに揺らめく。
糸倉の言葉に、ああそういえば、とミヤはようやくもうひとつの違和感の正体を見つけた。そういえば、自分の本名は竹緒というのだった。
職場では名字で呼ばれるし、親しい人にはミヤさん、家族には竹と呼ばれるものだから、竹緒が本名だと意識する機会は意外と少ない。
いつだって、誰もの人生の根底にはベートーヴェンの悲愴が流れている。優しく、哀切で、物憂げなメロディーだ。
けれど、自分の場合はきっと生まれたその時に一番大きな音で鳴り響いたのだと、ミヤは自分自身の人生に流れる悲愴をずっと聴いてきた。
古風な名前は祖父が与えた。産褥で母が臥せっているうちに、祖父と父が相談して、近所の神社に画数で命名してもらったのだという。
画数なんて結婚すれば変わってしまうのに、どこか滑稽なその由来は、幼いころから聞くたびに笑ってしまう。
それは、きっと呪われた名前なのだ。
春に生まれたことを寿いで、母は弥生と名付けたかったのだと聞いた。
この世に生み落とした人の心を軽んじた名前に、大人になった今もミヤはどこか馴染めていない。
ミヤ、という美しい綽名を与えてくれたのはアキだ。
「何、自分の名前好きじゃないの。そんなら私が名付けてあげよう」
にんまりと笑って、四月の入学式も終わって間もないころ、アキが選んだふたつの文字は本名よりも不思議としっくりと馴染んだ。
美弥。美しい弥生。
それから卒業まで、そして卒業してからも、竹緒は美弥と呼ばれ続けた。
桃色の唇の女学生たちが歌った綽名を、夫となる男も好んで口にした。美弥自身もこの綽名を愛していたし、自分で選びなおした名前で生きることは、人生を愛するためのひとつの方法だった。
「……ああ、ごめんなさい。美弥は綽名なんです。学生時代の綽名なんですけど、良一さんにもそっちが馴染んじゃって」
そういったこまごまとした事情をここで話す気にはなれなくて、美弥はにっこりと微笑んだ。
笑顔で蓋をすることは、社会に出てから身に着けた数少ない処世術のひとつだった。
「普段は美弥さんって呼んでるけど。でも、籍を入れたら秋月竹緒になるんですよ。字面が良いでしょう」
「ほんと、晩秋の結婚式にぴったりのお名前ですね」
良一と糸倉の会話は、透明な膜が間にゆやんゆやんと垂れているようで、どこか遠くの世界にいるみたいに現実感がない。
普通の花嫁はこのような時に頬を赤らめるのだろうか。姓が変わるそのよろこびに身をゆだねるのだろうか。
透明な膜の思いがけない分厚さに驚きながら、素朴な疑問は美弥の心に薄墨のように広がった。
秋月竹緒という名前は確かに物語のようで気に入っていた。月の世界に逃げてしまうお姫様のような名前だ。
それでも、最後まで馴染みこそしなかったが、佐藤竹緒という、これまでの生涯を共に生きてきた友だちをはぎ取られたような寂しさを覚えるのもまた、事実なのだ。
アキヅキ タケオ
それは頑なに宙に浮いて、カタカナのまま地上に降りてきてくれやしない。
佐藤というのはとても平凡な名字だ。平凡な名字だけれど、美弥にとっては、これまで自分を公式に表す唯一の盾のようなものだった。
竹緒さん、と呼ばれるより、佐藤さん、と呼ばれるほうがずっと好きだった。
婚姻届けを提出したら、下の名前どころか、名字までよそよそしくなってしまう。
女という生き物は、年ごろになると、伝統という重苦しい怪物に首根っこを掴まれるしかないのだろうか。
ベートーヴェンの悲愴が、月光が、胸の内で掻き鳴らされる。ともすれば涙が零れ落ちそうな冷房の寒さだった。
「美弥さん、どうしようか。招待状、このパターンでいい?」
「そうねえ、」
私は今、取り繕えているかしら。社会人の仮面を、新妻の仮面を、取り繕えているかしら。
長い睫毛で何度も瞬きをして涙を押しこめても、変わらず悲しみは湧いてきた。
涙の熱さが脳内を駆け巡って、環境のことなんてちっとも考えずにエンジンをフル稼働しているホテルの冷房に感謝した。
良一が悪いわけではない。
糸倉が悪いわけでもない。
かといって、美弥が悪いわけでもなかった。 
おめでたいこととされている、幸せばかりのはずの結婚式の打ち合わせで、ひとり取り乱すのはきっとひどく場違いだ。周囲を驚かせないためにも、ここは美弥が自分を抑えないといけないのだ。
マスカラが剥がれないように、こっそりと深呼吸を試みると、
「こちらのパターンもございますが、いかがなさいますか」
糸倉の柔らかな指先が、そっともう一枚の招待状を取り出した。

 皆様には益々のご清祥のことと
 お慶び申し上げます
 このたび 私たちは結婚式を挙げることになりました
 つきましては 日ごろお世話になっている方々に
 お集まりいただき ささやかな披露宴を催したいと存じます
 ご多用中 誠に恐縮ではございますが
 ご来臨の栄を賜りたく 謹んでご案内申し上げます

 謹白
 
 平成二年八月吉日
 秋月良一   
 佐藤竹緒
 
糸倉の指先にはほつほつと桃色のネイルが施されていて、美しかった。
「いいんですか」
「ええ、もちろん。近頃ではこういった形式も多いんですよ」
驚く美弥を安心させるように糸倉は微笑んだ。困っている隣人に手を差しのべるその躊躇いのなさは、人の心の柔らかいところを搾取されたことのない、素朴な若さの賜物だった。
「良一さんは、どう思う」
「美弥さんがそうしたいならいいんじゃない」
さしたる関心もなさそうに良一が頷いて、招待状は無事に決まった。
佐藤竹緒という名前が高級な紙に印刷されていた。
泣いたり笑ったりしたこれまでの人生を共に過ごしてきた名前を、美弥は何度も何度も指でなぞった。
呪われた名前であることには変わりない。決して好きな名字でもなかった。
それでも、多くの人にとってそうであるように、佐藤という姓と竹緒という名前は美弥だけの宝物だった。
誰にも奪われたくはない宝物だった。


いつだって秋が近づくにつれて、誰かに手紙を出したくなるのはなぜだろう。
通勤の朝晩、道々の木々が色づき始めていた。降り落ちそうな葉の一枚一枚はどこか便箋を思いださせる。
美弥は空想した。金色の鳥の形をした葉の代わりに、世界中から集められた封筒と便箋がイチョウ並木に舞い落ちる光景は、それはそれで悪くはない気がする。

招待状を無事に発送しおわって、刻一刻と式の日取りが近づいていた。美弥の頭の中では、近ごろ、ずっと電話が鳴っている。
電話の音は大きくて、ティンパニがロールで打ち鳴らされているようだ。いよいよ神経が参ったかとも思ったが、私生活にも仕事にも支障はないので放っておいていた。
美弥は元来電話が苦手だ。手紙と異なって、いきなり飛び込んできては、耳元で容赦なく自分の時間を奪っていく。社会人になってから大分慣れはしたが、それでもベルが鳴るとちょっとした焦りに呼吸が速くなってしまう。
脳内で鳴り響く三十二音符のティンパニとは裏腹に、窓口の閉まった銀行のオフィスはひっそりと静かだ。今日は外回りの予定はなかったから、美弥はげっそりとしながら、溜まった書類のいくつかをさばいていた。
書類をめくるたびに、ティンパニの電話の音が鳴り響く。
先だっての朝礼で寿退職をすると告げたとき、引き継ぎのためにクライアントを訪れたとき、そのひとつひとつでまみえた人々の顔がのっぺらぼうになって、美弥の心に朝から晩まで電話をかけていた。
「いやあ、佐藤君、寿退職しちゃうんだな。寂しくなるね。でもそれが女性の幸せだからな」
「三食昼寝付きだろう。羨ましいよ」
沢山ののっぺらぼうが好き好きに結婚を寿いでくれた。その一言一言に、ありがとうございます、と微笑みかえすたびに、心のどこかが確かにひび割れた。
「先輩、ここってどうなっていますか」
街中で聞こえる会話の一音一音の間の取り方が四分音符だとしたら、この間の取り方は二分音符だ。
のっぺらぼうに呑まれかけていた美弥は、声をかけられてはっとした。
上原悠喜はネクタイもまだ真新しく、この銀行不人気の時代に、地元が好きだからとわざわざ地銀に就職した数少ない新人だ。話すスピードがゆっくりだからか、まだ若いのに人を落ち着かせる不思議な調子を持っている。初めての後輩として、入行当初から美弥が面倒をみてやっていた。
電話の音がひととき、止まる。
「先輩?」
「ああ、ごめんなさいね」
書きかけの書類を脇に追いやって説明しながら、美弥は上原を見やった。
襟が少し曲がった上原は、お茶当番を課せられることもなく、口紅の色で嫌味を言われることもなく、大切な新人として銀行中で伸びやかに育てられていた。
いいなあ、
上原と向き合うと、美弥は無意識に遠くを見つめてしまう。
上原が悪いわけでは決してないけれど、あまりの差に時折虚しくなってしまう。
美弥と上原は同じ学部を卒業していたので、ふたりの間に違いがあるとすれば、それは男か女かの違いだけだった。
飲み会の席で、恋人の有無や結婚の予定についてではなく、今後のキャリアの展望について上司と話せることが羨ましかった。
のんびりした上原には、美弥が入行以来乗りこえてきた細々とした障壁はきっとひとつも見えていない。呑気さは彼の美点だ。それでも、ストッキングについた細かな傷が痛んで、美弥はたまに堪らなく虚しくなることがあった。
初めてできた後輩だ。可愛くないわけがなく、決して要領が良いとは言えない彼に、ひとつずつできる限り丁寧に教えてやった。エイリアンの自分には誰も教えてくれなかったことを、数年前の自分に贈り物をするみたいに、ひとつひとつ分かりやすく与えてやった。
その甲斐あって、初めて会った時よりも上原はだいぶ仕事ができるようになっていたし、ゴシップを期待する人々の思惑を裏ぎってふたりは良好な先輩と後輩の関係を築いていた。
「ありがとうございました」
「うん、私がいなくなっても、頑張ってね」
ひとつひとつ順を追って教えてやると、誠実な後輩は髪をふわふわとゆらしてお辞儀をした。
ふと思いついて、たまたま鞄に入っていた金平糖を分けてやると、まだあどけなさの残る笑顔で、ありがとうございますと頬ばった。
「先輩は、結婚するのが嫌ですか?」
ころころと金平糖を頬ばりながら、学生時代の延長線にある率直さで尋ねた後輩に、美弥は口に含んでいた紅茶を吹きだしそうになってしまった。
「そんなことないよ……。上原君、そうやって何でも口に出しちゃう癖、私の後任の人が来たら直しなさいね」
「すみません。でもなんだか先輩、ずっと笑ってないように見えたので」
呑気なこの子は、話すときに相手の瞳をじっと見つめる癖がある。
真摯な視線を笑い飛ばせずに、美弥は言葉に詰まった。彼の黒々とした瞳は、この三年間で美弥が擦り減らしてしまった真摯さだ。
いけない。この真摯さは、パンドラの箱だ。決して開けたらいけないものだ。
慌てて自分も金平糖を口に放りこむと、ようやく、営業で鍛えられた口が回りはじめてくれた。
「気のせいだよ。売れ残りのクリスマスケーキが売れてくれて、私本当にほっとしているの。仕事も、結局そんなに得意じゃなかったし。上原君も早く可愛いお嫁さん見つけて結婚しなさいね」
売れ筋の商品を紹介する時のように、誰かに言われた言葉をそっくりそのまま繰りかえした。
自分がのっぺらぼうに乗っとられたような虚しさに口元が歪んだが、気づかれないようににっこりと笑った。
ごまかされたことに気づいたのか、美弥につられたのか、上原も笑った。
笑顔なのに眉が下がって、歳に似あわない寂寥が見え隠れしていた。
「結婚はしたいですけど……。俺はきっと、できないんです」
「え?」
問い返したのも束の間、三年間ありがとうございました、と大きな声でお礼を言って、上原は大きな歩幅で歩いていってしまった。
「先輩の仕事の仕方が好きでした。真面目な性格が出ているみたいに、きっちりきっちりしていて、見ていて気持ちが良かったです」
最後に贈られた言葉ばかりが耳元に残っていた。
金平糖がほろほろと溶けていく。彼の革靴の足音が、この三年間の怒涛の仕事の手触りを美弥に思い起こさせた。
考えたら、嫌味としてではなく、純粋に仕事の仕方を褒められたのはこれが初めてかもしれなかった。
三年間、結局ずっと美弥は美弥のまま、エイリアンはエイリアンのままだった。スーツの宇宙人は男にも女にもなれないまま、それでも仕事自体は決して嫌いではなかった。そのことを初めて他人に認められた。
エイリアンに対する風当たりは決して生易しいものではなかった。大人のいじめは男女共に陰湿で分かり辛くて、いつのまにか確実に美弥の心をむしばんだ。
それでも、決裁をあげるときのきっちりとした感じや、申請書を受理するときの紙のざらつき、クライアントと合意に成功したときの達成感、それらは慈しむべき日常だった。
ああ、私、仕事は決して嫌いではなかった。
ティンパニの音が止まった。
代わりに聴こえてきたメロディーからは仄暗い悲しみが零れて、美弥はほつほつと耳を澄ませる。
重々しいソナタだった。魂の物悲しい声が遥か彼方から聴こえる、これはベートーヴェンの月光だ。
あちらこちらから光をあてられて、それまでティンパニに覆い隠されていた悲しみがようやく姿を見せてくる。その存在を、睫毛に彩られた大きな瞳でじっと美弥は見つめた。


昨日おろしたばかりのストールが、風に舞って纏わりついてくる。
あの日気づいた悲しみは、このごろずっと美弥の中に在った。デスクを片付けているときも、披露宴のブーケを選んでいるときも、ずっと。
あまりにも至近距離に在るせいでピントが合わなくて、その正体をなかなか因数分解できなかった。

昨年から土曜日の仕事が完全に休みになった。窓口が不便になったと母は嘆くが、ピアノを弾く時間が増えて美弥としては嬉しい。
その日はお昼前に起きると、美弥はラ・カンパネラを何度かさらってから、日が柔らかくなるのを待って車をだした。カーラジオをつけると皇太子のお妃探しのニュースがかしましく、結局気に入りのクラッシックをかけた。
夕暮れ近くの古びた喫茶店は大学を卒業してからも数年間変わらないメニューだ。
林檎のタルトの赤い皮が蜜の下でつやつやと映えて、見惚れているうちにドアのベルがカラカラと鳴った。
「ごめん、美弥ちゃん、遅くなった」
「ううん、全然。こうして人を待つ時間、嫌いじゃない」
アキの素敵なアルトの声はいつだって美弥を微笑ませる。
大学時代にロシア文学を専攻したアキは、学問を深めたいという建前のもと、実際はその動乱を間近で見たいという好奇心に突き動かされて、昨年から大学院を休学してロシアへ留学していた。
久しぶりに帰国したという彼女は、北国の寒さで一層白くなった頬を夕陽に映えさせた。
「結婚おめでと」
「ありがと」
お酒の代わりにミルクティーで乾杯して、くふくふと二人は笑った。今日はアキに招待状を手渡すのが目的で、ペンだこのできた彼女の指先に紅色で縁取られた厚紙がそっと収まった。
「本当に結婚しちゃうんだねえ」
しみじみと招待状を見つめるアキの爪先は、夕陽みたいにぼってりとしたオレンジ色で彩られている。
太陽を目の当たりにしたように眩しくて、美弥は目を眇めた。
店内は年老いたマスターと、学生が何人かと、どの声も潜められていて小さい秋の静けさだ。
「なんだろ、なんかね、最近悲しくて」
「悲しい?」
「うん。結婚が決まって、幸せなはずなのに悲しい」
カツカツと林檎のタルトを啄みながら、静けさに促されたように美弥は話をつづけた。こうして人の口を軽やかにするのは良い喫茶店の証拠だ。
ささやかな結婚祝いに好きなだけ奢るというアキの好意に甘えて、タルトはもう三つ目だった。
「……ああ、違う、良一さんに不満があるわけじゃないんだよ」
「当たり前だよ、私が紹介したんだもん。良い人じゃないと美弥ちゃんに紹介したりなんかしない。まあ少し背は低いけど?」
慌てて付け足すと、学生時代から変わらない仕草でアキは肩をすくめた。
悲しい、ねえ。スプーンでミルクティーを奏でながらアキが呟いたので、マリッジブルーの一言で片づけられなかったことに美弥は安心した。
良一を紹介してくれたのは、大学時代のサークルの遠い縁で彼と知り合ったというアキだった。
実をいうと、二回目のデートの後に良一からの告白を受け入れたのは、良一自身に強く惹かれたというよりも、人生で一番青く透きとおる時間を一緒に過ごした友への信頼が大きな理由だった。
ショパンの木枯らしのような風が、名残のように歪んだ喫茶店の旧い窓ガラスを揺らす。
「寿退職も決まって、もう営業の成績も、会社の上司の顔色も気にしないで済んで、結婚式だってもうすぐで、良一さんは優しい人で、落ちこむ私が贅沢で我儘なのは分かってるんだよ。なんで悲しいのか、自分でも分からないくらいだ」
紅茶の香りが立ちのぼって、雨の日のように強く二人を包みこんだ。
そうねえ、とアキのアルトの呟きがじっと美弥の瞳を覗きこんだ。
学生時代から、お互い頼ったり、頼られたりを繰りかえして、もう格好悪いところなんて何度も見られていた。
「良一さんに不満がなくたって、きっと、結婚するという行為自体が個人にとって重苦しいことなんだよ。美弥ちゃん、マリッジブルーなんて、気楽に横文字で表せるもんなんかじゃないよ」
曇りガラスがカタカタと鳴っていた。遠くの口笛の音が聴こえて、ずっと目隠しされていた手が外されたみたいに視界に鮮明なオレンジ色が躍った。
ひう、とひきつった音がした。それが自分の声だと気づいたころ、美弥はいつの間にかほろほろと涙を零していた。
耳元で、小さく大きく、ベートーヴェンのソナタが奏でられて、大海のような心の動きにそっと寄り添う。
静かな喫茶店だから、美弥の泣き声に誰が反応する訳でもなく、ただマスターがそっと水のお代わりを注ぎに来た。
「アキ、私は、悲しい」
プロポーズ以来、初めて人に伝えた音だった。
名字がはぎとられてしまうこと。
人前で感動を演じるのはどうにも性に合わなかったので、最近流行の演出である新婦の手紙はやらないことに決めたこと。そうすると、結婚式で美弥は一言も発しなくなってしまうこと。
奥さん、旦那さんという、対等な関係にそぐわない旧弊な語彙しかない母語が、手枷のように不自由であること。
それらは、誰か分かりやすい悪者がいる怒りではなかった。
誰に踏みつけられているのかも分からないまま、それでも踏みつけられていることだけは痛みとして実感せざるを得ない者の、果てのない悲しみだった。
そういったことをほつほつと、美弥はアンダンテのスピードで話した。
結婚は幸せでおめでたいものだから、こんな仄暗い悲しみの気持ちは存在してはならないのだと思っていた。それらをひとつひとつ、ふんふんとストローをいじりながら聴いてくれるアキがうれしかった。
まあ食べなよ、と勧められた林檎のタルトは仄かに塩辛かった。
「なんとなく分かるよ。私たち、学生までは人間として教育を受けてきたのに、社会に出た途端に、世間から女であることを押しつけられるのってなんなんだろね。きっとそれが特に分かりやすく現れるのが結婚なんだろね」
口内でタルトの林檎がほどけていく。
マスターにモンブランを追加で注文すると、アンタの大食いは変わらないね、とアキが快活に笑った。
「私、アンタがよく食べるの好きだよ。生きてるって感じがする」
子どもらに帰宅を促す夕方の音楽が流れていた。小学校の音楽の時間に何度か演奏したことのある馴染みのメロディだ。
右手で紅茶を飲みながら、懐かしいメロディを勝手に爪弾く美弥の左手を、アキが眩しそうに見つめた。
溶かしたミルクがどんなものかは分からないけれど、あのころは憧れて堪らなかったな。
つるべ落としに暮れていく夕陽にミルクティーが染まって、給食に添えられた紙パックの牛乳が、その日ばかりは妙に美味しかったことを思い出した。
「……あのね、私、仕事を辞めるでしょう。自分から言わないうちに決められた退職だったけれど、もしそれに理由があるとしたら、それは私が仕事が合わないから辞めるだけなんだ。それはどこまでも私自身の問題で、良一さんの良き妻になりたいからとか、そういった理由ではないのね」
夕陽が歪んだ窓ガラスから射しこんで、机の木目をも紅く彩った。
マスターがコトリと置いてくれたモンブランは甘くて、くすんだベージュと白の断面が穏やかだ。
このあいだ、良一と佐倉と、結婚式当日の進行について打ち合わせをした。司会原稿では、結婚後に美弥が東京へ越してくること、仕事を辞めること、そういったことのすべてが良き妻のなせる技、理想的な幸せの形として描かれていた。
その文字の羅列では、美弥はまるで良妻賢母のようだった。
東京に越してくるのは地元よりも刺激が多そうだからで、仕事を辞めることは美弥の意思とは何一つ関係の無いことだったが、真実とはかけ離れたインクの羅列を、良一は「ああ、とても良いですね」といつもの調子で褒めたのだった。
「私の幸せを、私以外は勝手に判断しないでほしいんだ」
手の甲で涙を拭うと、マスカラがこすれて黒い筋ができた。
仕事を辞めることも東京に行くことも、それぞれの事情を配慮して決めたことなのに、勝手に美談にしたてあげるとはひどく無遠慮だ。 
優しい色合いのミルクティーに、気がつくと涙が波紋を広げていた。
一度泣き出すと止まらなくて、美弥はほろほろ、ほろほろと、止めることもできずに涙を落とした。
「もう、だめなの。私自身の気持ちで結婚したいのか、流されてこうなってるのか、もう分からないんだ」
カップに口をつけると涙で塩辛い。
校門の傍の自販機のあのミルクティーと似ているここの味が好きなのに、ひどく残念だ。
アキとは昔からの親友で、些細だったり重大だったりする悩み事をいくつも共有してはその時なりの最適解を一緒に探ったけれど、今回ばかりはアキ個人の手に負えるものではないみたいだ。答えあぐねるように、彼女のぼってりとしたオレンジ色のマニキュアがくるくるとストローを弄んだ。
気は持ちようだとか、そんな使い古された言葉でしのげるものでは決してなくて、大きな分厚いガラスの前で、美弥もアキも途方もなく立ちすくんでいた。
それでも、ひとりぼっちではなく誰かが傍にいてくれることがひたすらに心強かった。
どれくらい時間が経っただろう。
窓の外はすっかり暮れて、紫色のしめやかな夜空が光っていた。マスターがグラスを拭きはじめた頃、アキがそっと眉をしかめた。
「悲しみは、海ではないからすっかり呑みこめる」
泣き疲れたときって何重もの柔らかい膜がはられているかのように、現実が拡張されて手が届かなくなってしまう。柔らかい膜に音がエコーして、一度きりでは聞き取れなかった美弥のために、一言一言、アキはもう一度繰りかえした。
「ロシアの諺なんだ。なんかもう、この諺自体がとても悲しくって、私は大好き。日本でもロシアでも、やりきれないことがあったときに、ウォッカ呑みながら一人で呟くのよ」
美弥ちゃんだから教えてあげる。
桃みたいに柔らかな唇を綻ばせて、悪戯っぽくアキは笑った。祖母譲りの金色混じりの髪が、喫茶店のライトに透けていた。
「美弥ちゃんは大食らいだからさ、きっと大丈夫よ。悲しみごと食べられるよ」
食べることは生きることだから。
歩くように、歌うように奏でられるメロディーは、いったい今までどれだけの数の人を救ってきたのだろう。
「それに、手紙をくれれば、私流にいつだって慰めてあげる。大丈夫だよ、美弥ちゃん。ロシアと日本なんて隣国なんだから」
閉店時間はとっくに過ぎているはずなのに、髭がよく似あうマスターは煙草を吸いにいったまま帰ってこない。
アキのオレンジ色の指先で摘ままれたフォークで、艶々と夜に映えるマロングラッセを美弥は食べさせられた。喉につまりそうになるのをすんでのところで呑みこんで、ミルクティーを飲んだ。
「優しいな、アキは」
「だって私、高校生のとき、嫁ぐお姉ちゃんが泣いてたのをずっと傍で見てたもの。あのとき私は寂しさに呑みこまれて何もできなかったけど、次に誰かがしんどい思いした時は、せめて傍にいたいって思ってたんだ。私が辛かったあの時、傍にいてくれたのは美弥ちゃんだったから」
記憶の丘に金色のイチョウが散っていく。
女学生のころも、今も、明治のころだって、いつだって変わらずに秋は存在し続けている。
あの頃とちょうどきっかり反対の役割で、アキは美弥のほっそりとした指先をからめとった。
優しさは巡るのよ。
かつての自分から思いがけない優しさを受け取って、美弥はすっかり塩辛くなったミルクティーを手にとった。
アンダンテ・カンタービレで飲み干すと、お腹の中に温かさが一滴一滴、滴り落ちていく。
親切なマスターに心ばかりのお礼を上乗せして、二人は喫茶店を歩きでた。


その日は亜麻色の髪の乙女のように柔らかい空だった。
故郷の秋は、美弥がこれまで経験した二十四回の秋と同じように天高く、紅葉の入りまじった木々に映えた。

今日を限りに実家を出る実感は乏しかった。他人事のような心の茫漠とした膜を、美弥は不思議のうちに眺めた。
全てに問題はなかった。
招待状は行きわたり、両親は久しぶりの礼服をどうにか着こなし、美弥の爪は晴れの日にふさわしくつやつやと磨かれた。
「じゃあね、竹。気を付けていきなさいよ」
「うん、また式場でね」
黒留袖を着て、これから美容院に行くのだという母親のまだ整えられていない黒髪の向こうに、実った稲穂の美しい黄金色がさやさやとそよいでいた。収穫がもうすぐなのだ。
「竹、あちらさんに失礼が無いようにな」
「大丈夫よ、父さん」
退職をしてすっかり好々爺になった父親は、近ごろは時間を持て余して、近所の町議会議員の事務所に入り浸ってばかりいる。久しぶりの晴れ舞台に今朝はうんと早起きをして、母の分も念入りに靴を磨いていた。
披露宴で新婦の手紙を読まない代わりにと、いくつかのカセットテープを両親に手渡した。自分が出ていった後も聴けるように、ベートーベンの第九交響曲をはじめとする有名なクラッシックをピアノで弾いて録りためたものだった。
年老いたふたりのの眦がゆるむのを見て、これでもう心残りはなかった。
ミルクティーが一滴一滴滴り落ちて、お腹の中が温かかった。
結婚式の当日にも関わらず、気持ちは穏やかに凪いでいた。

身一つで東京のホテルに向かう道すがら、花嫁は思ったよりも身軽だ。
荷物はすべて式場に搬入し終わっていたから、貴重品とおにぎり、水筒だけを入れたバッグを膝にのせて、美弥はもう何度も乗った特急に慣れた足どりで乗りこんだ。平成という新元号と共に導入された車両は真新しく、休日の朝の禁煙車は小旅行に行くのだろう親子連れで溢れていた。
指定席に座ると、母が握ってくれた大きなおにぎりを三つ、梅干しとおかかと明太子で具の違うそれぞれを、前の座席の背もたれにくっついているテーブルに広げた。式のあいだはもちろん、披露宴でも、せっかくのフルコースを花嫁は食べられないという。おにぎりの下に広げたオレンジ色のハンカチがにぎやかで食欲をそそった。
まだルージュも塗っていない裸の唇であっという間に腹に納めると、隣の席の子どもが唖然として美弥の食べっぷりを見つめていた。
多少は膨れた腹をさすりながらうたた寝をすれば、あっという間に東京だ。
何本か地下鉄を乗りつぐうちに、次第に人も増えてきた。土曜日のホーム、昨夜電話で申しあわせていた通りの場所に良一は立っていた。
人ごみの中ですぐに見つけられる程度には、その少しばかり低い背も、丸い肩も、やや左に傾く立ち姿も、もうとっくに目に焼き付いていた。
「おはよう、よく眠れた?」
「どうにか。良一さんは?」
「僕は緊張して、あまり寝られなかったんだ」
頬を掻く良一の話しぶりは落ち着いていて、とてもこれから結婚式を迎える人のようには思えない。
会場に到着すると、佐倉と糸倉をはじめとするスタッフたちに恭しく迎えられた。慌ただしく最終の打ちあわせを行って、二手に分かれて身支度を行った。
気がつくと、ドレスを身に纏ってメイクを施されて、あっという間に一人の花嫁が完成していた。
白いドレスが黒髪に似合って、我ながら美しい花嫁姿だった。
衣装係も出来栄えに満足そうに笑って、「ルージュが落ちないように、食事はできるだけ控えて、お水を飲まれる時も気をつけてくださいね」と付け加えた。
入れ代わりに入ってきた良一は、すっかり貸衣装のタキシードに着られていた。
「美弥さん、すごく綺麗だ」
「ありがとう。ねえ、ルージュ、もうすこし鮮やかな色の方が良かったかしら」
「秋らしくてとても素敵だよ。みんなに見てもらうのが本当に楽しみだ」
丁寧にぬられたザクロ色のルージュを落とさないように、これからは食べものも飲みものもできるだけ控えめにしないといけない。早くも空腹を訴え始めた胃袋と、舌を舐めたくなる衝動を、美弥は空を眺めることで落ちつかせた。一部の隙もなく磨かれた窓から見える、東京の空だった。
次第に控室の外がざわざわとにぎやかになっていく。同時に、美弥の足元でラ・カンパネラが流れはじめた。
「そろそろみんなが到着する頃だよ。父さん母さんや、親戚のご重鎮方も。あとで挨拶に行かないとね」
あと一時間後には、美弥の空想のラ・カンパネラだけではなく、現実に式場の鐘が鳴るのだろう。
悲しみは海ではないから呑みこめる。
ひりひりと痺れそうな緊張感のなか、外国のことわざを何度も呟いて、だから私は大丈夫、と美弥は何度も自分自身に言いきかせた。
この結婚式のために一週間長く日本に滞在してくれたアキは、今夜の一番遅い便で発つという。直前でトラブルが発生したらしく、披露宴に少しばかり遅れそうだと先ほど連絡が届いた。
呑みこめる、呑みこめる、外国のことわざを何度も口にして、親友のいない心細さを美弥は押しとどめた。
その時、「どう責任を取るつもりですか」と怒鳴り声が控室にまで届いて、美弥と良一は顔を見あわせた。
誰かが誰かを叱責する声は、どんな時だって、特にこういった晴れやかな日には聞きたくはない。
突然の不協和音に、先ほどまでのラ・カンパネラの鐘の音も一転、控室の外は水を打ったように静まった。
「どうしたんだろう」
人の手を借りなければ立つことすらままならないドレスだ。良一に手を貸してもらって、美弥はそっと控室のドアに耳を近づけた。
人よりも過敏な耳は、こういう時には役に立つ。
耳を澄ませると、どうやら佐倉が糸倉を叱責しているようだった。
「こうしたしっかりした家の方々なんだから、ご案内する貴方が気を付けるのは当然のことでしょう」
「なんのことだと思う?」
扉に阻まれて聞きとれない良一に、静かに、と人差し指を立てて耳を澄ませれば、どうやら招待状を美弥と良一の名前で出した件のことらしかった。
招待状の差出人が両家の父親ではなかったことに対する親戚方の不平不満が、困ったことに直接、佐倉の耳に入ってしまったようだった。
ドレスで身動きがとれないまま、叱責の声ばかりがよどみのように心に圧し掛かってくる。
「きちんとした家のお客様はこういうことにこだわるんです。家長が主催して、家と家を繋ぐことが本来のきちんとした結婚なのですから」
「本当に、申し訳ありませんでした」
糸倉の声が可哀想なくらいに震えていた。
よどみの中の一本の糸が、今にもはち切れそうに張りつめていた。
きちんとした結婚。
きちんとした結婚って、なんだろう。
身動きがとれないまま、美弥の中には疑問符ばかりが溢れた。
そんなに大層な人生を歩んできた訳ではないけれど、美弥が望んで、美弥も良一もその結果に満足していることに対して、こんなにうなだれた声で謝罪をさせてしまうのは人の道理に合わないことくらいは分かった。
きちんと。きちんとって、何が「きちんと」なのだろう。
白パンみたいなウェディングドレスは皺ひとつなくパリッとしているけれど、それじゃあ足りないのだろうか。美弥と良一がお互いに惹かれて、美弥が美弥のまま、良一が良一のまま共に生きていくだけでは、足りないのだろうか。もしそうなのだとしたら、神さまは人間に多くのものを望みすぎている。
美弥は美弥として生きるだけで、もう精一杯だった。美弥と良一が一対一で結びつくことは、その過程でお互いの気持ちを何よりも大事にすることは、「きちんとしていないこと」なのだろうか。
人と人が生きることよりも大切なことなんて、この世界に果たして存在するのだろうか。
人類はとっくの昔に科学の時代を迎えたはずなのに、この国では時折、ぬらりと化石のつまった地層が顔を出す。
化石もきっと、いつかどこかの誰かにとっては大切な宝物だったのだろう。その宝物を大切にする誰かの気持ちを否定する気は毛頭無かった。それでも、美弥がこの世界に生まれたというそれだけの理由で、顔も知らない化石層の誰かの気持ちを、自分自身の気持ちよりも大切にしなければいけない道理だってなかった。
「本当に、申し訳ありませんでした」
そっと扉を開けた。
隙間から覗きみた糸倉は、泣きそうなほど顔を真っ赤にして、首筋の白いシャツの襟が曲がっていた。その曲がり具合がとても可愛くて、今すぐ直してあげたいと美弥は思った。
「あの、いいんです」
気がつくと美弥はドレスを引きずって、かばうように両手を広げていた。
ハイヒールにつんのめって、ほとんど転びそうだった。
突然の花嫁の乱入に、佐倉も糸倉も良一も、遠巻きに見物していた親戚陣もあっけにとられていた。
思いきった行動に自分が一番驚いたまま、今さらあとには引けなくなってしまって、本当に、と美弥は言葉を重ねた。ザクロ色のルージュが、いつもよりも唇を滑らかにしてくれた。
「私たちが、私が、ふたりの連名で招待状を出したいって糸倉さんにお願いしたんです。私たちの結婚式ですもの。全部は無理でも、できるだけ私たちの思う通りにやりたいわ。ね、良一さん」
誰かに正面きって刃向かうなんて初めてで、情けないことに足が震えた。それでも、もし自分の美貌に力があるとするならば、今ここで行使すべきだと思った。
できるだけ美しい角度になるよう意識しながら、美弥はにっこりと微笑んだ。うん、いいんじゃない、と良一が嬉しそうにはにかんだ。
「美弥さんがそれでいいなら。僕はねえ、美弥さんが幸せそうなのが一番嬉しいんだよ」
穏やかで、凡庸で、それでもひどく優しい男だ。
いくら世界がうっとおしくても、私はやっぱりこの人のことが好きなのだ。
生きてあることの慰めを共にするのなら、この人の横がいい。
「そう、ですか。お客様がそうおっしゃるなら、私共が何かを申し上げる立場にはございませんが……」
困惑したしかめっ面の佐倉の横で、美弥は糸倉の襟に指をのばした。
瞳がまだすこし潤んでいることには気づかないふりをしてやって、ピアノを弾くときの繊細さで襟先を直してやると、林檎のように真っ赤な顔で糸倉がはにかんだ。

ハイヒールで転ばないように細心の注意を払いながら、美弥は、ベートーヴェンの交響曲第七番が晴れやかに流れるのを聴いた。
クラッシックに親しみのない良一や招待客が馴染めるように、美弥の好きな曲のなかから選んだ定番の入場曲だった。
何人ものホテルスタッフに先導されて、披露宴の会場の扉の前に立つと、
「不思議だと思わないかい」
つい先ほど神前式を挙げて、夫となったばかりの人が呟いた。
二人がこういった心の柔らかなひだの部分をすり合わせるのは初めてのことで、美弥はすこしだけ驚きながら、ひとつ頷いた。
数年前には出会ってすらいなかった。父親が離職するなんて、そもそもあぶくの内で踊っていただけだったなんて、それを言うならベルリンの壁が崩壊するなんて、思ってもいなかった。
当たり前だったことが、ひとつひとつ、ひらひらと飛び去って行く。
今日のこの結婚は何のニュースにもならない。けれど、自分たちの結婚も、ようやく東と西が繋がりはじめた世界も、一人ひとりの人間が構成していて、そして同等に不思議であることには変わりなかった。
ホルンと木管の和音を合図に扉が開いた。ざあっと会場内のいくつもの目に見つめられて、美弥は息を呑んだ。
ハイヒールを履くと案の定、良一の背を追いこしてしまったので、できるだけ大柄に見えないよう、そっと背をかがめた。
不思議、不思議、不思議だが、そう、ベートーヴェンがとうの昔に教えてくれていた。運命は突然、大きな音をたてて襲ってくるのだ。
扉の手前には家族、親戚、その向こうに親しい友人たち、そして雛壇の周りにはふたりの職場の人々が並んでいた。
アキの席ばかりが空白で心許なかったが、すぐそばで、初めて披露宴に出席するのだという上原が傍目にも分かるほど緊張していたので、思わず笑ってしまった。

良一が挨拶をして、職場の上司のスピーチが終わって、乾杯をした。前菜が運ばれてきたら余興の時間だ。電車で朝おにぎりを食べたきりなので、ともすれば空腹でお腹が鳴ってしまいそうだった。
フランス料理は前菜もスープも見目麗しく鮮やかで、ぐっと唾を飲みこんで喋ることもない喉をうるおした。
ああ、ドレスで着飾って、お花に囲まれて、物を食べることもなく笑って。本当に私、人形みたいね。
披露宴は順調に進んでいった。
同期の歌、伯母の詩吟、友人たちの歌、親戚の子どもたちのダンスと、余興は片手では足りないほどだったが、中でも一番場を沸かせたのは幼稚園に入ったばかりの姪だった。
「竹ちゃん、おめでと」と可愛らしい声で流行りの歌をのびのびと歌い上げた彼女は、会場の喝采をさらい、美弥が雛壇から手を振ってやると嬉しそうに両手を降り返した。
「姪っ子さん?」
「そう、一番上の姉の子で、瑠奈っていうの。厳しい姉さんなのに、今風の名前つけるからびっくりしちゃって。目が大きいでしょう、それで生まれたときに満月みたいって思ったらしいの」
「ロマンチックだねぇ」
良一はにこにこ笑うが、そうかしら、と美弥は内心首を傾げた。外国人風の名前は、正直なところまだ口にはなじまない。
それでも、母親の思いをこめた今様の名前を背負った子どもは、きっと幸せのうちに生きるだろう。小さな彼女にもいつか白いドレスを纏う日が来るのだろうか。その日に光が溢れていれば良いと祈った。
コルセットの下で、大食らいの胃がしくしくと泣いていた。そろそろ空腹が限界だが、時計に目をやると終宴までにはまだまだ時間があった。
目の前に並んだ宝石のような料理を、ぱくぱく食べる花嫁が好ましくないことくらい、いくらエイリアンでもよく分かっていた。
生唾ばかりが喉をうるおしていく。
ああ、お腹が空いたな。
キャベツの緑色が夏の名残のように鮮やかだ。ジュレのガラスの輝きといったらどうだろう。牛肉の滴り落ちる赤さはなんと美しいのだろう。
全てを呑みこめたら、どんなに素敵だろうか。
目の毒だわ、と視線をそむけると、ちょうど扉が細く開いて、きいと鮮やかなオレンジ色が入ってきた。
一瞬夕暮れかと見紛って、目を見はった。何度か瞬きをしてようやく、それがアキであることに美弥は気づいた。
余興は盛り上がる一方で、今や誰も花嫁花婿のことなんて気にしていない。そっと手を振ると、さといアキはすぐにこちらに気づいた。
「ごめん、美弥ちゃん、大事な日に遅くなっちゃった。でもどうにか今夜、無事に発てそうだよ。良一さんも、本日は誠におめでとうございます」
「いえいえ。アキさんに紹介してもらったから今日があるんだよ。忙しいのに参列してくれてありがとう」
「アキ、シャンパン飲む?乾杯しよう」
三人だけで乾杯をすると、しゅわしゅわ弾ける黄金色の泡が喉をうるおした。
久しぶりに命の水を呑みほした嬉しさで、どうしてオレンジ色のドレスなの、と美弥は尋ねた。
「オレンジが好きなんだ。自由を象徴する色だし、食欲を増進させる色だし。今日も美弥ちゃんがいっぱい食べられるように、って思って。……でもどしたの、全然食べてないじゃない」
「本当だ。美弥さん、どうしたの」
良一は、嫌味ではなく驚いているようだった。だって、と美弥は困り果てて、眉を寄せることしかできなかった。
「花嫁は食べてはいけない、って言うじゃない。はしたないし、せっかく来てくださってる皆さまに失礼だし」
「そんなこと気にしてたの?僕、いっぱい食べる美弥さんが好きなのに」
それは初めて良一の口から聴いた、好きという言葉だった。
思わずしげしげと見やると、恥ずかし気もなく、ほら、とナイフとフォークを渡された。
ね、素敵なひとでしょう、とアキがにんまりと笑った。
「そろそろ私も席に着かなくちゃ。美弥ちゃん、いいじゃない。どうせみんな、余興に夢中できっと誰も見てないよ」
悲しみごと食べるのでしょう。
喜びごと呑みこむのでしょう。
そうやって、貴女は生きていくのでしょう。
ドレスと揃いの色のネイルをほどこしたアキの指先が、励ますみたいに美弥の肩に手を置いた。ホテルの冷房は秋になっても効きすぎていて、すっかり冷たくなった肌にアキの体温がそっととろけた。
「食べないの?」
アキが席についてもなお、じっと宝石みたいな料理を見つめつづける美弥に、婚約指輪を贈ったときと同じ調子で良一が尋ねた。急かすでもなく、いつもののんびりとした調子だった。
親戚のおじ様方の余興の歌謡曲が遠くなって、弦楽器のトレモロとホルンの音色が微かに流れはじめた。
ああ、これはあの曲だ。
「食べていいの?」
「なんで食べちゃだめなの?」
良一は、どこまでも穏やかな人だった。温かな家族ときっちりとした職場で、守られた人として育てられた真っすぐさが彼の美点であり、欠点でもあった。
きっとはしたない真似をして責められるのは私で、その非難の声は良一さんの目にも耳にも入らないのだ。
そんなことは嫌というほど美弥にも分かっていた。いつだって、非難の声は言いやすい側に向けられて、そういった非難の声があることにさえ気づかないよう守られている人々がいるようにこの世界はできているのだ。
視線を合わせると、良一は人好きのする笑顔で笑った。父さんたちから料理がおいしいと聞いていたから、このホテルで披露宴をやりたかったんだよ。
世界の構造を頭では理解していても、良一の朴訥さはどうしようもなく美弥の背を押した。
そっと友人席に目をやると、はっとするほど鮮やかなオレンジ色が、先ほどまでの寂しい空白を埋め尽くしていた。
オーケストラが聴きなれたメロディを奏でる。
おお友よ、とバリトンが歌い始める。
「僕ねえ、君が、こう、くわって食べるの見るの好きなんだよね。生きてる、って感じがするよ」
ベートーヴェンの第九に背中を押されて、美弥はザクロ色で縁どられた唇を大きくあけた。
大喰らいの竹緒、世界を食らう。
茸のポタージュをひと匙口に含めば、丸まっていた背が伸びた。
夏の名残のキャベツは仄かに甘く、魚のソースの緑からは竹林が滴り落ちて、ピンクグレープフルーツの透きとおった薔薇色はウェディングドレスに包まれた空っぽの胃に彩りを与えた。
「とっても美味しい、」
「うん、よかった」
目の前は相も変わらず余興で騒がしく、どのテーブルも隣の席同士でお喋りに興じていたが、そんなことも真っ白になって、美弥は第九のメロディの美しさに心奪われた。
こちらを見つめる良一の視線が柔らかく、その視線に紛れている四分音符の美しさに初めて気づいた。
この人の真っすぐさと共に歩む人生を歓喜したい、と思った。
「うん、すごく美味しい」
一口、二口と重ねて、美弥の背筋はもうバレリーナのように伸びていた。
ルビーの鮮やかさの牛肉を噛みながら、美弥はにっこりと笑った。およそ花嫁らしくないからと、慎んでいた大きな笑顔だった。
「私、貴方と音楽をきいて、美味しいものを食べて、一緒に生きることが楽しみだわ」
名字を剥ぎとられた血液の生々しさも、道を勝手に決められたさびしさも、口を塞がれた花嫁も、この時代この世界で生きていくための全ての悲しみは、いろいろな形をして相も変わらずそこに仰臥していた。
仰臥していたが、交響曲第九番が、美弥の消えない悲しみを癒すようにそっと寄り添っていた。
私は歓喜しよう。
どんな形であれ、愛のようなものが芽生えかけているこの幸いに歓喜しよう。

柔らかい秋の日の歓喜の歌だった。

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