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平成、この佳き日に。(平成三十一年)

 晴れやかなところの少ない部分だけを歩んできた人生でした。
 手をつないで歩くことができたら、それが僕らの勝利だと思いながら生きてきた。

 都心に繋がる線路が顔を覗かせる夜のホームは真っ暗で、大きなひとつの暗闇がのたくっているみたいだ。
 ひとりぼっちの孤独だってぽっかりと呑みこまれてしまいそうで、知央(ちお)はそっと悠斗の背広を掴んだ。
 「どうしたんだい?」
 「……夜のホームってなんだか怖いな」
 さっきまで鮮やかな紅の世界にいたから、尚更だった。そうやってすり寄れば、三十歳を迎えた恋人の子供じみた言動にも嫌な顔ひとつせず、悠斗は年の功を見せつけるように背中をさすってくれた。
 温かな手は、フライトでこり固まった背中を解きほぐしてくれる。久しぶりに乗った飛行機で首も背中も硬くなっていたけれど、その痛みすら幸福の名残だった。
 悠斗の年の離れた妹が台湾に嫁いだのは昨日のことだ。かりそめにも悠斗のパートナーとして出席にあやかった知央の瞼の裏にも、紅い彩りが舞ったままだった。
 百年好合。
 異国の祝福の言葉が、舌の上でころころと甘やかな金平糖になって溶けていく。
 昨年、アジアで初めての同性婚合法化に踏み出した隣国で、悠斗の妹とそのパートナーは、揃いのウェディングドレスを纏って式を挙げたのだ。知央が学生の頃に流行したポップスが、異国の言葉で金平糖のように愛らしく歌われるのがふしぎだった。
 自らの意思で、生きやすい場所を母国と定めた彼女たちの、青い閃光が眩しかった。その残像ですらあまりにも鮮烈で、空港のターミナル駅の薄暗さに佇むと、そのコントラストに眩暈がした。
 まるで仲の良い上司と部下のように、わざと気やすい手つきで悠斗が肩を抱いた。
 「俺たちも渋谷区に引っ越さないか」
 どんな時だってアンダンテの速度で話す彼の落ちついた声が、その時は特にゆるやかに響いた。
 おどろいて見あげると、話すときに人の目をじっと見つめる癖のある彼は、皺の増えてきた頬をくしゃっとほころばせてみせた。
 「渋谷区って、」
 「うん。僕と一緒に、生涯暮らさないか」
 月曜日を目前にした夜のホームには、ふたり以外に誰もいない。がらんとした空洞で、ひとつきりの光のように、悠斗の言葉は鮮烈に煌めいた。
 日本でも数年前から、同性によるパートナーシップ制度が始まっている。制度を最初に開始した自治体のひとつである渋谷区に引っこすということ、それはいまだに法律による家族となることができないふたりにとっては、プロポーズと同義だった。
 知央はまじまじと悠斗を見つめた。目元にそっと刷かれた紅はウェディングドレスを着た頬紅にそっくりで、異国の花嫁となった彼の妹と確かに血が繋がっているのだと示していた。
 気がつけばもう、悠斗と連れそって十年を超える年月が過ぎてたる。彼には皺が増えたし、自分だって、連日の徹夜には体力の限界を感じるようになっていた。
 物心がついてから、ずっと日の当たらない場所ばかりを歩いてきた。夕暮れのような幸いが突如目の前にあらわれて、こぼれた光が眼鏡のレンズごしに、知央の網膜を刺激した。
 「……俺でよければ、ぜひ」
 「本当に?」
 「断る理由があると思います?」
 にっこりと笑ってやれば、これでも緊張していたらしい悠斗は、年甲斐もなく大げさにはしゃいでみせた。
 それが彼流の照れ隠しだということは承知していたので、知央も、一緒になって喜んでやる。
 背広の大人ふたりの笑い声ががらんどうのホームに響きわたって、神さまがいつかどこかに置き忘れた寂しい天国みたいだった。
 特急が到着した。
 車輪の音と一緒に、最後のピースがはまる音が頭の隅っこで小さく響いた。この狭い島国で、ゲイの自分が完璧に生きていくために必要な、きっと最後のピースだ。
 日陰にしか道はないけれど、日陰を歩む者なりの生きる資格をようやく手に入れた安堵で、知央は身体中の筋肉が急速にゆるむのを感じた。
 「大丈夫かい?旅の疲れが出たのかな」
 早く帰って休まないとね。
 よろけた身体を支えてくれた悠斗もまた、プロポーズが受け入れられた安堵で笑顔がゆるゆるだ。
 きっと彼の安堵は、自分のそれと似ているようで異なるものだろう。
 気づいてはいたけれど、こんな紫色の春の夜にあえて言葉にする必要もない。知央はそっと首を振るに留めた。
 「あんなに小さかったアンが母国を自分で決めたくらいだ。俺たちも、自分の住むところくらい自分で決めよう」
 悠斗の言葉は、氷砂糖の幸福さに満ちている。シンデレラのガラスの靴みたいに透きとおっていて、脆く、頬張ると冷たい甘さがほろほろとほどけていった。
 台湾よりもいくぶんか冷たい春の空気のなか、知央はそっと手の甲を恋人のそれにくっつけた。触れた先の皮膚はかさついていた。

 勉強もそこそこ、運動もそこそこ、女の子を好きになるという機能だけを神さまが書き忘れた凡人の知央には、昔から人には言えない特技がひとつきりあった。
 「……この度は、誠にご愁傷様でございます」
 「お足元の悪いなか、お越しいただきありがとうございます」
 慣れない筆ペンで書いた名前は滲んで、まるで涙が流れた痕みたいだ。
 香典を渡すと、供えられた花と遺影ばかりが華やかな会場に案内されて、独特の静謐な雰囲気に呑まれそうになるのを知央はどうにか踏んばって耐えた。
 たたん、たたんとトタン屋根に雨雫が滴る。音楽のようなその音に混じって、メモリアルホールのそこかしこでは黒い雨が降っていた。
 さあさあ、さあさあ。
 この度は、若いのに本当に可哀想なことで、やっぱり娘は都会にやるべきじゃないねえ。
 さあさあ、さあさあ。黒い雨は静かに降り続ける。
 慣れないイントネーションでほつほつと会話が交わされるたびに、時計にも、受付のテーブルクロスにも、金属イスにも、黒い雨が縦筋の痕を残していった。あっという間に黒く汚れてしまった眼鏡を、知央はそっと外した。元々裸眼でもさして支障はないのだ。
 この建物の中にある森羅万象すべてのものに平等に一筋の痕を残していく黒い雨に、相変わらず、自分以外に気づいている様子の人はいない。
 一筋の黒い線を指先で撫でてこっそりと口に含んだ。塩辛さに眉をひそめてから、そっと手を合わせた。
 幼い頃からの唯一の特技だ。
 そこに言葉が生まれれば、必ずその色が見える。柔らかいのか歪んでいるのか、言葉に触れることができる。澄んだ匂いなのか饐えた臭いなのか、苦いのか甘いのか、身体中で人の言葉を捉え、感じ、咀嚼することができる。
 唯一の特技は敏感すぎて、残念ながら現代社会で役に立ったことはほとんどなかった。
 世界有数の人口密度を誇る東京では、歩くだけで咽かえるほどの言葉に溺れてしまう。近況報告に、怒鳴り声に、光るネオンの広告に、身体のすべてが圧倒される。
 無秩序にひっくり返された言葉が色となって、混ざりあって、悪趣味な現代芸術が襲いかかる様子はまるで拷問だ。いつだって身動きが取れなくなってしまうから、もう東京に住んで十年以上が経つというのに、知央は未だに人混みが苦手だった。仕事以外で外に出る時は、眼鏡とマスクとノイズキャンセリング用のイヤホンが必需品となっている。
 言葉は、世界だ。言葉が存在して初めて人は物を認識し、思考し、混沌が区切られて世界となる。感覚のすべてを動員して言葉を把握することは、世界を十倍にも百倍にも解像度の高いものにするが、刺激溢れる現代では呪い以外のなにものでもない。
 会場では、親戚や近所の住民らしいお年よりに混じって、同級生だったらしい同世代の若者たちも何人か集まっていた。そう、会社ではすっかり中堅となった知央も、この田舎では若者なのだ。
 できるだけ目立たない端の席に座って、祖父の葬式以来、初めて使う数珠を手持ち無沙汰に磨いた。
 「只今より、故、橋本知沙希様のお通夜をとり行います」
 初老の司会者が立つと、ざわめいていた会場が、水をうったように静かになった。
 顔をあげると、黒い雨に混じって、金平糖のような淡い光の粒がぽろぽろと舞っていた。不思議に思って耳をすませば、BGMがこの間の結婚式と同じメロディーだ。最近では、故人が好んだ音楽を流す葬儀も多いと聞く。橋本知沙希が好きだったポップスは、口さがないうわさ話の黒い雨がふるなか、金平糖みたいに会場に降りつづけた。
 同い年の同期の突然の自死に、柔らかい色とりどりの光が降りそぼるのを、知央は黙って見つめた。

 橋本知沙希とは、新卒で入社した会社で出会って八年目になる付き合いだった。配属部署は異なっていたけれど、同期の飲み会で何度か隣同士になって以来、不思議と気が合った。それだけの縁だ。
 「竹本くんといると和むなぁ」
 「何、口説いてるの?」
 「んー?違うよ。竹本くん、そういう人じゃないでしょ。いいよ無理しないで」
 そうやって微笑む彼女の言葉は、大学を卒業したばかりの知央の目を見はらせた。粉砂糖でコーティングしたみたいに甘いのに、水銀みたいに毒々しかった。
 職場でセクシャリティをカミングアウトするつもりはなかった。だってそんなの、揶揄されたり同情されたり、面倒なことばかりだ。出世という椅子とりゲームが好きで、容姿の整った女性を消費するのが好きで、そんな人間の仮面を被っている方がずっと楽だった。
 煙草の煙でコンタクトレンズが渇いて目がごろごろした。知央は酒の席が苦手だ。酒臭い朱色の言葉で溢れて、酔っ払いたちの言葉の膨大な情報量に目が眩んでしまう。
 橋本知沙希が、どういうつもりでその言葉を言ったのかは分からなかった。セクシャリティを勘づかれていたのかもしれないし、そうではなかったのかもしれない。
 ただ、その日以降、酒の席だって彼女が隣にいれば少しだけ呼吸ができるようになった。

 金平糖の光がちらちらと滴り落ちる。
 この間の結婚式では喜びばかりが満ちていたのに、このセレモニーホールでは、喪失と戸惑いばかりが先だって、悲しみさえも湧いてこないのが不思議だった。
 今朝は東京から始発で電車を乗りついできた。休日の早朝に長距離を移動した身体には、疲ればかりがずっしりとのしかかって、埋もれそうに重かった。
 「ご焼香を願います」
 司会者に促されて、知央はほかの参列者と一緒に棺の前に並んだ。
 棺を覗きこむと、乱暴に胸の中に手を突っこまれたみたいに息が止まった。
 こういう時に心をどこに置けばよいのか、知央はまだ知らない。
 橋本知沙希の遺体は青白く、あざをいくつか化粧で隠してはいたが、長い睫毛も明るい髪色も、艶々したジェルネイルも生前のままだった。高層マンションから飛び降りただなんて、信じられないくらいにきれいだ。
 いつだかの早朝に、会社の真下にあるコンビニで会った時の方がずっとずっと酷い顔をしていた。
 「あれ、橋本さん。……疲れてるなぁ、プロジェクト忙しいの?」
 「二日間家に帰ってないから、流石にね。でも竹本くんだってあれでしょう。どうせ付き合いで断れなくてキャバクラ行って、そのまま出社でしょ」
 「まあね。でも徹夜の仕事よりはマシだよ」
 「いやいや、付き合いだってキャバクラだって、同じくらいきついでしょうよ」
 そう言って、断る間もなく彼女が奢ってくれたコーヒーの味が忘れられない。あのとき、早朝の東京は仄明るく、ビルの谷間から射す朝日が柔らかな桃色の朝靄を生み出していた。
 眼鏡だとぼんやりした印象を与えてしまうから仕事場ではコンタクトをつけている知央の瞳に、朝焼けの光が眩しく焼きついた。徹夜明けだというのに、橋本知沙希はヒールの高い靴を履いて、クマを隠して、チークで血色をごまかして、上から下まで完璧だった。この大都会で生きる同い年の女の子は、頭のてっぺんから爪の先まで、いつだって世間から褒められるように美しく武装をしていた。

 橋本知沙希も、知央も、共に、この島国では周縁に生きる者だった。
 大人だから、同僚だから。沢山の言い訳にかこまれて、傷の生々しさを語り合うことはしなかったけれど、男性が多数を占める会社で一戦力として働く彼女と、自分を構成するいちばん大切な部分を隠して仮面を被る知央はは、周縁に生きる者同士の悲しい共感で結びついていた。
 橋本知沙希は、細かな傷の沢山ついた薄玻璃のような人間だった。美しく精巧で、経済の生産力としても、消費される女性としても、いつだって完璧だった。
 笑顔でない時を見かけたことがないが、その笑顔は透きとおっていつだってどこか危うい。そんな東京の、どこにでもいる凡人の女の子だった。
 「以上をもちまして、お通夜のすべてを終了いたします」
 司会者の言葉に顔をあげると、いつの間にか金平糖は溶けるようにすべて消えていた。代わりに、黒いいくつもの水たまりが足元に湧き始める。参列者の好き好きに交わす言葉が姿を変えた水たまりから逃れるように、知央は急いで荷物をまとめた。
 鬱蒼とした外に出ると、夜の雨と緑の匂いが細胞のひとつひとつに染みこんでいく。雨に濡れた黒いコンクリートにも湧き上がる小さな水たまりを器用に避けて、いの一番にタクシーに乗りこんだ。どうにか終電に間に合いそうだった。
 タクシーのなかから最後にもう一度、セレモニーホールを見回した。結局、知央以外の会社の人間は誰も姿を現さなかった。
 東京では考えられないくらいに何もないあぜ道を、タクシーが一台、するすると進んでいく。夜のフロントガラスに疲れきった自分自身が映って、父親にそっくりだと知央は自嘲した。
 橋本知沙希の死を知ったのは昨日の夜だった。
 最後の仕事を片付けて、終電は逃したものの、ようやく訪れた週末にほっとしてタクシーに乗りこんだときだ。ちょうど今と同じように、雨が車の天井を打って、硬い音楽を鳴らしていた。ネオンのえげつない色の光が海の底のようにゆらゆらと、タクシーの白いシートに水紋を作っていた。
 そうだ、ちょうど信号が赤に変わった時、水紋と呼応するようにスマートフォンの画面が白く光って、通知を開いた知央は息を呑んだのだ。同期社員のライングループで、橋本知沙希の死と通夜と葬儀の日取りが、簡素な文面で告げられていた。事務的な、それでいてどこか奥歯に物が挟まったような文面は明らかに彼女の死因を物語っていて、グリーンのポップな通知を、知央は何度も何度も読み返した。
 一人の死に、既読の数ばかりがどんどん積み重なっていった。誰も返信をしないことが信じられなかったけれど、同時に頭の片隅で納得してしまう自分に吐きそうになった。
 橋本知沙希がアサインされていたプロジェクトは激務で有名なもので、加えてこの時間の訃報と、自死を仄めかす文面。きっと過労が原因であることは、同じ社員であれば容易に推測がついた。
 これから上層部がどう動くかも分からない状況で、明らかな面倒ごとを遠ざける疲れきった同僚たちのことを責める気にはなれずに、知央はネオンの海の底で、ただ首を横に振ることしかできなかった。
 「お客さん、着きましたよ。深夜料金だから、ちょっと高くつきますよ」
 「……ああ、ありがとうございます」
 気がつけば聞きなれた標準語に促されて、見慣れた自宅のマンション前に着いていた。心はくたびれていても、会社生活で訓練された身体は優秀で、勝手に東京まで電車を乗り継いでくれていたらしい。日帰りとはいえ東京と中部の往復に、喪服はすっかりくたびれていた。
 最寄り駅から自宅へ向かうタクシーと、橋本知沙希の死を知った夜のタクシーが重なって、一瞬、今自分がどの時間軸にいるのかが分からなくなっていた。
 見慣れた玄関、見慣れたカーテン、上着を脱いですっかり暗くなった寝室のベッドにもぐりこむと、眠っていたらしい悠斗がもぞもぞと動いた。
 「お疲れさま、知央さん」
 寝ぼけてはいるが、労いに満ちた口調だった。冷えきった身体に悠斗の言葉が染みこんで、強ばった背中がゆるゆるとほどけていく。白湯だ。悠斗の言葉は、温かくて透きとおった白湯みたいだ。いつだって知央を心から温めてくれる。
 パジャマ代わりの薄手のシャツに、甘えるように鼻をすりよせれば、ほとんど眠ったまま、なだめるように頭を撫でられた。難儀だったねえ、と優しい言葉がゆっくりと零れ落ちていった。
 悠斗さん、お通夜には俺以外、誰も来なかったよ。同僚も上司も誰も来なくて、ひどく不自然なお通夜だったよ。
 告げようとして、そっと知央は口をつぐんだ。せっかく東京は雨が止んだのに、夢の中にいる彼に話す内容ではないと思った。
 積み重ねられていく「既読」の数の暴力を思い出す。あの時、涙の味がしてもおかしくはないポップなグリーンの訃報からは、つるりとしたプラスチックの手触りしか感じとれなかった。その無機質化を可能にした巨大な怪物は、今も確かに大都会のそこいらを這いまわっているのに、人ごみで隠されて一向に正体が見えない。
 悠斗が眠る寝室はほのかに明かりが灯って、静かに優しい。その優しい暗闇に、ほつりと、「過労死」と呟けば、途端に真っ赤な臭気にまみれて鉄色の暗闇に変わった。慌てて知央は、寝息を立てる恋人の首筋に顔をうずめた。
 数年前に大手広告代理店の女性社員が自殺をして以来、この島国でその言葉を聞かない日はない。
 橋本知沙希の遺族が過労死と訴えるのかどうか、上層部がどのように対応するのか、今の時点ではすべてが未知数だった。だからきっと、忖度したら正しいのは同僚たちなのだ。この島国では大なり小なり忖度しないと、誰もが生きてはいけない。
 面倒ごとには触れないのが一番の生存策なのに、のこのこと彼女の通夜に参列した知央は、途方のない愚かものだった。
 「悠斗さん、俺は間違っていたのかなあ」
 恋人の体温に甘えて、知央はため息をついた。橋本知沙希の死を知って以来、不思議と心は乾いていて、涙の一滴も湧いてこない。
 親しかった社員として会社から目を付けられるかもしれない。口封じの対象になるかもしれない。
 損得を計算できないわけではなかったけれど、忘れられないコーヒーを奢ってくれた友人に誠実で在りたい気持ちの方が勝っていた。それだけの話だった。そのくらいは、人間で在りたかった。
 すっかり眠りこんでしまった悠斗からは返事はないけれど、生きている者の確かな体温と鼓動が傍に在る。
 今はただ、それだけでよかった。


 あれ以来、なんだかちっとも生きる気力が湧かない。コーヒーの苦味ばかりが、舌の上でざらついている。
 どうにもこれ以上箸を進めることができずに、知央は途方にくれて机を見つめた。悠斗の実家から譲りうけた年季の入った机には、白米、味噌汁、秋刀魚、と秋の食材が所せましと並んでいた。知央が毎日を必死で息継ぎしている間にも、自然はそっと移り変わっていたのだ。
 「やっぱり食べられそうにないかい?」
 主菜も副菜も、すべてが悠斗の手作りだった。連れそって十年、同居してからも五年以上が過ぎて、大らかな悠斗は料理を、几帳面な知央は掃除を担当することで落ち着いていた。
 「うん、せっかく作ってくれたのに申し訳ないんだけど……。なんだろな、食欲が湧かないんだ」
 そっと箸をおくと、恋人の角度の丸い眉がそっとしかめられた。曇るその視線に耐えられる気がしなくて、そっと知央は視線を外した。
 出会ったころには青春の名残で輝いていた悠斗の瞳は、穏やかさを集めて熟成させて、今ではハシバミ色に時を重ねていた。いつだって笑っていてほしい、知央の宝物だ。
 「僕はこうして知央さんと食卓を囲めるだけで奇跡みたいに嬉しいけどね。そうだ、梨でもむこうか。果物ならのどを通るかもしれない」 
 ゆったりと立ちあがる悠斗は、どこまでも優しい。中肉中背の肩は長年の事務仕事で盛り上がって、長年地方銀行で働いてきた証となっていた。
 聞けば、バブルが崩壊した頃に、地元が好きだからという理由でわざわざ地銀に就職したという。東京支店の支店長に任命されてからも、その優しさはちっとも変わらなかった。
 この春みたいな人を悲しませたくないと思うのに、涼やかに透きとおる梨も、冷たいばかりであまり食べる気がしない。

 この夏、会社の働き方改革が著しく進んだ。なんだかんだ仕事を持ち帰ることも多いけれど、平日のまともな時間帯に家で夕飯を食べられるようになった。
 社会人になって八年目の知央は、それが奇跡に近いということを身に染みてよく理解している。それまで余暇の時間を健康のためのジム通いに捧げていた悠斗は、大いに喜んで、ここのところめきめきと料理の腕をあげていた。
 「悠斗さんもせっかく仕事を切りあげて作ってくれてるのに、食べられなくてごめんなさい」
 「いやいや、最近の銀行は残業規制が厳しいからね。定時で帰ることが管理職の仕事なんだ。知央さんは無理しないで、食べられるものを食べればいい」
 窓から射す月光が、はらはらと寂し気にフローリングにたゆたった。なんだかここのところ、ずっと海の中にいるように呼吸がし辛い。
 あの雨のそぼ降る金平糖の通夜に参列したあと、週明けに人事から正式な訃報が届いた。全社員宛の簡素なメールに続いて、今度はBCCで宛先の分からないようにした、題名のないメールが届いた。きっと橋本知沙希と親交のあった社員を選別したのだろうそれは、この訃報を不必要に騒ぐことのないようにと、いう戒厳令だった。
 明朝体の字面の醜悪さを思い出すと、今でも吐き気がこみあげる。あの時、ヘドロの臭気がパソコンの白い画面から立ち上って、メールを読み終わった瞬間、知央は男子トイレに駆けこんだのだった。
 便器にうずくまって何度吐いても、饐えた臭いはまとわりつくように離れなかった。
 過労死と騒がしいこのご時世、不要な混乱を招かないように。我が社の構成員として自覚のある行動をするように。
 吐き気で喉は焼けつくように痛んだが、きっと高層マンションから飛び降りた彼女は、それよりずっと痛かった。

 それ以来、ぐんと食が細くなった。

 同僚の死ひとつに、ここまで動揺している自分が意外だった。今まで、どちらかというと心を悩ますのは優しすぎる性格をした悠斗の仕事で、年上の愛しい恋人を知央はずっと励ます側だった。放っておけばゆるっと皺がついたままのシャツで出勤してしまう彼に、きっちりとアイロンをかけたシャツを差し出してやることが好きだった。
 自分は几帳面で、卒なく組織人の仮面を被ることができて、もっと合理的に柔らかな部分を切り捨てられる人間だと思っていたのに。
 帰宅時間が早くなっても、相変わらず顔色の悪い知央を心配して、悠斗の料理のレパートリーは加速度的に増えていった。
 別に過労死なんて、今時珍しくもなんともないのにな。
 ありふれた悲劇の、それでも個人には等しく降りかかる痛みに喘いでいるうちに、気づけばひと夏が終わっていた。
 「なんかさ、やればできるんじゃんって感じがするんだ。あれだけ忙しかったのに、今こうして悠斗さんと食卓を囲めて、逆になんで俺たちあんなに忙しかったんだろって、拍子抜けしてしまう」
 しゃく、と梨をかじれば、丁寧に手を施された好意はよく冷えたまま、知央の喉を通っていった。しゃくしゃくと齧れば、銀色のフォークに、気の抜けた格好の三十歳の自分が映った。
 まだ若いけれど、髭が生えて肩が凝っていた。八年間降り積もった疲労の答えは、混沌とした霧の向こうに在って、ちっとも姿が見えやしない。
 「まあ、組織がやろうとして出来ないことなんてないからねえ。そのために大勢の人を雇っているんだから。組織が本気になって出来ないことなんてないんだよ」
 噛みしめるように悠斗が微笑んだ。ふたり分の梨を切り終わったナイフの刃からは甘い雫が滴って、LED電球に照らされた。

 実際、会社の働き方改革は驚くべきスピードで進んでいた。元々労基署から睨まれてはいたので、今回の事件を機に重い腰をあげたのだ。
 人が死ななければ改革すらできないなんて、情けない。
 噛みしめた唇から血が滲んで、がり、と鉄の臭いがした。口内で小さく砕かれた梨とざりざりと混ざる感触を、知央は他人事みたいに咀嚼した。
 フランス革命の下には、ギロチンにはねられた生首が埋まっている。同じように働き方改革の下にも、数えきれない死体が埋まっているのだ。
 スーツを着てハイヒールを履いて、死体たちが折り重なる血だまりの上に、日の丸が一旗、立っている。
 その血の一滴になってしまった橋本知沙希を思い出すたびに、知央の呼吸は止まりそうになった。食べ物を身体が受け付けなくなった。津波のような言葉に呑みこまれて眠れなくなった。
 あの時カーネーションに囲まれた彼女は、きっと知央その人だった。完璧を演じなければ生きることを許されない、周縁者の悲しい絶叫が鼓膜に焼きついて、知央は、息を続ける意味が分からなくなってしまう。
 最近、会社では彼女の名前が禁句になっていた。高層ビルの窓からは黄昏が射しこんで、言霊を恐れているように、誰も彼女の名前を口にしたがらない。代わりに、あの子、と歪んだ唇と共に語られる場面を、何度も何度も知央は耳にした。
 結婚を前に彼氏にふられたらしいよ。ああ、やっぱり。女性にこの仕事は向いてないよなあ。全く迷惑だ。
 清潔なオフィスのどこにいても、真っ赤に塗りたくられた言葉がまとわりついた。少なくとも知央が知っている橋本知沙希は、そんな理由で高層マンションから身を投げる人間ではない。現実の上を一歩一歩、慎重にハイヒールで歩いてきた彼女が、そんないかにもゴシップの亀裂に足を取られるわけがないじゃないか。
 そう思いながらも、人が死んだ理由がまことしやかに作られていくのを、知央は為すすべもなく見つめていた。
 彼らの推測に根拠がなければ、知央の信じるところにも根拠がなく、結局は橋本知沙希本人にしか本当の理由は分からないのだ。
 東京で働く人間は大なり小なり賢い。そして組織で働くためには、きっと彼らの論理が正しいのだ。ひとりの人間の死の理由を、失恋や過失や、彼女個人の責任になすりつければ、自分自身には関係のない世界だと信じることができた。
 ひとりの社員の死の責任は会社を構成するひとりひとりの肩にあることを、賢しい彼らはきちんと気づいているはずなのに、賢しい故に、見ないふりをすることができる。馬鹿な女がひとり、馬鹿な色恋のせいで死んだだけだと自分に言い聞かせて、次の日からはまた笑顔でミーティングに向かうことができるのだ。
 生前の彼女と話したことすらない人間が、知った素振りで彼女の死因を好き勝手に話す様子を、知央は何度も見かけた。彼らが口元を歪めると、何千匹もの蟻が指先から這い上ってきて、五感をおぞましく犯されるようだった。
 もし自分が橋本知沙希と同じように死んだら、という想像が何度も頭をよぎった。
 政府が定める過労死のラインなんて軽々と超える働き方をしてきた八年間、歯車がひとつでも狂っていたらきっと知央も亡くなっていた。そして彼女と同じように世間が好む死因が作られたのだろう。ゲイの人間が色恋沙汰で死んだらしいよ、って。
 例え知央が、過労に魂を殺された結果の自死だったとしても、人々の記憶のなかでは、同性愛者が色恋沙汰で死んだことになるのだ。そうして会社は弔電だけを送って、悠斗だけが取り残されるのだ。
 自分の死を一体誰が弔ってくれるのかすら分からなかった。パートナーシップを結べば、悠斗が喪主となってくれるのだろうか。ゲイの息子を受け入れられない父親が喪主を引き受けるとは思えなかったし、知央も決してそれを望んではいなかった。
 知央は、世界は美しいものだとずっと信じていた。悲しみや絶望の水銀の海に呑みこまれても、海の底には星の金が降る美しい希望があるのだと理由もなく信じていた。美しい世界だから、その周縁にしがみついていたかったし、周縁で息をすることを許されるために、せめて完璧な人間であろうと努力した。
 セクシャリティはもうどうしようもないけれど、それ以外は完璧な現代人に。経済的に生産性があって、稼いで、誰からも頼りにされる完璧な現代人に。それが知央の価値だった。がむしゃらに働いただけ、稼いだ分の金額の分だけ、ぽっかりと空いた自分の穴が埋まる気がした。生きていて良い時間が、伸びる気がした。 
 ひとりの友人の死をきっかけに、世界の端から端までたゆまず張った一本の糸が、ほつりと切れたみたいだった。糸の切れた瞬間、息継ぎもできない水銀の海が雪崩れこんできて、知央は溺れた。
 「知央さん?……知央?どうした?」
 目の前で悠斗が手をふった。五本の指がふくよかで、まるで幼い子をあやしているみたいだった。目元を拭われて初めて、知央は自分が涙を零していたことに気がついた。
 「ああ、口から血も出てるね。可哀想に、痛いだろう。口をゆすいで待ってなさい、今ガーゼを持ってくるから」
 「ありがとう。……ごめん、なんだろう。別に今、悲しいことがあるわけじゃないのに」
 なあ、俺は今、信じていたものがはらはらと剥がれ落ちていく様子に眩暈がするよ。
 ティッシュの上に吐き出した梨は、透明な白さが真っ赤な血にまみれていた。涙の水滴で、眼鏡ごしの視界が歪んだ。
 「知央さん、疲れてるんだよ。今日はあの子の月命日だっけ。あの後周りの環境も変わってさ、適応するのも一苦労だったし、きっと疲れてるんだよ。ゆっくり休みなさい」
 悠斗の言葉は白湯のようで、傷ついた知央の内臓を確かにひととき温めていく。はらはらと止まらない涙を、恋人の丸い指先がそっとぬぐった。
 ねえ悠斗さん。こうして貴方と食卓を囲めるようになって嬉しいのだけれど、同時に俺は不安なんだ。
 ざりざりとした砂粒みたいな言葉を、知央は呑みこんだ。
 口から出さないまま、悠斗の白湯みたいな労りだけを身体の奥深くに無理やり流しこんだ。
 日曜日の昼下がりのような恋人の穏やかさを前に、知央は、この不安をなんと説明してよいのか分からない。
 ゲイだとカミングアウトした時の、嫌悪にあふれた父親の顔がずっと忘れられない。悲痛な母親の泣き声が忘れられない。その光景を思い出す度に、自分は親を悲しませた不孝者だと思う。存在を無条件に認められてはいけない、消えるべき存在だと思う。
 それでも、消えるべき存在だって働いて貢献をすれば、この世界のどこかで息をすることが認められると信じていた。そう考えて必死に働いた。そうしてようやく勝ちえた、存在が許される場所は、実は数えきれない死体の山のてっぺんだったのだ。ぴかぴかの革靴の裏底は、いつの間にか誰のものかも分からない血で真っ赤に染まっていた。
 現代社会からゆっくりと拒絶される音を、知央はこの夏、ひとりきりでただ聞いていたのだ。
 この拒絶の音を、他人に、悠斗にだってなんと説明してよいのか見当もつかなかった。悠斗はどこまでも真っ当な人間だ。互いに理解をし合える家族のもとに産まれて、正しいことを正しいと言い張れるまあるい心を持っていた。まあるい心を持つ人間に、自分の存在の真ん中を拒絶される絶望と、死体の山の頂点に立つ罪深さを、なんと言葉して伝えれば良いのだろう。
 ……きっとこの絶望と罪を共有できるとしたら、橋本知沙希しかいないのだ。
 「知央さん、結婚式の式場のことなんだけど」
 「……?」
 はらはらと黙って涙を零す知央に、そっと悠斗が話題を変えた。プラスチックみたいな明るい言葉だった。秋の夜にそぐわない、おもちゃのような明るさに知央は首を傾げたが、悠斗なりに励ましてくれていることは分かった。
 「妹に結婚のことを話したら、お勧めの東京の式場を教えてくれたんだ」
 「式場?」
 「うん、式場というよりもレストランなんだけど。妹の友人がそこで披露宴を行って、とても良かったらしい。今はレストランでも、式場と提携したり、それこそレストランの中で式を挙げてそのまま披露宴を行うところが増えているらしいよ」
 「でも、」
 「そこの式場は、参列した妹とそのパートナーにもきちんと対応してくれたって。だからきっと、僕らでも大丈夫なんじゃないかな。家族と友人だけのパーティーになるだろうけど、どうだろう」
 きっと良い気分転換になるよ。透明な白湯の後ろには、きらきらとした朝焼けが煌めいていた。その優しさが眩しかった。
 悠斗の実家まで在来線で一本の駅に住んで、もう数年になる。東京とはいえ都心から三十分ほどの郊外で、家族思いの悠斗は、今でも週に一度は両親のもとを訪れていた。豊かな彼の頭頂部には最近、白いものがちらほらと混じり始めている。きっと彼の両親が心身ともに健康でいられる時間も、もう無限には残されていないのだ。
 ゲイのふたりがタキシードを着て、少数ながらも親しい人たちにその関係を祝福される。年老いた両親に晴れ姿を見せてやる。
 それは平成の終わりのこの国で、想像できうる限りの完璧な形だった。
 「……うん、悠斗さんありがとう。良い時代になったねえ。楽しみだ」
 涙を拭って、知央は精一杯笑った。歯を噛みしめると、先ほどの傷口が開いてどろりとした血が口内に溢れた。
 ああ本当に、死体の山の頂点で、自分だけが笑っているみたいだ。

 次の週の金曜日、仕事を終えたふたりは都内のレストランを訪れた。鶴瓶落としに日が暮れて、晴れてはいたが、都会のネオンが星をすっかりかき消していた。
 「悠斗さん、お疲れ様」
 「知央さんも、早く上がれてよかったねえ」
 レストランのガラス扉の前で待ち合わせた悠斗はベージュのコートがくたびれて、曲がった襟が可愛らしかった。手ずからそれを直してやると、楽しみだねえ、とハシバミ色の眦がゆるむ。日程調整から予約まですっかり彼に任せていた知央は、その嬉しそうな様子にほっと肩の荷を下ろした。
 件のレストランは青と白を基調にした洒落た内装で、コートを脱いだふたりは、ちらちらと周囲を見回した。女性との恋愛を試みていた頃にはたびたび訪れていたが、同性と付き合うようになってからはすっかり縁遠くなってしまった類の場所だった。
 「初めまして、糸倉と申します。このレストランのウェディング部門を一任されております」
 高級な雰囲気に呑まれて緊張するふたりの前に現れたのは、笑窪が印象的な妙齢の女性だった。髪をひとつにまとめて、知央よりは年上だが悠斗よりは年下だろう。朱色のネイルがほつほつと控えめで、人のこわばりをほどく柔らかさを持っていた。
 レストランの隅を利用した打ち合わせ用のスペースでは、金曜日の夜のざわめきがよく聞こえる。普段こういった場所では、声と情報が溢れて視界が眩んでしまうのに、青く染められた天井が人々の声を吸収するのか、呼吸がきちんとできることに知央は驚いた。
 「当店はレストランですので、挙式をする場合は人前式となります。キリスト教式や神前式をご希望の場合は、別の会場で挙式をしていただいて、その後、当店で披露宴という流れになります」
 「人前式?」
 「神仏ではなく、ご参列者様におふたりの結婚を承認していただくスタイルです。おふたりのご家族ですとか、ご友人ですとか」
 「へえ、いいなあ、それ」
 悠斗がすっと身を乗り出した。
 悠斗と糸倉の会話が盛りあがって、言葉がクラッカーみたいに飛び交う鮮やかさを、他人事のように知央は見つめた。
 死体の頂点にたたずむ者が祝杯の輪に入るだなんて、あまりにもおこがましい気がしたのだ。
 「え、あのホテルでプランナーをしていたんですか!僕、若い頃に最初に出席した結婚式がそこでしたよ。職場の先輩の式でした。とても立派だったなあ」
 もったいない、と悠斗が大仰に驚いてみせた。話の種に聞いた糸倉の以前の勤め先は東京でも三つの指に入る高級ホテルで、確かにそこに比べれば、洒落ているとはいえ、このレストランの規模も大したことはないように思えた。
 「大きい組織だと、個人の気持ちに寄り添うことがどうしても難しくなりますからね。……大勢の人間が効率よく働くためには、それはある程度仕方のないことなんですけど。ただ、私は私ひとりでもいいから、せっかく新しく縁を結ぶ方々の心ひとつひとつに寄り添っていきたかったんです」
 一番最初に担当させていただいた結婚式で、私、失敗してしまったんですよ。
 糸倉の整えられた眉が、くしゃ、と寄せられた。彼女の口調は事務的なのに、寄り添うという言葉が紡がれた瞬間、仄かな甘さが知央の口内に広がった。金粉がちりばめられたホットミルクのような、素朴な白い甘さだった。
 「寄り添う?」
 「ええ、まあ。ありきたりな言葉で言えば、おひとりおひとりに合った結婚式を、ということでしょうか」
 それはともすれば見逃してしまいそうな仄かさだったが、コーヒーの味しか感じられなくなって久しい舌には、驚くほど鮮明に刻みつけられた。

 ひとしきり説明を聞き終えてレストランを後にすれば、外では大きな秋の月がひとつ、暗闇の中で光っていた。周囲の星の光をかき消してしまいそうなさやけさだ。お辞儀をする糸倉の影が長く伸びて、コートに身を包む知央と悠斗を見送った。
 「知央さん、このレストランで良いんじゃないか」 
 前に向かって革靴を鳴らす悠斗の言葉には、月光みたいな仄かな光が戯れるように絡みついていた。だろうと思った、と知央は笑った。年上の恋人は好き嫌いが意外と分かりやすく、糸倉の聡明さはきっと彼の気にいるものだと思ったのだ。
 「そうだなあ、俺としてはもう少しいくつか回ってから決めたいところだけど……」
 焦らすようにからかえば、でも早く予約しないと良い日取りは無くなってしまうよ、と悠斗の唇がとがった。そんな分かりやすいところも好ましかった。
 人前式って考え方が良いよなあ、と悠斗が笑う。
 いつの間にか到着していた最寄りの駅は金曜日の夜にふさわしく、ちょっとした酒の匂いと笑い声に包まれていた。目まぐるしく交差するカラフルな人々の言葉のモザイクに、酔ってもいないのに知央の視界は眩んだ。
 「人前式?」
 「そう。出席者に僕らの関係を認めてもらう、っていうのが良いなあ。知央さん、良い機会だし、君のご両親もご招待したらどうかな」
 夜でも明るい構内の光を背にして、笑っているらしい恋人の表情は逆光となってよく見えない。分かるのは言葉から読み取れる情報だけだった。
 いつもみたいに、指先まであったかくなる白湯みたいな言葉で、お腹の中がほうっと熱くなるのを知央は感じた。
 悠斗に愛情があるのは間違いがない。愛情がなければこんなに人の心を温めることはできない。
 五感で感じる言葉の感触と、頭で理解する言葉の意味があまりにも乖離していて、知央はことりと首を傾げた。
 「りょうしん?」
 「うん。僕の家族はもちろん呼ぶけれど、知央さんのご家族も呼ぼうよ。長いこと会っていないのは知ってるけど、せっかくだから、できるだけ沢山の人に認めてもらおうよ。家族に認めてもらおう」
 白湯のようにあったかいのに、人を安心させる声色なのに、頭がその言葉を理解することをどうしても拒む。
 ちょうど、夜を切り裂く電車が、ホームの柔らかな静寂のなかで絶叫して、知央と悠斗の間に深い谷間をパックリと作り出した。谷間を覗きこむと、深海よりも深くて暗くて、悠々と泳ぐ怪物の大きな目玉と視線が交わった。
 「……ごめん、悠斗さん。ちょっと、」
 真っ白になった頭で、どうしようもなく知央はその場にしゃがみこんだ。
 胃袋からの逆流を呑みこむことに必死で、驚いた悠斗が背中をさすってくれていることにも気づかなかった。ただただ、いつもよりもずっと近い位置にある薄汚れたタイルが、駅の電灯を反射して目を眩ませた。
 あの時、きもちわるい、と一文字一文字を刻みつけるように、父のくすんだ唇がゆっくりと動いたことを思い出す。涙の浮かんだ母の目じりには、皺ができていたことを思い出す。
 近頃知央は鏡を覗くたびに、あの頃の父親にひたひたと似てきた自分に会う。両親のことを憎む気にはなれなかった。世間の尺度で生きてきた彼らだから、悪いのはきっと、理解の範疇外に産まれてしまった自分の方なのだ。
 元々、条件を満たす限りにおいて、愛情を示してくれる親だった。
 男の子だった、勉強ができた、地元で指折りの高校に進学した。
 それまで、難なくとクリアした条件の元に与えられた愛情を、どろりとしたウミには気づかないふりをして享受してきたツケが、あのカミングアウトの時に回ってきただけなのだ。
 幼い頃からそっと目をつむってきた現実は、それでもやわらかい知央のこころの一部を確実にえぐりとったまま、三十歳になった今も大きな歪みとなってパックリと口を開けている。
 正しい選択をしないと愛されない。正しい選択をしないと生きていてはいけない。
 パブロフの犬みたいに与えられ続けた条件付きの愛は、知央を完璧主義者に育て上げた。物心ついたころにはすっかり忖度が得意な子どもになっていた。無条件の肯定を手に入れ損ねたまま大きくなった知央は、土台がしっかりしないまま積みあげられた塔みたいに、いつだってぐらぐらと揺らいでいる。
 「知央さん?」
 心配する悠斗の言葉は、相変わらず温かくて優しい。逆光で見えない顔だってきっといつもみたいに穏やかなはずで、だからこそ彼の口から吐き出された言葉が受け入れられなかった。
 分かっている。きっと彼は深く考えていないだけなのだ。しっかりとした土台の上に安定した塔を築いてきた悠斗は、知央みたいに面倒なことなんて考えずに、ただ妹の結婚式に浮かれて、パートナーシップ制度の創設に浮かれて、知央の土台を犯してきたパンドラの箱に気づく余裕がないだけなのだ。
 「知央さん!待って!」
 彼の真っ当さが圧しかかるように息苦しく、知央の身体は勝手に走り出していた。後ろから慌てた悠斗が追いかけてきたが、十ほど違う年齢のせいで追いつかれることはなかった。
 逃げて、逃げて、駆けて、気がつくと息を切らして夜行バスに乗りこんでいた。
 明日が休みで良かった、と完璧主義の自分が他人事のように呟いた。

 「家族に認めてもらおうよ」
 あれから、ずっと悠斗の言葉が木霊している。
 夜行バスの窓から零れる光の海で、言葉の水で知央は何度も何度も溺れた。口と鼻で必死に息継ぎをしているうちに、朝焼けが空を染めて、バスを降りた時には、すっかり朝になっていた。
 深呼吸をした知央の細胞のひとつひとつに、はろばろとした緑が命を与えた。田舎の早朝の駅はすべてを呑みこんでくれそうなほどでっかくて、自分が小さな子どもに戻ってしまった気がする。
 とりあえず、あの子に会いに行こう。
 突発的に飛び出してきてしまったけれど、二度目の来訪を静かに受け入れてくれた駅が知央のせなかを押した。方針と呼べるようなものはひとつしかないけれど、ひとつきりあれば十分だ。
 凝り固まった首でぐるりと周囲を見回せば、閑散としたタクシー乗り場に、旧式の個人タクシーが一台停まっていた。
 「すみません。あのう、すみません」
 窓ガラスを何度か叩いて、仮眠をとっていたらしい初老の運転手を起こす。くたびれた背広が朝の澄んだ空気に溶けこんで、うろ覚えのあの子の居場所を、梅雨時の湿った記憶を基に告げた。長年この土地で生きてきたらしい彼は、何度か首を傾げたあとに手を叩いてくれた。
 「ああ、あんた。そりゃ確か隣の隣の市だ。田んぼの中に突然現れる……」
 「あ、たぶんそれです。そこまでお願いします」
 思わぬ高額の客に気を良くした運転手は、車を走らせながら大小様々の世間話を振ってくれた。その言葉は今日の空と同じように澄んで悪いものではなかったが、昨夜全く眠れなかったので、知央は早々に切りあげて窓の外の景色に見入らせてもらった。
 携帯の電源も切っているので、時折入るタクシーの業務連絡以外は、静かな時間が続いた。外の景色にぼうっと見入るだけの時間は、全く贅沢なものだった。
 収穫の終わった田畑は遠くまで広がり、秋風がさあさあと駆け抜けていく。田舎は良い。言葉が溢れていないから、安心して五感を解放して息を吸うことができる。
 道中、ぽつんと佇んでいた小さな花屋に寄ってもらった。飾り気のない真っ白な紙で包まれている菊の花束に顔を近づければ、香りに記憶を呼び起こされた。墓参りなんて、ずいぶんと久しぶりだった。
 家族と縁を切ると、参るべき墓も無くなる。ざらついた石の手触りや、水に黒々と濡れた戒名や、あの独特の白く煙る親族たちの会話は、随分と昔のくすんだ記憶となっていた。決してそれを不幸だとは思わないけれど、記憶のくすんだ色合いが、秋の空気によく似合っていた。
 「ああ、ここで結構です」
 「はいよ。兄ちゃん、あんまり悩みすぎんなよ」
 何気なく人の心に寄り添う平らな優しさに礼を言って、知央は運転手に手を振った。墓地まで歩く道すがら、枯れてしまった曼珠沙華の跡地がぽつりぽつりと共にあった。
 きっと近くに小川があるのだろう。さらさらと澄んだ音を立てる秋の川に耳を澄ませながら、知央は孤独のまろやかさに、存外息をついていた。
 時折車が一台、二台通るだけの田舎道は、見わたす限り、知央以外の人間は誰一人見当たらない。
 子どもとしては元々完璧ではなくて、社会人としても完璧ではなくなって、ついに恋人としても完璧ではなくなってしまったなあ。
 ひとつたりとも完璧ではない自分が、こうしてまだ息をしていることが不思議だった。
 喪失や悲しみを抱えて、辛いばかりの世界で生きていく意味が、知央にはもうすっかり分からない。
 条件付きの愛で組み立てられた土台は昨夜のうちにほとんどが崩壊して、それでもいくつか奇跡的に残った遺構のうえで、知央は自分が驚くほどの平静さで世界を見渡していた。
 悠斗は今ごろ何をしているだろうか。
 これまでの人生で与えられた、悲しい言葉や否定の言葉が今では知央の心をすっかり曇りガラスにしていた。逃げてしまった後悔も確かにあるけれど、曇りガラスのおかげで、新しい傷がついてもちっとも目立たない。
 大人になるって、心がすり切れることなのだろうか。そうだとしたら、なんと悲しい。
 墓地まで一歩ずつ歩くたびに、過去の記憶が頭をよぎった。
 三歳だったり、十歳だったり、十五歳だったりする知央が、生きていることを許してほしいと泣きながら、スーツ姿の三十歳の知央と一緒に歩いていた。
 はらはらと辛い記憶が思い出されるのに、大空の下では落ちこむこともできない。人間の声はひとつも聴こえないこの場所で、知央はようやく、何にも邪魔されないで世界を受け止めることができた。
 すり切れた木造の地図看板が、墓地の場所を告げていた。畦道の曲がり角に立つと、遠目にも小さなその場所を眺めることができた。
 小さな丘の頂きにある墓地を目指して、整備されていない黒々とした道を、一歩一歩歩いた。
 鬱蒼とした木陰は冬の足音を前に肌寒く、コートの襟を立てたところで、ようやく墓地の入り口にたどり着いた。四角く切りとられた御影石が並ぶ小さな墓地は、耳を澄ませると、人々の声が聴こえてくるようだ。
 遠くから烏の鳴き声がする。墓石に刻印された家の名前を、ひとつひとつ、知央は確かめるようになぞった。人差し指を土埃で汚しながら、沢山の人の名前にこの手で触れることは、とても贅沢なことのように思えた。
 夜行バスの中ではあんなに熱い海水に呑まれて息ができなかったのに、今のこの歩みはなんだろう。心の静けさはなんだろう。幼い頃に大泣きした後の静寂によく似ていた。泣いて、泣いて、自分が無くなってしまうまで泣いて、泣き疲れた後には空っぽの静寂が待っていてくれる。頭は重く目は腫れても、思考の洪水の後に、神さまはふと静けさを贈ってくれたりするのだ。
 この土地で生きてきただろう家々の名前をなぞりながら、知央は、見えなかったこととされてきた自分の半生を思った。
 教科書に、ドラマに、法律に、知央の存在はいつだって見当たらなかった。
 知央はこうして息をして思考をする人間なのだけれど、自分と同じ身体を持った人間に恋をする機能を備えていたので、いつの間にか周縁に生きる透明な存在になっていたのだ。そういった周縁に生きる者達は、まるでそんな人間なんて存在しないように、見えないように扱われることに慣れている。
 平成がもうすぐ終わりを告げる今でさえ、理想的な家族ではない人々は、税金をそれだけ沢山納めないといけなかった。まるで、限りなく透明な存在として生きることへの罰みたいに。
 理想以外の生き方を無いものとして、決して存在を見ようとしないこの島国の不思議な習性は、いったい何なのだろう。
 知央はこうして、両親の子どもとして存在するし、同性を愛する者としてこうしてここで息を吸っているのに。知央の両親も、この島国を構成する人々も、見えているものを見えないこととする能力につくづく長けていた。
 良き息子にも良き父親にもなれない知央は、叫んでも喚いてもどうしたって、彼らの視界には入らない。同じように、この島国にとって、知沙希の死は決して理想ではなかったのだろう。理想的ではない死に既読ばかりを重ねた同僚たちもまた、どうしようもなくこの島国に生きる人々だったのだ。
 「見えないことにされて、君も辛かったのかなぁ」
 見晴らしの良い場所にあるその墓を見つけた時、寝不足の知央の身体は息切れしていた。
 「橋本さん、久しぶり」
 膝まづくと、秋の木漏れ日に御影石が艶々と光った。
 埃を払ってそっと菊の花を供えてやると、黄色い花弁ががさらさらと照らされて星のようだ。小さくても、こうして光に照らされる余地を持ってきてよかったと、知央は幸いに思った。
 平成三十年六月、橋本知沙希。
 この国の土に帰ってしまった友人の墓だ。見えなかったことにされた彼女の苦しみは、名前だけがしっかりと墓石に刻みつけられていた。
 正面にある「橋本家」の文字よりは小ぶりの側面にあるその名前を、木漏れ日と一緒に知央はもう一度なぞった。それから、どこに祈ればよいのかも分からなかったが、知沙希の平安だけを願って手を合わせた。
 静かな時間がさらさらと流れ落ちていった。
 どれくらいが経っただろう。いつの間にか日が高くなって、ものものの影も遠くに伸びていた。こうして足がしびれるほどしゃがんでいても、数十センチの土を足元に隔てて知沙希と対峙していることがたまらなく不思議だった。
 朝から何も食べていない胃袋が空腹にキュウキュウと鳴って、無礼を謝りながら、鞄に入れっぱなしになっていたブロックタイプの栄養補助食品を齧った。茶色い固まりがぽろぽろと落ちて土に混ざった。
 生きるって、悲しいことだ。降り積もった悲しみが、喪失が、いくつもいくつも傷をつけて、知央だってここにいるだけでもう精いっぱいだった。レストランに行くために取りだした革靴が土と埃に汚れて、長閑な秋の昼の光にまだらに踊っていた。
 ずっと見えないことにされながら生き延びてきた。けれど、そんなに目に入らないのなら、見えない存在がひとりくらい消えたって何の問題も無いのではないのだろうか。
 誰にも見えない、理想ではない自分が悲しみと喪失を抱えてまで生きなければいけない理由が、知央にはもうすっかり分からない。ほとほと、すり切れていた。
 メールの宛先で、プロジェクトメンバーの名簿で、赤い腐臭の漂う人事部からの訃報で、何度も何度も見た知沙希の名前が、触れれば滑らかな冷たさで目の前にあった。
 高層マンションから飛び降りるって、どれだけ痛かったろう。どれだけ怖かったろう。飛び降りてしまってから地上にぶつかるまでの十数秒間、君は、後悔したりしたのだろうか。それでもなお、生きることよりも飛び降りることの方がずっと簡単だったのだろうか。会社を辞めてしばらく休むなんて贅沢は、きっとはなから見えていなかったのだろうか。
 知沙希がどうして死ななければいけなかったのか、知央にはいまだに分からない。真面目に生きたからだろうか。見えないものを見ようとしない人々の嘲りを真正面から受け止めて、血まみれになってしまったからだろうか。
 同い年の知沙希が亡くなって、生きていることの有難さが身に染みたことは確かだった。けれどそんなこと、知沙希が亡くならなくたってとうの昔に存じ上げていたことだった。
 「あの子の死のおかげで命の大切さを学んだじゃないか」という慰めの常套句の浅はかさを、知央は唾棄したいほどに憎んでいた。
 結局、知央がこうして今息を吸っていて、知沙希が土の中にいる理由なんて、神さまがそのように仕向けた理由だなんて、ひとつも分からない。分かりたくもなかった。
 死ぬことを選択した彼女の悲しみだけが、ひりひりするほど傍に在った。理想しか存在が許されないこの社会で、決して理想にはなれない人々が生きつづけるのはとてもしんどい。
 「そうだ、」
 駅前で買っておいた線香とライターを取りだした。手がかじかんで失敗したが、何度か試すうちにようやく火が灯った。てっぺんが紅くちりちりと焦げて、寝不足の目にちりちりと染みた。
 呪いだ。生きることは、呪いみたいだ。人間にとって世界そのものである言葉が、二十四時間三百六十五日、五感のすべてで知央に襲い掛かってくる。
 知央はこれまで見えない者として生きてきたけれど、それでも異性愛者の仮面を被れば、一級市民の扱いを受けることができた。仮面を被って、仕事上不可欠とされる夜の付き合いに息を潜めれば、同じ対等な人間として扱われた。
 被るべき仮面もなく、三百六十五日、視線にさらされ続けた知沙希はどれだけ苦しかったのだろう。経済の生産性と、美しさと、繁殖の生産性と、てんでばらばらの理想を求められて、どれだけすり切れたのだろう。
 苦しくてもすり切れても、知沙希は笑顔で理想を体現することでしか、生きることを許されなかった。てんでばらばらの理想をすべて満たすことなんて不可能なのだと賢しい彼女が気づいた時、それは、死ねという社会からの命令と同義だったのではないだろうか。
 墓石の側面の知沙希の名を、再びなぞった。家、という字よりもずっと細っこい、小さな彫られ方だった。家というものの側面でしか生きることを許されない、哀れな個人の名前だった。

 遠くの空の端に鰯雲が浮かんでいる。ちろちろと線香の煙が一筋たつ。知央の足はすっかり痺れて、もういいや、と土の上に腰を下ろした。スーツの濡れる感触がしたが、もうなんだってよかった。
 「それでも俺が死なないのは、何でなんだろうね」
 隣に座ってそっと寄りかかると、御影石のひんやりと冷たい感触がこめかみに染みこんでいく。
 無条件に存在を肯定されずに崩壊しきった土台の上で、これまでの半生でどうにか作りあげてきた塔の残骸が、きらきらと光っていた。
 知沙希の墓石に寄りかかったまま、うずくまったまま知央は泣いた。最近すっかり涙に慣れきった瞳で、ほろほろと涙が止まらなかった。
 ねえ橋本さん。周縁に生きる者が、ほころびを抱えたまま生きる意味ってなんだろうね。
 木漏れ日に照らされた御影石は美しい。黒くて艶々として、泣き疲れた瞳が溶けて吸いこまれてしまいそうだった。
 知沙希からの声は聞こえない。言葉もない。知央の周りには五感を刺激する言葉は何ひとつなく、静寂だけがそこに在った。
 平成三十年六月、橋本知沙希。
 ほろほろと涙が落ちて、しっとりとした土に黒い染みをいくつか作った。ひぐ、と堪えきれない嗚咽が漏れた。
 悔しかった。知沙希がいないこの世界が悔しかった。見えない者とされてきた知央にも、頭と心は確かに在って、そのすべてが悔しい、と叫んでいた。
 理想でない者の姿を透明なものとして扱う人々の怠惰が悔しい。
 その怠惰に縊り殺されるこの身の弱さが悔しい。
 気にしなければ良いだけだと言われても、無条件に存在を肯定された経験のない知央には、理想や完璧さに従って取りつくろうことでしか、自分自身に生きることを許せなかった。
 木漏れ日がさらさらと降り注ぐ。知沙希の名前の上にそっと額をくっつけると、まあるい小さな光が黒い御影石の上にいくつも灯って星空のようだった。
 その美しさに、死は一種の解放だと知央は確かに思った。
 誰の承認も理想も届かない場所で、ようやくその存在が許される。見えないこととされてきた周縁者にとっての解放だと思った。
 喪失と悲しみばかりの世界で、空っぽの自分が、ほころびだらけのまま生き続ける意味なんてあるのだろうか。そこまでして、生きることって大切なのだろうか。
 そう考えてさえ、知央はただただ悔しかった。知沙希のみならず、自分まで運命と世界に殺されることは悔しかった。
 そっと手元にあった小石を握りしめる。尖った白い小石はすぐに薄い皮膚を突き破って、血がにじんで紅く染まっていった。いつかの梨のようだったけれど、その時よりもずっと痛かった。
 嘆きと怒りと悔しさに溺れそうになりながら、それでも知央は息を吸う。
 「ごめんなさい、橋本さん。本当に、ごめんなさい」
 きっと僕ら分かり合えたのに、僕は君の言葉を聞くことができなかった。自分の弱さを曝けだすことが怖くて、君の笑顔に騙されることを選んでしまった。
 手を差し伸べることができずに、本当にごめんなさい。
 謝ることすら生者のどうしようもない暴力性であり、どうしようもないエゴだった。それでも、繰り返し謝る以外の術を知央は知らない。
 知沙希からの言葉は返ってこない。血まみれになった白い小石を両手で握って、知央は息を吸うことを選んだ。
 空っぽな真ん中で息づく悔しさだけが、血にまみれた手のひらで、世界に殺されないことを選びとるひとつきりの理由だった。
 

 日が徐々に紅くなっていく。耳を澄ませると遠くの百舌鳥の声がかすかに沁みて、入日色の丘を、知央は登った時と同じように一歩一歩下った。
 どうにかタクシーを捕まえて駅まで向かうと、今度は電車で東京へ帰った。なんとなく帰りたくなくて、ローカル線を選んだら、家に着いた頃にはとっぷりと日が暮れてしまっていた。
 中部と東京を日帰りで往復するのも二回目だな、と笑ってしまう。それでもこうして無事に戻ってきたよ。
 「ああ、お帰りなさい」
 「……ただいま」
 スーツも鞄も駄目にしてしまった知央を見るなり、悠斗は、祈るときみたいに、手を鳴らして澄んだ大きな音を出した。喜びの音を聴いて、知央は悠斗に抱きついた。風呂上りで湯気を立ち上らせていた彼は、埃だらけの知央を厭うことなく抱きしめてくれた。真冬に湯舟に浸かった時のようにどうしようもなく身体がゆるんだ。
 「無事でよかった。本当に、君が無事でよかった」
 あれからずっと知央のことを考えていたよ。君の心に気がつかないで酷い発言をしてしまって、本当に申し訳なかった。
 悠斗は、埃を洗い流そうとするようにゆっくりと謝罪の言葉を口にした。謝られるのは謝るのと同じくらいしんどいなあ、と思いながら、知央は黙って首を横に振った。
 白湯が頭の上から爪先まで温めて、安心したのか、疲れた身体が一気に重くなった。
 「とりあえず、お風呂にはいりなよ」
 スーツを脱いで湯舟に浸かれば、天井から涙みたいな雫が滴った。
 ふたりの人間がいて、ひとりは死に、ひとりは生きることを選択した。それが偶然であることの暴力性に、知央の身体も心もとっくに傷ついていて、透明な湯に傷口がひりひりと沁みた。
 それから悠斗に呼ばれて、ふたりで食卓を囲んだ。帰りがけに駅で買った地元の名産だという野菜を袋のまま渡せば、ありがと、と悠斗は笑って手際よく味噌汁に加えた。
 「ごめんね。知央さんのご両親も呼ぼうよという僕の言葉、とても無神経というか、傲慢だった。申し訳ない」
 東京では手に入らない青菜は、味噌汁に入れると苦くて、不思議と舌に馴染んだ。
 湯気ののぼる食事を前に、白髪の混じり始めた頭を下げられて、知央は慌てて首を振った。
 「俺だってごめんなさい。なんかもう、訳が分からなくなって逃げ出してしまった。……俺の中にある喪失が過剰に反応してしまっただけで、きっと悠斗さんは悪くないんだ」
 「それでも君とずっと一緒に生きていくんだから、そのくらいは僕は気づきたかった。気づくべきだった。……もうとっくに退職されたのだけど、昔、うちの銀行で働いていた美しい人がいてね。僕が新卒で配属された先の初めての先輩だった。結婚がひとくくりの幸せではないことを、僕は先輩を見て学んでいたはずなのに、老いるうちにすっかり忘れてしまった。君の悲しみをないがしろにしてしまった」
 一口一口噛み締めながら、呑みこみながら、ふたりはほつほつと気持ちを言葉にした。ひとつひとつの言葉が、色とりどりの柔らかな光となって食卓を舞って美しかった。光は時折知央の頬に触れると、金平糖が遊んでいる時のようにくすくすと笑った。
 自分でも味噌汁を啜りながら、悠斗はひとりごちた。
 「なあ、君の苦しみは君のものだけれど、その苦しみが僕のものになり得ないことが、たまらなくしんどくなったりするよ。その悲しみごと、知央さんのことを抱きたいって思うよ。もしもまだ、許されるのなら」
 味噌汁の茶碗を机に置くと、知央の目じりにでき始めた笑い皺が好きなのだと悠斗は言った。それから、形の良い白い歯や、少しくすんだ唇の形も愛おしいと、指先で撫でられた。
 優しく触れられて、知央の唇からぽろぽろと言葉が零れた。
 「悠斗さん、俺は、生きることを選択したのだけど、それは悔しいからなんだ。未だに生きてていい意味、生きる意味は分からない。空っぽで、子どもとしても社会人としても、悠斗さんのパートナーとしても完璧ではない俺が、生きてて良い意味、幸せを望んでも良い意味なんてあるのかな」
 「そんなこと思ってたの、知央さん。知央さん、君が生きているだけで価値があるんだよ」
 「死んだ人には価値がないの、」
 ふたりきりのリビングに、声は思いがけず反響した。悠斗は、今度は間違えずに、そっと両手で受け止めた。
 地元の銀行で何人もの人生に立ち会ってきた思慮深い目が、知央のことをまっすぐ覗きこんだ。
 「訂正する。生きることを選択した知央さんのその選択に価値があるよ。命を手放すことを選択した人の選択にも、同等の価値がある、と思う。僕は、愛する人がこれからどんな選択をしたって、それを肯定していくよ」
 それは、未来の無条件の肯定だった。
 崩壊しきった土台の上に、さらさらと星の屑が降り落ちる。目を凝らさなければ見えないそれは、それでも降り積もればきっと新しい土台となるはずだ。
 土台の上に腰かけて、次は一体どんな塔を作ろうか、知央は思案した。
 悠斗の言葉は金平糖の甘さで、ずいぶんと久しぶりに知央は味覚というものを味わった。舌の上で甘さがとろけていく。彩り溢れる砂糖は一粒一粒ゆっくりと溶かされて、知央を形作る身体の一部となっていく。
 「そのうえで、やっぱり僕は君にパートナーシップを申し込みたいよ。生きることを選択した知央さんの、その生きることを少しでも楽にしたいから、使えるものは全部使って生き延びてやりたい。僕ら、愛だけじゃ食っていけないから」
 「、ロマンチックじゃないなぁ」
 「そうだよ、一緒に生きるってロマンチックじゃないんだ。結婚は生活だよ。異性愛者だって結婚は現実だ。俺たちだけが愛に現実を絡めちゃいけない道理はないだろう」 
 テーブルごしに器用に抱きしめられて、知央はそっと目をつむった。瞼の裏側の暗闇のなかで、悠斗の鼓動がアンダンテのスピードで鳴っていた。
 谷間の深海を泳ぐ怪物ともう一度目が合うと、不器用な怪物はにっこりと笑った。
 「うん。俺も、悠斗さんと一緒に生きていきたいな。糸倉さんにお願いして良い式を挙げたい。来た人全員のこれまでの選択と、これからの選択を祝福するような、そんな式がいい」
 「それはとっても素敵だ」
 百年好合。
 喜ぶ悠斗の言葉は、星降る金の美しさだ。この人の発する言葉はいつだって晴れやかさに溢れている。言葉をすべての感覚で咀嚼するという特技は辛いことばかりだけれど、この特技があるから、この美しさにも出会えたのだ。
 相変わらず喪失と悲しみに満ちた世界で、それでも生きることの慰めを共にするのならやっぱりこの人の横がいいと思った。
 テーブル越しに骨ばった薬指二本が絡まって、それからしっかりと手を繋いだ。
 晴れやかな世界だった。

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