平成、この佳き日に。(終・令和1年)

 よく晴れた初夏の日、マンションのポストに歌うような手紙が届いた。
 封筒をひっくり返すと、つい一か月前には頻繁にやりとりを交わしていたふたりの名前が裏側にあって、結夏は微笑んだ。
 メールアドレスもラインも知っているのに、わざわざ手紙を選ぶとは、言葉を大切にするあのふたりらしいな、と思った。きっと知央さん発案なのだろう。年下の愛すべき人を思い出して、結夏はその星みたいに柔らかな黄色の便箋を、そっとバッグにしまった。
 仕事の間はひっつめにしている黒髪が解きはなたれて、晴れやかな薫る風にふくらんだ。
 長い黒髪を前髪まで風に遊ばせながら歩くのは、初夏の時期の特別にお気に入りの娯楽だ。結夏の休みはいつだって平日だから、真昼間になると、さすがの東京も駅から少し歩けば人ごみが途絶える。陽光がアスファルトと遊ぶ様子を眺めることなんかは、とても楽しかった。
 「こんにちはあ」
 「あれ、糸倉さんいらっしゃい」
 「うん、いらっしゃいました」
 へへ、と笑うと、先代から代替わりしたばかりの若いマスターは、おぼつかない手つきでミルクティーを注いでくれた。
 からからと透明な氷が涼し気に笑う。
 大学の近くに建つこの喫茶店は、昭和の時代から学生たちに愛される老舗だ。結夏自身は大学を出ていないけれど、一番初めに担当したお客さんが思い出のミルクティーなのだと教えてくれて以来、もう三十年ほど、休みの度に通い詰めていた。
 ウェディングプランナーはハードな仕事だ。土日祝日はほとんどお客様のお式で潰れてしまうから、週に一度、平日にお休みが取れれば良い方だ。
 何度経験しても、失敗が許されない式本番は息が詰まりそうに緊張するし、誰もが結婚するわけではない時代、お客様の母数も減ってきている。
 それでも、一生に一度のお祝いの場に立ち会うことが好きで、好きで、たまらなく好きで、気づいたらこんな年まで現場の一線でがんばっていた。
 「最近いらっしゃらなかったから、また忙しいのかなあ、って心配してたんですよ」
 「ああ、私、引退したんだ」
 え、と分かりやすく驚いてくれたマスターに、悪戯が成功した時の気持ちで、現場はね、と結夏は付け足した。仕事の忙しさに、そろそろ体力がついてこなくなってきていた。せっかくだから平成が終わるまでは、と踏ん張って、この間の春に最後の現場を担当したのだ。
 馴染んだ愛すべきレストランに別れを告げて、大手のウェディング会社に指導係として転職した。新しい環境に慣れるのにてこずって、休日にこの喫茶店を訪れるのもずいぶんと久しぶりだった。
 「今日はね、私の最後のお客様から手紙が届いた記念日なの。平成が終わって最初の、そして私にとって最後のお客様。せっかくだしここで読みたくって、持ってきちゃった」
 「あら、それは光栄。それじゃあゆっくりしてってください」
 うっすらと光に透ける薄さに切られたレモンを添えたチーズケーキを置いて、マスターは微笑みながらカウンターに戻った。
 レモンの黄色に便箋の黄色、さわやかな共演にハミングしながらそっと封を開ける。平成という一時代とともに駆け抜けた思い出が、ほとばしるようだった。
 知央らしい丁寧な筆跡で綴られたお礼の手紙は、きっと生涯、結夏のたからものとなるべきものだ。

 ─前略、糸倉さま。先日は私たちのために素敵な式をプロデュースしてくださって、本当にありがとうございました。あれからふたりとも、元気にやっています。上原は自分で作った食事を食べすぎて、ひとまわりも大きくなってしまいました。現在目下、ダイエット中です。

 時折斜めに物事を見る癖のある可愛らしい年下の子を思いだして、結夏は笑う。ひともじひともじを世界に刻み付けるように、手紙は続いた。

 ─あの式の日、タキシードを着ることができた俺は、上原のご両親や妹さん、友人たちの姿を雛壇から眺めながら、アリスのティーパーティーを思い出していました。
 何でもない日、おめでとう。何でもない日、万歳。確かにあの日は俺と上原にとっては記念日ですが、それ以上に、あの場にいた人たち全員の生を祝福したかった。肯定したかった。
 ─ウェディングプランナーさんにこんなことを言ったら怒られるかもしれません。でも俺はあの時、誰かの何でもない日をお祝いしたいと確かに思ったんです。
 結婚は素晴らしいことだけれど、結婚していなくてもその人の生は素晴らしいものであるべきだから。その日ピアノがうまく弾けたりだとか、草木がよく成長したりだとか、新しい職場に行ったりだとか、そういったことで、おめでとうって祝福のパーティーを開きたいと思いました。糸倉さんがプランニングしてくれた俺たちの式のような、素敵なティーパーティーを。そのためになら何回ご祝儀を払っても惜しくはないと思った。
 ─実は、あの式に呼びたくて呼べなかった友人がひとりいました。そのことをきっと一生俺は悔やみ続けるのですが、糸倉さんのおかげで、あの日はずっと笑っていることができた。本当にありがとうございました。

 糸倉さんもお元気で、としめられたまあるい文字を、結夏は何度も何度も指でなぞった。それから、一口ミルクティーを飲んだ。開けはなされた窓から風が舞いこんで、休みの日にしか着ないワンピースの裾をふわりと揺らした。
 向かいの席では、オレンジ色のマニキュアが印象的な初老の女性が、キリル文字の書籍に埋もれている。さらにそれより遠くの暗がりの席では、鮮やかな金色のショートボブの女の子が、パソコンで何やら難しそうな論文を書いていた。近眼でよくは見えない目を凝らしてみると、パソコンの画面に蚕らしき昆虫の写真がアップで映し出されて、虫があまり得意ではない結夏はひえっと慌てて目をそらした。
 もう一度ミルクティーを一口飲んで、心を落ち着かせる。
 ああそれでも、さすが学問の街にある喫茶店だ。女の子が学問を愛している光景に、喫茶店中の空気が静かに笑いさざめいていた。
 一口大に切り取ったチーズケーキがさわやかに舌の上で溶けていって、結夏はにっこりとひとり笑った。
 誰かの何かを愛する気持ちに溢れている場所で、すうとひとしずく呼吸をする。かさりと便箋を封筒にしまって、そっとテーブルを撫でた。開業以来時を重ねた木目はすっかり飴色になって、つやつやと美しく光を照らしている。私の人生もこんな風に飴色だといい。
 さらさらと首筋を撫でる風に任せて、結夏は担当した人々を一組一組、思い出した。食べることが好きな美しい女性がいた。不思議な距離で笑い合う恋人たちがいた。タキシードに照れる恋人をゆっくりと見守る男性がいた。
 すべてが成功した式ばかりではなかったけれど、それでも何かしら、その人たちの人生に花を一輪添えられたらと駆け抜けてきた日々だった。

 自分で選びとってきた飴色の道が愛おしく、ごらんよ、結夏はひとりで今こんなにも幸せだった。ふたりで生きる人たちを送りだしてきた思い出に、ひとりで酩酊できることの贅沢に眩暈すらしそうだ。

 きっといつか誰かの涙を呑みこんだミルクティーに、結夏の幸福の涙がひとしずく落ちた。
 良く晴れた初夏の日だった。

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