マズローの五段階欲求と対比で考察する、「過剰な自己責任論」の罠

「自粛」、「自己責任」をよく聞く今日この頃です。個人的には「自己責任」という言葉はよく使っていますし、普通のことだとは考えていました。基本的にフェアな条件で競争すれば必ず結果を出せる自信があるので、「機会平等」が前提であれば良いとは思っているくらいの認識でした。

とはいえ、昨今の「自粛」に伴って、「そういうリスクを考慮して職業を選択したのだから自己責任だ」という話が多く出てきており、こちらについては非常に強い違和感を感じています。
違和感の内容は下記です。

(1) そもそも「公衆衛生上必要な処置」への協力を求めるのが理由のため、「自己で責任を取れる範囲」ではない
-> 「公衆衛生」の問題に関しては他者の健康に対する責任を個人で負うのは不可能です。
(2) 「公衆衛生の維持」は流石に政府(行政)の仕事ではないか
-> 「自粛要請」という言葉に多く突っ込みが入っているようです。
(3) エンターテイメント系、飲食系は自己責任にしたら「公衆衛生」よりも自分の収入を優先しないか
-> 「経済対策」と当初はなっていたようですが(今後名目がどのように変更されるかよくわからないですが当初は経済対策としてお肉券やお魚券、旅行券が挙がっていました)、そもそも「公衆衛生」と「社会秩序の維持」が最優先であり、論点がずれています。また、職業差別のようなコメントが見られるなどもしました。
(4) そもそも数ヶ月単位の活動の自粛を自己責任で耐えることが可能なのか
-> これについてはケースバイケースのため言及は避けます。

以上の点から、個人的な見解として少なくとも(1)〜(3)については「自己責任」ではなく、「行政府の責任で指示を出すべき内容」だと思います。「法律がない」という話も出ていますが、少なくとも憲法には「個人の自由」は他の個人の自由を損害しないように「公共の福祉」によって制限されるとされています。また、法律はある程度解釈論なので、今回のような緊急事態では後から責任を取る覚悟があれば何かしらの対応が取れるはずです。もしくはイギリスのように保障を示すことで、要請に従うインセンティブを与えるというやり方もあります。

ここまでで述べた「自己責任論」への違和感について、以下マズローの五段階欲求説と対比しながら考えていければと思います。以下、目次になります。
1. マズローの五段階欲求説の概要
2. 自己責任の範囲はどのレベルが適切か
3. 政治の過剰な経済介入への違和感(経済は強者のために、政治は弱者のために)


1. マズローの五段階欲求説の概要
1節では「マズローの五段階欲求説」について簡単にご紹介します。

画像1

https://ja.wikipedia.org/wiki/自己実現理論
「マズローの五段階欲求説」は上記のような図で説明されます。人間の欲求が下記の五段階あるとされています。

・自己実現の欲求 (Self-actualization)
・承認(尊重)の欲求 (Esteem)
・社会的欲求 / 所属と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)
・安全の欲求 (Safety needs)
・生理的欲求 (Physiological needs)

上記は高次の欲求の順に並べています。就職などは真ん中の「社会的欲求」に入ると考えて良いと思いますし、昨今のSNSは「承認の欲求」が大きいのではと思います。詳細は参照のWikipediaなどをご確認ください。

概要については把握できたので1節はここまでとします。


2. 自己責任の範囲はどのレベルが適切か
1節でまとめた「マズローの五段階欲求説」を元に、2節では「自己責任の適切な範囲」について論じていこうと思います。個人的な見解としては、「前提条件が満たされた上であれば、社会的欲求から高次の欲求についてを自己責任とする」でも良いのではと考えています。ここで前提条件としては、「機会平等が満たされる」べきと考えます。
また、「生理的欲求」と「安全の欲求」については「自己責任」に委ねない方が良いと思います。というのも、「自己責任」になってしまうと、他者との競争になる可能性があるからです。「水や食料がない」や「いつ乱暴されるかわからない」という社会で「自己責任」としてしまうと、争いの原因になってしまいます。
「社会的欲求」よりも高次の欲求は元々全員に平等に与えるのが難しいものなので、「結果平等」ではなく「機会平等」として誰もが同じスタートラインから始められるようにだけするのが良いと思います。こうすることで健全な競争が可能になると思います。

したがって、自己責任の範囲は「機会平等が満たされた上での、社会的欲求、承認欲求、自己実現の欲求に限る」というのがここでの議論の結論です。おそらくこのラインが、資本主義をベースとした上での健全な意味での「自己責任の範囲」ではないかと考えています。

一方、昨今の話題として、飲食店やライブハウスの事業者が自粛によって収入がないことに対し「自己責任だ」という主張なども見かけます。こちらについてはナンセンスだと思っています。というのも、今回は「公衆衛生」の話であるため、「生理的欲求・安全の欲求」と「社会的欲求」を天秤にかけた話になっているからです。さらに場合によっては、他者の「生理的欲求・安全の欲求」を損なうリスクもあります。これはあり得ないです。

したがって、「過剰な自己責任論」となっている印象を受けます。「過剰な自己責任論」は同レベルの競争に自分も晒されることを意味するので、弱者の立場に自分が立つ可能性があると想定しなければなりません。今回は誰が同じ立場に立っても大変でしょうから、世の中のあらゆる人を思いやることが必然的に必須になります。


3. 政治の過剰な経済介入への違和感(経済は強者のために、政治は弱者のために)
さて、2節では「自己責任の適切な範囲」について論じましたが、少しだけ触れた「過剰な自己責任論」の背景について3節では論じていこうと思います。
今回ケースにおいて「一律給付」ではなく「自己申告制」にしたというのは、正直信じられませんでした。一事業者として個人的に困るというのも少しはありますが1%くらいで、それ以上に収束までに時間がかかる愚策だというのが99%の理由です。「公衆衛生」は「生理的欲求・安全の欲求」のレベルの話なので、「自己責任」として個人に判断を委ねて欲しくないのです。特に、その日暮らしとなっている人たちは、他に手段がない故に「生理的欲求・安全の欲求」のレベルのリスクすら取るでしょう。そうなるとたとえ冷静に自粛したとしても、そういった方々の活動によって、「健康リスク」にさらされる可能性があります。

このような事態が起こっている背景として、「政治の過剰な経済介入」があるのではないかと考えています。財界の意向を踏まえた上で政治的判断が行われているように思われます。通常時であればある程度は仕方のないことだとも思いますが、緊急事態における対応としては流石におかしいと思います。
建前として、「経済は強者のために、政治は弱者のために」というのはもっと社会を構成する原則としてあっても良いのではと思います。この辺は日本社会の難しいところかもしれません。

大きな政府、小さな政府と対比で論じられることも多いですが、「経済は強者のために、政治は弱者のために」と考えるとわかりやすいのかなと思います。大きな政府は弱者により手厚く、小さな政府は強者の制約をなくすというのがメインとしてあり、どちらかを選ぶというよりは情勢を踏まえながらバランスを取っていくということが求められると思います。低次の欲求を満たすべき際は大きな政府、低次の欲求が満たされた上でより高次な欲求について取り扱う際は小さな政府が求められると思います。
今回は「公衆衛生」に関する話なので、大きな政府のような対応が求められると思います。
政府に「経済対策」を求める人が多いですが、この点についてはナンセンスだと思います。政府は「生理的欲求・安全の欲求」だけでも一律に満たせるように対策してくれれば及第点のはずです。

今回の記事のまとめとしては、「政治の過剰な経済介入」によって「過剰な自己責任論」が起きているのではないかという点について指摘した上で、「自己責任の範囲は機会平等が満たされた上での、社会的欲求、承認欲求、自己実現の欲求に限るべきではないか」ということを主張したいと思います。
社会の構成員誰かしらの「生理的欲求・安全の欲求」を蔑ろにする社会は必ずそのしっぺ返しを受けます。大きな変動の時期のため、一人一人が少なくとも生活できるような安心感を与える対応が、今政府に求められていると思います。

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