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私小説2 J.H.S.

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日本一のナンパ大学の生活が終わった。目的意識なく就職活動をした結果。中学教師になった。マグレで採用試験に受かり、待っていたのは「ビーバップJr.ハイスクール」だった。波瀾万丈な物…
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デモシカ

デモシカ

 有名なSゼミを耐え抜くと、コネでフジテレビだと知ったのは、つい最近だった。文学部教育学科と教員養成の教育学部は、全くの別世界であった。この教育学科の学生は、だいたい教員の免許を取らない学生が、大部分であり、「教員?何で貧乏暮らしをしなきゃいけないの?」と逆に質問されたぐらいだ。

 そんなことも知らずに、代返ばかりでバイト三昧。試験前には、真面目一本槍の女の子から借りた咳払いまで書いてあるノート

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マンモス

マンモス

 赴任校が決まった。言われるまま3月29日に、新潟県某市の教育委員会に行った。すぐに、赴任校まで車で送ってくれた。その車中、市役所職員の皮肉っぽい話を聞いた。

「N中ですか。そりゃご苦労様ですねえ。」

 昨年度まで総学級数36クラスを有する県下第2位のマンモス校だったそうだ。今年度から、分離してOJ中学校ができて、24クラスまで減った。しかし、新設校には、多くのお利口さんが行き、減ったとはいえ

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エスケープ

エスケープ

 3年部所属を命じられた。学級担任ではない。使いっ走りといったところである。学年部のメンバー構成は、学年主任、副主任、学級担任8名、学年所属3名という、13名の構成だった。

 臨時講師も非常勤もいない学校だった。つまり、こんな大規模校でもパートタイマー教師は、1人もいなかったのである。後に、これが珍しい体制であることに気づく。しかし当時は、何の疑問ももたなかった。

 学年所属も若者が3名も配置

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ノックアウト

ノックアウト

 N中の教務室は、エラい人が横にずらりと並ぶ4年部の雛壇とコの字方にセッティングされている3つの学年部に、1つずつ電話とマイクが設置されていた。やたらと細長いので、「鯨の寝床」なんて呼んでいた。

 朝の打ち合わせは、遥か遠くに座っている教務主任のアナウンスにより進められた。各学年部からの連絡等も、当然マイクを使って行われた。そのため進行が遅くて、次の予定時間に食い込むこともしばしばであった。

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オチャクミ

オチャクミ

 新採用2年目も学級担任にはなれず、またもや学年所属の使いっ走りだった。それが、通常のルールだとばかり思っていたが、単なる思い込みだった。他校の新採用同期のほとんどは、学級担任2年目を迎えていた。

 今度は、1年部。学年主任を筆頭に、総勢11人。学年所属は1人だけになった。最初に学年主任に命じられたのが、朝のお茶汲みだった。これには、驚いた。学年部の誰よりも早く出勤して、一人一人にお茶を出せとい

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キョウモ オサケガ

キョウモ オサケガ

 マンモス校職員全員での宴会は、大座敷を連ねた場所で行われた。総勢60名以上を受け入れられる場所は限られていて、学区内には2軒しかなかった。1人に1つのお膳が用意されて、必ず個別の鍋物が付いていた。

 昭和60年代は、校務員も含めた全員参加の宴会が、2ヶ月に1回行われていた。当時の月給は現金払いで、手取りが10万円弱。車のローンで3万円、アパートの家賃や光熱費等が3万円。すなわち、残り3万円が1

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サヨナラ

サヨナラ

 生まれ育った田舎に戻ることになった。昨年度から、2校目の全校生徒160名余の新潟県最北の中学校で、平穏な2年目を過ごしていた。林業の町で、校舎は新築数年目の杉の木満載の贅沢な建物で、何と、体育館の天井の骨組みまで曲げ木とか言う珍しい木造工法で、竣工時は県内外から視察団が多かったと聞いた。教室は、自由自在の可変式で、時に応じたスペースができる便利さだった。

 地獄から天国に来たというのは、決して

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