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デモシカ

 有名なSゼミを耐え抜くと、コネでフジテレビだと知ったのは、つい最近だった。文学部教育学科と教員養成の教育学部は、全くの別世界であった。この教育学科の学生は、だいたい教員の免許を取らない学生が、大部分であり、「教員?何で貧乏暮らしをしなきゃいけないの?」と逆に質問されたぐらいだ。

 そんなことも知らずに、代返ばかりでバイト三昧。試験前には、真面目一本槍の女の子から借りた咳払いまで書いてあるノートをコピーして、成績はC(可)ばかり。それでも何とか卒業要件の128単位を取ることができた。女の子には当初の約束どおり、六本木のディスコを1回奢ってお礼した。その人間関係に浮いた話は、まるっきりなかった。

 職業に関しては、何の目的意識もなく。更に、A(優)の成績がわずか9つしかない学生を採用してくれる企業など、なかった。しかし、東進ハイスクールが、古文・漢文の講師として内定を出してくれた。学力テストの結果が良好だったので出た、内定らしかった。

 東進ハイスクールは、吉祥寺の駅前にあった。かなり古いビルだった。内定をもらってから、施設内の見学に呼ばれた。すぐに「階段教室」と呼ばれている大教室に、案内された。案内してくれた事務職のトップらしき人物が、大きな身振り手振りで、こう言った。

「ここを満員にすると、たとえ1年目でも軽く年収は1000万を超えるよ!」
「はあ......。」気のない返事しかできず。

 500人分ぐらいの座席が、すり鉢状に広がっていた。その教壇で、講義している自分の姿を想像してみた。そして、若造講師が、ベンツに乗って颯爽と出勤する姿も、無理矢理想像してみた。妄想はすぐに消え去った。金ピカ先生、マドンナ先生のような技量など
あるはずもない。すぐに、入社を辞退した。

 憧れのマスコミは、インチキ週刊誌までダメで、全滅。大手企業は、大学名を告げるとお払い箱で、相手にしてもくれなかった。残るは、教員採用試験だけになった。しかし、出身県は、採用ゼロ。そこで、東京都と新潟県を受けることにした。さしたる理由はなかった。単に試験日がずれていただけだった。

 小学校の免許状は、大学移転のため取り損なった。あるのは、中学校と高校の国語の免許状。高校教師などできないと決めつけ、中学校を受けることにした。まずは、東京都の一次試験。教職教養のマークシート問題が、わずか20問。2問間違えて、不合格。試験会場は、駒澤大学の新校舎。5000人枠に2万人超が受けたそうだ。

 残るは、新潟県のみになった。さりとて、採用試験の受験勉強などしなかった。やっても無駄だと思ったからだ。それでも、試験対策に関係する本を、1冊ぐらいは持っていこうと思った。部屋に唯一残っていた、唯一受かったA大学の赤本を手に取った。

 わずか2時間程度の時間、上越新幹線の車中で、例の赤本を開き、古文・漢文の問題をいくつか解いてみた。というより、問題と正解を見ただけだった。無駄な抵抗も、新潟駅に到着と同時にやめた。気休めもここまでと開き直って、一次試験を迎えた。

 翌日、専門教科である国語の試験からスタートした。なぜか現代文は、問題作成者の意図を容易く見抜けた。そして、ラストの漢文の問題。何と、新幹線の中で見た問題とそっくりな問題が出ていた!その時、鉛筆を持つ手が、一瞬震えた。記憶どおりに答えを書いた。手応えをしっかりと感じた。こうして、国語の試験は、ドラマチックに終わった。

 マグレ当たりの何物でもなく、一次試験は通った。二次試験の受験内容は、型通りの面接試験の前に実技試験として、持久走、そして25mの水泳が実施される。当時、身長が180cmもあったのに、体重は63kgと栄養失調気味ではあったが、バイトのお陰で、持久力に不安はなかった。水泳も小学生の時に、本格的な古式水泳をマスターしていた。

 意気揚々と、海パンを原宿の格安店に買いに行った。選んだのは、蛍光色のオレンジ色のワンサイズ大きめの一品だった。痩せて肋骨が浮いて見える身体にド派手な色のブカブカ海パンという、珍妙な姿が出来上がった。

 二次試験は、早速水泳実技から始まった。スタートの飛び込みなしで、泳法は自由と告げられた。泳法は、潜水と決めていた。スタートの合図はホイッスル。6コースに分かれた水泳実技が始まった。いきなり、プールの底まで潜り、ノンブレスで、ゴールまで泳ぎ切る作戦だ。究極の古式泳法である。

 25mなど、平気で潜り続けた。塩素が濃かったのか、やたらと目が痛い。ゴールにタッチして水上に浮き上がった。試験官の声が聞こえた。「オレンジ君!すごいぞ!」と。

 振り返って見た。他の5人は、まだプールの中ほどの位置で、クロールの真似事をしたり、溺れかけていた。どうやら、まともに泳げる人がいなかったようだ。拳を上げて、ガッツポーズをした。素直に嬉しかった。

 二次試験も通った。ただし採用通知は、何と半年以上先の3月になると告げられた。採用枠は、3つあった。教諭としてのA採用、臨時講師のB、非常勤講師のCと天と地に差があった。教諭は、終身雇用に対して、BとCは1年契約。どれになるかはわからない。

 大学同期の仲間たちは、卒業旅行と称して旅費は出世払いで、海外のあちこちに出かけて行った。何度も誘われたが、断った。3月を迎えると、自分の部屋でただ待つだけの生活になった。日中は、部屋にいて郵便配達を待つ日々が続いた。夜は、近くの居酒屋というパターンが出来上がった。

 毎日、4サイクルのバイクの排気音がすると同時に立ち上がり、入口に歩み寄った。そんな生活が2週間も続いた。そして、忘れもしない3月15日。例の バイクの音がして、郵便受けからコトリと音がした。

 やっと来た!封筒を破いて開けた。Aの文字が見えた!飛び上がった。実家に電話したら、祖母が出た。「おばーちゃん!受かったよ!」の返答に「何に?」と言われて、瞬時に熱が醒めた。そして、本当は心底喜んでいない自分に気づいた。

 「結局、学校のセンセーか......。」と、もうひとりの自分がつぶやいた。帰ったら、実家は騒ぎになっていた。また、もうひとりの自分がつぶやいた。「親孝行1個目」と。いずれにせよ、ここに「デモシカ教師」が出現したのであった。





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