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システムの外へ


 高校卒業を目前にし、大学進学という社会の常識という名のレールの上を走っている私はその道を甘んじて進んでいる。下手に横道、脇道に逸れる勇気もなく、仕方がないから流れに身を任せていることに対して、恥ずかしさと自身に憤慨を覚える。
 この本、角幡唯介の描く「極夜行」を通して、これまで言語化せずにぼんやりと胸の内に溜まった焦燥感の沈殿物が正体を輪郭を持って現れてきた。
ちなみにこの作品はノンフィクションである。私は『現実は小説より奇なり』という言葉を実感したのはこの作品が初めてである。

 極夜行。
それは太陽が失われた世界。確かな知覚を持っていたはずの物質の輪郭があやふやになり、混じり、カオスが生じる世界を私は角幡を媒介に“見た”。
 筆者は、グリーンランド北西部北緯77度47分に位置する村シオラパルクから出発し、極夜の闇を観察・身に刻んで、極夜明けの太陽を目にするという4ヶ月の探検を行った。作品はその冒険のことを角幡自身が書き綴ったものである。

 闇に浮かぶ淡い月の光の中で筆者は闇に対しての恐怖を記した。
原始から闇は人間にとって恐怖の対象になっている。それは闇には混沌が生じるからであると筆者は考えている。混沌は区別がはっきりしないことを指すが、その全てが入り混じったようなグチャグチャから自分を生きている実態として想像できなくなってしまう。だから無意識の内に行われる未来予測が不可能になる。そうすると死の不安が常に付き纏ってくる。そして人間はそれを恐れる。
 逆に「光」は希望などのプラス要素を演じることが多いが、それは単に未来予測が可能になって死の匂いがとおのくからではないか。
 普段、生死について考えることは少ない。しかし暗い所で光を求め、私の脳がしっかりと対象の像を認識することを強要する場面はいろんなところで発見できる。そのために眠らない街を作り出し、ネオンやLEDを生み出したのかもしれない。そんな街では天体の光の有難さなんてものは存在せず、闇も意味がうまく形作らない。
著者が極夜に乗り込んで行ったのはそうした光が当たり前のようにそばにいる社会、システムから出て、忘れ去られた自然との根源的結びつきという未知の可能性を探っていこうとしたからだと考える。

 システム内部にいては分からなくなったことを探る。

一見なんでもないことのように思う。けれども、世界中が密に関係を取れるようになった今、これはとても難しい、いや不可能では、と思った。それは電子機器やGPS、Googleマップなどの発達によって空白の場所が地球上にほとんどないからであり、またすぐに情報交換が行えるようになったからである。
まったく社会構造が違うという場所は少なくなり、誰もが共通のものを共有できるようになった。そんな中ではシステムの内側から出ることはほぼ不可能である。
「本当に?」
システムの外側にある混沌としたマニュアルや正解のない世界を極夜に見た著者はシステム内で無意味になった闇や天体の光に意味を見出し、システムの外へと歩を進めていった。

少しの勇気が世界の見え方を大きく変化させた。

#読書の秋2022 #極夜行

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