「哲学」とは何か 〜セカイとヒトと、時々、カミサマ〜

 哲学とは何でしょう。分かるようでよく分からない言葉。哲学カフェにて哲学をする前に、この哲学という言葉の意味をちょっくら考えていきましょう。
 哲学という言葉の意味がよく分からないのは、哲学者が難解な言葉を使いがちなため、あるいは哲学者によって定義が異なるようにみえるためではないかと思われます。例えば、古代ギリシャ哲学者のプラトンは「真の知識(επιστήμη,episteme)を求めるもの」、プラトンの弟子アリストテレスは「存在そのものを明らかにするもの」と言っています。またエピクロスは「幸福の合理的獲得」、カントは「人間とは何かとの問いに答えを出すもの」、ヘーゲルは「絶対者の学」、ヘルバルトは「概念の修整」、ヴィンデルバルトは「必然的かつ普遍妥当的な価値規定の学」、ハルトマンは「帰納法的・自然科学的方法による思弁的結果」そして、近代日本哲学の祖と言われている西田幾多郎は「知識の最高の統一」などと定義しています。
 うむ、何を言っているのだろう。説明なく言葉だけを目にしただけではよくわからないですよね。これだけ聞いて、なるほどそういうことかと言える人は、哲学書愛好家の偏屈おじさんか、知識豊富で解釈好きな文学少女か、もしくは哲学をアクセサリーにしている中二病くんかのどれかでしょう。
 あるいは、日常生活では「俺の哲学は…」といって自分の人生観を語るなんちゃってビジネスマンがいたり、語源は「知を愛する(φιλοσοφία,philosophy)」であったりと、使う文脈によって意味の範囲が広かったり狭かったりしていて、よくわかりません。一体全体、哲学とは何なのだ。
 ここで私なりの答えを提出しましょう。私は、哲学とは「問いにこだわり、現象や物事の本質をあらわにすることで、世界と人間について解明されていくこと」だと考えています。まずは問いを立てるところからはじめる。問いが立ったら次に、その問いについて徹底的に吟味する。問いに吟味が為されたら次に、コレを抜いたらその問いが成立しなくなるといった、その問いが持つ最も重要な核の部分、すなわち「本質」を取り出す。そうすると、自ずと世界と人間について解明されてゆく。この工程こそが、哲学をするという営みなのだと私は考えています。先に引用した哲学者の言葉も全てこの定義の言い換えにすぎないのではないでしょうか。
 もう少し詳しく説明すると、まずは、「問いにこだわる」ところからはじめること。これは問いを立てることの一歩先にある活動です。問いを立てた上で、この問いは厳密に成立しているのだろうか、真に自身が問いたいことを問うことができているのだろうかと吟味することを指します。なぜ問いを立てるだけではいけないかというと、その問いが正しくなければそこから導き出される答えも正しくないものとなってしまうからです。電卓を使って計算する際にも、入力する数を間違えてしまえば、当然表示される答えの数は自分が欲しかった答えとはなりません。
 あるいは、問いがそもそも成立していないことが問題であるということもあります。問いを立てる際に、言葉の使い方を誤ってしまっているという場合です。そうなってしまうと、得られた答えは大変難解で理解不能なことになってしまいます。このような誤りには、問いそのものの吟味をしなければ気付きません。
 そういうわけで、真に本質を掴み取るためにはこの「問いにこだわる」ことが非常に重要なのです。そうすることで次の段階へ歩みを進めることができるようになります。
 次に行うこと、それは「本質をあらわにすること」です。これは「概念を再検討すること」とも言い換えられます。この作業には繊細さと忍耐力が求められます。常識を疑い、一から考え直してみること。そうして出てきた答えを批判的な目で見て繰り返し篩にかけていくこと。数多くの篩にかけていくことで小さくて単純な曇りのない言葉が出てきます。そう、それこそが本質です。いつ、いかなる場合にも共通する普遍的概念。
 晴れて本質があらわになりました。これそこがすなわち人間と世界について解明されたことに他なりません。なぜなら、この世は人間と世界のみで成り立っているからです。「内と外」と言い換えてもいいかもしれません。どういうことかというと、我々は一なる存在として自分の内に「人間」を見ていると同時に、自分の外に「世界」を見ているのです。すなわち自分としての「人間」と、自分以外の「世界」でこの世の中はできていると考えられるわけです。したがって、捉えた本質とは、人間について、あるいは世界についてのいずれかのものなのです。
 ただしこの説明はいささか不十分でもあります。人間を自分以外の有機的存在にまで広げて説明することもできれば、世界を自分を含む全存在にまで広げて説明することもできるからです。ただ、人間あるいは世界の守備範囲を変えたとしても同様の結論となります。
 とどのつまり、どのような問いを立てたとしても、それが正しい問いであり、正しい工程を経て得られた本質であるならば、それは全て、「世界」あるいは「人間」について語られたものとなるのです。この世は人間と世界の二つの概念で括ることができるのです。「一は全、全は一」という言葉がありますが、それは正しくこの説明を端的に言い表した言葉だと言えるでしょう。すなわち、「世界と人間を知る」、これこそが哲学の究極目的であり、哲学の持つ本質なのです。
 ただし時としてここに「神」なる、世界でも人間でもない、あるいは世界でも人間でもある概念が入る場合があります。この神の概念の考察は改めて考察していきたいと思います。
 最後にここで、これまで書き綴ってきた私の考える哲学についてまとめておきましょう。

 哲学するとは、問うことである。問うこととは、本質をあらわにすることである。本質をあらわにすることとは、世界と人間、あるいは神について知ることである。

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