コロナやコロナやなんじをいかんせん

 日々、鬱々としている。

 いや、別にシヘおっさん評論家がまた拙著について訳のわからなんことを書いたからでもなければ、政府が466億円を投じてウィルス防止効果のない布マスクを配布することにしたからでもなく、一人当たり30万円の給付金を出すといいながらものすごく厳しい制限が設けられたからでもなければ、コロナ禍の影響で傑作の新刊『ポラリスが降り注ぐ夜』の売れ行きがどうも怪しいからでもなく、WHOのテドロス事務局長が自分が台湾人から人種差別を受けたなんて事実無根のことを急に言い出すからでもない。

 そんな具体的な事柄はもちろん一つ一つ腹立つけど、なんかこう、もっと途方もなく巨大で、ぼんやりとしたものに対して、鬱々とし、無力感に打ちのめされている感じ。

 コロナ禍が見せつける現実というのは、途轍もなく醜く、受け入れがたいものだ。それはつまり、私たちが信じてきた、信じながら生きてきた平等や正義や公正や公平や人権といった普遍的な価値観は、結局のところ虚構に過ぎないかもしれない、ということ。結局のところ、世界は弱肉強食で、分断と差別に満ち溢れ、恵まれない人が真っ先に、とことんひどい目に遭う場所だ、ということ。

 何を今さら、という感じが、しなくもない。
 コロナ禍がなくても、世界はとっくにそうなんだよ、と言われても仕方がない。
 しかし普段なら、私たちは全力で、世界はそうじゃないんだというふりをすることができる。確かに世界は理想的ではない、というか理想とは程遠い。だけれど希望はある、私たちは揺るぎない信念をもって理想の世界へ向かうことができる。そんなふりを、することができる。たとえそれが自己欺瞞だとしても、それは有用だったのだ。

 ところが、今はそういうわけにもいかない。

 ウィルスというのは、何も平等などではない。弱い人、貧しい人から殺していくのだ。
 アメリカでは、ウィルスによる死者は圧倒的に黒人が多いとのこと。なぜなら、黒人の貧困率が高く、もともと基礎疾患があったり、家でできないような仕事(食事の配達など)をしている人が多いからだ。
 日本でも、政府が外出自粛、在宅勤務、営業自粛を呼び掛けているけれど、それができるのは結局のところ、社会全体で見れば一握りの人に過ぎないのではないだろうか。

 それは当然、仕方のないことだ。どうしようもないことだ。だからこそ無力感がこんなにも巨大なのだ。
 無力感が極限まで膨張すれば、一人一人は自分の身を守ることを最優先しなければならない。家族と会えば、恋人と会えば、友人と会えば、どんな大切な人でも、人間と会えば自分は感染リスクに晒される。あるいは人を感染させてしまう。
 だから私たちは誰も会わず、自分の殻に閉じこもらなければならない。迂闊に家族に、恋人に、友人に会いに行き、運悪く感染してしまったら、社会や世論の鉄槌によって容赦なく裁かれる。

 今の私の生活と言えば、起きて、食べて、翻訳して、本を読んで、アニメを見て、小説を書いて、寝る、その繰り返し。
 今でもそんなことをしている、していられるというのは、とても贅沢で、とても恵まれていることだという自覚はある。
 この日本において少なくとも3つはマイノリティ属性を抱えている私でも、家を出なくてもできる仕事を持っている。発注が減って仕事がなくなっても、当面生活できる貯蓄は持っている。それでいいのかもしれない。やがて去っていく嵐をただ過ぎるまで待っていればいいのだから。
 しかし成す術もなく、救済もされず、嵐に巻き上げられて無残に振り回される人もいる、そう思うと心が痛む。

 けれど私たちにできることはとても限られている。せいぜい政府がお金を無駄遣いしていないかチェックし、ツイッターなどで声を上げるくらいである。非力さを、突き付けられる。

 コロナやコロナやなんじをいかんせん。

書くためには生きる必要があり、生きるためにはお金が必要になってきます。投げ銭・サポートは、書物とともに大切な創作の源泉になります。