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月に問う

 昔はかなり中国の古典文学を読み耽っていた。中学生の頃から中国文学専攻を志望していたくらいだ。
 日本に来て、日本語で創作し始めたこともあり、中国古典文学から少し離れていったが、最近、とある台湾の女性エッセイストのエッセイを読んでいて、中国古典文学ってやはり美しいなと改めて噛み締めた。

 小説の中でちょくちょく中国の古典的な詩文を引用するのが、私がこれまで書いてきた小説の特徴の一つと言えるだろう。『五つ数えれば三日月が』なんかには、自作の七言律詩をぶち込んだくらいである。こんなことをする小説は中島敦の「山月記」くらいしか知らない。

 で、『五つ数えれば三日月が』に入れた七言律詩は、漢詩に馴染みのない読者にも分かりやすいように、日本語の現代語訳が付してある。これについては書評家は色々意見があるようだが、個人的にはなかなかうまくいったのではないかと思う。
 つまり、古代の中国語で書かれた漢詩(韻文)を、読みやすさや文章の美しさに配慮しながら現代日本語の散文に翻訳するというのは、もうちょっとやってみてもいいんじゃないかな、と。

 やってみることにした。

 試しに、宋代の詞人・辛棄疾(しん・きしつ、1140-1207)の詞、「木蘭花慢・可憐今夕月」を翻訳してみる。初めてこの詞を読んだのは大学の授業だったのを今でも覚えている。
 この詞は、辛棄疾が中秋節(十五夜)に友人とお酒を飲んでいた時に創ったものである。満月を愛でながらお酒を飲んでいると、友人はふと「昔の人が書いた詩って、月を待つって趣旨のものはあるけど、月を見送るって趣旨の詩はあまりないね」と言い出し、それを聞いた辛棄疾が、「んじゃ創ってみよう」という感じで書いた。
 この詞は、古くから伝わる『楚辞』「天問」の体裁にならい、月に色々問いかけるという形で展開される。その問いかけには詩人の想像力が存分に発揮されている。ちなみに辛棄疾の本職は実は軍人で、戦にも度々出ていたのだ。

【原文】
可憐今夕月,向何處,去悠悠?是別有人間,那邊才見,光影東頭?是天外,空汗漫,但長風浩浩送中秋?飛鏡無根誰繫?嫦娥不嫁誰留?
謂經海底問無由,恍惚使人愁。怕萬里長鯨,縱橫觸破,玉殿瓊樓。蝦蟆故堪浴水,問云何玉兔解沉浮?若道都齊無恙,云何漸漸如鉤?

【日本語訳】
可愛らしい今宵の満月よ、ゆっくり移ろっているけれど、一体どこへ向かっているのだろう? ひょっとしたらこことは違う別世界があって、向こうから見ればあなたはまだ東の方から昇ってきたばかりということなのだろうか? はたまた、果てしない宇宙から吹きつけてくる風が、あなたを遠くへ吹き飛ばそうとしているのだろうか? 空に浮かぶ鏡のようなあなたは、誰の手によって繋ぎ止められているのだろう? 嫦娥は一向に嫁ごうとしないらしいが、それは誰に引き留められているのだろう?
月は本当は海の底を通り抜けて流転していると言われるが、その仕組みがよく分からず、色々考えているうちに何だか悶々としてきた。もし万里に及ぶ巨大な鯨が乱暴に突き進み、月の中の綺麗な宮殿を壊してしまったら、どうすればいいのだろう? また、蛙は泳げるから海を通っても大丈夫だろうけれど、なんで兎も泳げるのだろう? もし宮殿も蛙も兎も、全てが無事だったら、何ゆえあなたは日に日に欠けていくのだろうか?

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