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大人になった王寺ミチルと彼女の愛の国

 私のそう長くない読書歴の中で、『愛の国』が六冊目の中山可穂作品になる。作風に飽きもせず六冊も読もうと思えた作家は、今のところ村上春樹と中山可穂だけである(J・K・ローリング『ハリーポッター』といったシリーズ物は別)。中山可穂の小説は痛い。そして美しい。絶望の核心にいとも精確に突き刺さってくる痛みと、闇夜に煌めく宝石のような美しさに、私は心底惹きつけられているのである。

『愛の国』は「王寺ミチルシリーズ三部作」の完結編であり、一九九三年の『猫背の王子』、一九九五年の『天使の骨』に続いて、二〇一四年に発表された、実に十九年ぶりの続編である。デビュー作『猫背の王子』発表当時に三十三歳だった作者も、『愛の国』発表時には五十四歳になっている。また、『愛の国』は作者のスランプ脱出の復活作でもある。『愛の国』を執筆する前に作者は深刻なスランプに陥り、何も書けない状態が何年も続いたが、デビュー作の主人公を時の彼方から呼び戻すことで見事に起死回生を遂げ、今も精力的な創作活動を続けている。それだけ王寺ミチルという登場人物が作者にとって重要なのだ。作者曰く、ミチルは「わたしの分身のようなものであり、もう一人のあるべき自分のような存在」である。

 さて、このミチルというのは実に気性の荒い女だ。痩せ細っていて、繊細で、無垢な少年のような風貌を持つ彼女は「筋金入りのレズビアン」にして「天然の女たらし」であり、「男とは寝ない主義」を貫き通し、「女のひとを抱くときは、エルガーの行進曲のように典雅に」をモットーとしている。芝居の神様に愛され、芝居は命懸けでやるものだと思っている。自分から口説くことは滅多にないが、ベッドを共にする女には困らない。それでいて破滅的な性格の持ち主で、常に死にたがっている。

『猫背の王子』のミチルは二十代前半で、知る人ぞ知るマニアックな小劇団「劇団カイロプラクティック」(カイロプラクティックとは脊椎矯正のことで、ミチルの猫背に由来している)を主宰し、「過激で、華もあるが毒もあ」る、「不道徳極まりない」芝居で自ら少年役を演じ、「観客を挑発し扇動し欲情させ戦慄させ嫌悪させ唾を吐きかけビンタを食らわせふいに抱きしめ、ひとり残らずわたしという少年に恋をさせることだけを考えていた」。同時に書き出しの「自分とセックスしている夢を見て、目が覚めた」という一文に象徴されるような、激しい自己愛の持ち主だ。劇団を取材に来た劇評家に台本を投げつけたり、稽古中に女優に湯呑をぶつけて眉間に傷をつけたりもしたし、執事に頼まれてお金持ちの老婆とセックスして腹上死させたり、家庭教師の教え子の女子中学生と心中したりもした。

『天使の骨』のミチルは二十代後半で、その時劇団カイロプラクティックは既に潰れていた。性格の激しさが幾分は治まったが、嫌な仕事を断るためにふとした思いで海外の旅に出るくらいの無茶は平然とやってのけた。しかも新宿の路上で、西の方へ旅に出ると死ぬよと占い師に告げられ、旅の目的地をわざとヨーロッパにしたのだ。旅先でも女たらしの本領を遺憾なく発揮し、行く先行く先で女の子に声を掛けられては身体を交わした。そして彷徨の旅の果てにミチルはパリに辿り着き、女優の稲葉久美子と出会い、彼女に「宿命的に恋をした」のだった。

『愛の国』のミチルは三十六歳で、『猫背の王子』や『天使の骨』の時代と比べてかなり大人になった。若気の至りともいうべき荒い気性や、激しい自己愛、後先を考えぬ衝動的な行動がなりを潜め、この時のミチルは過去の喪失が落とした黒い影に覆われ、深い哀しみに浸っていた。自らの信念に一途で、たとえ収監され拷問にかけられても決して悪に屈しない気骨や、ゲイをも虜にしてしまうほどの中性的な魅力、生にこだわりがなく常に死にたがっているところは若い頃のままだったが、大きな悲哀を経験してこその陰翳と、全てを失ってこその諦観を持つ三十六歳の王寺ミチルは、永遠の少年でありながら、紛れもなく大人に成長したのだ。

 文庫本で五百頁超えの『愛の国』は堂々たる長編だが、あらすじは言うなれば単純明快なものである。ナチス統治下のドイツさながらのファシズム政権に治められ、同性愛者が迫害される近未来の日本。ヨーロッパから稲葉久美子を連れて日本に帰り、劇団カイロプラクティックを復活させたミチルは、精魂を傾けた最後の公演で落下事故に遭い、最愛の稲葉久美子に先立たれ、自身も重傷を負い、記憶を失った。秘密警察の追跡から逃れるべく四国遍路を行いつつ、匿ってくれる駆け込み寺を目指したが、あえなく捕まり、同性愛矯正を目的とする収容所に送られた。電気ショックを含む、人間を狂気に追い込む過酷な拷問に耐えつつ、やがてレジスタンスに助けられ、海外への脱出に成功した。過去の記憶を探し求めながら、ミチルはスペインのカミーノ巡礼路を歩き続ける。終盤では、自分を助けた命の恩人が政権に抗議すべくハンガーストライキを行い、もうじき死ぬことを知り、ミチルは殉死を決心し、日本へ帰国する。

 あらすじを見ても分かるように、「王寺ミチルシリーズ三部作」完結編に当たる『愛の国』は、他の二作とは明らかに異なる趣向を有している。ミチルが大人になっただけではなく、数年ぶりに長編を発表した作者の心境の変化も窺えると思われる。それまでも作者は女性同士の恋愛を中心に書いていたが、政治的なことにはほとんど触れていなかった。耽美的な世界観を作り上げるために意図的に政治的な事柄を排していたとさえ感じる。集英社文庫の『白い薔薇の淵まで』の文庫版あとがきでは「わたしはフェミニズム運動にもゲイ・パレードにも二丁目にも興味はない」とさえ明言している。中山可穂はセクシュアル・マイノリティという極めて政治的なテーマ(「マイノリティ」と「マジョリティ」の関係自体が政治的である)を扱っているにもかかわらず、良くも悪くも「非政治的な」――あるいは「非政治的に」――小説を書いていたのだ。

 ところが、『愛の国』は良い意味で非常に「政治的」である。愛国党というファシズム政党が政権を握り、同性愛者が国から迫害を受ける近未来の日本――この設定を立ち上がらせるためには、政党、選挙、議員、国会、法律、デモ、反政府運動、レジスタンスなど政治的な事柄への言及が不可欠である。そこで王寺ミチルが闘う怪物は『猫背の王子』や『天使の骨』のように、孤独、貧乏、報われぬ愛、叶わぬ夢といった彼女自身の内面的なものではなく、国家権力そのものと、途方もなく巨大な差別構造である。題名の「愛の国」は作中では久美子によるミチルの芝居への賛辞だが、字面がよく似ている「愛国党」が皮肉にもそんな「愛の国」とは全く対極の存在である。この鮮明な対照も右傾化していく世界で台頭してくる狭隘な愛国主義やナショナリズムに対する批判として読めなくはない。

 作者は文庫版特別収録の「台湾版前書き」でこう書いている。「2013年6月、ロシアで同性愛プロパガンダ禁止法が成立し、事実上の反同性愛法が施行されたことでミチルの(そしてわたしの)反骨精神に火がついて、物語の舞台設定が固まった……絶対にそうなってはならないという警鐘を込めて、祈るような気持ちでこの小説を書いた。」一読して分かるように、現実世界で起こっている差別が政治的な眼差しを作者にもたらし、作者も意識的に小説という(非力でありながら強力な)媒体で現実世界に影響を与えようとしている。他の作品ではほとんど出てこない「レインボーフラッグ」という、セクシュアル・マイノリティを象徴する政治的な記号が、『愛の国』では収容所の中と外を繋ぐ命綱のような機能を発揮していることも、作者のそうした政治的な眼差し故の按配と言えよう。

 勿論、政治的であることは文学の必要条件ではないし、ましてや充分条件でもない。山本周五郎賞受賞作『白い薔薇の淵まで』も、直木三十五賞候補作『花伽藍』も、私を含め多くの読者を魅了し、酔い痴れさせ、耽溺させ、底なしの闇に墜としてはまた暖かな光で包み込み、あげくの果てに引き返せないほど虜にしてしまうような素敵な小説である。しかし、『愛の国』で示されている現実世界への峻厳な眼差しに対して、一ファンとして改めて敬意を表したい。

 末筆ながら、『愛の国』は中国語に翻訳され、台湾に紹介された唯一の中山可穂作品である。パターン化した大量生産のライトノベルが次々と台湾へ輸入されているにもかかわらず、中山可穂作品のような痛烈で典麗な小説があまり紹介されていないことに対して、驚愕の念を禁じ得ない。願わくは、いつか拙訳で中山可穂の他の作品を台湾に紹介する機会に恵まれれば、それはきっとまたとない幸福となるだろう。

※この書評は中国語版もあります:
https://gushi.tw/country-of-love/


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