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2極化されるスピリチュアル。 もうその発想が古い。


もう今の時代、スピリチュアルは市民権を得ましたね。
オカルトの不気味なものというイメージは無くなりました。
とはいえ、スピリチュアルは多岐にわたり、様々な考えがありますが、大きく2つに分けられます。

自分を幸せにしてくれるのは何か。

どう自分が自分を幸せにするのか。

この大きな考え方の違いがあります。
自分を幸せにしてくれる、運命の人とか、何とか水とか、パワースポットとか、何とかエネルギーが降り注ぐとかを求める考え方があります。
一方、自分の精神性を見つめ、内なる魂(スピリット)の力を感じることで幸せになる考え方が別にあります。
似て非なるもの、どころか、逆ベクトルです。
外の何かを自分にと、内なることから自分をです。
自分じゃない人やモノが自分を幸せにするなら、お守りでも壺でも学歴でも理想の配偶者でも推しの誰かでも何だって同じで、今まで通りになってしまいます。
何とか神社にお参りしたら運が良くなるなら、そこの宮司はスーパー強運になります。
神社にお願いして人生が好転したかどうか、ご自分で分かるはずです。とまで言ったら営業妨害かな。
私も神社仏閣や教会やモスクが好きで、誰もいない教会はラッキーだとしばらくいます。
神を感じますが、それは内的な神意識で、聖なる何かが来てくれたなんて考えません。
そういえば誰か偉人が言ってました。あなたの元に神が現れたら斬り殺せと。どうせロクな存在じゃないと。
まあ昔の人だから野蛮な表現ですが納得です。

確かに素晴らしい高次元の存在もいます。
でも、自分で幸せになれることを教えてくれるだけで、幸せにしてくれる何かがあるとは教えないですね。

望まないこと、何か不運があったりしてもそうです。
何かの霊やエネルギーが自分をそうさせてる、
だから取り除かないとと外の原因を考えるか、
自分の何の考えがそうさせているかと内の原因を考えるか、二分しますよね。

多分ここを読んでいる人は、んなもん当たり前じゃん、今さらなんだよと思うのでしょう。

物質社会と意識社会の2極化と言われますが、スピリチュアルの中でも2極化されていると思います。
オカルトや霊を全く信じない一般的な人からみたら、スピリチュアルなんてどれも同じく見えるでしょうが、結構、二分してます。
↓この正規分布の話も同じですね。

そして、
内の原因といっても、日常的なトラブルを自分の何が問題かと考えるのは、同じ領域のままかもしれません。
部長の怒りは自分の何の発言行動からかと考えるのは、社会的な解決法だけど、スピリチュアルではないですよね。
でも部長の怒りは自分の何が引き寄せたと考えるのも、スピリチュアルが自分を追い込みすぎな気もします。

歩いている時に吹く風、気持ちいい風か、不快な風か、自分が起こしているけど、自分が起こしているに過ぎない。
いろんな風を感じてみようとしている自分で良いのではないでしょうか。
不快な風に吹かれたかったのだろうくらいでいれば、気持ちいい風がやってくるでしょう。
何の学びかまで自分を追い込まないで良いのかもしれませんよ。
そうやって追い込まそうと自分がしているのかもしれないし、そんな自分を認めれば、自分でわかる学びしか来ないかもしれないです。
勝手な仮説です。
考え過ぎる私が出した、考え過ぎないという仮説です。

一つの見方ですよ。
スピリチュアルの観点も大分浸透して、逆に社会影響された説教くさい論理に陥って来たような気がします。
まだまだ、ぶっ飛んだ発想でいきましょう。



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