世界獣

「神」の構築

※注意
・これは宗教の話ではなく、哲学にかぶれた話である。
・各章の末尾に結論(めいたもの)を記すことにした。冗長な文章に先んじてそちらに目を通すほうがよいかもしれない(9000文字以上ある)。
・筆者は無知蒙昧の愚者であり、本稿の内容の価値に関して一切の保証はできない。自信は全くない。

※用語解説
・神:
いずれかの宗教において信仰の対象となるもの。
・「神」:
絶対者、つまり絶対性や神性をもつ事物のこと(比喩的な表現)。端的にいえば、哲学的文脈における実在のこと。
具体的には、たとえば神は「神」に含まれるし、ある思想を信望する者にとってはその思想もまた「神」である。もしもあなたが、日本の法律には絶対に従わねばならないと思うなら、あなたにとって日本の法律は「神」である(もちろん神ではない)。
・私:
多くの人が用いる自称詞。本稿ではその筆者を指す。
・「私」:
間主観的な観点、つまりすべての(不特定な)人間によるそれぞれの主観的な観点のこと。単なる「人間」に比べ、より(間)主観性が強調されている(気がする)表現である。
「私は目によって物を見る」という文は、筆者の個人的な(視覚という)事柄への言及である。対して、「「私」は目によって物を見る」という文は、すべての人間それぞれの個人的な(視覚という)事柄への言及である。


1.<生きる意味>は存在するか
├A-①.第一義的な「生きる」
├A-②.生命維持行為としての「生きる」
├A-③.文化的行為としての「生きる」、etc
├B-①.「神」なき、内在的な「意味」
└B-②.「神」による、外在的な「意味」
2.「神」とは何か
├①実在性(認識からの独立性)
├②認識可能性(認識への依存性)
└③論理的必然性(論理的絶対性)
3.「神」のつくりかた
├3-1.「真理」の棄却
├3-2.「創作者」へ
├3-3.「神」の創作
└3-4.「神」になる
4.結語

近代。理性的合理主義、科学主義、政治イデオロギーの蔓延によって、神、神秘、そして信仰は甚大な打撃を被った。
はじめに人類は、無力な弱者として、タンパク質の塊として、あるいは"清き一票"を投げることのできる無名者の群れとして、存在意義を喪った。
それに連なる(とされる)「ポスト・モダン」あるいは「ハイ・モダン」の言説に沿うならば、次には近代の合理主義さえもが、何らかの力動によって解体されていった。
そうしていま、我々の前には得体の知れない世界ーー単に「場」とでも呼ぶべきかもしれないーーが、不気味な沈黙とともに鎮座している。
そこに生きる我々は、自らの理性によって破壊された「神」を虚しく見下ろしている。もはや神は、そして「神」はどこにもいない。「神」は死んだのである。

しかし、人々の望みは「神」の不在ではなかった。求められていたのは、より「崇高な」「神」だったのである。イエスから共産主義まで、新旧の「神々」は我々の検分を通過できなかったため破壊されたのであり、それは「神」が全く拒絶されたためでは決してない、そう私には思われる。
我々は、「神」の不在を虚無と呼んだ。虚無は虚無ゆえに「神」たりえなかった。虚無主義者つまりニヒリスト、新たな「神」を求めてさまよう生きた亡霊の誕生である。

結論:ニヒリストの希求は「神」の徹底的な破壊ではなく、より"崇高な・信頼できる・強い"「神」の発見である。その確信から、私は本稿にて、ニヒリストの終着地点、新たなる「神」との邂逅を、ニヒリストの理念(本稿の解釈では、無批判に「神」を認めないことがニヒリストの理念であり、ニヒリズムと(必ずしも)イコールではない(!))それ自体に従うことによって果たそうと試みた。

1.<生きる意味>は存在するか

我々は鏡に問う。「なぜ私は生きるのか?」。
鏡のニヒリストは答える。「知ったことか。お前の生など偶然の産物にすぎない」。
そして我々は問う。「ならば、私は一体どうすればよいのか?」。
ニヒリストは答える。「知ったことか。私は一体どうすればよいのか」。  

ひとはたびたび、「私の/我々の生きる意味とは何か」と考える。それは、あらゆる意志決定にかかわる、何かきわめて重要な問いに思われるからだ。
しかし、そうした俗にいう<生きる意味>(、ここでは強調のため山カッコを用いる、)は、無批判に存在を認めてよいものではない。つまり、「私の生きる意味とは何か」なる問いは、単なる疑似問題である可能性が捨てきれないのだ。
本章では、「生きる意味なんてどこにもない」と(独断的に)語るのではなく、ニヒリストが求め(、未だ獲得できずにい)るのであろう(と私が考える)<生きる意味>について検討したい。

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はじめに、<生きる意味>の「生きる」の部分について考える。

A-①.第一義的な「生きる」
この動詞は(第一義的には)特定の「状態」(〜であること)を表すのであり、何らかの「行為」(〜すること)を表すのではない。ゆえに、「生きる」と「生きている」は同義である。
摂食、睡眠、排泄、といった行為は生きている状態の維持に資するが、それは「生きる」なる行為を直接行っていることにはならない。あくまでも、「死んでいない」、「生理的活動を連続的に行っている」などと見られる状態がすなわち「生きている」ことなのであり、直接的・究極的には「生きる」という行為それ自体は不可能なのである。
例:「ちょっと今から生きてくる」、「昔はよく生きたなぁ」など、「生きる」を行為の動詞として用いる文が(メタファーや冗談でなく、第一義的な意味においては)理解不可能なのに対し、「私は今生きている」「彼はかつて生きていた」という「生きる」を状態の動詞として用いる文は理解可能である。  

A-②.生命維持行為としての「生きる」
上述のような、摂食や睡眠などの「生きている状態の維持に資する行為」を、「生きる」という行為そのものとして解釈することもできそうに思われる。
この場合、「生きる」は行為であり、直接行うことができる。我々は(A-①における)「生きる」状態のために、(A-②における)「生きる」行為をすることが可能である。

A-③.文化的行為としての「生きる」、etc
生きている(A-①)ことを前提として、文化的な諸事を行うこと、その他もろもろを「生きる」と言うことがある。「歌一筋に生きる」とか「彼は革命家として生きた」といった表現のことである。
しかし、今回はこのような「生きる」の意味を考慮しない。なぜなら、<生きる意味>として平常問われるものとは、すなわち「生(および死)」を直接意味づけるものであり、いわば「苦しんで生きつつも自死を恐れる人間に与えられる価値(意味)」であり、たとえば「歌う意味」や「社会正義を実現する意味」など、あらゆる営みの「意味」の根源となるものだからである。

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次に、<生きる意味>の「意味」について述べ、<生きる意味>について考える。

<生きる意味>において「生きる」のあとにつづく「意味」は、第一義的な「意味」の意味、つまり「言葉が表す概念」のことではない。「私の生きる意味は何だろう」と問う者が、「生きる」とか「私の生きる」という語の使い方を知りたがっているのではないことは明らかである。
では、<生きる意味>における「意味」の意味とは何か。およそ考えられるのは、「目的」・「動機」・「価値」・「意義」のような、「能動的に求められる対象」という意味だろう。
以下では、「私」が作り出す「意味」、すなわち内在的な「意味」(B-①)と、「神」が作り出す「意味」、すなわち外在的な「意味」(B-②)を区別し、それぞれにおける<生きる意味>の内容を考えたい。

B-①.「神」なき、内在的な「意味」
「神」の不在、「私」のみが決定者となる状況において、「意味」は「目的」・「動機」などとして用いられる。このとき、<生きる意味>はどのようなものになるだろうか。
※以下では、簡略化のために、件の「意味」を「目的」として扱い、また、そのように表記する。

まず、A-①の「生きる」解釈に従う限り、<生きる意味>という概念それ自体が背理である。
第一に、目的行為にのみ付随しうるものである。しかし第二に、上述のように「生きる」は行為ではなく、状態を指す語である。したがって、「生きる」ことに「目的」はあり得ない。

例:x氏は痩せている(状態である)。かれは肥満体型であったが、昨年痩身のためにジムに通いつめ(る行為によっ)て見事目的を達成し、いまは痩せた状態である。このとき、ジムに通う行為は痩せている状態になることを目的としてもつが、痩せている状態目的をもつわけではない(状態が目的そのものである)。

このように、A-①の「生きる」における<生きる意味>は存在しない。

次に、A-②の解釈においては、「生きる」は能動的行為であり、目的をもつ。しかし、定義的に、その目的はA-①解釈における「生きる」状態の維持なのであった。
すなわち、A-②の「生きる」解釈を用いるなら、「人の<生きる意味>とは、己の生命を維持する(=A-①での「生きる」)ことである」ということになる。

これに対して、ニヒリストは当然こう問うのである。「生命維持が目的なのはいいとして、ならばそれ(=生命維持)は何のために?」。こうして、再びA-①の「生きる」の目的へと問いは後退する。そしてそれは、上述のとおり、存在しないのである。

以上より、「私」に内在的な<生きる意味>は存在しないことが明らかになった。

B-②.「神」による、外在的な「意味」
「私」に外在する「神」が決定者となる状況において、「意味」は「価値」・「意義」などとして用いられる。このとき、<生きる意味>はどのようなものになるだろうか。
※以下では、簡略化のために、件の「意味」を「価値」として扱い、また、そのように表記する。

まず、通俗的なニヒリズムの原理に基づくならば否である。客観的な価値など存在せず、人口に膾炙するものが「正」、「真」、「有意義」などと呼ばれるのみである。ニヒルな相対主義者は、きっとそう語ることだろう。
対して、それ以外のあらゆる論説・思想に基づく場合、この解釈こそがまさに<生きる意味>となる。任意の「神」Gをおいたとき、Gは「神」であるゆえに客観的価値をもたらす。我々はGによって「生きる」(A-①とA-②どちらの解釈も妥当する)ことに「意味」(もちろんB-②の解釈による)を付与されるのである。
このとき、<生きる意味>は何か、またそれは如何にして与えられるかは、具体的にGが何であるかに依存する。ゆえに、まだここでは具体的に<生きる意味>を語ることはできない。
前述のように、ニヒリストとは「神」を希求する者たちである。ゆえに、私はこの観点から、その果てに「神」――「意味」――そして<生きる意味>を、見出さんとすることになる。

結論:<生きる意味>は、外在的、つまり客観的な「価値」をおくことで初めて存在しうる。外在的な「価値」は「神」に存するため、「神」の具体的な性質を明らかにすることで、自ずと<生きる意味>も明らかになる。

2.「神」とは何か

「神」とは、絶対的に存在するものである。ここでは、「神」たりうるためには何が必要か、その条件を列挙し、具体的な「神」の姿態へと迫ることを試みる。

①実在性(認識からの独立性)
「神」の存在は、われわれの認識から独立(=実在的)でなければならない。なぜなら、各人の思考や認識に左右されて存在するものには明らかに絶対性がなく、「絶対者」などと呼ぶことはできないからである。
しかし、果たしてそんなものが存在するだろうか。仮にそう主張する者がいたとしても、ニヒリストがそれを認めるだろうか。「我々のあずかり知らぬところに、絶対的な存在(実在)たる「神」がいるんです」などと言われても、ニヒリストは「あなたにとってはそうなんでしょうね」と皮肉っぽく返すことになるであろう。
すなわち、「神」は人間の認識から独立でなければならないのに、ニヒリスト(を含む多くの哲学者、哲学かぶれ者)は、そんなものを(タダでは)認められない。万物は――物理法則までもが――ひとが思考して初めて生まれるものであり、究極的には「私」が認識した限りで存在するようにさえ思えるのである。※
それならば、実在性をもつ「神」など、机上の空論でしかないのだろうか。そうすると、マル1にして私は早くも「神」への道を断たれたことになる。しかし、神への逃げ道は残っている。悪あがきを続けよう。

※実在を見出そうとする哲学的ムーヴメントは伝統的に(実在論の解体や観念論批判の横で)続いてきた。しかし、常識に訴えて「我々が考えるまでもなく事物は存在するに決まっている、当たり前だ」と語る素朴実在論の正当化はいささか困難だろう。今回は、だいぶ観念論に寄った立場を「ニヒリストの立場」と(勝手に)定め、そこに依拠して論理を展開する。

②認識可能性(認識への依存性)
ひとは、自らが認識できないものを信頼できるだろうか。一般にそれは個人差のうちに集約される問題だが、ニヒリストに至っては全く否といってよいだろう。経験できないものを語ることはできないし、そんなものを絶対者に据えるわけにはいかない。
①に書いたような不毛なやりとりは、敬虔な信仰者とニヒリストの決定的な対立軸を明らかにする。眼前に決して現れることのない「神」を信じられるかどうか。重ねて、ニヒリストには、それは不可能である。

上述の通りニヒリストは、「神」だろうが何だろうが、「私」が認識しないものの存在を認めるわけにはいかない。ということは、「神」は、①あらゆる人の認識から独立に存在せねばならないが、②「神」を含む万物万事は「私」に認識された限りでその存在を認められる。
「神」を見つけるためには、この難問、いや端的な矛盾をクリアせねばならないのである。

③論理的必然性(論理的絶対性)
「神」の存在は、必然でなければならない。それは偶然在るのではなく、常に論証されうるものでなければならない。「たまたま存在する絶対者」が明らかな矛盾である以上、絶対者は必然的である。
これに関しては、二つの立場が考えられる。一つ目は「人間から独立に「神」は必然的に存在する」という実在論的立場。これをとるなら、③は①の中に論理的に含まれていることになり、わざわざ繰り返すまでもない①と②の対立が起こる。
二つ目は「人間において「神」は必然的に存在する」という人間中心主義的な立場が考えられる。この命題の真偽のみを問うならば間違いなく真だろう。というのも、人間において必然ですらない「神」は明らかに必然性を欠いているからである。
しかし問題は、人間世界のみに限定しても、「必然なものは存在する」または「必然的なものは存在しない」と必ずしも言い切れないことである。例によって、ニヒリストは「必然者」の存在を(タダでは)認められないだろうし、他方、「何も必然的ではない」、「すべては偶然である」と言い切ることもできない(「相対主義のパラドックス」に相似的なことが発生するように思われる)。

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つまるところ、「神」については何も語りようがないのだろうか。私は「神」の発見に失敗したのだろうか。
次章では、このどん詰まりに一つの解決を見出すべく、苦しい論理を展開していく。

結論:ニヒリストにとって、(当然ながら、)「神」を正攻法によって直接見出すことはできない。

3.「神」のつくりかた

※注意
・「私」と「創作者」というカギカッコつきの語は、あなた、として読んだ方が読みやすい場合がある。しかし、あくまで「私」という表現は「あらゆる人間それぞれの主観的視点」を強調するために用いているので、そのニュアンスを抜くことは難しかった。
重ねて述べるが、「私」とは私、すなわち筆者のことではない。

前章でみた「神」の必要条件を整理すると、以下のようになる。
①実在性
②認識可能性
③論理的必然性

3-1.「真理」の棄却
第一に、①と②の決定的な矛盾の解決を試みる。
そのために、まずわれわれは「真理への意志」をきれいさっぱり棄却する必要がある。というのも、この矛盾は、<二重思考>によって解消をみるからである(!)。有名なG.オーウェルの『1984年』に登場するこの語は、「矛盾した二つ(複数)の事項を同時に信じる」という心的行為を表す。『1984年』では、「党」の非人道的支配を偽善のヴェールで覆いつつその支配を安定的に機能させるため、党員が必然的に<二重思考>を強いられるのであったが、ここでは「私」が「私」のために自ら<二重思考>を行うのである。
ある「神」は、「私」とは独立に存在し、かつ「私」がよく見知り、その手綱を握っている。この全くの矛盾を<二重思考>によって打ち立てることができれば、話は次のステップに進む。

3-2.「創作者」へ
<二重思考>の構造は、創作行為と相似である。ときに小説家が、「登場人物は私の意志から離れて勝手に動く」などとほざいているのを見たことはないだろうか。私が「神」を見出すにあたって参考にしたのは、創作者が必然的に行っている、そのような真偽の超越である。
常識的には、小説家が自らの手で小説を書く以上、登場人物が勝手に動くことなどはありえない。しかし、優れた小説家がキャラクターをあたかも命ある存在であるかのごとく描くことは、現実に起こっているのであり、そしてそれこそが、彼らが<二重思考>に熟達している証左なのである。彼らは自ら文字を書き込みながら、それと同時に想像の内では自らの手では御せない絶対的な世界、「神」を見ているのではないか。
つまり結論はこうだ。そうした「創作者」になることができれば、ひとは真偽を、矛盾を超越した認識を得ることができる。自ら「神」を創りながら、あたかもそれが外的に存在するかのごとく振舞うことができるのである。

3-3.「神」の創作
「創作者」としての第一歩目は、「世界」――つまるところ、これが「神」なのである――の創造となる。それは魔術と鉄剣が鮮やかに舞うファンタジー世界でもよく、「私」に美しき伴侶がいるだけの、現実によく似た世界でもよい。「世界」は無限でも、有限でもよい。とにかくまず第一に、「創作者」はこれを想像上で作ることになる。
次に、「創作者」は「熟達した創作者」にならねばならない。すなわち、例の<二重思考>を習得して、「自らが創作し、かつ自らの外部にある世界」を作り出さねばならない。そのために必要なのは、創作世界の真正さ、つまりリアルさである。
というのも、まず、多くの「創作者」は自らの創造した想像上の世界が必然的に現実でないことを強く確信している。どれほど現実主義的な創作であろうと、それが完全に現実と一致することはおよそ不可能に思えるからだ。一方、想像上の世界が必然的に現実であることも、「熟達した創作者」は(現実でないことの確信と同時に)確信せねばならないのである。つまり、<二重思考>を機能させるためには、「創作者」が現実感に浸れるほど"現実的"な創作世界が必要になるのだ。
そんな「信仰」がニヒリストに可能なのかといえば、可能である。われわれの生活は、たとえ何イストだとしても、信じることなしには成立しない。ひとは、「このマンションの105号室は自分の部屋である」、「目の前の道路は実体があるものであり、まさかホログラムや幻覚ではない」、など、厳密な証明を抜きにした信仰は数多行われている。ゆえに、ニヒリストは信仰によって容易く変態することが可能である、と私は信じている。

ともあれ、これらをクリアすることさえできれば、「神」の必要条件たる①実在性創作世界が現実に存在すること②認識可能性創作世界が「私」に作られた、かつ作られていくこと、を同時に満たしたことになる。
そして、③論理的必然性については、「信仰」という形で実現されていることは上に述べた。創作世界の十分なリアリティにもとづいて、それが「必然的に」現実存在すると確信できること。創作世界の被造性、つまり自らが創作したという知識にもとづいて、それが「必然的に」現実存在しえないと確信できること。必然性は、結局のところ「私」の(現実感にもとづく)信仰によって確保することができているのである。

こうして、「私」によって創作された「世界」、つまり「私」の「神」は「創作者」の<二重思考>とともに誕生した。

……しかし、だから何だというのか

3-4.「神」になる
創作された「世界」は、「創作者」が真偽を超越することで「神」となった。しかし、それによって「創作者」たる「私」はどうなったというのか。相変わらずの人生を送り、艱難辛苦に呻いているばかりではないのか。たしかにそれはそうである(人によるだろうが)。
ところが、「私」には、「創作者」として固く紐づけられた「世界」であるところの「神」がいる。現実において、「私」は絶対的な存在を手に入れ、それを弄ぶことさえできる。
そして、「私」が「世界」それ自身に、またはその創造や翻弄に没頭したとき、「創作者」であるところの「私」もまた、「神」であることに気付く。現代においてわれわれの多くは"創造主"をもたないか、"創造主"への不安をもっているが、「私」が創った「世界」の創造主は明らかに「私」である。「世界」の住人は「私」という創造主、神の名を知らないかもしれないし、そんな概念すら持ち合わせていないかもしれない。しかし、彼らの視点とは無関係に、「私」は絶対的な存在となった。もはや「私」は大衆に埋没した"だれか"ではなく、独立した「神」なのである。

ただ、それでも「だから何?」感は拭えない。しかしそれは、創作されうる「世界」が百者百様であり、無限にも思えるほどの可能性をもっているため、具体化が困難であり、「世界」つまり「神」のもたらす「意味」が不確定であることに起因するのではないか。
ひとは、それぞれの「神」を創り、それが与えてくれる「意味」から<生きる意味>を導出できる、私はそのように考えている。

結論:「神」を直接的に見出すことは不可能であるが、自らの想像のうちに「世界」を創造してしまえば、それは可能となる。その「世界」を虚構であると信じ、また同時にその「世界」を真なるものと信じるそれぞれへの信仰および<二重思考>を行うことで、「私」という「創作者」のもとで「世界」は「神」となり、「私」はそこで「神」となる。われわれは、そこで「神」の導きを得ることができる可能性をもつ。

4.結語

まず、ここまで読まれた方、ここまで飛ばして来た方に、謝意を表したい。
本稿では、結局"生きる意味"や"意味"が、曲りなりにさえ明らかにならなかった。論理の穴も多そうである。ゆえに、これははっきり言って失敗作に思われる。だが、<二重思考>と(現実に対する)信仰の導入(または生起)によるニヒリストの変態というアイデアに使い道がありそうなこと、そして何よりせっかく長い文章を書いてしまったことにより、本稿は公開の憂き目に遭っている。
電子ネットワークの末端に置くための文章が10000文字近くなるのは半ば事故のようなものだが、そもそも哲学とは、人類とは事故のようなものだろうから、諸々を諦めることにした。
誤字・脱字・感想・意見など、何かあればどこかにご連絡ください。

以上

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