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『水平線』を映画館で見た感想(今回は報道の在り方について感じたこと)

この映画には、水戸黄門や暴れん坊将軍の様に「悪いおじさん」「かわいそうな娘」「助けるヒーロー」などわかりやすい役目を持った人は出てこない。殆ど出てくる人たちはどこにでもいる人たちだと思う。そして凄い事が起こったりするわけでもない。過去に震災に遭ったという酷い事を経験している人たちが出てきて必死で今を生きているだけである。だた敢えて水戸黄門で出てくる悪党の位置づけになるのがジャーナリストだ。今の報道の在り方を表しているような人物だった。

風評被害という言葉はこの震災以降に世間一般に広まった言葉だと思う。関西にいると東北の情報は関心を持つ人がアグレッシブに取りに行かないとそうそう耳にすることはないのが正直なところだ。
この映画で漁師が数人出てくるが「風評被害」を恐ろしく心配している。当時よりは風評被害が減ったであろうが、それでもまだことあるごとに悪意の芽が生える状態があることを感じさせるシーンがあった。私との温度差がかなり感じさせられた。

関西だけでいえば「風評被害」は「風化」している。
劇中で主人公が「風化だったら風化しちまえばいい」と言い放つシーンがある。これにはもっともだと思った。劇中でのジャーナリストは震災とたまたま別の殺人事件がこの土地で巡りあい、被災者でもない・被害者でもないジャーナリストが風化させないようにという大義名分で過去を掘り返して被災者と被害者の心を荒らしている。

そんな報道欲しいとは思わない。わざわざ他人の心をかき乱して全くその土地や人物に関係の無い他人に知らせる必要があるだろうか。悲しい辛い出来事を報道するのも必要だろう、けれどそれを脚色し他人の感情を入れたものを事実だと伝えるのはある意味嘘だと思う。それはジャーナリズムとは言えないと考える。

今はSNSで一般の人でもジャーナリストもどきになれる。プロはもっと情報を精査し感情を含めずただ事実のみを報じればいいと思っている。






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