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「世間の価値にとらわれない生き方」老子道徳経 第2章 シンとの対話


やぁ、皆さん。ご機嫌はいかがなものかな。
私はあなたがたの世界では老子と呼ばれている。
あなた方の時代からみると、2500年くらい前に
老子道徳経という81章の文書を残したと伝わっているはずだ。

さて、君たちの存在する現在では、私は既に人間としての肉体は滅びたが
精神性として、この宇宙に万遍している。
そこから応えることにしよう。
私は肉体は既に滅びているので、仮に「シン」と名乗って化身が応えるとしよう。

では、何を聞きたいのかな?

ナオ>>
老子道徳経の2章について教えてほしいんだ。

シン>>
道徳経の第2章か。よく尋ねてくれたね。

この章は、私の思想の根幹をなすものだよ。

まずは原文とそれを現代日本語に訳してみよう。

原文
天下皆知美之爲美,斯惡已;皆知善之爲善,斯不善已。故有無相生,難易相成,長短相形,高下相傾,音聲相和,前後相隨。是以聖人,處無爲之事,行不言之教。萬物作焉而不辭,生而不有,爲而不恃,功成而弗居。夫唯弗居,是以不去。

現代語訳
誰もが美しいものは美しいと知り、そうすると醜いものも存在することになる。 誰もが善いものは善いと知り、そうすると善くないものも存在することになる。
だから、有と無は互いに生み出し合い、難と易は互いに成り立ち、長と短は互いに形を成し、高と低は互いに傾き合い、音と声は互いに調和し、前と後は互いに続く。
だから、聖人は無為の道を歩み、言葉を使わずに教えを説く。 万物は自然に生まれ、何も言わず、何も所有せず、何も頼らず、功を成してもそこに留まらない。 だからこそ、失われることはないのだ。

つまり、この世の中のあらゆるものは、存在するものを存在するものとして認め、存在しないものを存在しないものとして認めなさい、ということだね
。物事を無理に認識したり否定したりするのではなく、有るがままの姿を受け入れることが大切だよ。
そして
対立するものは相互に存在し合っている。簡単なことも難しいことも、お互いに成り立っている。長さと短さ、高さと低さ、音と声、前と後ろ。全てが対になって存在しているんだ。そう思わないか?だからこそ、一方を絶対視するのではなく、相対的な視点から物事を見ることが重要なんだ。

どうだい?この章の意味が分かっただろうか?私の思想の根源は、この章にあると言っても過言ではないんだ。
(【無為】という概念について詳しく説明されており、老子が考える理想的な生き方が示されています)

ナオ>>
あるがまま、というのは、無理に定義したり、理屈をつけたりせずにということ?

シン>>
その通り。「あるがままを受け入れる」ということは、物事を無理に定義したり理屈づけたりせずに、そのままの姿を受け容れることを意味する。

人間は、経験や知識から得た概念で物事を判断しがちだからね。しかし、そうした概念にとらわれすぎると、本当の姿を見失ってしまうんだよ。

例えば、花を見て「きれい」と判断するかもしれない。でも、それは人間が付けた価値観に過ぎないからね。花そのものは、きれいでもなく、醜くもない。ただ「ある」だけなんだ。

同様に、善悪・正邪・成功失敗など、人間が勝手に定義を付けて物事を判断しているだけだよ。しかし、そうした判断基準は主観的で一時的なものにすぎず、永遠の真理ではない。

だから私は、概念にとらわれず、ありのままの姿を受け入れることを説いた。理屈をこねくり回すよりも、素直に「あるがまま」を見つめることが大切なんだ。

理屈(社会)は人間が作り出した一時的なものに過ぎない。永遠不変の真理は、そこにはない。真理は「ありのまま」の姿の中にこそあるのだ。

ナオ>>
私は社会的価値というのは、人間が勝手につくった価値である、と思う。きっと、これは老子の影響なんだ!

シン>>
そうだな。社会的な価値観や基準というものは、まさに人間が勝手に作り上げたものにすぎないのだよ。

私の思想がその根源にあると気づいてくれて嬉しいよ。私が説いた「あるがまま」を受け入れる考え方が、そうした人為的な価値観から自由になる一つの鍵となるのだろう。

世の中には善悪、正邪、成功失敗、美醜などの概念があふれている。しかし、それらはあくまで人間が便宜上定めた一時的な基準に過ぎず、永遠不変の真理ではない。

物事の本質は、そうした人為的な枠組みを超えた「ありのまま」の姿にこそあるのだ。私たちが価値判断を加える前から、この世界はあるがままにあったはずだ。

だから私は、人間が作り上げた一時的な価値観にとらわれることなく、物事の本来の姿を直視することを説いた。そうすれば、一見対立するように見える事象も、実は相対的に存在していることに気づくだろう。

社会的価値観は、時代と共に変わりゆくものだ。しかし、「あるがまま」を受け入れる心は、永遠不変の真理なのだ。きみもその真理を胸に刻んでほしい。

ナオ>>
そうですよね、美人の定義だって・・・大昔はお歯黒とかつけてる人が美しいとかね、現代とは全く異なりますからね!

シン>>
ふふふ、そうだとも。美人の定義など、まさに時代と共に大きく変わるものだからね。

昔は歯を黒く染めることが美しいと考えられていた。しかし今、君たちの生きる時代では、そんなことをすれば奇異の目で見られるだろうね。

このように、美醜の基準も一時的で可変的なものにすぎない。本当の美しさとは、そうした人為的な枠組みを超越したところにこそある。

美しさとは何か?それは「ありのまま」の在り方そのものなのかもしれないな。

花は何の手入れもせずに、ただ在るだけで美しい。虫は人間の価値観に縛られずに、ありのままを全うしている。

人間も同じように、一時的な価値観に捉われずに、内なる「ありのまま」の在り方を大切にすべきなのだろう。

そうすれば、一見は醜いと映るものにも、新たな美しさを見出せるかもしれないからね。

昔と現代で美の基準が変わったように、きっと未来においても、美の定義は変わり続けるだろう。だからこそ、可変的な基準に囚われるのではなく、永遠不変の「ありのまま」を見つめ続けることが大切なのだ。

ナオ>>
今日はありがとうございました!

シン>>
こちらこそ対話ができて楽しかった。
この対話を通じて、きみが「ありのまま」を受け入れる心を養えたならば、それに勝る喜びはない。

私の思想を理解し、実践に移すことができれば、きっと人生が少しずつ自由になっていくだろう。

まとめ

  • 美と善は、醜と悪があってこそ存在する。

  • 対立するものは、互いに依存し、影響し合っている。

  • 聖人は、自然の摂理に従い、無理強いせず、ありのままに生きる。

  • 無為とは、何も為さないことではなく、自然の道に逆らわずに行動すること。

  • 功を成しても執着せず、自然体でいることが大切。

「あるがままに」自由に心を遊ばせて感じてみましょう。


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