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吉野探訪 ~後醍醐天皇を追う~

♪花は吉野に嵐吹く~♪と有名な軍歌の一節にもあるように明治から桜の名所として吉野は有名だった事が窺えます。ただ語弊を生むかも知れませんがただ桜の名所と言うだけでは現在における知名度はなかったと考えます。それは南朝(吉野朝)の存在が大きかったのではないかと思われます。

金峯山寺

まず電車を利用して吉野に訪れる人は近鉄吉野駅で下車する場合が多いと思われます。そして日本で最古の吉野ロープウェイに乗り一路金峯山寺を目指します。

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ロープウェイから降りて少し歩くと金峯山寺蔵王堂が見える

金峯山寺は平安の頃つまり密教、修験道が盛んになったころ宇多法皇や白河上皇が参詣されています。他にも藤原道長の経塚があるのが有名です。その後修験道は当山派と本山派に分かれ、吉野は吉野大衆と呼ばれる強大な僧兵を抱える事になります。その後の義経が京より追われて吉野に行った事、後醍醐天皇が潜幸の地に選ばれたのもこの軍事的な要因があったからではないでしょうか。古くは672年の壬申の乱で大海人皇子(天智天皇)が隠居、出兵した場所であり軍事的な要素はこの頃からも垣間見えます。また後醍醐天皇がこの地を選んだ理由としては信仰の地としてここ吉野が独立的な地位を得ていたこと(交易、商業的に)、吉野北東の名張に南朝寄りの悪党がいたこと、伊勢の大湊へのルートが確保できていた事が挙げられています。さらに後述しますが吉野城の城郭も再利用できると考えたからであるとも推察されます。

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正面より蔵王堂を見る


写真の手前にある柵で囲まれている場所は大塔御陣営と呼ばれています。大塔宮、つまり護良親王が吉野城に家臣たちと最期に酒宴を開いた場所と伝えられています。注意点として時代背景が後醍醐天皇対鎌倉幕府の時代です。護良親王が1331年吉野を討幕挙兵の地に選び吉野城として整備を始めます。太平記では金峯山寺城と呼ばれています。1333年幕府方の猛攻撃により吉野が陥落する寸前に先述の酒宴が行われたとされ、村上義光が護良親王の格好に扮して自刃します。この功績もあり護良親王は吉野から脱出することに成功します。義光の首はその後調べられ護良親王でないことがわかると吉野山中にてその首を捨てます。それを不憫に思った近隣住民が弔い現在の墓が立てられています。

吉野行

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行宮跡


この大蔵堂を見て左手に吉野行宮があります。後醍醐天皇は吉野に潜幸された際この実城寺を金輪王寺と改名し行宮としました。この地で後醍醐天皇が譲位し後村上天皇が即位します。しかし幕府の軍が侵攻し賀名生(あのう)の地に退却することになります。賀名生は太平記によると後醍醐天皇が吉野よりも最初に辿り着いた場所であると記されていますが、貧しい農村であるため皇居を構えるにはふさわしくないとして吉野に向かうことになります。この賀名生の地も長続きせず皇居は転々とします。結局この吉野が行宮として機能したのは20年ほどであったと推察されています。ちなみにその先の長い階段を下ると脳天大神に着きます。

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吉水神社 左が後醍醐天皇玉座がある書院造


戻って後醍醐天皇陵へと歩を進めていきます。道中吉水神社があります。ここは現存する最古の書院造があり何よりも南朝の行宮として形を残している場所です。延元元年、花山院より潜幸された後醍醐天皇が僧兵より迎えられています。古くは源義経と静御前が最期の別れをした場所であり、桃山期には太閤秀吉が花見を開いた場所とも言われています。また後醍醐天皇御宸翰、硯や楠木正成の矢筒など展示物があります。書院裏手には北闕門があり後醍醐天皇は朝夕には必ず京都の方角を向きながら九字を切られたそうです。ちなみに九字は臨・兵・闘・者のあれです。当然これも行宮です。

塔尾陵

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上 後醍醐天皇陵 下世泰親王陵

さて本題の後醍醐天皇陵、塔尾陵へ行くことします。道中は歩きで行くには遠く谷を軽く通過しなければならないため足腰の弱い方は要注意と感じましたが、桜や紅葉のシーズンであればのんびりと景色を楽しみつつ行けるとも思いましたので何とも言えません。夏は結構しんどかったです。道中後醍醐天皇が歩いた道という看板もありながら無事塔尾陵がある如意輪寺に到着しました。如意輪寺自体は宗良親王の和歌や長慶天皇の御製からも葬場として認識されていたことが推察されます。境内には楠木正成植樹の木や後醍醐天皇腰掛石があります。さて塔尾陵は後醍醐天皇と長慶天皇の皇子世泰親王の陵も含まれています。長慶天皇でさえ情報が足りないのにその息子となれば生没年不詳もしょうがないです。ただ長慶天皇の御製に世泰親王は登場しておりその内容によると親王が薨去し、これを天皇が慰めていることから父である長慶天皇より先に薨去したことがわかっています。後醍醐天皇陵は比較的当時の形を残している陵らしく、確かに実際に見たら小さい山の形が確認できました。

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朝日屋より如意輪寺方面を望む。ピントは合っていない。


さて帰宅の途につきます。また長い道のりを経て吉水神社付近に戻りますが途中にある朝日屋という店で休憩します。利用している人が運良く私以外いなかったこともあってかサービスが良くかき氷も美味しく頂けました。なぜ取り上げたかと言いますとGoogleのレビューが悪かったからです。レビューを書いている人が嘘を書き込んでいるとは思いませんが、閑散期ではそこまで悪くなかったと名誉回復のため言及しました。

村上義光の墓と吉野神宮

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村上義光の墓の近くにある小さい鎧。仔細は不明。
帰り際に先ほどの村上義光の墓と吉野神宮に向かいます。これも結構歩きました。義光の墓には小さな鎧がありこれは大塔宮に扮していた時の恰好なのかなと想像が膨らみます。

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吉野神宮の参道より。

吉野山の麓にある吉野神宮に到着しました。明治期に吉水神社とは別に大きな後醍醐天皇を祀る神社を明治天皇の意向で建立されました。また摂津三本殿もあり南朝方で活躍した日野資朝、日野俊基、児島高徳らが祭神として祀られています。

最後に


吉野は桜の名所ということだけで片付けるには勿体ない場所です。昨今の状況も考えて来年の花見に是非とは言いにくいですが落ち着いたら歴史を含めて花見をすればより吉野を楽しめます。

あとがき

吉野行宮の奥にある脳天大神が吉野を訪れた際行ってみることを勧めます。階段が多く体力を使いますが雰囲気がとても良い場所です。個人的にこうような大きな寺の付近にある小さな神社が好きです。例えば同県室生寺付近の室生龍穴神社も同様に好きです。

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上・脳天大神 下・室生龍穴神社


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