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ハッピーでかわいくあれ 『パピかわ かわいいのルール』感想文

『パピかわ かわいいのルール』を読んだ。以下「ハピかわ」と呼ぶ。

ハピかわは、一言でいうならば女児向け人生マニュアル本だ。
かわいくなりたいと願う女子小学生望月さくらが、上品な転校生、クラスでいちばんおしゃれなファッショニスタ、穏やかで優しいクラスメイト、友達作りが上手なクラスメイトから学びを得てかわいいステキ女子になろうと奮闘するストーリーをベースに、上品な仕草、身だしなみのルール、自分を好きになる方法、自分も相手も快適なコミュニケーション方法の秘訣を学ぶ。

Xで「女児向けのマナー本だが、よく出来ている」とポストが流れてきたので気になって読んだ。とてもよく出来ているとわたしも思った。
マナー本なので基本的には正論しか書いていないが、女児向けのポップな文体で正論を書かれると頭に入りやすい。大人向けの堅苦しい文体で正論を並べられるとなんかえらそうで感じ悪いなと思ってしまいそうなことも、女児向けのハピかわ文体で聞かれるとストレスなく読める。

マナー編 笑顔であれ、挨拶をせよ、上品であれ マナーは誰のためにあるのか

初手はマナー編だ。ものすごく真っ当なことしか書いていない。
まずハピかわであるためには笑顔でいなければならない。笑顔はまわりも自分も幸せにするものだから。
さらに毎日挨拶も欠かしてはならない。挨拶の有無はその日1日の気分に影響する。
さらに、美しい姿勢であれ、正しい言葉を使え、友達のお家にお邪魔するときのマナーはこう、食事のマナーはこう……と続く。

マナー編を通して読んで考えさせられたのは、マナーが誰のために、何のためにあるのかということだ。
まずマナーは相手のためのものなのは間違いないが、相手のためであるということは自分のためでもある。なぜなら相手からは自分のフィードバックが返ってくるからだ。相手によって自分が良い印象であれば、相手からも良いフィードバックが返ってくる。つまりマナーを守って「感じよくあること」は、相手のためであって、同時に自分のためでもある。
さらに何のためにあるのか、については、その場のハッピーの最大化のためにある。何をされたら嬉しい、何をされたら不快だ、というのは相手にやって千差万別だ。相手によっていちいち最適解を当てることは出来ない。なので、マナーという「とりあえずこういう場面ではこうしておいたら少なくとも不正解ではない、ということにしておきましょう」という共通認識を作り、そのマナーを待っている限りは土台は担保されている、雰囲気が落ち込むのではないかとハラハラする必要もなくなる。

笑顔であると、少なくとも相手から「機嫌が悪そう」「感じが悪い、話しかけたくない」と思われることはなくなる。
正しい言葉を使うと、「ちゃんとしているな、話が通じそうだ」と思われる。
マナーとはファンデーションの前の下地のようなものだと思う。それ自体がどうしても必須というわけではないのだが、予後を考えるなら絶対にあったほうが良いもの、という感じだ。土台を整える。下地をつけるとファンデーションはよく肌に乗り、崩れもマシになる。

結婚式に呼ばれたら、結婚式独特のマナーが多いことに嫌でも気づく。やれこの色の服はダメ、この色のバッグはダメ、アクセサリーはこういうものしかダメ、というふうに。
これをいちいち暗記しているとキリがないのだが、じゃあこれらのマナーは何のためにあるのか?突き詰めるとどこにいくのか?を考えると覚えやすくなる。
これらのマナーの目的は、「結婚式の場を華やかにすること、ただし花嫁よりも目立たないこと」である。
ファッションのカラーは結婚式を華やかにするべく、華やかな色で。ただし花嫁と同じ色は避ける。というような感じだ。
マナーを点と点で覚えようとするから、どうにも数が多くて何なら意図のわからないマナーまであって億劫になる。何のためのマナーなのか?に立ち戻ると覚えやすい。

マナーの真髄は「その場で期待される自分の役割を全うすること」なのであろうと思う。例えば結婚式の参列者ならば、結婚式を華やかな祝いの場にすることだ。
これを理解するにはかなりメタ的な視点が必要になると思う。「自分はこういう服が着たい」ではダメなのだ。結婚式という場において、自分は、どんな条件で、何の役割を期待されているのかを考えなければならない。

ハピかわのマナーブックにこのようなメタ的視点までは書かれていないが、そのマナーによって相手はどんな気持ちになるか、あるいはそのマナー違反によってどんな困ったことが起こりうるか、ということは書いてある。メタ的視点を得るためには相手の立場に立つことは避けては通れないので、メタ的視点の獲得に役立つことが書いてあると言っていい。

ファッション編 ファッションとは身だしなみのことをいう

次はファッション編で、ハピかわステキ女子になるためのステキファッションを学ぶ。
ファッション編では、服、髪型、スキンケアについてのあれこれを学ぶが、共通しているのがどれも身だしなみに焦点が当たっているということだ。
こういう服がおしゃれ、こういう髪型がかわいい、ではないのだ。こういう服を着るとこういう印象になる、こういう髪型にするとポップで元気な感じに見える、というようなことが書いてある。
マナー編とも通じるものがあるのだが、ファッション編においても常に他者からの目線が存在している。身だしなみとは他者が見てどう思うかというものであり、自分が好き!かわいい!と思ったもの、ではない。
すでにハピかわステキ女子の本質に近づきつつある。ハピかわステキ女子であるためには、そこに他者の視点が必要なのだ。ハピかわステキ女子とは、それを自身で志すことはできても、自称できるものではない。その人がハピかわステキ女子がどうさを判断するのは他者なのだ。

自分の好きな服を着ることよりも、シワのない服を着ることのほうがハピかわステキ女子であるためには重要なのだ。ハピかわステキ女子修行においては自己満足的態度は一回容認されず、パピかわステキ女子はあくまで客観的なものであるのだ。

お前が好きかどうかなんて何の意味もない、ただ結果がどうであるか、まわりがどう思うのかが大切だ。といわれていい気のしない人はたくさんいるのではないだろうかと思うが、ハピかわ女児文体にかかると嫌味なくこの主張が伝わってくる。「ハピかわ女子であるには」というあくまでも条件付きの話でもあるし。

とはいえ、ハピかわステキ女子道はハピかわ女子に寄り添ってくれない血の通わないもの、というわけではない。
各テーマ末にコラムがついており、とてもいい。ファンション編のコラムは例えば、生理が来たらどうしたらいいか、ブラジャーをつけるのはいつからか、というようなことが書いてある。
このブラジャーをつけるかどうかの判断基準が特にいい。わたしが小学生のときに欲しかったなあと思った。わたしは大人になった今でも背が高いが、小学生のときはとくに発育が良く、小学5年生の時点で身長は158cmあり二次性徴らしきものもだいたい終わってほぼ大人の女性の身体になっていた。自然学校や修学旅行では引率の先生によく間違われた。
したがって胸が出てくる時期もクラスメイトよりも早かったのだが、いつブラジャーをつけ始めたらいいのかわからなかった。今思えば胸が出てきた、ブラジャー無しでは服に当たって痛い、走るときに揺れて痛い、というレベルであったのでどう考えてもブラジャーをつけるべきだったのだが、いかんせんまわりにひとりもブラジャーをつけているクラスメイトがいなかったので、つけ始めの時期がわからないままだった。
何がどうなったらブラジャーをつけ始めるべきなのか、なにか基準をあのとき知っていたら、自分の胸について悩んでいたあの無為な時間を過ごさずに済んだのに。

マインド編 ご自愛せよ、ただし自分を甘やかさないこと

ハピかわステキ女子であるためには健全な精神が不可欠である。卑屈はハッピーでもかわいくもステキでもない。したがってマインド編では、ハッピーでかわいくステキであるために、いかにして自分を好きになるか、を学ぶ。

要約すると「自分をよく知れ、そしてご自愛せよ」になる。ただしご自愛というのは自分を甘やかすことではない。自分の良いところを褒めて、自分の悪いところを直すことであるとハピかわには書いてある。
ご自愛を称して美味しいものを食べたり好きなものを買ったりしている人を見かけることがあるが、あれはハピかわ的にはご自愛ではない。ただの消費に過ぎない。美味しいものを食べて好きなことを買うことで一時的にテンションは上がるのかも知れないが、それは自分を好きになることの本質とは遠いものである。自分を好きになるというのは自己肯定感を高めること、自分の存在を認めることだ。自分を認めるためには自分のことをよく知らなければならない、よく知らないものを認めることは出来ないからだ。さらに、よく知ったらそこにはかならず良いところと悪いところがあることに気づくはずだ。そしてその良いところを伸ばし、悪いところを減らす。そうすることで自身をハピかわ女子へと前進させることができる。受験と同じで、得意科目は伸ばし、苦手科目は苦手を減らさないといけない。どちらかだけでダメなのだ。
昨今なんとなく「ダメな自分も、ありのままの自分なので認める」ムーブが流行っている気がするのだが、わたしもしては普通にダメな自分を自分として認めてしまうのはやめたほうがいいと思う。だってダメなものはダメだからね。ダメだと自分でも分かってるからダメって自分で言ってるんだよね。ダメなところを容認して放置するのはハッピーではない。自分のダメな点を認めるまでは大切だが、それも自分の一部として受容するよりも、そのダメな部分を少しでもマシにするよう動いたほうがいいと思う。少なくともダメな自分にOKを出しているうちはハピかわステキ女子にはなれない。普通にハッピーではなくかわいくもないダメ女子になる。
ハピかわステキ女子道はこういう容赦のないところがある。ダメなものをダメなままでいさせてくれない。居心地のいい甘やかしはない。あくまでハッピーでかわいくあるには不断の努力が必須であるということがハピかわステキ女子道の教えである。

コミュニケーション編 自分から行く 人見知りはハピかわではない

コミュニケーション編もかなり容赦がない。ハピかわステキ女子においては人見知りは許されない。人見知りはハッピーでかわいくステキなものではないからだ。
ハピかわが女子小学生向けのマナーブックであることを考えると、メインの読者は小学生で、学校というある程度閉鎖的なコミュニティでの生活を余儀なくされている人たちであるはずだ。大人であればある程度関わる人を選べるので、人見知りならば人見知りのまま、心地のいい人たちとだけつるむことも不可能ではないが、小学生女子はそうはいかない。クラスには絶対にひとりやふたりは近寄りがたい、話しかけたくないクラスメイトもいる。苦手な先生もいるかも知れない。そんな中でハピかわステキ女子でいるためには、気が合わない相手だとしてもコミュニケーションを取らないといけない。

ハピかわステキ女子としては、まずは自分のことを相手に伝えることが大切である。自分のことを伝えもせず、相手が自分のことを理解してくれると期待するのは誤りである。自分がどういう人間なのか、どういう気持ちなのかを自分から表現して相手に伝えなければならない。
さらにその表現方法も重要である。言えばなんでもいいというものではなく、伝え方も大切である。同じ内容でも伝え方によって相手の受け取り方が違う。相手の受け取り方が違うということは、自分へのフィードバックも違うということだ。より適切な関係構築のために適切なコミュニケーション術を学ぶことが重要なのだ。

ハピかわステキ女子のコミュニケーション術はある意味ドライである。というのも、相手への期待が少ないのだ。相手にあまり期待していないから、自分から声をかけ、自分の意見を伝える。相手がこうしてくれたらいいのに、とか相手よがりのコミュニケーションを取らない。

コミュニケーション編のコラムでは、まわりにどう思われているか気になる、友達に嫉妬してしまう、喧嘩してしまったけど仲直りしたいときの方法が書いてある。特に仲直りしたいときの方法は、仲直り下手な大人もぜひ読んだほうがいい。カッとなって相手を傷つけてしまい、傷つけてしまったことに罪悪感を覚えながらも自分から謝りに行くことができない人間はハッピーではない。

全体の感想 なぜハピかわ女子を目指すのか

ハピかわステキ女子は、自分で目指すことは出来ても、自分で名乗ることは出来ない。あくまで他人から思われるものだからだ。したがってハピかわステキ女子を名乗るためには利他の言動が必須になる。

なのになぜ我々はハピかわ女子を目指すのか?というと、ハピかわ女子であると自分の手の届く範囲の世界をハッピーにすることができるからだ。自分が世界に対してハッピーな働きかけをすることで、世界からもハッピーなフィードバックが返ってくることを期待する。自分もみんなもハッピーを目指すのがハピかわステキ女子道なのだ。ハッピーな世界とハッピーでない世界ならハッピーの世界のほうが良い、というだけの話なのだ。
ただしハピかわステキ女子への道のりは長い。やることも多い。そのコストを払えるかが、ハピかわステキ女子を目指す資格があるかどうか、自分のまわりの世界をハッピーにする資格があるかどうかの分水嶺なのだろう。

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