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parasite

今年初舞台鑑賞

1週間ほど前から始まったパラサイトへ。

このnoteは舞台鑑賞を俄かながら嗜んでいる私が、半分余韻、半分興奮混じりに書くnoteです。誰かに共有したいというよりは、未来の私が当時はこんなことを思っていたんだなと。このnote見返した時に、これから書く文章に付加価値を付けたいな、と思う、そんなnote。

今年は、あらゆる媒体に記録を残そうと決めたので。
暫しのお付き合いをお願いします🤏🏻


映画パラサイトの内容と、舞台パラサイトの内容を比較しながら書いていくので若干のネタバレがあります。知りたくないよ!という人はお気をつけて。

パラサイトに関して知りたいという人は以下のURLから↓

舞台パラサイト公式HP

舞台パラサイト公式twitter




少なからず韓国生活をしたから生まれる視点と、
日本人であることから生まれる視点。

その両方が私の中でグチャッと丸まったまま、
なかなかその物体はなんなんだろうとここしばらく思っていた。

あまりに突然韓国に、それも『進学』という形で住み始めたものだから。なんの準備もしていなかったな、と今は思う。

世間では日韓◯◯みたいなニュースは常にそこにあるし、それはいい意味でも存在するけど悪い意味でも存在する。今では新日国みたいな雰囲気が韓国では漂っているけど、住み始めて思う、年配の方は必ずしもそうではない。少なからず、辿々しい韓国語で会話をしようとすれば『日本人?』と怪訝そうな顔を見せてくる人もいるし、『日本は嫌いだと』はっきり拒否を示す人もいる。

でもそれは、社会問題だけにに対して抱かられる考え方になり始めてきたと。


最近は日本での第三次韓国ブームが盛り上がり、文化の面ではプラスに作用していることが多くなった。
周りにもKPOPが好きな人もいれば、韓ドラが好きな人もいるし、グルメな人もいる。ジャンルはそれぞれ。『韓国っぽい』が日本で広がり、流行に火をつけ、今や韓国が絡んだニュースやトピックを耳にしない日はない。

日本でブームを起こしているKPOP・韓国ドラマなどの韓国文化は、時として煌びやかであり、残酷である。韓国に住んでいた時、大きな格差社会と表裏一体な儚さを持っていると肌で感じずにはいられない時が多々あったが、それは文化にも大きな影響を与えてると思う。韓国映画・ドラマは、差別や恨みを色濃く描く傾向にあるが、それは私が経験した、あの儚さに通ずるものがある。

いずれにせよ、その儚さは文化を通して目に見える形で私たちは無意識的に供給されている。普段見ているKPOPアイドルのSNSからでも、韓ドラからでも、割と気付いていないところから結構な量を。

よく海外の人は韓国と日本は似ていると口にするけど、それは大きな世界をアジアという地域に括っただけで、蓋を開けてみれば案外違うものだと住み始めて感じていた。韓国ほどの社会的差別や、恨み、所謂マイナスに作用しているものは、日本ではそこまではなかったりする。(無いと言っているわけではないよ。)



舞台の話をする。

映画パラサイトは、そんな社会問題を色濃く残している作品の一つである。韓国特有の格差社会。高台に住む高級取りな家族、それにパラサイタイズする半地下に住む家族。その二つの対比は韓国文化を色濃く残し、思いっきり引っ掻いたようなそんな爪痕も残している。ラストのパーティーでの無差別殺人のシーンの、旦那様犯人にに向かって鼻につく顔をしたのをみたソンガンホの表情は名演技だ。

そんな色濃く韓国色が残る作品『パラサイト』を、日本版にリメイクするのはほぼ不可能だと思っていた。些細なディテールをどのように表すか、何に置き換えるか、一つものを間違えるだけでパラサイトは、パラサイトではなくなってしまう。


今回の舞台で見事だなと感動したのは、
韓国文化の中でのpropsが、日本文化に巧く置き換えられていること。なかなか同じ、とも、大きく違う、とも言えない些細なpropsまでも細かく注意が払われていること。

映画パラサイトの大雨(パラサイトで一つの問題提起として挙げている社会的地位を表すprops)は、舞台パラサイトで地震に代わっている。
雨の国韓国と、地震の国日本の巧みな置き換え。

面白かったポイントで話せば、映画パラサイトのインディアン(最後のパーティーのシーンで、主役である息子を引き立てる為に使われるコスチューム)は、舞台パラサイトではオバQに代わっていた。あくまでも私の友達の話だけど、仮装といって思い出すのはインディアンの仮装だったりするかもしれないらしい。しらんけど。

目に見えるpropsで感動したものは数を上げればキリが無い。が、今回の舞台で心打たれたのは、目に見えるものだけではなかった。

原作が外国語である以上、その言語特定の言い回しが文化の小さなズレを生み出していたり、そのズレが国を象徴する文化になり得ることもある。

無論、そう言ったものは丁寧に、そして忠実に訳さなくてはいけない。訳し、いかに日本人に合う、日本の文化に合う、日本語にしても違和感なく、変えなくてはいけない。
例えば、アメリカ映画を日本でリメイクするとしよう。
アメリカ人のキャストを日本人にして、
台本の英語を日本語に翻訳して、
明らかに目に見えるものを変えることはもちろんだが、そこには必ず文化が付随する。
アメリカ英語の直訳に違和感を覚えるように、私たちは必ずその文化にあったように意訳しなくてはいけない。

韓国語と日本語は似ているといわれるけど、
韓国語と日本語にもそのような差異は必ず生まれる。

今回の場合、映画では韓国語の特有言い回し、언니(読:オンニ 意: (年下の女性が親しい間柄の年上の女性に呼ぶ呼び方) お姉さん)の使い方を、なんとも絶妙で、日本語に翻訳し役者たちが演じきっているのに感動した。
ひとつ注意を入れるとしたら、韓国は人称代名詞が性別によって変わる、結構重要。だから男の人が年上女性に対して同じ『お姉さん』という単語は使えないし、自分又は相手の性別を無意識的に誤認してることになりうる。

言葉というものは、簡単そうに見えて難しい物質だと最近思いはじめていて。(いつか、私がすこ〜しかじっている言語学についてもnoteが書ければいいなと密かに思っている)言葉一つをとるだけでも、その奥行きは計り知れないと感じる。

今回の1単語だけで、心動かされた。
実際なんと言っていたかは是非、ぜひ、ゼヒ、一度舞台を見て欲しい。この目で確認して、五感で感じ取って欲しい。鳥肌ものだ。

言葉をpropの一つとしてカウントしていいかは少し疑問ではあるが、カウントしていいというのであればそれ以外の言葉巧みに繰り広げられる会話劇にも沢山のこだわりを感じた。

実はこれを見る前日、数年ぶりに映画パラサイトを鑑賞していたので映画内と舞台内の細かな違いさえも、多くの工夫ポイントを感じずにはいられなかった。

国も違えば舞台も違う。
ただ舞台版パラサイト!と簡単に言っても、全てを全て模倣すれば大成功とは言えない点に、舞台の生々しさというか、生き物を扱うような緊張感があった。




私自身今年度初めての舞台鑑賞。
進学して海外に行ってから、舞台鑑賞をできていなかったので舞台特有のあのワクワクすら忘れかけていた。
これから舞台を見るんだという実感もあまりわかなかった。何だか不思議な気持ちのままでいたけど、あの3時間は確かに、やっぱり私は舞台が好きで、舞台という芸術を愛していて、文化を嗜んでいて、それでもって心から楽しんでいるんだ、と思わされた3時間だった。

もしかしたらそれは、
少なからず大学で舞台芸術、舞台文学、舞台構成の勉強をしていた影響もあるかもしれないし、
もしかしたらそれは、
ただ単純に豪華な俳優さんの演技を生で五感で楽しめたからかもしれない。

演劇と他のメディアの間で大きな違いは、生身であるかないかということにあると思う。

他の媒体とは段違いの生々しさを肌で感じられる舞台鑑賞を、パラサイトでできたのは言葉で上手く表せない陶酔感があった。確かにあの舞台の時も、終わった後も、気持ちが浮遊してホワホワした気持ちでいた。

初めて舞台を見て感動したあの瞬間。
スタンディングオベーションしたあの瞬間。
目の前まで俳優さんがきて大きな声でセリフを謳い上げたあの瞬間。
ある女優さんが10分にも及ぶ早口セリフを演じいたあの瞬間。

ある人にとってはただの芸術鑑賞だったかもしれないそれらの瞬間は、
私にとって何にも代えられない、
これからも私が持ち続ける小さな幸せの集合体なのだと。

あ〜〜幸せだった!
舞台パラサイトでの個人的アワードは、キムラ緑子さん一択。彼女への拍手が1番大きかったスタンディングオベーション必死。

今までも、今も、これからも、
舞台という芸術を味わう人生でありたいと!久しぶりに幸せをひたひたに感じたいと、原点に戻れた。そんな気分だった。

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