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「キコちゃんはちょっと小さい」(純愛小説)(全18話目次)

あらすじ

児ノ原一也、高校3年生。親無し、友人、恋人無し。人付き合いは嫌いだ。そんな俺が、「人」ではないのではないかという美少女を拾った。そして、彼女との生活が始まる。

1話が2,500〜3,500字程度で、最終話だけ5,000字くらいです。前に投稿したものと内容が重複しますので、元の記事は消します。「スキ」してくれた方、申し訳ございません!


この小説は、「小説家になろう」にもアップロードしてございます。



1話目「キコちゃん登場!」






おーい、おーい!

遠くでそんな高い声が聴こえた気がした。どこかで子供が遊んでいるんだろうか。俺はその時、高校の指定鞄を肩の後ろに吊り下げるように指で引っ掛けて、学校からの帰り道を、ふと振り返った。でもすぐにまた前を向いて歩く。

まあ俺には、どこの家のどの子供がどう遊んでいようと、関係のないことだ。自分は子供時代なんかとうに過ぎて、今も友達などいない。

そう。俺には友達がいない。当然だ。学校へ行っても誰とも喋らないのだから。なんというか、あまり他人に興味が持てないのだ。どうしても自分が読んでいる本や、漫画なんかに夢中になってしまう。

たくさん友達がいる奴に大して憧れを感じたこともないし、俺は今まで、自分が送ってきた人生をちゃんと見ていた。だから、「高校に入った途端に個性が注目を集め人気者になる」などという根拠のない夢など、15歳にもなっていた俺が信じるわけがなかった。もしそうなったとして、俺はそこまで嬉しくないだろうし。なってみたらなってみたで楽しいのかもしれないが、俺からすれば「めんどくさい」だけである。

そして俺は高校に入学し、それまで通りに誰ともあまり関わらずに、いつも居心地の良い隅の席を与えられて、満足に高校生活を送っている。


初めはたかが子供の声だったのに、俺の頭はぼんやりと過去の中をまぜっかえした。

友達どころか、俺には親もいなかった。俺が4歳の時に交通事故で、一夜のうちに呆気なく二人はいなくなった。その後で俺を育ててくれたばあちゃんは、去年死んだ。ばあちゃんは病院で臥せっていた最後まで、俺のことを心配してくれていた。ばあちゃんが真っ白な病室の中、皺皺の手で俺の手を取り、優しく撫でさすってくれたのを思い出す。

「もっと人との出会いを大事におし。お前の助けになるのはそれなんだからねえ」

ばあちゃん、ごめんな。俺は、ばあちゃんが心配してた通りになってるかもしれない。


おーい、待ってよー!

子供の声はしつこく遠くから聴こえ続けていた。きっと、意地悪にも自分を置いて行こうとする友達なんかを、頑張って追いかけているんだろうな。


俺は、俺に微笑み、俺の前を去って行く父親と母親に、追いすがっても追いつけない夢を思い出す。今でもその夢は見る。


ああ、こんなことばかり考えるなんて、今日の俺は機嫌が良くないな。こういう日は食べて寝るに限る。

いろいろと考えて結論を出した時、足がふと重くなった。というより、軽い何かが制服のスラックスに引っかかった気がして、足元を見下ろす。

「待ってって言ってるのに!」

そう言いながら、俺の制服の裾を引っ張っている女の子が、そこにはいた。


可愛らしい顔、長く綺麗な黒髪。綺麗なピンクのワンピースはウエストに白いリボン。ワンピースからのぞく手足はしなやかで儚い。白いレース模様の靴下を履いた小さな足は、爪先が丸いピンク色のパンプスにくるまれている。

彼女が俺を見る表情は少し怒って拗ねているようだったけど、美人がやると、それがまた、心惹かれる。

どこからどう見ても、誰もが憧れる美少女だ。

でも、ちょっとおかしい。いや、だいぶおかしい。とんでもなくおかしいことが一つだけある。


その子は、身長が20センチくらいしかなかった。


「え…なにこれ…」

思わず、その子のことを俺は“これ”と言ってしまった。すると、その子は悲しそうな顔になり、それから怒りだした。

「これじゃないです!キコです!」

“キコ”。それが何を指しているのかも、この場では判然としなかった。人間であれば「ふむ、名前だな」と一瞬で納得できる。でもこの子は、形はどうやら人間と同じだが、こんな大きさの人間は多分いないと思う。だからこの子が“キコ”という種類の妖精であったり、妖怪であったりする場合もある。

聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。俺は聞いてみた。

「キコって?君の名前?」

そう言いながら俺が地面に膝をついて片手を降ろすと、その子はまた「心外だわ!」とでも言いたげな顔で、「そうですよ!他のなんだっていうんですか!」と喚く。そして、俺の手にうんしょうんしょとよじのぼった。喚くと言っても、この子は体が小さいからか、さっきから俺はとても小さい声と会話しているんだけど。

「ふーん…」

俺は立ち上がって、片手のひらの上に正座をして俺をじろっと睨んでいる、その子を見た。俺の唇は、悪戯をしようとむずむず動いてしまう。

「テレビ局に売ったら、金になるかも…」

ぼそっとそう言ってみると、急に“キコ”ちゃんは慌てて両手を振り、手のひらの上で立ち上がろうとした。

「やめて!そんなことしないでください!私、行くとこないんです!だから連れて帰ってください!」

俺がただ冗談で言ったことにここまで慌てるってことは、そう邪悪なものにも見えない。それに行くところがないと言っている。「連れて帰って」というのには正直俺も驚いたが、必死に俺を見つめて、潤んだ両目で“キコ”ちゃんが訴えてくるので、俺は“キコ”ちゃんが一体なんなのか、何を食べるのかなどすら確認しないうちに、とりあえず家に連れ帰ることにした。


俺はどこにでもある地方都市に住む、ぱっとしない成績の高校生兼、大してやる気のない居酒屋アルバイト店員、児ノ原一也。18歳。今日、道でミニ美少女を拾った。

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2話目「お食事の時間です」




「わあ~!ここが一也さんのおうちなんですね!素敵ですね!」

俺のアパートは、四畳半の一間に、ままごとかよと言いたい大きさのシンクがついているだけの部屋だ。キコちゃんには帰る道道、俺の自己紹介は済んでいた。

名前に、年齢、それから肩書、家族は居ないこと、学校の成績は自分でも大して把握していないこと、等々。

ばあちゃんの家にいた頃からよく掃除は手伝っていたから、部屋はそこまで汚くないけど、それは物があまりないからとも言える。部屋の中にあるのは、ローテーブルと、布団、それから小さめのテレビと、漫画やら学校の教科書、CDなんかが入った棚、あとは中古で買ったCDコンポくらいだった。ちなみにテレビも中古店で購入した。

「広ーい!」

「こら、落ちるよ。今降ろすから、少し待って」

四畳半のアパートは俺にとってはもちろん狭いけど、身長20センチのキコちゃんからしたら広いんだろうな。俺はそう思いながら、制服のポケットから出ようとして落ちそうになっているキコちゃんを片手で押さえた。

テーブルにキコちゃんを降ろすと、キコちゃんはその上を走り回り始めた。この子はどうも落ち着きがない気がする。

「あれっ?これはなんです?」

俺が学校の鞄を押し入れの前に置いて「え?どれ?」と振り返ると、彼女はいなくなっていた。

「あれ…?」

さっき、「これはなんだろう」と言っていたのに。もしかして端から落ちてしまったかな?と思って俺はテーブルの周りを探したけど、姿は見えなかった。

「あれー?キコ、ちゃん?」

どうでもいいけど、呼び方はどうしたらいいんだろうか。ちゃん付けか、呼び捨てか、さん付けか。ちゃん付けだと今日会ったばかりにしては少し馴れ馴れしいし、呼び捨ては論外のように思う。でも、さん付けはむしろよそよそしいから、それも気が引けるなあ。そう考えていると、どこかからか、キコちゃんの声が聴こえてきた。

「出してください~!」

「え?」

俺が声の在りかを探すと、それはどうやらテーブルの上のティッシュ箱の中からだった。これはいけないと慌てて手を突っ込んで、とにかく手に触れたキコちゃんを掴んで引っ張り出す。

「きゃあ!」

「あっごめん!」

俺は、キコちゃんの片足を持ち上げて逆さに吊り下げてしまっていた。キコちゃんは両手を振って「下ろして下さい〜!」と叫ぶ。下着も見えてしまうし、俺は慌ててキコちゃんをきちんとテーブルに座らせる。

「はあ、びっくりしました」

キコちゃんは恥ずかしがるような様子もなく、俺だけが冷や汗をかいていた。これは、多分黙って俺だけが罪を隠していた方がいいだろう。


まあキコちゃんがテーブルに座っているし、俺もその前に胡座をかく姿勢になったし。

「それで…連れ帰って来たけど、君はどうするの?」

「どうするって?」

キコちゃんは正座をしたまま、こくっと首を傾げた。

「えーっと、これからの生活とか、行くあてを探すとか探さないとか、そういうこと」

キコちゃんはしばらくうつむいて考えていたが、「うーん」とかすかな声で唸りながら、そのままずっと下を向いていた。

「キコちゃん?」

俺に呼ばれてハッと顔を上げると、彼女はちょっと困ったように微笑む。

「ここに置いてください…ませんか…?」

俺はなんとなく、そう言われるだろうと分かっていた。まあ、これは確認するだけの意味で質問したことだ。


考えなくてもわかる。

道端で人に掴みかかって、「連れて帰って!」と頼み込む女の子に、行くあてがあるわけもないことくらいは。

探すのも難しいと思う、この場合は。何せ彼女は人間には見えない。ともすれば本当に新聞社かテレビ局に売られそうだ。

まあいいか。俺は別に家に誰も来ないし、結婚すらこの先する予定はない。それなら特に心配はないだろう。


「別にいいよ。大してお世話はできないかもしれないけど」

そう言うとキコちゃんはとても嬉しそうに笑って、安心したように息を吐き、テーブルの上で立ち上がった。そして俺にぺこりと頭を下げる。

「ありがとうございます!よろしくお願いします!」

「あ、う、うん…よろしくお願いします…」

キコちゃんは立ったままウキウキと体を揺らし、俺を見て笑っている。それにしても、本当にこの子は美人だなあ。こんなに小さくしておくのはもったいない。キコちゃんがもし普通の人間なら、2分でイケメンの彼氏が出来そうだ。

その時、俺のおなかがぐ~っと鳴った。

「あ、そういえば、飯…」

そう言いかけて、俺は忘れていたことを思い出した。冷蔵庫に向かおうとしていた体をひねり、キコちゃんを振り向く。

「キコちゃん…ごはんって食べるの?」

そういえば俺はキコちゃんがなんなのかも知らない。だから当然これも知らなかった。でもキコちゃんはまたぷんぷん怒って、「食べますよ!私をなんだと思ってるんですか!」と返してきた。もしかしたら、この子は自分のサイズが人間では有り得ないものだということを知らないんじゃないか?

「あ、えーっと、俺の食べるもので、大丈夫かな…何を食べるの?」

するとキコちゃんは、「大丈夫!多分!」と元気な声で言った。


俺はタイマー機能で炊いておいた米を、電子レンジの上にある炊飯器から盛り付ける。そして、その電子レンジの下にある冷蔵庫から、ポテトサラダと千切りキャベツのパック、それから納豆を取り出した。

キャベツにはマヨネーズをかけて、あとは納豆とごはんがいつものメニューだ。でも、前の日にスーパーで割り引かれていたポテトサラダを買ったので、その日は少し豪勢だった。身寄りのない一人暮らしの学生なので、贅沢はめったにできない。

しかし、それをキコちゃんに出すのは少々気が引けたので、俺はちょっと前に買ったビスケットの包みも持って、テーブルの前に戻った。

「ごはんですね!ありがとうございます!」

俺は気になっていた。さっきキコちゃんは、「“多分”大丈夫」と言った。その“多分”というのはもしかして、「人間の食事がなんなのか知らない」ということではないだろうか。

そう思ってちょっとおそるおそる、キコちゃんに食事の説明をした。

「えっと、…これはキャベツ。こっちが納豆。これはポテトサラダ。あと、これがいつも食べる、“お米”。これはごはんじゃなくておやつだけど、ビスケット」

そう言って一つ一つを指さしていくと、キコちゃんはふんふんと頷いてから、「わかりました!」と言った。

やっぱり知らなかった。この子は一体なんなんだろう?でも、「君は一体何者なの?」と、食事の前には聞きづらかった。

俺はとりあえず、キコちゃんの体のサイズとしてはこのくらいだろうという量を別の豆皿に取り分けて、キコちゃんの前に置き、自分の食事にかかるため、「いただきます」と言った。

「なんです?それ」

「え?何が?」

「今、“いただきます”って…」

これはもしかすると、いよいよ「キコちゃん人間じゃない説」確定だ。今の世に生きていて、「いただきます」という言葉を知らない日本人がいるわけがない。というか、お米を知らない日本人も、納豆を知らない日本人もいないだろ普通!

「えっと…食べものがあることに感謝をしてー…食べる前にその気持ちを表す挨拶、だよ…?」

これで合っているんだろうか。俺はあまり自信はなかった。まあでも、当たらずとも遠からずくらいにはなっているはずだ。キコちゃんは納得したように「へえ~」とちょっと驚いてから、嬉しそうに「いただきます」を言って、なんと手づかみで納豆の豆を持った。あ、やば。

「きゃー!なにこれ!」

キコちゃんは、手に持った納豆がねとねとねばねばしていることにびっくりして叫んだ。

「あ、それ…体にいい食べものだよ」

俺がそう言うとキコちゃんは、「信じられない」というように真っ青になったけど、なんとかおそるおそる納豆を頬張った。そして、かぶりついた格好のままもぐもぐと口を動かす。変わった食べ方だな。

「んー…」

見ていると、キコちゃんはだんだん嬉しそうな顔になって、彼女からすればずいぶん大きな納豆の一粒を、あっという間に食べ終わってしまった。

「…これは、美味しいです!」

俺を見て、彼女はどこか勇ましく目を輝かせていた。俺は女の子がそのままでは何か忍びなかったので、さり気なく彼女の口の周りをティッシュで拭ってあげる。

「それは良かった。他のものも気に入るといいけど」



ここでキコちゃんからの結果発表である。

キコちゃん曰く、納豆は100点だったらしい。ごはんも美味しいそうだ。ポテトサラダは“素晴らしい”と言った。ただ、彼女は最後にこう付け加えた。

「キャベツは…私は次からはいらないかなと思います…」

俺がすぐさま、「ダメです。野菜は体にいいから食べようね」と言うと、キコちゃんはおろおろしていた。おおかた、野菜が苦手な子なんだろう。しかし、俺の家で世話になるのだし、家主の言うことは聞いてもらう。

まあ、キコちゃんの体に、健康か不健康かの当てはめができるのかも、俺にはわからなかったけど。


「あ、そうだ、おやつ…」

「そうだね、このビスケットはキコちゃんにあげるよ」

そう言うと、キコちゃんは嬉しそうにわくわくと俺が包みを破るのを待っていた。

「硬い…ですね…」

俺が砕いてあげたビスケットを手に持ち、彼女はちょっと戸惑う。俺が「まあ食べてみなよ」と言うと、キコちゃんは渋々ビスケットに口をつけ、サクッと音がした。

しばらくはザクザクとビスケットを噛みながら彼女は無心で目を閉じていたけど、もう一度目を開けると、無我夢中でビスケットにかぶりついて、これもまたあっという間に食べ終わった。

「素晴らしいです!」

「どーも」

「あ!こ、こういう時の挨拶はないんですか!」

「ふふ、“ごちそうさま”っていうのがあるよ。大体食べ終わったら毎回言うけど」

「ごちそうさま!です!」

「はい、俺もごちそうさまでした」

その後もキコちゃんは、おなかがいっぱいになって寝てしまうまで、ビスケットを食べていた。ビスケットは2枚なくなった。




3話目「お風呂の時間です」



キコちゃんがビスケットを食べ飽きて寝入ってしまっているのを俺はしばらく見ていたけど、見れば見るほど形だけは人間そっくりだった。でも俺はふと思い出し、洗い物を済ませてから、テレビでも観ようと思っていた。


「暇」というのは、俺から言わせてもらえば、「いかにだらしなく、下らなく消費するか」にすべてがかかっていると思う。

時間を無駄にするというのはいいものだ。それこそ最上の贅沢なのだ。「若いうちからサボって時間を無駄になんてしていたら、後でツケが回ってくるぞ」と言いたいお方もいらっしゃると思うが、心配ご無用。やるべきことは先にきっちり終わらせ、それから思いっきり無駄な時間を楽しむ。むしろ人生はそっちが本旨なのだ。

もちろんバイトの給料がなければ生活はできないから、働くことが無駄だなんて絶対に言わないし、成績が落ちるのもいけないので、ある程度は勉強もする。そうやって、働いたり勉強したりして、甲斐がある時間を手に入れるのも、とてもいいことだ。そしてさらに、自分で手に入れた余暇やら財産やらを遊びに使うということが、人間の人生を一番豊かにしてくれるのだ。他人からもらったお金でそれをしても、どこか申し訳ない気持ちは消えないだろう。自分でやることが大事なのだ。


というような底の浅い人生観を語っている間に、皿は洗い終わってしまった。この狭い部屋に、食器の水切りなど置く場所はない。なのですぐにタオルで茶碗など拭き、申し訳程度にシンク上に吊られている食器棚に戻した。


「一也さあーん!どこ行ったんですかあー!!」

テーブルに戻ろうとする直前でキコちゃんが泣き叫ぶ声が聴こえてきた。「もしかしたらこの子はものすごく手間がかかるぞ」と俺は予感しながらも、キコちゃんをなぐさめようと慌てて戻り、キコちゃんの前に座る。

「あーはいはい、起きたのね。いるいる。ここにいるから」

キコちゃんは俺が目の前に現れたのでまた嬉しそうに笑って、涙を拭おうと目の端をごしごしこすった。なんだかこの顔を見てしまうと、いつもの俺みたいに、「一人で勝手に生きさせてくれ」とは言えなくなってしまう。

「おなかはいっぱいかな?」

「はい!美味しかったです!」

「そっか」


というわけで俺は今から、「君は一体何なの?」とキコちゃんに聞かなきゃいけない。じっと彼女を見つめ、今一度、自分の想像力を働かせる。

妖精、妖怪、悪魔、天使…もしくは、遺伝子操作による産物、薬物実験で生まれてしまったもの…どれもこれも現実感はまるでないし、キコちゃんの様子から言っても、それらのどれも当てはまりそうな気はしなかった。

想像や伝聞でしかないけど、妖精ならすぐに魔法とか使いそうなものだし、妖怪や悪魔なら災いとなるような振る舞いをするだろう。天使なんかだったら宣託を告げたりなんかしそうだ。でも、キコちゃんにはそんな素振りは見えない。

そうだとするなら人為的に作られた実験動物かもしれないけど、それにしたって、こんなに自然と明るく過ごしている姿を見ると、なかなかそうとは思えない。

うーん。やっぱり俺にはわからない。聞くしかないか。


「キコちゃん、俺にはわからないんだけど…君は…なんなの?」

俺がそう言うと、彼女は急にショックを受けたような顔をして、うつむいてしまった。そうかもしれない。急に「お前は一体なんなんだ」という言葉をぶつけられて、存在すら理解されていないんだと思えば、誰だって悲しいだろう。

でも俺は、その先を受け止める覚悟くらいはあった。曲がりなりにも「面倒を見る」と決めたのだから。


しばらくキコちゃんは黙っていたけど、おろおろとし始めて、それから首をひねったり頭を押さえたりした後で、わっと泣き出してしまった。

「ど、どうしたの?あの、話したくなかったら、話さなくてもいいけど…」

キコちゃんは泣きながら首を振る。俺まであたふたしながら見守っていると、彼女はやっと顔を上げて、こう言った。


「私にも、わからないんです…」

わからない?どういうことだ?

「え、自分がなんなのかってこと…?」

「はい…」

これは困った。俺から見てもキコちゃんはおそらく人間ではないけど、自分がなんなのかはキコちゃん本人にもわからない。これではまったくお手上げというものだ。

「じゃあどうすれば…」

俺は困ってしまい、自分の顎を片手で気にしながら考え込んだ。

「あ、あの…!」

「え?」

声を掛けられて顔を上げると、キコちゃんは縋るような目で俺を見つめ、何か言いたげに口を開けたり閉じたりして、両手をもどかしそうに動かしていた。彼女はまた泣いてしまいそうだった。

「あの…私、迷惑かけません…だから…!」


これ以上泣かせるわけにはいかないな。俺はそう思って、「そうだね、まあそれはわからなくてもいいや」と言った。


人間の生活には、いろいろな段階がある。食事のあとは風呂に入る人が多いだろう。とは言っても、ここは本当に安いアパートなので、共同のシャワーしかない。トイレも風呂も共同で1部屋4畳半、家賃が月に2万4千円の、今時には珍しいくらいにオンボロな物件だ。よく取り壊しにならないなと俺は思っている。


俺とキコちゃんはさっきからテレビを観ていて、彼女はテレビで見る初めてのものについて、俺に次から次へと片っ端に質問ばかりしていた。でも、子犬が飼い主とじゃれ合っているだけのドラマのシーンが今は流れているので、質問は途切れている。その隙にまた聞かなければいけないことを、とりあえず俺は聞くことにした。

「キコちゃん、お風呂って入る…?」

なんとなく俺は答えがもうわかっていたのだが、「知っているか知らないか」というのは、確認しなければ答えとして存在しないんだなあと思っていた。

「えっ?“おふろ”って、なんです?」

うん。だと思った。俺はあらかじめ考えておいた言葉を出す。

「えっとね、埃とか、体から出る垢をお湯で流して、泡で洗ってから、ゆっくり温かいお湯に浸かってリフレッシュする、やつ…」

キコちゃんは時々首を傾げながら話を聴いていたけど、最後の言葉にはぴーんと背筋を伸ばして、嬉しそうに叫んだ。

「なるほど!リフレッシュですね!キコもしたいです!」

「あ、えっと…それで、ごめん…」

「どうしたんです?」

「うち、湯舟がないから…あっ」

その時俺は気づいた。

そうだ。何もキコちゃんをお風呂に入れるのに、大きな湯舟なんか必要ないじゃないか。

そこで俺はシンク上の食器棚から、いつもコーヒーだのジュースだのを入れるマグカップを取り出した。そして、それをテーブルの上に座っていたキコちゃんの横にちょっとかざしてみる。

「うん、よさそう」

「これに入るんです…?」

「そうそう。キコちゃんならこの大きさでいいと思うし、これにお湯を入れて来るよ。石けんとかも今用意するから」

「あ、はい!お願いします!」

キコちゃんは不思議そうな顔をしてマグカップを見つめていた。彼女は「へえー」と、何か感心している。

「本物の湯船はこういう形じゃないぞ」と念のため言った方がいいのだろうかとは思ったが、なんだか彼女ががっかりしそうなのでやめておいた。


俺は石けんからナイフで小さい欠片を剥がして、マグカップに給湯器で温めた湯を入れる。ちょっと熱かったので水を足し、何度も指を突っ込んで温度を調整した。


「えーっと、これで熱くないかな。ちょっと手入れてみて」

俺にそう言われてキコちゃんがおそるおそるお湯に手を入れると、彼女はほわっと笑い、「あったかいです!」と喜んだ。

「お湯に浸かるんですよね、服が濡れちゃうから…」

そう言いながら、なんとキコちゃんはその場で服を脱ぎ始めた。

「わーっ!!待って待って!脱がないで!ダメ!ダメ!!」

俺は正気を失うかと思うくらいびっくりして、手で顔の前を覆った。

「えっ?ダメなんですか?」

キコちゃんの方をおそるおそる見ると、元通りきちんとワンピースを着ていたのでほっとして、彼女に次のように説明をした。


一、女の子は人前で急に服など脱いではいけないこと(女の子に限るわけではないけど)

二、服を脱ぐというのは、よほど気を許した人の前でないと、してはいけないこと(ここを詳しく説明するのはなんとなくやめた)

三、キコちゃんにはわからないルールが多分たくさんあるから、何かをしたくなった時、俺が近くにいたら聞いてみてほしいこと


これらを告げると、「わかりました…ごめんなさい…」と、キコちゃんは項垂れて謝った。俺はなんとなくキコちゃんに申し訳なさを感じながら、「謝ることはないよ。俺はシャワー浴びて来るから、ドア閉まったら脱いで平気だからね」と返した。

それから俺は風呂道具を持って、こちらに向かって手を振っているキコちゃんに仕方なく控えめに手を振り返し、廊下に出た。



あーびっくりした。心臓吐くかと思った。

それにしても…俺も「20センチしかない女の子だし」なんて思っておきながら、しっかり彼女を女性として認識していたんだな…。



4話目「ままごとじゃない!」





俺がシャワーから帰ると、キコちゃんはもう俺が出しておいたハンカチで体を拭き終わり、元の服を着ていた。

「そういえばキコちゃん、服はそれしかないし、明日俺用意するよ」

「えっ?は、はい、すみません、ではお願いします!」

俺は、キコちゃんがちょっと遠慮がちに微笑むのを見ていた。やっぱりまだお互い緊張しているけど、いい同居人(人?)になれるといいなと思った。


この時は気づいていなかったけど、天真爛漫で、素直に笑ったり泣いたりする小さな女の子に、俺はもしかしたら、もう夢中だったかもしれない。

その晩キコちゃんが「一也さんの近くで寝たいです…」と言うので、「彼女にも睡眠は必要なんだなあ」と思いながら、寝床を支度してあげた。

寝返りを打った時にキコちゃんを潰してはいけないので、枕のちょっと上に昔使っていたお弁当箱を置く。その中にタオルハンカチを何枚か敷いて、掛け布団に使うハンカチをもう一枚渡すと、キコちゃんはそれにくるまって眠った。


キコちゃんの寝顔は幼く、やっぱり可愛らしい。小さな小さな手のひらは、ハンカチからはみ出している。

「ふふ、おやすみ」

「ん…」




「一也さん、起きて下さい、一也さん」

「ん…ああ…?」

薄目を開けると、目の前にキコちゃんがいた。

「わっ!…あ、えっと、おはよう」

キコちゃんは俺が大声を出したことにびっくりしたみたいだったけど、俺もびっくりした。朝起きて、目の前にミニサイズの美少女がいてみろ。そりゃびっくりするわ。


夢じゃなかった。今、俺の家には、ミニサイズの美少女がいる。これは一体なんなのか。でもそれについては考えても仕方ないらしいとは、もうわかっている。


「あ、あの…“おはよう”は、挨拶、ですか…?」

「うん、そうだよ。朝必ず言う挨拶」

「あ、じゃあ…おはようございます!」

それから俺たちは昨日と同じメニューで食事をした。キコちゃんは納豆も好きみたいだけど、ポテトサラダも気に入ってくれたみたいだ。

今日はちょうどよく日曜日で、明日からは6連勤だけど今日はバイトもないし、キコちゃんにことわってから、俺はちょっと遠くまで出かけた。買い物があったのだ。


「じゃあちょっと行ってくるよ。あんまりかからずに戻るから」

「はい…待ってます…」

キコちゃんはちょっとさみしそうだったので、俺は玄関にかがんで、彼女の頭を指で撫でる。

「そうだ、こういう時の挨拶。“行ってらっしゃい”だよ」

「あ、はい!行ってらっしゃい!」



俺が買い物の荷物を提げて自転車を降り、アパートの扉を開けると、玄関にいたキコちゃんが俺の足に向かって走り寄ってきた。

「一也さんの嘘つき!あんまりかからないって言ったじゃないですか!」

出かけていたのは2時間と少しだったけど、どうやらキコちゃんにとって2時間はとても長いらしい。俺はちゃんと学校やバイトに行かせてもらえるか、心配になった。

「ごめんごめん。はい、ただいま」

「はい!ただいまです!」

「ふふ、“ただいま”の返事はね、“おかえり”になるんだよ」

「えっ!じゃあ、おかえりです!」

「はいただいま~」

俺はとにかく落ち込んでいたキコちゃんに元気になってもらおうと、買い物の荷物から、まず食べ物をテーブルの上に取り出した。

4つ入りのミルクパンの袋、3つ入りの小さいエクレア、2つセットのレトルトのミートボール、ソーセージ、ミニトマト。

キコちゃんは次々と袋から出てくる食べ物に目を輝かせ、笑い声みたいなため息を吐いている。

「すごいですね!たくさんあります!一也さんのごはんですか?」

「違うよ、これはキコちゃんの。俺のうちは納豆ばっかりだから、こういうのもね」

「ええ~っ!?ありがとうございます!じゃあ食べます!」

「いや、ごはんは2時間前に食べたでしょ君…」

「あ、そうでした…」

そう言いながらも、どうしても食べたそうにキコちゃんが食べ物を見ている。なのでそれから気を逸らそうと、俺はもう一つの荷物から今度はおもちゃ屋で買ったものを取り出した。それを見て、キコちゃんは驚く。

「えっ…これ…!」

一つ一つテーブルの上に置かれたのは、ままごと遊びのための、人形サイズのベッド、椅子、テーブル。小さなテーブルの上には、お皿と、ボウル、フォーク、スプーン。全部人形に合わせるために作られているので、とても小さい。

「どう?ちょっと椅子とか、座ってみて…」

キコちゃんはいそいそと椅子に腰かける。それは、背もたれと腰かける部分だけが青いクッションになっている、木製の椅子だった。おもちゃ屋で選んでいる時、「近頃は子供のおもちゃもしっかりした作りだなあ」と俺は感心していた。

その時、近くにいた子供連れの母親に奇妙な目線を送られていたのは、忘れよう。

「わあ!ふかふかしてます!とってもいいです!」

「それはよかった。食器とかの、大きさはどうかな」

「ちょうどいいですよ!」

「うんうん。あ、それと、これは気に入るかわからないんだけど…」

そう言い置いてから、俺は袋の中に残っていた、最後の荷物を取り出した。

それは人形用の洋服だった。

1つめはキコちゃんが着ているようなワンピースだけど、俺が選んだのは青色で、白の水玉が入っている。それからもう1つは、黄色いパフスリーブのカットソーと、オフホワイトのハーフパンツ、それからブーツと、あとはオレンジ色のダッフルコート。

「すごいすごい!お洋服がたくさんですね!」

「とりあえず着てみようか。サイズが合わなかったら困るし」

それで俺は後ろを向き、キコちゃんが「いいですよー」と言ってから振り向いた。

キコちゃんはまずハーフパンツが履いてみたかったらしい。それと、ダッフルコートを羽織って、彼女はくるくる回って見せる。

「どうですか?」


ちょっと恥ずかしそうにしながらも、新しい服に胸をときめかせてウキウキしているキコちゃんは、やっぱり可愛かった。

それにキコちゃんはとても小さい。考えられないくらい小さい。だから本当に人形が動いてるようで、小さい子が見る夢のような可愛らしさもある。これは反則だ。


「うん、似合うと思うよ」

さすがに「可愛すぎて反則」とは言えないので、曖昧な返事しかできなかったけど、キコちゃんはご満悦の様子だった。

靴は小さくて入らなかったと言っていたけど、多分キコちゃんが外に出ることはないので、それでもいいだろう。もしキコちゃんが外を歩いたりしてみろ。街中の全員がスマホかざして追いかけるぞ。

キコちゃんはそのまま小さな椅子にすとっと座って、よほど嬉しかったのか、椅子をギコギコ揺らし始めた。

「あ、それは危な…あっ」

カタン!

予想通り、彼女は椅子ごと後ろに倒れて、「痛いぃ…」と泣いていた。相変わらずこの子は落ち着きがないなあ。俺はキコちゃんを拾い上げて、叩きつけられてしまった背中をさすってやる。

「うう…ごめんなさい…」

「うん、次からは危ないことはしないようにね」

するとキコちゃんはむくっと起き上がり、手の上で座ったまま、俺に向かって背伸びをした。そうして嬉しそうに笑う。

「一也さん!ありがとうございます!」

「どういたしまして」


5話目「“奴”がいた!」





それから俺たちは、毎日を一緒に過ごすようになった。というわけだが、俺はもちろん学校にも行かなければいけないし、バイトもしなければいけない。

俺が学校から帰ってくると、キコちゃんはさみしかったのか、しばらく俺から離れてくれなかったので、夜遅くに帰ってくるアルバイトは心配だった。仕事が終わるのは夜の1時過ぎだ。

俺の仕事は、個人経営の居酒屋で、皿洗いとホールスタッフ。次から次へと、俺が食べたわけでもない皿を洗ったり、お客に料理を運んだり、レジを打ったり。まあ雑用係だ。でも居酒屋の深夜帯だから払いはいい。それでやっとこ生活というものにこぎつける。


仕事に出かける時、とりあえずはキコちゃんに「今日は遅くなるよ」と言ってみた。その時、空気が変わった。

「遅くって…」

キコちゃんは見るからに怯えだし、ぷるぷると体を震わせて、泣きそうに顔を歪めた。やっぱり。

いや、これは本当に困ったな。どうしよう。「こういう時には女の子にこう言ってあげたらいい」なんて、教科書には書いてない。先生!僕はそういうことの方が知りたかったです、今この時のために!

「えーっと、キコちゃん…」

「はい…」

もう仕方ない。ここは素直に心で勝負するしかないだろう。

「…俺は…必ず帰ってくるし、休みの日は別に予定もないような奴だから、ずっと一緒だよ。だから、えーっと…とりあえず!待ってて!俺、仕事頑張るから!」


なぜか最後は俺の話になってしまったが、もしかしたらそれは悪いことでもなかったかもしれない。

キコちゃんは俺のその台詞を聞いて、「そ、そうですよね!お仕事、頑張って下さい!キコも頑張ります!」と言ってくれた。

「うん!頑張って待ってて!」


夜、1時20分。俺はエプロンを剥ぎ取り、居酒屋を出て、今日もくたびれた体を引きずっていた。それから、ついこの間までみたいにコンビニに吸い寄せられ、フライドチキンを買い食いしようとしてしまった。そこで、「いけない!」と俺は踏みとどまる。

そうだ、早く帰らないといけないし、これからはキコちゃんのために買い物をすることも増えるだろう。無駄なお金は使えないぞ!

俺は気を引き締め、コンビニを出ようとレジ前を横切った時、レジにあった小さな包みのチョコレート菓子が目についた。


ふむ。あれなら30円だし、財布の負担はほとんど無いと言っていい。それに、キコちゃんにならあれでも大きすぎるくらいだ。多分、彼女はチョコレートは食べたことがないだろうし…。



「ただいま〜…」

俺は「もしかしたらもう眠っているかも」とも思ったので、そろ〜っとドアを開ける。

「わあ〜ん一也さあ〜ん!」

案の定、バイト第1日目はキコちゃんの大号泣に迎えられた。

困ったなあ、6連勤だぞ…。

「うんうん、ごめんね、さみしかったね、もう帰ったから…」

キコちゃんを拾い上げようとすると、彼女は大急ぎで俺の指に登ってきた。よほどさみしかったのだろう。

「うう〜!うわぁ〜!」

「よしよし」

俺は左手にキコちゃんを乗せ、右手の指先で、泣き続けるキコちゃんの頭を撫でたり、背中をさすったりしていた。でも、なぜか彼女はなかなか泣き止まず、ずっと俺の指にしがみつき続けている。

「うう〜!うう〜!」

キコちゃんは次から次へ涙を流し、それを俺の人差し指にすりつけた。

「どうしたの?もうここにいるよ?帰ってきたよ?」

あまりにも泣き止まないので、俺は自分の胸元にキコちゃんをなんとなく引き寄せ、心持ち温めるようにした。それで少しは落ち着いてくれたのか、泣き声は止んだけど、キコちゃんはまだ泣いている。

「大丈夫?もしかして何かあったの?どこか痛い?」

俺はだんだん心配が押し寄せてきて、彼女の小さい体に傷がないかなどを確かめた。でもどこにも傷はないし、どこか痛くて押さえているような様子でもない。

「ち、ちが……く、黒いのが…走ってきて…!」

「黒いの?」

まさかお化けでも見たのかな?こんな姿だし、そういうの見えてもおかしくないかも。俺は一瞬そう思った。でも、次の台詞ですべてが知れる。


「ザカザカザカって走る黒くて羽根があるのが追いかけてきたんです〜!大きいの〜!すっごく怖かった〜!」


あ…「奴」か…。

俺は改めて「奴を」思い浮かべた上で、自分の体が20センチになり、「奴」の姿は変わらないままで追いかけられるのを想像した。背中がぞわりと粟立ち、ごくりと唾を飲む。

そりゃこうなるわ。俺も無理…絶対無理。

「そっかそっか。わかった。怖かったねえ、よしよし。じゃあ明日駆除剤買ってくるから。そしたらいなくなるよ」

「ほ、ほんとですか…?ほんとにいなくなりますか…?」

よほど怖かったのだろう、キコちゃんはまだ怯えている。俺は何度か「いなくなる」と繰り返してから、パーカーのポケットからコンビニで買ったお菓子を出した。キコちゃんはそれを見ると、泣くのをやめる。

「なんです?これ…」

キコちゃんはチョコの包みをつんつんとつついた。

「チョコレート。中にビスケットが入ってるよ。美味しいから、食べてごらん」

「ちょこれーと…?」

俺はキコちゃんを彼女の青いベッドに下ろして、チョコレートの包みをペリペリ剥いてから彼女の前に置き、後ろを向いて上着を脱いでいた。

「むー!」

口を閉じたままのキコちゃんの「歓喜の叫び」が聴こえてきたので、くすっと笑ってしまう。振り向くと、彼女はさっきの泣き顔が嘘だったみたいに驚きに目を見開き、忙しなくチョコレートを噛んでいた。

「美味しいでしょ?」

キコちゃんは口にチョコレートを詰め込んだまま、きらきらと目を輝かせ、何度も頷いていた。


俺は次の日、「奴」を駆除するべくドラッグストアでいくつか置くタイプのトラップを買ってきた。そして帰宅してそれらを仕掛ける前に、キコちゃんには、「絶対にこれには近づかないでね、毒だから」と言って聞かせていた。


「これでよし。じゃあ俺はバイト行ってくるよ」

「はい!行ってらっしゃい!」


俺はここ数日、何度か「行ってらっしゃい」と「お帰り」を言われている。もう昔のことと思っていた。でも、今は誰かが家で待ってくれている。それに、キコちゃんは俺をすごく頼りにしてくれるし。俺は、いつも以上に仕事を頑張れる気がした。


とは言え、少し心配もあった。キコちゃんがもし2日連続で「奴」に追い回されたりしたら、彼女は俺の家を脱走しかねないかもしれない。

そんなことになったら大変だ。猫にさらわれるかもしれない。子どもに見つかって振り回されるかもしれない。大人だったらそれこそどんな悪いことでもできてしまう。

そんなことを考えていた時、ビールジョッキを水切りに置くのに手元が狂い、ジョッキが床の方に傾いた。

「あっ…やべっ…」

なんとか手で取り戻そうとしても遅かった。つるりと俺の指先をかすっただけで、キッチンのコンクリートの床にジョッキは砕け散る。

「こらーっ!児ノ原!ぼーっとしてんじゃねえ!」

「はいっ!すんません!」

俺は、すぐ後ろで天ぷら鍋に向かい合っていた店長に、ぽかっと頭を殴られた。


ここの店長はけっこう古い料理人で、平気でキッチンで怒鳴ったり殴ったりするので、バイトがどんどんやめていく。まあ俺は払いがいいバイトはやめないけど。それに、雑用はそこまで被害ないし。俺なんかより、調理を手伝ってるアルバイトの方が酷い目に遭っている。

でも、どうやら店長の腕前は確かなようで、調理補助のアルバイトはやめることは少ない。

あれは料理修行なんだろうなと思って、俺も後ろの洗い場から、時々それを覗いたりしていた。


俺が割れたジョッキの欠片を集めていると、ガラスの切り口がちくっと指に刺さった。すぐに赤い血が流れ出す。

「あ、やべ。店長、絆創膏ないですか?」

「いちいち俺に聞くんじゃねえ!事務所で探せ!どうせ女のことでも考えてぼやぼやしてたんだろうが!」

一瞬、俺はどきっと図星を突かれたような気になってしまいかけたが、多分違うと思う。少なくともキコちゃんは「俺の」女ではない。この場合、多分そういう仮定で話が進んでるんだろう。

「そんなんじゃないっすよ」

「男はみんなそう言うのさってな」

ざっくばらんなのか荒っぽいのかよく分からない店長は、天ぷら鍋に夢中になったまま、ため息みたいにそう言った。


もし今この場で、「手のひらサイズの落ち着きのない女の子を家に置いてきたので、何かないか心配なんです」と言ったらどうなるだろう。

やめとこう。「ふざけたこと言ってんじゃねえ」って殴られるだけだ。


俺はどこかもやもやとした気持ちを抱え、そこからは淡々といつも通りの仕事をした。



6話目「キコちゃんのチカラ」





俺はバイトに通い続けて、もちろんその間学校にも行きながら、連勤の終わりを迎えることができた。キコちゃんも応援してくれていたし、自分を見ていてくれる誰かがいるのはとても力になった。「キコちゃんのためにも頑張らないと」と思ったし。

「はあ~、ただいま~」

「おかえりなさいませ!」

キコちゃんはどうやら敬語で喋るのが好きなようで、挨拶なども一番敬語らしいものを使う。この「おかえりなさいませ」も、テレビドラマでメイド役の女優さんがそう言ったのを観てから、こうなった。

「あー…疲れた…」

俺はそう言いながら、鞄を肩から降ろして布団の上にどさっと寝転んだ。体中がピリピリしているし、立ち仕事だから足がちょっと痛い。このまま寝そうだ。「店長はよく一日中厨房に立つのをやるなあ」、と思った。仕込みもあるし、買い出しもあるんだろうに。俺はバイトだから、19時から1時までだ。自分の店を持つというのも、並大抵の苦労じゃないな。

「おつかれさまです、一也さん!これ!ほら、あげますよ!」

「うん…?」

キコちゃんが枕によじ登って、俺の頬に何かを押しつけてくる。目を開けると、目の前にはこの間キコちゃんにあげた、かじりかけのチョコビスケットがあった。

いや、キコちゃん、それ食べかけじゃん。そうは思ったけど、まあ自分の分を諦めて俺にくれると言うんだから、俺はそうは言わなかった。

「くれるの?」

「はい!美味しいですよ!元気が出ます!」

「うん、ありがとう」

元々小さい30円のチョコビスケットはさらに小さくなっていたけど、やっぱり美味しい。

「ん、うまい」

あー、それにしても。

「金欲しいなあ…」

アルバイトで稼ぐにしても、学生の立場では限界もある。昼間は学校に通っているから働けないし、夜の仕事は給料はいいけど翌朝学校に行くのが辛くてしょうがない。いくら時給1,200円とはいえ、学校との二足の草鞋で6日も経てば、「こんな苦労をしなくてもお金が手に入ったらいいのになあ」と、さすがの俺でも思う。

「かね?ってなんです?」

俺はキコちゃんが不思議そうな顔をしているのを見て、もうどこか夢見心地の気分でうつらうつらしていた。だから俺は、つい現実から逃避する心のままで返事をした。

「んー…たくさんあると、素敵な人生が送れる、魔法の紙だよ…」

「そ、そんなものがあるんですか!一也さんは持ってないんですか…?」

キコちゃんはおろおろと不安げだ。だから俺は、「少しならあるよ」とジーンズのポケットから財布を取り出し、かの高名な細菌学者であり医師でもあった、野口英世先生が描かれたお札を一枚取り出してみせた。

キコちゃんは、自分にとっては布団ほどもある大きさの千円札を、表も裏もしげしげと眺めて、「ほー」と感心している。こんな風に、毎日新しいことばかりに驚くのを見ているのは、やっぱり飽きないなあ。するとキコちゃんはちょっと目をつむり、「うーん」と唸り出した。

「どうしたの?」

そこで彼女は俺を見て、こう聞く。

「たくさんあればいいんですよね?」

キコちゃんはそう言いながら、俺にお札を返してきた。

「う、うん…そうだけど…」

なんでそんなことを確認するのかなとは思った。そのうちにキコちゃんは上に向かって両手を差し上げ、「えいっ!」と叫ぶ。その時、とんでもないことが起きた。


部屋中に、千円札が舞った。何枚あるのかなんてわからなかった。大量過ぎて、目がチカチカするほど、お金が降ってきた。俺は眠気なんか消し飛んで、びっくりして飛び起きる。


「えっ!?マジで!?いや嘘だろ!?」

「素敵な人生です!」

キコちゃんは嬉しそうに飛び跳ねた。俺は信じられなくて、千円札を一枚拾い上げてくまなくそれを調べた。どこもおかしなところなんてない。普通の千円札だ。それからもう一枚、もう一枚と確かめていっても、全部同じ、ちゃんとしたお金だった。

でも、俺はそこでふと何か違和感を感じたので、財布の中に戻しておいた元の千円札と、布団の上に落ちていたものを詳しく見比べる。

やっぱり…。

「キコちゃん…これ、多分通し番号まで全部おんなじだ…」

俺は項垂れた。夢よ、さようなら。多分今、この部屋の中には、通し番号が全部同じお金が大量にあるんだろう。早く燃やしてしまわないと、通貨偽造で俺が逮捕される…。

「とおしばんごう?」

「うん、ここの数字とアルファベット…これは普通、全部のお札で違うんだよ…」

「同じだと困るんですか?」

「うん…同じものは、使っちゃいけないことになってるんだ…」

「そうなんですかあ…」

キコちゃんは残念そうに項垂れたけど、俺はそれを見ていて、申し訳なくなってしまった。


そうだ。キコちゃんに俺の人生の糧を全部お膳立てしてもらうなんて、そんな変な話があるわけがない。俺はさっきまで職場で、俺たち二人の生活を支えるために働いていた。それで満足だったはずじゃないか。だから、むしろこれで良かったんだ。

もしこれで上手くいっていたら、俺は金に目がくらんで、キコちゃんを利用しようとしていたかもしれない。そうなれば俺は、生活の舵を自分では握らず、キコちゃんに寄生して、わがまま放題に生きるようになってしまっていただろう。ああ、怖い。


「大丈夫だよキコちゃん。俺はさ、こうしているのが素敵だと思う」

「そうなんですか?」

「うん。君がそばにいてくれるならね」

「えへ…それなら良かったです」


キコちゃんがもう一度「う~ん、えいっ!」と念じて叫ぶと、お金は姿かたちもなくなった。それにしても、彼女はやっぱり普通じゃない。ほかにも何かできることがあるのかな?

俺は彼女が一体なんなのかまた不思議な気分になったけど、「まあそれはいいか」と、思って目を閉じた。


明日は日曜日。久しぶりに日曜にバイト休みを取れたので、一日寝るぞ。あ、でも、キコちゃんに新しいお菓子を買ってきてあげないと。それに、納豆以外にも好きなものがないか、スーパーでいろいろ買ってみて……


俺はいつの間にか、眠っていた。


7話目「お出かけしましょ!」





「ふあ~あ…」

俺は起きてすぐに欠伸をした。眠い。もう一度眠りたい。すると、枕元でごそごそとキコちゃんが目を覚ます。

「あ…一也さん、おはようございます~…」

キコちゃんもだいぶ眠そうだ。でも彼女は起き上がってぺたんとベッドの上に座り、俺にぺこっと頭を下げた。

「おはよう。今日はお休みの日だよ」

「ほんとですか!」

それから俺たちはいつも通りに納豆とごはんの食事をしたけど、「今日はスーパーに行って、キコちゃんが好きな食べ物がないか、見てくるからね」とキコちゃんに言った。

「スーパー?」

「食べ物がたくさん売ってるところ」

「えっ…」

キコちゃんは納豆を手に持ったまま、興味深げに目を輝かせ、そのあとでちょっとしゅんと項垂れた。

「どうしたの?」

「キコも…行きたいです…食べ物、たくさん…」


俺はこの時、とても困った。

参ったな。キコちゃんをスーパーに連れて行って、彼女に食材を吟味してもらうなんてことはできない。彼女を外に連れ出して人目に触れさせればどうなるか、俺だって予想はつく。しかしここで断れば、キコちゃんは悲しむだろう。なんとかならないものか…。

キコちゃんを連れて行っても危なくない場所を俺はなんとか考えだし、それを折衷案としてキコちゃんに提案しようと思った。

…あ、そうだ。


「そうだなあ、実はスーパーには危ないから連れて行けないんだけど、他に連れて行っても大丈夫そうなところなら、あるよ」

「ほんとですか!じゃあそこに行きたいです!」

それからキコちゃんは青地に白い水玉模様のワンピースに着替え、オレンジのダッフルコートを羽織って支度をした。俺はTシャツとパーカーに、ジーンズ。これがいつもの格好だ。


俺は、キコちゃんをパーカーのポケットに入れて出かけた。キコちゃんが落ちないように中の縫い目を掴んでもらうことにして、「ちょっと苦しいと思うけど、スーパーの中だけは我慢してね」と言って隠れてもらった。それから俺は、キコちゃんが好きになりそうな食べ物を探した。


「キコちゃん、キコちゃん、もういいよ」

俺がそうポケットに向かって声を掛けると、「ぶはあっ!」とキコちゃんがポケットから顔を出した。キコちゃんは真っ赤になって、汗を拭き拭き俺を見上げる。

「ごめん、苦しかったね。着いたよ」

ここは俺の家の近所にある、路地の四つ角にある公園。小さすぎて子供は誰も遊びに来ない。遊具は古くて小さなゾウの滑り台に、三本のタイヤが並んだものが一列あるだけ。俺はその二つの真ん中にあるベンチに腰掛けて、キコちゃんをポケットから出してあげた。多分ここなら誰も来ないし、少しなら平気だろう。

キコちゃんは俺の手のひらの上で、どこに着いたのかきょろきょろと辺りを見回した。でもよくわからなかったのか、首を傾げてからキコちゃんは上を見る。

「わ!一也さん!真っ青です!」

今日は空は晴れていた。

「そうだね、今日は晴れだから、空は青い。曇ってると、白くなるよ」

「へえ~。飽きませんね!」

キコちゃんは当たり前のようにわくわくとして、俺を嬉しそうに見上げる。

ああ、俺は見飽きたと思っていたけど、この子にとってはここは新しい世界なんだよなあ。

俺は、まだまだ初々しく何にも染まっていないキコちゃんの頭を、ちょっと撫でた。

「そうだね、夕方とか、朝方も綺麗だよ。綺麗な橙色になるんだ」

「ええ~!見たいです!」

「うん。そろそろ日が暮れてくるから、帰り道には見えるよ」

それから俺たちは家に向かって歩き出し、だんだんと薄暗くなると同時に、ビルの波も飲み込むように、太陽に焦がされて染まっていく空を眺めた。ポケットから出てキコちゃんはため息を漏らす。

「なんだか…よくわからないんですけど、ちょっと…胸が苦しい色です…」

キコちゃんは切なげに眉を寄せ、押し寄せる夕焼けを頬に受けていた。

「…そうだね。俺もだよ」

「一也さんもですか?」

「うん」

俺は、その時初めて、キコちゃんと考えていることが同じだったかもしれない。

全部が赤橙に染まり、雲のところどころが金色に光って、その裏側が濃い紅に陰っている夕焼け空は、綺麗な分、俺の胸も焼いてしまう気がする。それは、自分が幼い頃何を夢見ていたのか、思い出そうとしても思い出せないような、そんな切なさを感じた。キコちゃんはこの空をどんなふうに思っているのだろうか。

俺はなぜか、それはキコちゃんに聞けなかった。



その晩、俺たちはスーパーで買ってきたものをテーブルの上に広げて、とりあえず箸で小さく切り、キコちゃん用の小さなお皿に取り分けた。キコちゃんは青い椅子に座って、それを一つ一つ味見していく。

パスタサラダ、から揚げ、コロッケ、卯の花、ハンバーグ。今日買ったのは大体こんなところだ。

キコちゃんはどれも「美味しい!」と言って足をぱたぱたと動かし、満足そうに食べていた。

結果発表を聞いたところ、彼女は特に卯の花とコロッケが気に入ったらしい。納豆もあんなに美味しそうに食べるんだし、どうやらキコちゃんは大豆党のようだ。若いのにめずらしい。いや、キコちゃんって何歳なんだ…?年齢とかあるのか…?

それから俺は、余った食べ物を袋に包んで小さい冷蔵庫のフリーザーに突っ込んだ。キコちゃんは一度にたくさんは食べられないので、俺が食べる時にお裾分けする形にしよう。

そのあとは、キコちゃんと二人で日曜のお決まりのアニメなど見たあと、彼女をマグカップ風呂に入れて俺はシャワーを浴び、明日の学校に向けて眠った。


8話目「キコちゃんのチカラ・2!」



学校は勉強をするところである。まあ二次的なものとして、社会の中でどう振舞えば他人に迷惑を掛けずに済むか、ということなども学ぶのだけど。俺は面倒なので、二次的な方のものとしては、「ほとんどまったく関わらない」という手法を採っている。それでも本当にまったく関わらないことはできないので、挨拶くらいはしていた。しかし、最近それに変化が出てきた。

「あ、ごめん。おはよう」

朝、俺は教室に着いて出入り口をすり抜ける時、ぶつかりそうになった女子生徒にちょっと謝ってから、朝の挨拶をした。

「あ、おはよう…」

その子はなぜかちょっとびっくりしていたけど、俺に挨拶を返してくれた。俺は席に就いて、教科書を引っ張り出す。そろそろテスト期間なので少しは頑張らないとなと思い、それからその日は、大体自分の席で勉強をしていた。

俺は家に帰ったあとはバイトまでごろごろと寝転んで過ごしたいので、勉強は学校ですることが多い。さすがにテスト前は少しくらい家でもやるけど。



「あの、児ノ原君…」

「はい?」

あとはホームルームが終われば帰れる頃だった。俺がその時間も勉強をしていると、女子生徒が声を掛けてきた。その子は、今朝挨拶をした子だった。同年代と、仕事場以外で挨拶をしたのは久しぶりだったから、俺も少しは覚えていた。えーっと。この子は何さんだったかな。…よく覚えてないや。まあいいか。

「いつも勉強してるよね」

「まあ、家でできないから…」

「え、家で勉強できないの?」

「学校のあとはバイトしてるんだ」

「えっ?そうなんだぁ」

その女子生徒はびっくりして、「毎日バイト?」とか、「大変だね」なんて言っていた。それから、チャイムが鳴る前に、「児ノ原君、普段全然挨拶とかしないから、今朝はびっくりした」と言い置いて、席に戻って行った。

そうだったかな。挨拶はたまにはしていたつもりだったけど。俺、やっぱり目立たないのかな。まあいいか。

そう思ってから俺は、教科書だのなんだのを鞄にしまって、すぐに帰れる態勢を整えた。

「…てなわけで、来週から期末考査が始まる。各人、持てる力で頑張っていきましょー」

うちのクラスを担当している東先生は、やる気がないように見えるところが売りのような先生である。まあ確かに、先生だけ妙に張り切られても生徒は疲れるし、ついていけない。東先生は、ほどよく力が抜けていて、それでいて有言実行の男だった。それだからか、不思議な求心力で生徒からはけっこう人気がある。

ホームルームが終わって俺が帰ろうとしていると、東先生が俺の席に近寄って来た。

「おい、児ノ原」

「はい?」

「お前、バイトの方、どうだ?」

東先生は背が高い。見下ろされるとけっこうな迫力があるんだけど、気の抜けた先生の表情からは、威圧感は感じなかった。先生は短く刈り込んだ頭をなんとなく体と一緒に揺らしながら、もたつく足をおさめようとでもするように、足踏みみたいに膝を動かしていた。

「うーんと、いつも通りですよ」

「そうか。まあ無理すんなよ。テストもあるし」

「はい、ありがとうございます」

そこで東先生はなぜかびっくりしたような顔をして、何かをもうひと口言いたそうだった。でも、俺はとりあえず家に帰ってキコちゃんの様子を早く確かめたかったので、「じゃ、これで失礼します」と言って、教室を抜け出た。



「ただいま~」

「一也さん、おかえりなさいませ~!」

キコちゃんはミニベッドを降りて、布団の上をうんしょうんしょと渡ろうとしていた。キコちゃんにとっては分厚い布団はかなり足が取られるのか、なかなか進めないようだったので、俺はキコちゃんを拾い上げる。彼女を手のひらに乗せて目の前に連れてきてから、もう一度ただいまを言った。

「えへへ、“がっこう”おつかれさまです!」

「ありがと。ごはんにしよっか」

「おなかすきました~」

「うんうん」


俺たちはテレビを観ながら食事をして、俺は「バイトだるいな~」とちょっと憂鬱な気分を抱えていた。テストの2日前くらいからはちょっと勉強もしたいし、これから一週間は先週より疲れるだろうなと思って、気分が重い。

「どうしたんですか?一也さん…」

見ると、俺の不安そうな顔に気づいたのか、キコちゃんがこちらを見上げていた。俺が“がっこう”には“テスト”というとても大変なものがあること、そして、その間も仕事は変わらずにあることを話すと、キコちゃんもちょっと切羽詰まった顔になり、「それは大変ですね。キコには何かできることないですか?」と聞いてきた。

「大丈夫。俺、キコちゃんがいるだけで頑張れるから」

「ふふ、それはよかったです!」



テスト前日のことだ。俺は学校から帰宅するとすぐに勉強を始め、キコちゃんは俺のノートの端っこに文鎮みたいに座って、「ほー」と興味深げに歴史のノートを覗き込んでいた。そして、俺はしばらく勉強に夢中で気づかなかったけど、しばらく彼女は「う~ん」と唸っているようだった。俺は「やっぱり彼女には難しいかな?」と思い、声を掛ける。

「難しい?」

キコちゃんはぷるぷると首を振った。

「でも、大変そうですね…」

「うん。けっこう難しいよ。あ~事前に出る問題知ってたら楽なんだけどなあ~」

俺が思わずそうこぼすと、キコちゃんはそばにあった赤いペンを重たそうに持ち上げ、急いでいくつかの単語を囲った。

「これです!多分これです!」

「はあ?」

「出ます!覚えましょう!」

キコちゃんは大真面目のようだったけど、「そういうのは学校の先生が決めるんだから、俺たちにはわからないよ」と言い聞かせて、勉強に戻った。キコちゃんは「そうなんですかあ…」と項垂れていた。



翌朝俺は、前日の家での勉強とバイトでくたびれた体を起こし、欠伸をしながらスマホを立ち上げて時計を見た。ふむ、8時32分…。

「…ええっ!?やっべもう完全遅刻だ!テストなのに!ああー!目覚ましセットするの忘れてた!」

「ん~、一也さん、おはようございます…どうしたんですかぁ…?」

キコちゃんが眠そうに俺を見ていたけど、俺は急いで制服に着替え、慌てて学校鞄を引ったくって家を出ようとした。

「遅刻になっちゃったんだ!もう始業の時間も過ぎてる!ああ~もうあと30分早ければ!」

「ええ〜っ!大変です!時間を戻しましょう!」

「できないよそんなこと!ああ〜やばいやばい!」

俺は支度が済むと、もう一度スマホで時計を見て、バスの時刻表を頭に思い浮かべた。せめて、今から一番早いバスの時刻に間に合わせるためだ。

「あ、あれっ?」

時計を見ると、なぜかさっきまでは8時半を過ぎていた時計が、今は7時20分を表示している。

「おかしいな、エラーかな?」

俺がちょっと戸惑っていると、キコちゃんは敬礼みたいに頭に手を当て、「いってらっしゃい!」といつものように元気な声を出した。

「あ、うん!とにかく、行ってくるよ!」

「はーい!」



学校に着くとホームルームも始まっていなかった。俺はどうやらいつもの時間通りに学校に着いたらしい。「寝ぼけて7時半を8時半に間違えたのかも」と思い、「だったらあんなに焦らずに朝飯を食べてくるんだったな」とすきっ腹を抱え、期末考査の第一日目に臨んだ。


三時限目は、日本史だった。暗記科目だからとちょうど昨日勉強したばかりだし、意外とするする答えは出てきた。でも、どこか違和感を感じていた。


あれ…?これって、キコちゃんが丸を付けてたものばかりじゃないか…?


俺はそんなに記憶力は良くないので、キコちゃんが指し示した範囲をすべて覚えてはいなかったけど、なんとなくそう感じた。そして日本史の回答が終わってから、ちょっとだけ考える。


彼女は普通じゃない。この間も、お金を寸分違わぬ形で大量に増やした。とすると、おそらく今朝時計が少し前に戻ったのも、昨日キコちゃんが「ここが出る」と言ってわかるはずのない試験範囲を当ててみせたのも、キコちゃんの力の為せる業なんだろう。


皆さん、俺はテスト最終日にある、数学が苦手だ。しかし、もしキコちゃんが答えがわかるとするなら…と、そこまで考えて、俺は慌てて首を振った。

いやいや!もしそうだとしても、カンニングなんて男らしくないぞ児ノ原一也!ていうか、それは男女関係なく、全員やっちゃダメだろう!


しかし、「やっぱり赤ペン部分で丸をつけられた部分に学習範囲を絞っていれば…」と、俺は後悔した。そしてそんなことを考える自分がちょっと情けなくなり、「自分の力でやるのが当たり前なのだから」と自分を励まし、七割しか埋まっていない回答用紙を裏返して伏せた。



9話目「キコちゃんのキモチ」





俺は自慢じゃないが、勉強はできない。頭がいいか悪いかと言われると、多分けっこう悪い方だと思う。まあでも仕事の上でのミスなんかはあんまりない。いや、この間ジョッキを落として割ったのは、あの時心配事があったからであって。
目の前のプリントには、罫線の間を埋めるようにこう書かれている。


国語総合/78点
現代文B/72点
古典B/73点
世界史B/69点
日本史B/68点
地理B/63点
現代社会/75点
倫理/80点
政治経済/72点
英語/63点
数学Ⅱ/48点
生物基礎/68点
物理基礎/67点
化学基礎/59点
保健体育/88点
情報/72点


あんまり主たるところじゃない話だけど、地理って地味に難しくないか?日常的に全然使わない範囲のことをひたすら暗記するって、けっこう大変だよな。

それにしても、ちょっと調子こきすぎたかな。数学が赤点だ。うちの学校はそこまで頭がよろしくない学校だからか、赤点は高校としては非常に珍しい50点と決められている。まあ問題は多分そんなに難しくないんだろうけど。

俺は返ってきた成績表を見て、はあ~っと深くため息を吐いた。とはいえ、俺は大学には行かないので高校時代の成績があとあとになって響くということも多分ないし、今、この時をしっかり乗り切ればいい。

黒板の前の東先生は、飲んだくれがやる説教のように、「じゃあ補習受ける奴は俺んとこ来て日程確認しろな~。はいさいなら~」と言った。チャイムが鳴り、生徒たちは解放される。

俺は、クラスのほとんど全員が帰って行く中、他の数名と一緒に東先生の元に集まった。

「はい、補習の日程プリントね、山崎は化学基礎か。ま、頑張れ」

「すみません」

喋ったことはないが、山崎君は少し背の低い、猫背の男子生徒である。彼は長く伸ばした前髪を片手で押さえて、先生から遠慮がちにプリントを受け取った。どう見ても努力家そうに見えるのに、赤点か。

まあ、どこのクラスにもいるよな。頑張ってるのに成績伸びない生徒って。いやいや、自分の努力すらほとんどしてない俺が口を出せることじゃないけど。

「児ノ原は〜、数学か。で、金村は物理。まあ厳しいとこばっかだからな。頑張れや。じゃあ先生帰るから」

俺の隣に居た金村さんは、なんと、この間喋った女子生徒だった。

「え~っ。物理難しいよ~東せんせ~」

東先生はもう日誌を持って教室の出口へと歩いていて、振り返らずに「真面目に補習出ろよ~」とだけ言って、ガラガラピシャンと戸を閉めてしまった。

山崎君は帰り支度をしに自分の席に戻っていた。でも俺は、少し金村さんが気になった。

実は、俺はほとんど人と喋らないから、高校生活で初めて喋った女子生徒が、金村さんだったのだ。俺は少しそれを思い出していた。まずい。意識してんじゃねえよ、俺。

ちらっと金村さんの方を見てみると、彼女はこっちを見た。するとそのまま彼女は、内緒話をするみたいに、頬のあたりで小さくピースを作る。そして、「がんばろーねっ!」と小声で言った。まあ、ただそれだけのことだった。



耐性というのは大事だ。あまりに激烈なものにまで耐性がついていたら少し気の毒だが、逆に、ほんの微かなはずなのに、耐性がなくてまともに食らってしまうというのも問題なのだ。

俺は家への帰り道、金村さんの顔を思い出していた。よく見てみると、彼女は頬だけがぷっくりとつやつやしていて、それから、睫毛が長く、けっこう可愛い方だった。そんな子がだ。そんな子が、今まで女子とほとんど喋ったことのない男子に、「頑張ろうねっ!」なんてこっそり言ってみろ。そりゃ少しは心も揺れるぞ。

でも俺は、自分が冴えない男だということはわかっているし、わざわざ彼女を作って、休日に引っ張り回されたりする身になるのはごめんだ。まあ、金村さんのことは胸の内にしまっておこう。それに、うちには「キコちゃん」という美少女もいることだし。まあキコちゃんとは恋愛関係じゃないし、彼女はちょっと小さいけど。



「ただいま~」

「おかえりなさいませ!今日のごはんはなんでしょう?」

「ああ、その前にお昼のお片付けね」

「はい、お願いします」

キコちゃんは玄関まで来ていたのか、そこでペコリと頭を下げた。俺はキコちゃんを踏まないように部屋の中に入ると、おもちゃの皿を回収してシンクで洗い、お菓子のゴミをゴミ箱に捨てた。

キコちゃんの昼の食事の時は、俺は家にいない。だから朝のうちに彼女の使う小さなテーブルの上に出しておいて、「12時になったら食べてね」と言ってある。でも、キコちゃんはおなかがすいて早くに食べてしまうのか、俺が夕方4時半くらいに帰ると、「ごはん食べましょう!」と急かしてくるのだ。小さいけど、なかなかに食べることは好きなキコちゃん。俺が帰宅部でよかったよなあ。

「えーと、晩ごはんは今日はコロッケだから。あとはポテトサラダもまた買ってこれたよ」

「はい、お願いします」

あれ?なんか今日のキコちゃんは反応が薄いな、と、俺はその時思った。キコちゃんはコロッケとポテトサラダが大好きだから、いつもなら飛び上がって喜ぶはずなんだけど。もしかして、飽きちゃったかな?そうすると次は何にしようか…。

そう考えながら冷蔵庫の前に屈んで、納豆の横にあるコロッケの包みを出そうとしていると、あの時のように、俺の制服のスラックスが、くんっと引っ張られた。足元を見ると、キコちゃんがうつむいて立っている。

「どうしたの?」

「あの…その…」

「うん?どうしたの?」

キコちゃんの顔を覗き込もうとすると、なんと顔を逸らされた。そしてキコちゃんは、気まずそうにやや斜めの下を見たままだ。

え、俺なんかした?これ絶対なんかしたやつだよね?やべ。この間、キコちゃんが寝てたから一人でポテチ全部食べ切ったの、バレたかな?

「あの…ごはんの前に、お話が…」

「あ、は、はい…」



「というわけで、コロッケも温めたし、ごはんも盛ったし。キコちゃん、納豆もいる?」

食卓には、どこか気まずいムードが流れていた。

なんとなくいつも通りの空気が欲しくて、俺はあまり意味もなく納豆の話をしたけど、キコちゃんはうつむいたまま、ちょっと首を振った。

「えっと…お話をしてから…」

「え、うん…」


キコちゃんはなかなか喋ろうとしなかった。

彼女はうつむいたまま首をあっちこっちに傾けては、弱って悩んでいるような顔をしたり、どこか悲しそうな表情になったりした。何度か話を始めようと口を開けたけど、キコちゃんは諦めてしまう。でも、一度ため息を吐いてから、とうとう小さな声でぽそぽそと話し始めた。

「最近…一也さんと一緒にいるのが、なんだかとても、恥ずかしくて…」

恥ずかしい?どういうことだ?俺は初め、キコちゃんがなんの話しを始めたのかわからなかった。

「でも…それでもずっと一緒にいたいから、ほんとは、ポケットに入って、学校にも連れて行ってもらいたいって思うんですが…それはできないから…おうちで待ってるとき、とってもさみしいんです…。一也さん、今どうしてるのかなって考えると、なんかちょっと…苦しくなって…どうしたらいいのかわからない気分になって…」

「え………」

キコちゃんは話しながら頬を染め、不安そうに胸に手を当てていた。でも、決定的な一言は出てこない。まさか。


まさか、全然意味もわからずに、自分の気持ち全部喋ったのか!?この子…!

ていうか!キコちゃんが、今話した自分の気持ちがなんなのかちゃんとわかってたら、俺はどう断ればいいんだよ!?


俺は一人で汗をかき、あたふたと体を動かしたいのをなんとかこらえて黙っていた。


キコちゃんはそこでやっと顔を上げて、こう言った。


「一也さんって…誰かと一緒にいて、“うれしいのに、恥ずかしいな、ずっと一緒にいたいな”って思ったこと、ありますか…?」

そう言って、キコちゃんは切なげに胸元で両手を握り合わせていた。




10話目「彼女への返事」





部屋の中では、数秒間の睨み合いが続いていた。俺は、なろうことなら「時が止まっていてゆっくり考えられる部屋」がほしかった。


“一也さんって、誰かといて、嬉しいのに、恥ずかしいなって思ったこと、ありますか?”


キコちゃんはそう言った。

彼女はおそらくだけど、本当に“多分”という見当でしかないけど……俺に、恋をしている。

“いや、嘘だろ!こんな美少女が!?”

といったような驚きは、案外と俺にはなかった。だってキコちゃんは、まだ俺しか知らない。

それに俺は常日頃から、なるべくキコちゃんの好きなように過ごしてほしいと思って、それを実現させるための些細なことなら行動している。

彼女には日々優しさを心がけて接しているし、キコちゃんが何か言った時には、“そうかそうか”と言って、まるでおじいちゃんが孫にするみたいに、猫っかわいがりをしていたのだ。

ここまですれば、嫌いになる可能性よりは、好きになる可能性の方が高い。それは頷ける。

ただ、頷けないこともある。


キコちゃんが俺しか知らないということは、もっと彼女にふさわしい男性もいるこの広い世の中で、キコちゃんは俺しか見ないで恋をしているということだ。

俺はなんとなく、キコちゃんの保護者でいるようなつもりだった。だから彼女を見て、「大きければ普通にいい男が寄ってきそうなのになあ」と思っていたこともある。そして、そうなったら彼女はとても幸せになれるのに、今は俺に守られていることしかできないことを、少し気の毒にさえ思ったんだ。


ともかく、キコちゃんが発言してからもう15秒くらい経っているのだから、俺は何か言わなきゃいけなかった。

しかし、キコちゃんは自分が恋をしているだなんて知らないんだろうから、俺が「君の気持ちには応えられない」なんて返すのは、むしろとんちんかんだ。そうしたら彼女は、今度は俺の言葉の意味を知りたがるだろう。そしてそれを説明してしまったら、彼女は気づいてもいなかった望みを絶たれて、いたずらに傷つくことになる。

それに、俺だって「君のことは特に好きじゃないから」なんて冷たいことは、キコちゃんには言いたくない。

どうしたらいいだろうか。とりあえず、「そう思ったことがあるか」と聞かれているのだし、言葉通りの答えをここでは返すくらいしか方法はないだろうな。

「一也さん…?」

キコちゃんは沈黙が不安なのか、ちょっともじもじしている。

「…うーん、嬉しいのに恥ずかしい、かぁ…。俺はそんなに何回も思ったことはないかなぁ…」

これは本当のことだ。もちろん俺も恋に近いものは体験したし、だからキコちゃんの言ったことの意味もわかった。

「そうですかぁ…」

キコちゃんはなぜか少し悲しそうな顔をして、またうつむいていた。


俺はキコちゃんに半分だけの返事をして、残りの半分を言わないことで、彼女に嘘をついたような気がした。




翌日は、数学の補習のため、俺は学校に少し居残りをしなければいけなかった。キコちゃんには、「今日は学校からの帰りも少し遅くなるからね」と言った。

「は、はい…」

「大丈夫。5時過ぎには帰ってくるから」


期末考査も終わっていつも通りの授業に戻り、「もうすぐ夏休みだな」なんて考えていると、ホームルームの前に金村さんがまた俺のところに来た。

彼女はちょっと周りを窺ってから、俺を見て、小さな声でこう言う。

「児ノ原君、放課後空いてる?」

えっ…なんだろ。なんの用かな。キコちゃんが心配するし、なるべく早くには帰りたいんだけど…。

「用にもよるけど…長くかかる?」

俺がそう言うと、金村さんは急にしゅんと項垂れて黙ってしまった。困ったな、そっちから話しかけてきたのに。でも俺は、この時すでに何かを察していた。

俺がかける言葉を探していたら、金村さんは、「今日補習あるでしょ。終わるまで待ってるから、クラスに戻ってきて」と俺を見ないで言って、席に戻って行った。


なんだろう。彼女も補習はあったみたいだし、勉強を手伝ってほしいのかな。俺は形式的にそうやって頭の中をなぞりながら、心ではもうわかっていた。金村さんが今日の放課後、俺になんと言いたいのか。

数学IIの補習になった生徒は、学年で4人いた。俺たちは今、3年2組の教室に集められ、数学の先生は黒板の前に立っている。先生は律儀に、黒板に日にちと曜日を書き入れ直していた。

「はい、数学IIの補習を始めます。というわけで、皆さんにはこのプリントに沿って問題の解き方をおさらいしてもらって、最後に小テストをして解散です。後日、補習が合格かどうかを返します」

「ええ?補習って出席すればいいだけじゃないんですかぁ?」

そう言った茶髪の男子を数学の先生はギロリと睨み、すぐさま黙らせる。

「もちろん、出席して勉強に励んでもらえば、単位の方は大丈夫です。でも、この後の勉強を続けるには、自分が合格ラインに届いたかどうかを知るのは、必要だと思いますよ」

ねちっこい口調でそう言ったあとで、先生は俺たちにプリントを配った。



補習はそこまで難しくなかった。というか、先生は厳しそうに見えたけど、説明の仕方は普段からわかりやすいし、今日はそれをさらに噛み砕いて、みんなのわからないところを歩いて聞いて回ってくれた。

ちょっと陰険そうに見えたけど、意外と親切な先生じゃん。俺はそう好感を持ったまま、自分のクラス、3年3組の教室に戻った。

金村さんは、ベランダに出ていた。柵にもたれる彼女の後ろ姿が見えた。俺がドアを開けた音は微かに届いたのか、彼女が振り向く。

彼女は多分、笑おうとした。そして、それが上手くできなかった。

俺は戸惑っていたけど、案外すんなりとベランダに出ることができた。あまり金村さんのすぐ近くには行かず、「えっと…なんだっけ」と、声をかける。


俺たちは二人きりで、梅雨が終わる曇り空の下、季節の切れ目に戸惑うような少し熱い風に吹かれている。彼女は可愛い。俺は、彼女が今これからなんと言うのか、多分知っている。でもその上で、俺は「呼ばれてきた男子」として、やっぱりここに一人だった。

金村さんは、何かを仕方なく諦めたあとのように組み合わせた指に目を落としている。

「児ノ原君、好きな人、いる…?」

その時、俺のまぶたの裏に一人の女の子の顔が浮かび上がった。俺はそれを振り払いたくて、金村さんにわからないように、一度ぱちっと瞬きをする。

そんなはずない。違う。

「…いないよ」

「でも…多分私に、興味ないよね…」

これはどう答えても謝ることになる。いや、多分謝ることが一番彼女の傷を深くするのに、謝るしか道がない。

「……ごめん」



俺は学校から帰る時、バスの中から窓の外を眺めるともなしに眺め、考えていた。

俺が金村さんに「ごめん」と言ったのは、どうしてだろう。

人付き合いが嫌いで、彼女なんか要らないから?

それとも、金村さんとはほとんど喋ったこともなくて、まだあまり知らなかったから?


それとも、昨日の「あの子」の顔を思い出したから?



11話目「“好き”の自覚」





俺はそれから、どこかいつも元気の出ない様子だけど、俺が話しかければ一生懸命笑ってくれるキコちゃんと、毎日を過ごした。

“彼女を避けてはいけない”

“彼女にはいつもと変わらない態度でいなければいけない”

“俺は自分の心を気にしてはいけない”

俺はその3つを、ただ本能が命ずるままに守って暮らしていた。踏み外さないように。何を?それはわからない。

朝目覚めると、彼女はちょっとさびしそうな笑顔で「おはようございます」と言ってくれる。俺はそれに、前のように「おはよう」と笑顔で返す。その時の俺がどんな顔なのかはわからない。俺は彼女に、前のように笑えているだろうか。

俺たち二人ともが言葉少なになりがちな食事の間、俺は二人の間のわだかまりを解消しようとするための言葉は口に出せない。もしそれをしたら、俺はおそらく「選択」を迫られる。でもそれがなんなのかも、俺は考えない。


俺は、キコちゃんを守ってあげたい。小さな彼女が生きていくためには、今は誰かの手元にいることが必要だからだ。でも、彼女がこのまま俺に縛られていなくちゃいけない理由もない。

俺は、キコちゃんの心のゆくままに生きさせてあげたい。それができるなら。

ただ、今のところは彼女を外に出すという選択肢がないから、そうしないだけ。

いいや、今さらこんなわかり切ったことを話したいわけじゃない。俺は、この先にあるものについてふれないために、キコちゃんの話をしているに過ぎない。ああ、ダメだ。考えそうになってしまう。


「…原、おい、児ノ原!聞いてんのか?」

俺は頭の上から降ってきた声に、顔を上げた。見上げると、昼下がりの日光でクリーム色に染められた教室を背景に、東先生が立っていた。先生は、少しだけ心配そうな表情を呆れ顔の中に隠して、俺を見ている。クラスメイトは一人もいなくなっていた。

あ、もうホームルームも終わっちゃったのか。じゃあ帰らないとな。俺はそう思って、今までぼーっと顔だけを向けていた窓の外をもう一度見やると、鞄に手をかける。

「すみません。ぼーっとしてました。もう帰りますよ」

今日も学校での勉強には1ミリも身が入らなかったけど、来期が終われば俺は就職するし、別にいいだろう。そんなふうに先生をほっぽって、俺の頭はまた回り出す。

すると先生は大きくため息を吐いて、「しょうがねえな」と独り言のように言った。俺がそれを聞いて先生に顔を向けようとした時には、先生は俺の制服の肩を掴んでいた。

「え」

そして、俺が服を掴まれて驚く前に、先生はものすごい力で俺の体をぐいっと持ち上げてしまったのだ。俺はあやうく、掴みかけていただけの鞄を、手から落とすところだった。

「わっ、わっ、待ってください先生!すみませんでした!」

実は東先生は空手部の顧問でもあるので、かなり力のある人だ。そして、昔は大層競技会で鳴らした選手だったらしい。俺はそんな先生に引きずられてあっという間に教室からつまみ出される。それからずんずん廊下を進んでいく先生についていくため、噛み合わない足を床につっかけるように走らせていた。

「先生すみません!放してください!」

「いいからついてこい、何もしねえから。ちょっと話聞くだけだから。別にその上でみっちり百叩きとかもしないし」

「冗談ですよねそれ!?先生が言うとシャレになんないっすよ!」




「で?担任の先生が心配して話しかけても、その声が5回も耳に入らない状況を作り出した悩み事とは。なんぞや?少年」

「いきなりなんの役作ってんですか?」

俺は、ほとんどの先生が部活のためにいなくなった職員室で、中央に寄せられた事務机のうち、東先生の隣の席に座らせられていた。閑散とした職員室の外から、音楽部やら運動部の、叫び声や楽器の音がのどかに飛び込んでくる。

俺の目の前の机には、バウムクーヘンが乗った皿と、プラスチックカップに注がれたコーヒーがある。他にも生徒の成績表や答案用紙などもあったけど、それは東先生が机の隅に乱暴に押しのけてしまった。よかった、百叩きは本当に冗談だったみたいだ。そりゃそうだろうとはわかるけど、あの状況で言われたらちょっと怖い。

「まあ、話したまえよ」

先生は得意げに鼻を鳴らしてそう言うけど、俺は話したくなかった。

「はあ…えーっと、個人的なことなので黙秘していいですか」

「認めません」

「公務員じゃないですか、法にのっとって下さいよ」

「じゃあそのバウムクーヘンは先生が食べちゃうぞ、いいのか?」

いや、先生。俺、5歳の子どもじゃないんだから、バウムクーヘンじゃ釣られないですよ。

まあ、本当に心配してくれてるんだろうし、ここは早く話して先生を安心させてあげないと。それにしても、なんでこんなことを担任教師に話さなきゃいけないんだよ。ほっといてくれよ。

「わかりました、言いますよ。実は…」


そこで俺は、言葉が止まってしまった。そりゃそうだ。自分でも考えないようにしていた問題だ。話す前に整理しないと。


「実は?」

そう。キコちゃんのことだ。でも、先生にどうやってキコちゃんのことを説明するんだ?“身長20センチの女の子が…”って話し始めるのか?それこそ心配されて、病院に連れて行かれるぞ。


俺は脳味噌を搾るように回転させ、なんとか考えをひねり出した。それで、誰も信じないであろうキコちゃんの背格好、不明な出自、それから、彼女とすでに同居していること。それらはすべて省くことにした。とにかく「ただの身近にいる女の子」として話そうと思ったのだ。

「実は、女の子に好きと言われかけたんです…」

「言われ“かけた”?」


それから俺は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした先生に、ことのあらましだけを話した。要は、「本人の自覚無しに女の子から好意を告白され、相手にわからせる気にもなれなかったので、とても気まずい」と。



「ほー…珍しい子だな」

そうですね。珍しいですよ。何せ、手のひらサイズですし。

俺は喉元まで出かかったその言葉を、もう一度腹の底まで押し戻した。

「まあ、素直でいい子なんですけど、どうも世間がわかってないとこがあるから、それでだと思います…」

東先生はそこでちょっと安心したように息をつき、自分の前にある皿からバウムクーヘンを取って、むしゃむしゃやりだした。

「それにしちゃあなあ…。で、お前は告白されて舞い上がったけど、「付き合おう」と言い出すわけにもいかず、困ってるのか?」

「……え?……え?はい?」

俺は一瞬、耳が聞き違えをしたのかと思った。

「いや、だから。俺も好きだよとは言えないから、困ってるんじゃないのか?」

なんだって?なんでそうなるんだ?

先生は俺の気持ちを勝手に決めつけ、俺がもうキコちゃんに恋をしているつもりで話している。

「な、なんでそうなるんですか!?違いますよ!」

「え、違うの?じゃあなんでそんな困ってんの?好きじゃないなら説明して断ればいいじゃん」

「断ればって言ったって…気まずくなるし、そしたらこの先一緒にいて困るし、彼女も悲しむじゃないですか…それに…俺と彼女の今までの関係は変わるし、そしたら、友達でいられるかどうかは…」

先生はまたため息を吐いて顔の半分を覆い、もう片方の手でバウムクーヘンを口に運ぶ。器用だな。あっという間に、年輪の切れっ端は先生の口に全部入った。

先生がもぐもぐとやっていた間、しばらく場は静まっていたけど、不意に先生は何かを懐かしむように、ふふっと笑う。それから、満足そうに舌なめずりをした。

「つまるところ、気まずくなるのは嫌だし、彼女とは一緒にいたい。彼女に気持ちを自覚させたあとで、二人の関係が悪い方に転んだりしたら…お前はそれが怖いんだな?」

俺はその時先生が言ったことに、「あっ!」と声を上げそうになった。そして、なんとかそれをすんでのところで止めると、息を吸った音だけが残った。それから、あっという間にかっかと火照ってくる顔を隠すため、俺はうつむく。


そんな。そんなはずないのに。まさか。


「児ノ原」

俺は東先生の声に、顔を上げないまま「なんですか」と返した。なるべくぶっきらぼうに聴こえるように。

「バウムクーヘン、いっぱいあるから、持って帰っていいぞ」




12話目「もう死んじゃう」





ある夜、バイトから帰宅してドアを開けると、キコちゃんが玄関で倒れていた。

「…キコちゃん!」

俺は慌てて蹲ってキコちゃんの様子を窺ったけど、キコちゃんの顔は落ち着いて安らいでいて、小さな体は微かに呼吸に従い上下しているのがわかった。

俺を待っていて、寝ちゃったんだな。早くベッドに運ばないと。

切なくなるほどいじらしい彼女の体を拾い上げ、人形用の小さなベッドに下ろして布団を掛ける。するとひとりでに彼女はころりと丸まって、そのまま起きることはなく眠り続けた。俺は部屋の灯りを豆電球だけにして、静かにシャワーや着替えを済ませた。



眠りは、まだ訪れない。

俺は布団に入り、目を開けたままでいた。自分の両目が闇の中で静かに光っているのを、まるでそれを外から見ているように想像する。

タオルケットの手触りは変わらずにざらざらとして手に面白く、薄い敷布団は硬い床を感じさせるけど、もう慣れた。枕もいつもと変わらない。でも俺は、大きな変化のために必死にまた脳味噌を空転させていた。


俺は、キコちゃんが好き。そしてキコちゃんも、多分、俺が好き。

でもこれは、単純なハッピーエンドなんかじゃない。だってキコちゃんは…、とそこまで考えて、俺はぱちぱちと瞬きをして考えを遮る。いや、キコちゃんは素直でいい子だ。俺はそんなキコちゃんが好きで、それで満足なはずじゃないか。でも、キコちゃんと俺は…。いや、いけない。そんなことを考えようとしちゃダメだ。でも、俺たちは…。

いよいよ眠たくなって意識がなくなるまで、傷のついたレコードが空回りするように、俺はそうやって、考えてはやめるのを繰り返した。



日々が、悩みを醸造していく。

俺はある日、バイトの時に店長が贔屓の客にだけ使う皿を落とし、慌てて引いていた足を下ろした時、その皿の端を踏みつけて壊してしまった。

「てんめえ!最近ほんっとーにたるんでるじゃねえか!身染みてやれ!馬鹿!」

店長はそう言って、俺の頭を強かに2回殴った。


辞めたいな、この仕事。初めてそう思った。


俺は多分、いろいろなものに追い詰められていた。昼夜考え続けていて、その考えはまったく進まないこと。考えていては、眠れないこと。そんな生活は俺から体力を奪い、冷静さを奪い、気力を削り取っていった。そして、いつもより強い痛みに打ちのめされた俺の心に、恐怖が生まれた。


限界を超えた疲労が蝕んでいた俺の心が見た恐怖は、自分の重い体を支えている一本の糸が垂れている先にある、真っ暗な奈落だった。


でも、「俺が仕事を辞めたら、困るのは俺だけじゃないんだ」と、自分のロッカーを睨みつけ続けながら、俺は吐き気をこらえた。



真っ暗な中にぽつぽつと街灯が灯る薄暗い道は、歩道が狭い。二車線の広い車道はひっきりなしに車が通るのに、歩道はもう誰もいなかった。俺は、さびしく、悲しい気分だった。家で待ってくれているキコちゃんのことを考えていたのに。

なぜだろう。なぜ俺は今、こんなに悲しいんだろう。それは、彼女とのことが悲しいからだ。

もし俺たちが心を結びあったとして、自分たちの間にある大きな違いに、新しい関係を馴染ませられないかもしれない。恋愛というものが実際にどんなものなのか俺にはわからないけど、俺とキコちゃんのどちらもが満足できる交流が、果たして俺たちにできるのだろうか。

キコちゃんが小さいことに、俺はもうあまり不満はなかった。それについては考えに考え飽きて、俺はある日、「そんなことどうだっていいじゃないか!俺は彼女が好きなんだから!」と振り払うことができた。では、何が問題なのか。

キコちゃんは、素直で、頑張り屋で、優しい。

それに比べて、俺はどうだろう。

キコちゃんは多分、俺のことを自分のような人だと思い込んで、心を開いてくれたんだろう。でも俺は、彼女にそばにいて欲しかったからなんとかいろいろ考え出しただけで、本当は薄情で冷たい奴だ。

俺は今まで、人と関わることを避けてばかりだった。周りの機嫌や気持ちを考えるのなんて、面倒だった。

だから、もしキコちゃんに自分の気持ちを伝えて「一緒にいて欲しい」と求める時、一体彼女に何をしてあげればそうしてもらえるのかが、一つもわからない。彼女が俺から離れたくなんてならないようにするには、どうすればいいのかが、本当にわからない。それに、いつか何も知らない俺が考え違いをして、彼女の期待を大きく裏切ることになることだってあるかもしれない。

俺は、どうしたらいいんだ…?


俺がふと立ち止まって見た空には、濃灰色の分厚い雲が垂れこめていた。端の方には、薄ぼんやりとした光がぽーっと灯っている。

せめてあの月が見えたらよかったのに。



俺は、「今からまた、キコちゃんに気持ちを隠して過ごさなきゃいけない」と考えながら、ノブに手をかける。心が雑巾のように絞られる痛みを感じながら、ドアを開けた。


「おかえりなさいませ!一也さん!」


俺はその声を聴いて、びたりと動けなくなった。俺が帰ってきて、大喜びしてくれたキコちゃん。それはいつもと変わらないはずなのに、干からびた俺の心にふれた彼女の微笑みは、俺が望むよりもずっと優しかった。俺は挨拶も忘れて、彼女を見つめた。

キコちゃんに会えたことの嬉しさを感じた直後、その見返りかのように、俺の胸に悲しみが込み上げる。キコちゃんは初めは不思議そうに、そしてすぐに心配そうに俺を見上げた。隠さなきゃと思うのに、キコちゃんにこれ以上嘘をつきたくなくて、目を逸らせなかった。

「どうしたんですか?一也さん…」

俺の心に、口に出せない言葉が次から次へと湧き続けた。それは今にも涙となって、俺を食い破りそうだった。

そうだ。君は簡単に“そんなこと”ができる。でも俺は、君のためと思って初めてそうしたんだ。自分以外に優しくしたいなんて思ったのは、初めてだった。そうしたら君は笑ってくれるかなと思って、それだけが欲しくて。俺の優しさは、そんな幼いものでしかない。

君が少しの間でたくさんくれた笑顔は、俺の幼い考えなんかより、ずっと大きな力を俺にくれたんだ。「自分じゃ彼女には釣り合わない」と思って、それを受け取るのを拒んでいた間、俺は君の存在がどんなに大きかったのかを思い知らされた。


俺は、君が好きなんだ。すごく、すごく好きなんだ。いいや、それじゃきっと足りないはずだ。そんな二文字の言葉じゃ、俺が今泣いているわけは言い表せない。


俺は多分、キコちゃんがいなくなってしまうことを考えたくない。そのあと自分がどうやって生きるのかが、もうわからなくなっている。だから、俺とキコちゃんがもし近づけたとしても、彼女が俺の人となりを見抜いた瞬間、飽きられてしまうんじゃないかと思って、俺は怖くて仕方がないんだ。

俺は今まで、そこそこ満足して生きていたと思っていた。そして、それは多分確かだった。でも、一度見つけてしまうと、もうそれなしには生きられないものがあるんだ。

ダメだ。そうとわかったからには、もう彼女に言わないと。そうでないと、俺は今すぐ死んでしまうかもしれない。


「一也さん…どうして泣いてるんですか?何かあったんですか?」

俺は彼女のところまで跪いて、そっと手を差し伸べる。すると彼女は俺を心配してくれるのか、すぐに登ってきてくれた。俺は片手で彼女の体を包んで、落ちないようにして自分の胸元に彼女を引き寄せた。

「キコちゃん…」

「は、はい…」

彼女の声は、少し不安げだった。キコちゃんの温もりが俺の手に収まるほどに小さいことが、愛しくて、切なくて、俺の涙をもっと後押しする。彼女が苦しくないように、俺はそっとそっと彼女を抱きしめた。その形を初めてはっきりと感じた俺の胸が、とくとくと高鳴る。

そうだ。俺はこれを言わないと、あまりの苦しさに次の呼吸ができないんだろう。眠ることさえできなくなるに違いない。

「一也さん…」

涙で喉が詰まって痛むので、俺はなかなか喋ることができなかった。でも、もう待っていることはできなかったから、俺は泣きながら、一口一口、喉からちぎるような声を出す。

「俺は…君が、好きだ…!」

「えっ…」

腕の中のキコちゃんの、ためらいがちなもじもじとした動きがぴたっと止まった。俺の背中に、さあっと冷たい緊張が走る。

「えええええ~っ!?」

彼女があんまり驚くものだから、俺は泣きながら笑った。



13話目「俺は君を知ってる」





キコちゃんは俺が「好き」と言ったのを聞いて、思い切り驚いてくれた。

「ほんと!?本当ですか!?キコも!キコも好きです!好きですよ、一也さん!」

俺の手の上で、彼女は両手を広げたり振り回したりして、小さな体で一生懸命愛情を表現してくれた。俺は彼女を落とさないように両手で包まなきゃいけなかったくらいだ。俺はそれが嬉しくて嬉しくて、どうしても熱くなる頬を見られたくなかったけど、ちゃんと俺の気持ちがわかってもらえるように、彼女を前にしたまま微笑んだ。俺は幸せだった。

「ありがとう、キコちゃん」

よかった。君に言えた。俺はほっとして、まだ少し目の端に残っていた涙を拭った。

それから、キコちゃんの髪を撫でながらベッドに連れて行く。幸せそうに俺を見上げる彼女を想像してベッドに座ったときの顔を見てみると、なぜか彼女は悲しそうにうつむいていた。

え?急にどうしたんだろう?

でも、俺はわけを聞く前に、彼女の顔に深刻な陰を見た。そこで俺はずっと悩んでいたことを思い出し、開きかけた口をまた閉じてしまった。


もし、俺たち二人の違いはやっぱり越えられないものなのだと、これから彼女が証言するのだとしたら?俺はそう思ってしまって、彼女に伸ばそうとした手も、先へ進まなかった。

俺は確かに“違いなんか関係ない”と思えたけど、キコちゃんにとっては実はそれは大きな問題で、それが俺の力ではどうにもできないものだったら?俺たちが一緒にい続けるには、“好き”だけじゃ足りないとしたら…?

気持ちが通じ合ったのはついさっきのことなのに、最後の壁を突き破らないうちは彼女にふれられない気がして、俺は歯がゆい痛みに胸を責められる。


キコちゃんは顔を上げて、俺を見つめた。そしてちょっと笑ってから、彼女はまたうつむく。その目は頼りなく、心細そうだった。

「私…小さいですよね…」

俺はそれにどう答えたらいいのかはわからなかったけど、彼女を傷つけたくなかった。

「そうだね。でも、かわいいよ」

キコちゃんは真っ赤になって、恥ずかしそうにそっぽを向く。それからワンピースの裾を指でいじくりながら、ちっちゃな声で話し始めた。俺はそれを、祈るような気持ちで聞いた。

「“小さいから、きっと相手にしてもらえない”…そう思っていたんです。一也さんを好きになったとき、私…まだ“好きになった”って気づかなくて…でも、わかってからは、なおさら言えなかったんです…だって私、小さいから…一也さんになんにもしてあげられなくて、お世話してもらってばかりだから…!」

そう言い終わる前から、キコちゃんはこぼれる涙を拭っていた。


なんてことだ。俺たちは二人ともが同じように悩んでいたのか。でも、絶対に拭えないものなんかじゃなかった。それで俺は息をゆるめることができた。

俺はすぐにキコちゃんを持ち上げて抱きかかえた。もちろん、キコちゃんが痛くないように気をつけて。

今こそ彼女に言わなくちゃ。


「…一也さん…?」

「キコちゃん、俺も同じことを考えてたよ」

「同じこと…?」

「だって、俺が君にしてあげられることは、もしかしたら普通よりずっと少ないんだ。だから、君が俺を支えてくれてるのに、俺は君にほとんど何もしてやれないんじゃないかって思って…」

「そんな…」

「本当に、君の力は大きいんだよ、キコちゃん。君がいなかったら、俺にはできないことがたくさんあるんだ」

「そうなんですか…?でも、私、一也さんに好きになってもらうには、小さすぎて…」

キコちゃんはまた自信なさげにうつむいた。その時、俺の口からあっという間に衝動が滑り出す。

「そんなことない!俺は君がいるだけで嬉しいんだから!それに、俺は君を知ってる!…優しい子だって、知ってるよ…それでいいんだ…」

俺は、俺とキコちゃんの違いについて悩んでいたとき、それを蹴っ飛ばすしか方法を知らなかった。でも、本当は俺の知っているキコちゃんを信じればよかっただけだったんだ。そのほかのことを見る必要なんかなかった。

俺はそれを彼女にもわかってほしくて、もう一度、「俺は、君が優しいって、知ってる」と繰り返した。



翌日俺たちは目覚めて、どこかもどかしい幸せの朝にいた。

「あ、おはようございます…」

「うん、お、おはよう…」

うつむき加減に互いを覗き見て、それからはにかみながら、「朝ごはん、だね」と俺が言い、「そうですね」と彼女が返す。


キコちゃんは大好きな納豆を4粒食べて、俺はその残りをいつも通りにもらおうとした。その時、彼女が何かとても恥ずかしそうにするので、「どうしたの?」と聞いてみた。

「あ、あの…」

キコちゃんは言いにくそうだったけど、俺が持ち上げようとしていた納豆のパックから3粒くらいを取り上げる。彼女はそのままその納豆を持ってテーブルの上に立ち上がり、俺に向かってそれを差し上げた。

「あ、「あーん」、ですっ!」

「へっ…!」


「あーん」。それは男子全員が憧れてやまない、とびっきりの美味しいシーンである。そう。それがたとえ3粒しかない納豆であっても、「あーん」であることに変わりはない。

俺は突然のことにびっくりして、どうしたらいかわからなくなってしまった。しかしなんとか正気を取り戻してから、キコちゃんの両手に向かって首を下げる。彼女の手まで口の中に入れてしまうとびっくりさせてしまいそうだったので、俺はなんとか納豆だけを唇に挟む。恥ずかしくて嬉しくてたまらない気持ちで、それを口に入れて顔を上げた。

俺が食べているのは納豆だ。普通の納豆だ。しかしこれは「キコちゃんからのあーん」という称号を持った納豆だ。

味なんてわからないけど美味しい…!

「おいしいよ」

そう言うと彼女は嬉しそうに顔を輝かせ、何かを言おうとしたけど、やっぱり恥ずかしくて何も言えなかったのか、「えへへ」とはにかみ笑いをした。胸が締めつけられるような健気さだ。

それからキコちゃんはうつむいておもちゃの椅子に座り直し、ほかに出してあったごはんや漬物をそわそわと食べ始めた。


学校に行くときは、学校の制服を着る。俺はいつもキコちゃんにあまり見えないように、玄関の方で着替えをしていた。今日も制服の掛かったハンガーを持って玄関の方に向かう。そのとき、キコちゃんがちらちらとこちらを見ている目と、俺の目がかち合った。

「あ、着替え…」

「は、はい…」

俺たちは特にお互い悪いことをしているわけでもないのに、なんとなく申し訳なさそうな笑顔を見せあってからお互いに後ろを向き、俺は着替えをして、学校の鞄を持つ。

「じゃあ、テーブルの上のごはんは昼に食べてね」

「はい」

「えーっと、今日食べたいものとかは?」

「あ、と、特には…一也さんの好きなものが、いいです…」

一緒に住んでいるんだから夕方にはまた会うのに、俺たちはまるで別れを惜しむ恋人みたいに、なかなか離れたがらずに玄関で向かい合っていた。俺はもっと彼女に何かをあげたくて、彼女を手に乗せて、自分の顔から少し離れたところに連れてくる。キコちゃんは真っ赤になって、胸の前で握り合わせた両手をしきりに揉んでいた。

ほら、小さくても君はそんなに頑張って俺を見てくれている。

「いってきます」

「は、はい…いってらっしゃい…」

俺が彼女を床に下ろした時、彼女は満足そうに、でもちょっとさびしそうに、片手を振って俺を送り出してくれた。



14話目「恋人が毎日可愛くてしんどい」





俺とキコちゃんは、「好き」という気持ちをお互いに向けているのを確認し、そろそろ一週間ほどが経った。その間は大変だった。そりゃあもう大変だった。

何せ、両者間の了解が取れているので、「もう気持ちを解放していい」わけだ。しかし、キコちゃんは恥ずかしがり屋だし、怖がりだ。彼女に強く迫ったり、可愛い可愛いと好き放題に言い続けてみろ。キコちゃんはそれがあんまりに嬉し過ぎて、そのストレスで病気にでもなるんじゃないかというくらい、彼女は感受性が豊かなのだ。これは冗談でもなんでもない。俺と目が合うだけで、彼女は真っ赤になってもじもじし始めるんだぞ。だから、俺はあんまり彼女に好きだ好きだと言えなかった。

そして、もう一つ大きなイベントを、俺たちはまだ体験していない。


“キス”である。しかし、これには俺もそこまで気乗りがしていない。というより、俺だって少しは恥ずかしいのだ。


高校生にもなってした初恋の相手に、大人しく「はい」と言われたのだから、まず、俺の舞い上がりようは生半可なものではない。この間は「告白をした翌日、目が覚めてからぎこちなく挨拶をした」と言ったように思うが、実は俺はあの晩は寝ていない。眠れなかった。理由は初めに述べた。「高校生にもなってした初恋の相手との恋が叶った」のだ。これがどれほど俺の心臓を苦しめ、胸を押し潰し、瞼を急がせたか?それは誰だって聞かなくてもわかるだろう。

“薔薇色の人生”。そんな言葉はよく耳にするが、まさか本当にそんなものがあるとは思わなかった。あらゆる人間の欲望を凌駕するものが“素敵な想い人と過ごす時間”なのだ。そういう赤っ恥ものの台詞が頭に浮かぶくらい、俺はどうにかなってしまっていた。

可愛い可愛いキコちゃんがいつも家で待ってくれていて、俺が帰ると、大喜びしてひっついてくる。そうして一緒にテレビなどを観ているとき、いつの間にかキコちゃんは俺のパーカーのポケットの中でお菓子を頬張っていたりする。バイトに出かけて帰ってくると、彼女は眠そうに目をこすりながらまた「おかえり」を言ってくれて、俺が眠るのを待ち切れずに、小さなおもちゃのベッドの中で丸まって、清らかな寝顔でほんの小さな寝息を立てている。


これが「初めてできた彼女との毎日」だと考えてみてくれ。ちょっとおかしくないか?


まず、一緒に住んでいる、つまり同棲しているところから話が始まるカップルは、そうそういないと思う。普通、初めのうちは「大好きな人と過ごす、心臓が弾けそうなほど大切な時間」を、「デート」とかで何度か体験して、まあ年齢にも寄ると思うけど…その…そのあとのことは置いておくとして。とにかく、「毎日一緒に暮らしている初恋の人」なんていう、おかしな状況にはならない。でも俺たちの場合はそうなのだ。


心臓がもちやしない。彼女が目の端に映るだけでも胸が高鳴るし、どうかなってしまいそうなほど嬉しいのに、家に帰れば必ず彼女はいつでもそばにいるのだ。一日も休みなく、俺はときめきっぱなしなのだ。正直、「そろそろ心臓発作とか起きるんじゃないかな」と思った瞬間が二つあった。

それは、3日目の朝、目が覚めたときと、5日目の夕方、キコちゃんが初めてジャムの乗ったビスケットを食べたときだ。



俺たちが想いを通じ合わせて3日目の朝、俺は昔の夢を見ていた。たまに見るのだ。俺は4歳のときの姿のままで、亡くなった父さんと母さんが俺を抱いていた手をほどき、そして微笑んだまま俺に手を振って、俺を置いて行く。俺は「ああ、またか」と思い、ある程度整理のついた思い出が薄れていくのを見送りながら、日光の明るさが瞼を透かすのを感じていた。

するとそこで、何かが俺の頬をぐいぐいと押す。薄目を開けて様子を窺おうとしたとき、目の前に起き抜けのキコちゃんがいて、彼女は心配そうに俺を覗き込んでいた。

「あ、おはよ…」

俺はその時点でもうすでに胸がどきどきとして、早く起き上がって彼女とちょっと距離を取りたかったけど、キコちゃんはこう言った。

「かなしい夢、です…?」

「え…」

俺が「なんでわかったんだろう。もしかして変な寝言言っちゃったかな」と思っていると、キコちゃんは俺の頭の上まで頑張って腕を伸ばして、手で撫でようとしてくれた。でも、キコちゃんはバランスを崩して、俺の顔に向かって倒れ込んでしまったのだ。

「きゃっ!」

「んむ…!?」

俺たちは同時に叫び声を上げたけど、俺の口と鼻はキコちゃんの体に塞がれていた。つまり、彼女は俺に向かって覆いかぶさる形だ。彼女の体の小さく柔らかな曲線が、俺の鼻と口を覆っていた。


死ぬかと思った。本当に死ぬかと思った。むしろさっさと穴を掘って埋まりたかった。


「きゃー!ごめんなさい!ごめんなさい!」

「いや!俺こそごめん!本当にごめん!」

キコちゃんはそのあとも俺に謝っていたけど、すごく恥ずかしそうだったし、むしろ初めに謝るのは俺なんじゃないかと思った。そうやって「ごめんなさい大会」をしているうちに、悪夢を見たことなど、俺は忘れていた。


そして、ジャムが乗ったビスケットのとき。それは、俺の告白から5日経ち、スーパーで新しく買って帰るお菓子を物色して、食べたことのないお菓子に喜ぶキコちゃんの顔を思い浮かべ、俺が胸をホクホクとさせながら家に帰った日のことだ。

いつものように彼女に迎えられ、部屋着になって彼女とテレビを観るときにビスケットをキコちゃんに渡すと、彼女はまたとても嬉しそうにそれを食べていた。

「素晴らしいです!とても美味しいです!この赤いのが、サクサクの“びすけっと”とよく合います!」

“赤いの”とは、いちごのジャムだ。

「うんうん、そうだよね、それ美味しいよね」

俺が何気なくそう言うと、彼女は振り返って俺を見つめた。

「どうしたの?」

彼女はどこかさみしそうな顔をしたあと、俺に向かってビスケットの残りの欠片を差し上げた。俺は、“「あーん」がまたしたくなったのかな?”と思ってちょっと恥ずかしくて、「俺は大丈夫だよ」と言いかけた。でも、その前に彼女は潤んだ目つきで俺を見上げて、こう言ったのだ。

「キコだけこんなおいしいもの食べるなんて、キコ、ずるいです…!一也さんにも食べて欲しいです…!」


よく俺はあのとき正気でいられたなと思う。なんて健気で、なんていじらしいんだ。君は天使か何かだったのか、キコちゃん。

そんなこんなで俺は、「特に何も変わっていない日々」なのに、「初恋」として過ごすには命がいくつあっても足りないのではないかという、とても大変な毎日を過ごしていた。

俺は今、学校からの帰り道を、バス停を降りてテクテク歩いている。今日のホームルームで、担任の東先生が言ったことを思い出しながら。


「では一同、夏休み中は健康に気をつけて、課題はとりあえず終わらせておくくらいの気合いは見せるよーに。それから、先生から付け加えることがある!」

そう言って先生は出席簿で教卓を一つ叩いた。

「花火を人に向ける!ふざけて人を川や海に突き落とす!崖や山なんかの立ち入り禁止区域に入る!こういう奴らには、必ず先生が自慢の両腕で制裁を下す!よーく覚えとけ!それでは夏休み、きっちり思い残しのないよーに!解散!」

まあ、正しい大人の意見だ。でも先生、あなた学校の教師でしょ。もうちょっと課題に関する話のウエイトは重くてもいいんじゃないかと思います。あと、あなたの「自慢の両腕」は、それらの危険を冒すこと以上に、俺たちにとって危険な場合もある気がするんですが。

そうは思ったけど、まあそれでクラスメイトは全員元気に返事をしていたし、本当にうちのクラスは平和だ。いい先生に当たったよな。


夏休みか。思い残しのないように過ごすには、やっぱり…。俺はその先を考えるのさえ躊躇するつたない心で、家で俺を待つキコちゃんのことを考えていた。




15話目「はじめての君との遊び」





夏休みがやってきた。そして、俺の仕事はかきいれ時だ。

居酒屋が夏に儲かるわけではないけど、学校に通っている間は、俺は夜の短時間しか働けない。だからこの夏休みに、普段の生活費とそれ以降に上乗せする分を、できるだけ稼ごうと思った。そうしないと多分キコちゃんのお菓子も買えないし、冬に使う灯油も買えない。俺の住む街は雪国というわけではないけど、けっこう寒い。キコちゃんを凍死させないためにも、この夏が勝負なのだ。

ところで、キコちゃんは死んだりする存在なのだろうか?妖精とか妖怪だった場合、死ななそうだけど…。と、そこまで考えたけど、前にキコちゃんが「自分がなんなのかわからない」と言っていたし、俺にもわからない。

とにかく、頑張らないとな。



「じゃあ、行ってくるよ」

「はい…気をつけて…あの、一日中お仕事なんですよね…」

俺の手のひらに乗ったキコちゃんは、どこか心配そうにこちらを見上げる。うう。そんな目をされると、ずっとうちで君を撫でて過ごしたくなってくる…。

「そうだね、お仕事しないと、これから先が大変だから」

彼女はもじもじといつものように、言葉に惑って切なげに頬を染めた。こういうとき俺は、どうしてなのか聞きたくても聞けない。

「じゃあ…一也さんが帰ってきたら…やりたいことが、あります…」

そう言って彼女は恥ずかしそうに俺をちらりと見上げてから、目を伏せて、まつ毛を震わせていた。

「…わかった」



俺はその日、仕事に俄然やる気を燃やし、ほとんど殺気立っているような心を押さえつけながら、皿を洗い、注文を取り、レジを叩き、そして店長にどやされた。しかし俺は落ち込まなかった。

“ふふん、店長。あなたは知りませんがね、俺は「やりたいことがある」と言った恋人が、家で待っているんですよ”

俺は内心でそう店長につぶやきかけ、叩かれたのをなかったことにして、注文がどの卓だったのかを忘れたことについては、「次からそんなことはないように」と、しっかり自分に言い聞かせた。



「あー終わった~…」

俺はエプロンの紐を首から外し、大きく伸びをした。店長が調理補助の人たちと明日の仕込みをし始めると、俺はそこで解放となる。店の掃除はその前に全員でやるけど、雑用アルバイトの俺がやるのは主に客席だ。そして、俺が更衣室に行くためにキッチンを通る頃には、油跳ねなどの汚れはすべてさらわれて、もうまるで新しい店舗かのように綺麗になっているのだった。「あれも料理修行の一環なのかな」と思うと、凄まじいと思う。

「お先に失礼しまーす、おつかれさまでしたー」

店長の背中にそう声を掛けるけど、毎回返事はない。でも挨拶をしないで帰ると、翌日店長にまた頭をどやされる。うちの店はまったくの縦社会である。まあでも仕方ない。お客は8割が常連で、「店長の酒選びと料理の腕は間違いない」とみんな口を揃えて言う。それじゃあ文句も言えないな。

「児ノ原君、夏休みの予定とか決まってるの?」

俺ははっとして振り向いた。更衣室には誰もいないと思っていたのに、この間入ったばかりの新人アルバイトの、林さんが声を掛けてきた。林さんは俺より1つ年上で、大学生だ。彼女は背が小さく、長い髪をいつも後ろ頭で束ねて揺らしている。春を過ぎた頃、うちの店に入ってきた。俺はもちろん人と自分から会話をすることはないので、話をするのもこれでまだ3度めくらいだった。

「はあ…まあ、そこまではないですけど、家族と出かけたりとか…」

一応俺はキコちゃんといろいろなところに出かけたいと思っていたので、それは予定として数えていた。ただ、「彼女と」と口にするのが恥ずかしかった。

「へー、どこ行くの?」

「あ、それはまだ、考えてないんですけど…」

「ふーん。じゃあさ、その合間に一緒にカラオケでも行かない?キッチンの竹中さんも誘ってあるんだけど」

「えっ…」

困ったな。キコちゃんを置いてどこかに遊びに行って、夜遅くに帰ることなんてできないぞ。でも、「実は家にさびしがりの彼女がいて…」なんて、もう言い出せない。仕方ない、ここはなんとかごまかすか。

「うーん、俺、学校の課題もあるんで、また今度誘ってください。いつ終わるかわかんないし…」

「そっか。そうだよね。ごめんごめん」

「すみません」

「大丈夫。じゃあまた。おつかれさま」

林さんは鞄を小脇に抱えると、事務所へのドアをすり抜けていった。

「おつかれさまです」

俺は更衣室で、独りため息を吐いた。これから先、こうやって人からの誘いを断ったり、あるいは人に事情を詮索されたりすることも、もしかしたらあるだろう。まあでも、今まで通りにやるだけだ。「上手くごまかす」。その技術なら任せておいてくれ。




「ただいま~」

俺は胸をどきどきさせ、わくわくさせ、そして足取りも軽く家に着いた。玄関にはキコちゃんが出てきてくれていて、ついこの間新しく買ってあげた、人形用の黄色い縞模様のパジャマを着ている。

「おかえりなさいませ!一也さん!早くやりましょう!」

彼女はそう元気よく叫んで、床から25センチくらいの間を、小さな体でぴょんぴょん飛び跳ねた。

「え、えっ!?」

俺は焦った。まだ玄関のドアも閉めていないのに「早くやりましょう」とは、キコちゃんも大胆だなと思った。とりあえず後ろ手にそっとドアを閉めてから、彼女を拾い上げて、顔を近づける。

目の前にはハムスターほどの大きさの女の子が、俺の手の上でにこにこ笑ってくれていた。

俺は今から、“キス”をするのだ。はじめての。まだなかなか心の準備ができていないけど、そんな意気地のないところは彼女には見せられない。緊張していることは態度に出さずに…さり気なく…。


そうは言っても、心臓が痛いくらいにどくどくと鳴っていて、俺の耳にはそれが大きく響いている。だからどうしても、“彼女にも聴こえてしまっているのではないか”と思ってしまう。耳まで熱くて、体が震えそうになる。

もう仕方ない。言い訳や我慢なんてしなければいいんだ。“君が好きだからこんなふうになってしまうんだ”と、俺は言ってやる。世界中に言ってやる。

そんなことを考えながら、俺は、目を閉じた。

そして、キコちゃんの優しい声が聴こえてくる。


「一也さん……“しりとり”」


……ん?

俺が目を開けると、何かを期待して俺の言葉を待っているようなキコちゃんがいた。まさか…。

「キコちゃん…「やりたいこと」ってまさか…」

そう聞くと、キコちゃんはちょっと首を傾げたけど、思い出したようにこう言う。

「あ!“しりとり”です!そうでした、一也さんにはまだ言っていませんでしたね、すみません!でも一也さん!ほら、“しりとり”!“しりとり”ですよ!」


俺は何かおかしいなと思ってキコちゃんに詳しく聞いてみた。すると、彼女は昨日テレビドラマを観て、初めて“しりとり”を知ったのだと話してくれた。確かに俺も、そのとき一緒にテレビを観ていた。そのドラマでカップルが暇つぶしに「しりとり」を始めるシーンに、キコちゃんは何かいたく感銘を受けたらしい。そしてどうやら、“「しりとり」はカップルがやるものだ”と思っているようだった。


俺は思い切り脱力した。それから、やり場のない残念さやもどかしさを背中に隠し、「「しりとり」は誰とでもできるんだよ」とキコちゃんに教えてあげた。



「ゴリラ」

「え、えっと…ラッパ、さっき言いましたよね…あ!ラーメン!…あ。…あー!」

「はいまたキコちゃんの負け」

「どうしてですか〜!」

「ふふふ」


その晩は眠るまでの間、俺たちはしりとりをした。



16話目「夏はやっぱりひんやり熱く」





俺はその日、「キコちゃんと過ごす夏に何をするか」について考えていた。そして、夏と言えば思い浮かぶ、恋人同士の催しを並べてみる。

たとえば、「花火大会を観に行く」。これは多分キコちゃんを連れて行かない方がいいだろう。彼女がたくさんの人目にふれる可能性があるということは、彼女の危険を意味する。

「夏祭り」に行く。これも花火大会に行くと仮定したときと同じ理由で、あまり気が進まない。それに、キコちゃんには金魚すくいや射的はできないし、せいぜいチョコバナナやりんご飴にかぶりつくくらいだと思う。それはそれでとても可愛らしいだろうし、見てみたいのだが…。やっぱり多くの人が集まる場所に彼女を連れて行くのはリスキー過ぎる。

それから、「プールか海に行く」。これも却下だ。彼女は小さすぎて、たとえばプールや海で水にさらわれてしまったりしたら、救い出せる可能性が小さすぎる。そんなの心配でしかない。

もしくは、「山に行く」。うーん、これも小さなキコちゃんには危険のような気がする。そもそも、彼女が俺の肩かなんかに掴まっていて、地面に落ちるようなことがあるだけで、すごく危険なのだ。

「二人で温泉旅行」。しかし俺にその金はない。あと、俺たちはすでに一緒に住んでいるので、二人でどこかに泊まりに行くことの必要性も薄れる。それから、キコちゃんを連れて移動しても彼女が見つからないようにするには、荷物などに詰め込んでしまうしかない。でもそれでは、キコちゃんが苦しいばっかりだろう。これもダメだ。困ったなあ…。

俺は数日考えに考えたがやはり何も思い浮かばず、二日間の休みをもらった前日の晩に、キコちゃんに聞いてみた。

「したいこと…ですか…?」

キコちゃんはかじりついていたフルーツグミをひと口飲み下してから、うーんと考え込む。そして、しばらく顎に手を当てて首を傾げていた。しかし彼女はやがて答えが出たのか、ぱっと顔を上げて明るい笑顔を浮かべ、自信満々に言い放つ。

「宇宙に行きたいです!」

「はい無理」

「どうしてですかっ!?」


俺はそれから、宇宙に行くためにはどのくらいお金がかかるのかと、俺の用意できるお金では一生かかってもそれに足りないことを、まず彼女に納得させた。その上で、宇宙にはそれなりの立場の人間しか行けず、それは人類の学術的探訪のためでなければならないことも、キコちゃんに教えてあげた。


「なんだぁ…そうなんですかぁ…。“しーえむ”ではみんな月に行ってるから、誰でも行けるのかと思ってました…」

確かに俺たちはこの間、簡単にロケットに乗り込んで月に行き、憂さ晴らしにかけっこをする大人が出てくるCMを見た。

「まああれはCGだから…月には行けないけどさ、なんか他にしてみたいこと、ない?」

それからキコちゃんはまたしばらく考えて、おそらくこの間また“しーえむ”で見たのでやってみたかったのだろう、あることを俺に頼んだ。



俺は今、おもちゃ屋に来ている。郊外の国道沿いにある大きな店舗なのでとても広い。ここならキコちゃんに頼まれたものも必ず見つかるだろう。そして、あわよくばそれ以外にもキコちゃんを驚かせられるものがないかと、喜び勇んで奥へと入って行った。


夏休みに入って少し経つ。そろそろ毎日暑くなってきたから、涼しくなる道具なんかも、もっと必要かもしれないな。家で常につけていてもそんなに電力消費の多くない冷房器具なんかないかなあ。まあおもちゃ屋にそんなものがあるわけないか…。

そのときたまたまそう考えていた俺の目に、あるものが飛び込んできた。

それは、商品棚の端で通路側を向いているところに飾られた、手持ち扇風機のようなものだった。俺はなんとなくそれを手に取る。「ハンディファン」。商品名にはそう書いてあった。それは手のひらに収まる持ち手に小さいファンがついていて、立てかけて置いておくこともできるみたいだ。そして、ファンの頭の部分には、猫耳がついていた。

…どうしよう。

俺は純粋に悩んだ。なぜなら俺は18歳の男子だからだ。たとえ彼女のためにこれを買うのだとしても、それを想像できる人はなかなかいないんじゃないかと思う。ギフトラッピングなんかを頼めば、「ああ」と思ってもらえそうだけど、それは100円が余計にかかるからできない。

買うの、ちょっと恥ずかしいなぁ…。

いや、今日ここに買いに来た物も買うのはちょっと恥ずかしいのだが、たまには大人でも購入する人がいる。だからそこまで抵抗はなかった。しかし、“猫耳つき手持ち扇風機”はハードルがあまりに高すぎる。

しかし俺は、キコちゃんがもしこれを目の前にしたら、と考えてみた。彼女はきっと喜んでくれるだろう。すぐに使いたがってくれるかもしれない。突然の風に驚いたり、猫耳がかわいいと気に入って、にこにこしてそばに置いておく彼女を思い浮かべる。

…まあいっか。

俺はそのピンクの猫耳ハンディファンをカゴに入れて、それから目当てのおもちゃコーナーを目指した。



「ただいま~」

「おかえりなさいませ一也さん!ありましたか!?ありましたか!?」

キコちゃんは俺がドアを開けた途端、大急ぎでそう聞いてきた。俺はそれに笑いが込み上げながらも、「あったよ」と返事をする。するとキコちゃんはほっとしたように微笑んで、俺を振り返りながら部屋の中へ駆け戻った。楽しみにしていた物だから、すぐに見たいんだろう。

「こっちです一也さん!早く開けましょう!」

「うんうん。それから、もう一つ、いいのがあったから買ってきたよ」

「いいの…?なんですか?」

俺は大きなエコバッグから、まず猫耳ハンディファンの箱を取り出し、中身を開ける。それから充電がされていることを確認するため、自分に向けてスイッチをつけてみた。すぐにふわっと風が吹いたので、俺はそれをキコちゃんの隣に置く。かなり小さいものだから、サイズは彼女とやっぱり同じくらいだった。

「なんですか?これ…?耳がついてますね。かわいい」

彼女は猫耳を撫でて、ほわっと顔をほころばせる。俺がキコちゃんに向けてファンのボタンを押すと、彼女は「きゃっ!」と悲鳴をあげた。


「あ゛あ゛~」

キコちゃんはハンディファンの前で、安直な四コマ漫画のように、「ああ~」と言っている。これもテレビで見てから、やってみたいと思っていたことみたいだ。俺は彼女が夢中になっている間に、本来の目的だった道具を組み立てていた。ちょっとハンドルを付けるだけなのでそれはすぐに終わって、キコちゃんに声をかける。

「できたよキコちゃん!」

「えっ!?できましたか!?」

そして俺は完成した「かき氷機」をテーブルに乗せた。キコちゃんは「きゃーっ!」と叫んでかき氷機に抱き着く。

うーん。ここまで喜んでもらえるんだから、そりゃ買っちゃうだろう。「ペンギンの形をしたかき氷機」だって。

「わあー!ペンギンさんです!一也さん!氷!氷をください!私が回します!」

「待ってね、あとシロップも買ってきたから、お皿も用意するよ」


そして、やっぱりハンドルを回す力のない彼女の代わりに俺が氷を削って、小さなガラスボウルに山盛りになったかき氷にシロップをかけ、かき氷が完成した。

「んー!冷たくておいしいです〜」

「うん、おいしいね」

俺たちは頭が痛くなるまでかき氷を食べた。「あいたたた」と2人で言って、顔を見合わせる。

「ふふ、一也さん。ありがとうございました」

「いえいえどういたしまして」

「あの…それから…」

「うん?」

キコちゃんは小さなスプーンをお皿に置いて、俺を見た。俺はそのときドキッとして彼女を見つめる。彼女は小さなテーブルに頬杖をついていた。それから、頬をふっくり上げた満足そうな笑みで俺を見上げて、首を傾ける。その仕草は、彼女をいつもより少し大人っぽく見せていた。

「…好きです、すごく」

今が夏じゃなくたって、俺は体が熱くなるはずだ。君がそんな顔をするから。

「俺も、好き…」

俺は自分の言葉が尻すぼみになり、うつむいてしまったことがちょっと悔しかった。


夏がこんなにきらきらと楽しいとは思わなかった。

俺の過ごした幼い頃の夏は、人のいない家で鳴る風鈴の音に身を任せて、昼寝をするだけだった。でも今は、彼女がいる。一緒に楽しいことをして、それを喜び合える彼女がいるんだ。

彼女が一つ一つ新しいことを知っていく喜び。それを見守っていく喜び。彼女が俺を見つめていてくれること。「好き」と言ってくれること。それだけで俺はよかった。

それが、あんなにすぐに揺らぐなんて。



17話目「君がくれたもの」





夏休みは忙しかった。でもその間に俺はしっかりとお金を稼ぎ、合間にはキコちゃんといろいろなことをして遊んだ。キコちゃんは家の中での水遊びをしたがったけど、残念ながら人形サイズの水着だけの販売が見つからなかったので、それは遠慮してもらった。

「じゃ、じゃあ…私、水着がなくてもいいです!」

「ダメーッ!それは俺がダメだから!えっと…じゃあ、今晩のデザートはかき氷にしてあげるから!ね!?涼しいでしょ!?」

「えっ…!やったー!かき氷ー!」


冷や汗っていうのは、あれのことを言うんだ。それから、実を言うと、俺は……我慢した。何を?とは聞かないでください。はい…ごめんなさい。


それでも、暑いからと二人でたまにアイスクリームを食べたりもしたし、カーゴパンツのポケットにキコちゃんをしのばせて、近所の川をちょっとだけ見に行ったりもした。

「わあ〜っ!広いですね!海ですか!?」

「ふふ、これは川。海ならもっともっと広いよ」

「へえ、すごい…」

あのとき、誰もいなくてよかったな。マリンスタイルのセーラー襟のシャツと白いハーフパンツを着た彼女が、真っ白な夏の陽を浴びる姿は、とても可愛かった。

でも、川辺を飛び交うギンヤンマが彼女の頭に止まろうとしたときは、それはそれは大変な騒ぎになったけど。


それから、夏の間はバイトで体力を使うので、俺はときどき納豆以外のものも食べた。たいがいが割り引かれた惣菜のから揚げやなんかだったけど、キコちゃんもそれは気に入ってくれた。一番好評だったのはエビフライかな。あと、いつも小さいパックが隅の方で割り引かれているポテトサラダは、キコちゃんのためによく買っている。

「“ぽてとさらだ”はやっぱり素晴らしいですね!」

あと、俺は学生として夏休み中の課題にも取り掛からなければいけなかった。それで勉強道具を広げたとき、キコちゃんが「手伝いましょうか?」と言ってきたのだ。そのとき俺は、キコちゃんが前に期末考査の問題をピタリと当てたのを思い出して、大いに誘惑された。しかし、俺はなんとか断った。善か悪かの問題ではない。これは尊厳の問題なのだ。

「大丈夫だよ、自分でやらないと身につかないからね」

「あ、そ、そうですね!頑張ってください!キコも応援しますよ!」

「ありがとう」

でも、“一度でいいから100点を見てみたかった”というのは、思わないでもなかった。


そして、その夏休みももう終わりだ。夕暮れ近くになって、夕涼みにと窓を開けると、カナカナカナ…とヒグラシが鳴く声が部屋に飛び込んでくる。涼しいけどどこか生ぬるい、湿った風も部屋に吹き込んだ。窓辺には1つだけ風鈴が下がっていて、それが静かな風に揺られて、チリ…チリチリン…と、途切れ途切れに鳴っている。

狂乱の暑さが去って、さんざめく命は残り香だけになり、風に乗って肌に吸いつくような気がした。ひぐらしや風鈴は、まるでその儚さを惜しんで泣いているみたいだ。火照った体は冷めていき、そうして人心地つくと、俺たちの体は黙り込むように力が抜け、ついつい眠ってしまいそうになっていた。

「ふわあ…おなか…すきましたね…」

「そうだね…もう晩ごはんにしようか」




俺は夏休みが明けて、元通りの日常が過ぎていくと思っていた。しかし、それは元通りとは少し違った。

少しずつ、俺の周りには人がいる時間が長くなった。クラスメイトが前よりも頻繁に俺に話しかけてくる。なぜだろう?と考えたけど、答えはよくわからなかった。

失くした教科書を少しの間だけ見せてくれないかと、隣の席の早田君に頼まれたりもした。

俺は「いいよ、教科書がないんじゃ困るもんね」と快諾して、「ありがとう」と言われたので、「どういたしまして」と返した。早田君がほっとしたように笑うのを見ていて、俺もちょっといい気分になれた。やっぱり誰かが喜んでくれるっていうのはいいよな。

俺はそのとき、自分の心に大きな変化が起きていたことには気づかなかった。



ある日俺は、職員室に来るようにと東先生に言われていたので、放課後に職員室を訪ねた。

「失礼しまーす」

「おお、児ノ原~、こっちこっち」

俺という生徒が来たので、数人の先生と談笑していた東先生はこちらを向いた。東先生と話していた先生たちは、なぜか俺を気遣うような微笑みをこちらに向けてから自分の席に戻り、みんな揃って背景みたいに黙り込んでしまった。俺はなんだかちょっと変な気分だった。

「どうしたんすか」

「お前な、高校出てすぐ働くなら、今からちゃんとした敬語くらい喋りなさい」

「…すみません。それで?どんなご用でしょうか?」

そこで東先生はちょっと晴れやかな笑顔を見せて、「まあ座れよ」と言った。東先生の隣は今日も空いているらしい。そしてそこには、今度は緑茶とまんじゅうが置かれていた。

「あ、それな、お前の分だから。いやー田中先生、いるだろ?あの人いつも大量に持ってきちゃうから、あまってるんだよ。協力してくれや」

「ふーん、まあ、すみません。じゃあ、遠慮なくいただきます」

東先生と俺はしばらく無言でまんじゅうをかじり、ふかふかした白い生地と、甘すぎるくらい甘い濃紫色のあんこを味わっていた。

「お前もさ、心配がなくなってよかったよ」

「え?」

緑茶の入った無骨な湯飲みから顔を上げると、東先生は満足そうに俺を見ていた。前はいつも、渋々俺に付き合っているような顔ばかりしていたのに。

「友達、増えただろ」

「はい、まあ…多分…」

「自信がなさそうだな」

そう言って東先生はなにやら面白そうに笑いながら、残りのまんじゅうを口に放り込んだ。そしてゆっくり噛んで飲み込み、どうやら話したかったのだろうことを話し出す。

「…お前は最近「ありがとう」とか「ごめん」とか、ちゃんと言うようになった。ちゃんと、笑顔でだ。変わったなと思うよ。前はいつも仏頂面で、誰とも喋りたがらないから、先生実は困ってたんだ。“こんなんでこいつを社会に出しちゃって大丈夫かな~”、みたいな、な」

俺はそれを聞いたとき、キコちゃんの顔が思い浮かんだ。

ああ、そうか。

東先生は大きく息を吐いてから、また嬉しそうに笑ってくれた。

「まあでもこれで、お前に関しては心配なし、だ。とはいえ、頑張っても芽が出ない山崎やなんかをなんとかしてやらにゃならんのだが…」

東先生は独り言のように最後の方をつぶやいていたけど、もう一度俺の顔をまっすぐ見て、こう言った。

「とにかく、先生はそれを心配していたし、“これからはお前がいつもいい人間関係が作れるだろう”と安心したということは、忘れるなよ?」

「はい」


キコちゃんは、しょっちゅう俺に「ありがとうございます」と「ごめんなさい」を言ってくれる。だから俺も、最近はひとりでに口をついて出るようになってきたかもしれない。

今思い返せば、金村さんのときもそうだった。俺はそんなのは当たり前になっていて気づかなかったけど、それで俺は知らない間にクラスになじめたのかもしれない。まあそれが本当にいいか悪いかは人によるかもしれないけど、俺は「悪くないな」と思えている。

初めは急に振る舞いの変わったクラスメイトたちに戸惑いもあったけど、俺はずっと昔、幼稚園で友達と遊んでいたときの景色を思い出したことがあった。そのときにわかったのだ。


俺は、両親の死があまりに悲しかったんだ。そして、「去っていくのなら、執着しなければ悲しくないだろう」という、それ自体がなんとも哀しい、そんな選択をしようとしていたのかもしれない。


今日は帰ったら、キコちゃんに「ありがとう」を言おう。

俺は、オレンジや赤に染められたビルの窓ガラスに見守られ、踏みなれているくたびれたアスファルトの道を越えて、家のドアを開けた。



「ただいま~」

そして、俺の目に信じられないものが飛び込んできた。それが彼女なのかもわからなかったけど、俺は名前を呼んだ。

「キコちゃん…?」




最終話「彼女との始まり」





いつも通りに帰宅して、足元に彼女の小さな姿を見つけるのだろうと思っていた。でも、彼女はそこにはいなかった。それから俺は、部屋の奥から走ってくる彼女を思い浮かべながら、そちらの方を見る。そして、そのまま俺は、体も、頭も、動きがまったく止まってしまった。


ピンクの長いワンピースの腰に白いリボンを巻き付けて、長い黒髪を豊かに下げ、彼女が俺を振り返る。大きな黒い瞳が俺を見て、どこか悲しげに光った。その瞳の高さは、俺よりほんの少し下にある。


つまり彼女は、キコちゃんは…普通の人間と同じ大きさになっていた!


「え…キコちゃん…それって…!」

俺はすごく驚いたけど、嬉しかった。彼女の美しさは元のままで、俺と同じような背の高さなのだ。これなら、「人々の好奇の目に彼女が傷つけられるのではないか」なんてことを気にして、彼女をここに閉じ込めっぱなしにしなくていい。堂々と街を歩かせてあげられる。それに、キコちゃんが行きたがっていた、海にも、山にも、レストランにも、それこそどこにだって、彼女を連れて行ける!

俺は靴を脱ぐのも忘れてしまって、思わず笑い声が途切れ途切れに口から漏れた。なんと言葉にしたらいいかわからないほど驚いて、そして嬉しかった。でも、俺が見つめているキコちゃんは、いつまでも悲しそうな顔をしたままだった。俺は喜びが落ち着いてきたとき、それに気づいて少し不安になった。

俺が彼女の悲しみを感じ取るのを待っていたように、キコちゃんがやっと一言口を開く。

「一也さん、ごめんなさい…」

キコちゃんはとても残念そうで、それにさびしそうだった。俺はどうして彼女がそんな顔をするのかがわからない。だって、大きくなれたなら、彼女ができることはたくさん増えるのに。

「…なんで謝るの…?」

そこでキコちゃんは俺に背中を向けて、部屋の窓際へと歩いていった。そして、顔だけで俺を振り返る。どうしてそんなに悲しそうに、俺に謝るんだろう。なんだか俺は、不安で仕方ないじゃないか。彼女が大きくなれたことの喜びが、少しずつしぼんでいく。

キコちゃんは何度か何かを言おうとして、そのたびに唇を噛んだ。でも、彼女は話を続ける。

「私、もう行かなきゃ…」

“行く”?どこに?それに、そんな“もう帰ってこない”みたいな言い方、しないでよ。

「…どこに…?」

俺はだんだんと不安が高潮して、息が苦しくなってきた。そして心の中に、少しだけ焦りが生まれる。

なんとかしなくちゃ。彼女をここに引きとめないといけない。キコちゃんは急に大きくなったから、きっと何か考え違いをしていて、ここから離れないといけないと思っているだけだ。だからちゃんと大丈夫だと言って、彼女を引きとめなくちゃ。

俺は慎重に彼女の次の言葉を吟味して、説得にかかろうと思った。彼女はうつむいて顔を伏せ、また言いにくそうに言葉を途切れさせる。

「…自分の家がどこなのか、思い出したんです…それに、そこで自分が何をしなきゃいけないのか…」

“家”…?

キコちゃんにはやっぱり家があったのか!そこに帰りたいんだ!でも、どうしよう?彼女が家に帰りたがるなら、俺は止める権利があるんだろうか?でも、でもきっと、外で会うことだってできるだろう!

「それは、どこ…?」

俺は、“あまり遠くないといいな”と思った。遠くなければ、俺だって頻繁に会いに行ける。

キコちゃんは俺の様子をちらりと見て、ますます悲しそうな顔をした。そして俺に、こんなふうに話した。

「驚かないで、聞いてくださいね…驚くと思うんですけど…」

彼女は今までで一番気が進まないように口を開き、こう言った。


「私、天使の試験の最中だったんです。…合格だそうです。だから、帰らなくてはいけません…」


「…は…?」


人間は、あまりに想定していなかったことに出会ったとき、頭が働かないという。もちろん、俺もこのときそうだった。そりゃそうだ。“天使の試験”ってなんだよ。聞いたこともねえよ。それに、天使なんて、神話のなかの架空の存在じゃないか!

俺はこう考えた。

“キコちゃんは体が大きくなって、俺がいなくても生活していけるようになったから、俺と離れるためにいい加減な嘘をついてるんじゃないか?”、と。だって、「天使の試験」なんて、そんなものがあるはずがないんだから。

そのとき俺の心に、ちりっと怒りが湧いた。その怒りは鋭く、皮肉で毒々しかった。俺はそれを、思わず彼女に向けてしまう。

「キコちゃん…そんなに俺が嫌なら、素直にそう言ってくれたほうが、俺も気が楽だよ…そんな嘘に、普通は騙されないし…」

「…嘘じゃないです!」

彼女のその叫びは、まるで内緒話をしているような大きさだった。でもそれは多分、精一杯喉の奥に押し込めたからだ。

そして、とうとう彼女は泣き出す。その涙は嘘ではできないほどの激しさで、彼女は肩を震わせて、一生懸命に次から次へと溢れてくるそれを拭った。

「だって、私…たくさんものを増やしたり、未来のことを当てたりしたじゃないですか…!そんなこと、人間にはできないじゃないですか…!信じてください…嘘じゃないの…!」


どういうことだ…?

キコちゃんはこんなふうに演技ができるような子じゃない。むしろ彼女は、今までで一番素直に泣いているように見える。つまり、ものすごく悲しんでいるんだ。

それに、確かに彼女は一瞬にして部屋中を千円札でいっぱいにしたり、試験の問題をすべて当てたりしていた…。

本当なのか…?でも、“天使の試験”って…一体どういうことなんだ?


しゃくりあげていたのが治まってくると、彼女は下を向きながらもう一度話し出した。

「…天界に昇り、“見込みがある”と選ばれた者たちには、試験を受ける権利が与えられます…」

俺は、大きなショックを受け続けていた。だって、とても信じられないような荒唐無稽なことが、信じるべき形で差し出されているのだから。

「どういうこと…?じゃあ、君は一度、死んだの…?」

キコちゃんは頷いた。俺はそこで、何度目かわからない大きすぎる驚きに頭を叩かれる。


待ってくれ。そんなに次から次に、俺はそんなことを頭に詰め込めないよ。


それなのに、キコちゃんはまた喋り始めてしまう。

「…天使の試験は、仮試験からです。本試験前の仮試験では、“すべての記憶を剥奪されても、人を幸せにできるか”…それが見定められます…。だから、合格した私は、これから本試験に進まなければいけません…地上からは離れて…」

そのとき、俺はこちらに向けられたキコちゃんの背中に目を見張った。彼女の背中は、肩甲骨のあたりがむくむくと盛り上がってきて、ワンピースの生地がもぞもぞと動いている。俺はそれを見て、「あっ!」と叫びそうになった。


そして、彼女が窓ガラスを大きく開けたときには、彼女の肌を貫いて広げられた白く大きな翼が、部屋を覆い尽くすかのように見えた。

部屋の中には、ばさりと彼女が大きく翼をはためかせたときに散らばった、柔らかな羽が降っていた。それは美しかったけど…。


キコちゃんがいなくなってしまう。なんで。どうして。

たった今朝まで、ずっと一緒で、これからもそうだと彼女自身も言ってくれていたのに。


俺は思わず首を振った。初めはゆっくりゆるゆると。それから、彼女が見逃せないくらいに、大きく。

「…やだ。…やだ!行かないで!絶対やだ!」

俺は、彼女を止める術を自分がほとんど持っていないのを知っていた。だって、背中に翼が生えてるんだ。彼女がもうここにいるべきじゃないことくらい、俺にだってわかってた。でも止めたい。だから俺の言葉は、とても幼く、拙くなった。


駄々っ子でも、わがままでもいい。そんなのはいいから、どうか行かないでほしい。


「ごめんなさい…」

少しずつ、彼女の翼は羽ばたいて、足がふわりと浮いた。俺はそれを見て、靴のまま慌てて窓辺に駆け寄る。

「謝ってもダメ!だって君、俺を好きって言ったじゃないか!君がいなくなったら、俺の幸せはなくなっちゃうんだよ!?そんなの絶対ダメだからね!キコちゃん!」

俺は彼女の腰に縋りつき、なにがなんだかわからないままに叫んだ。


いやだ。いやだ。いやだ!絶対にいやだ!


「一也さん!放して!危ないです!」

キコちゃんの体はどんどん宙に浮き上がり、部屋の外へと飛び立とうとしていた。俺の体も、それに引きずられていく。

「ダメです!放してください!…お願い!危ないから!戻って!」

ここは3階だ。落ちたらひとたまりもないだろう。でもそんなことは俺にはどうでもよかった。

行かないで。俺を置いていかないで。

「嫌だ!君に置いていかれるくらいなら、ずっとつかまってる!落ちなきゃ死なない!どうしてなんだ!好きなんだ!だから行かないで!君が行っちゃったら、俺…また一人になっちゃうじゃないか…!」

俺は幼いころの情景が思い浮かんで、そして、今また同じことが起きようとしているかのような錯覚に陥った。俺の頬を涙がはらはらと落ちていくのがわかる。


翼の羽ばたく音は突然消えた。


すると、俺たちの体は急にぐるっと反転する。

「わあっ!?」

「きゃああっ!」

窓の外のキコちゃんも、彼女につかまって体の半分を引きずり出されていた俺も、一気に下へと落下しそうになった。でも俺はすんでのところでなんとか窓枠に手をかけて、滑り落ちていくキコちゃんの手をつかんだ。

俺が下を見ると、キコちゃんの背中にさっきのような大きい翼は見えなかった。でも、鉄の窓枠が俺の指にぎりぎりと食い込む。二人分の体重がかかった腕も、長く力がもちそうにはなかった。

なんとかつかまっている俺の息が切れてきて、手の痛みに苦しくなる表情をキコちゃんから隠そうとして、俺は彼女から顔を逸らす。でも、彼女はそれに気づいて叫んだ。

「一也さん!落ちちゃいます!放してください!」

「大丈夫!今、配管に足を掛ければ…」

俺は、自分の足より30センチほど上を横に通っている、アパートの配管に狙いを定めた。そこに足をかけてつかまり立ちができれば、彼女を引っ張り上げて、二人で窓まで這いあがれるはずだ。


キコちゃんの翼がないなら、俺の手と足があるじゃないか。俺は彼女のために、今できることをすればいいだけなんだ。


俺はなんとか配管につま先をひっかけた。靴底が滑って何度か足は落ちたけど、限界まで膝を上げたとき、かかとから体を引きあげることができた。そして、キコちゃんに声をかける。

「キコちゃん…俺につかまって!二人で配管に立てれば、部屋に戻れるから!」

彼女はとても不安そうにしていたけど、俺は精一杯の力で彼女の体を引き上げ、彼女は俺の肩に手を伸ばしてくれた。

「そう…ゆっくり…」

そこから、足を滑らせやしないかとぶるぶる震えながら、俺たちは少しずつ窓枠の真下まで体を横に滑らせた。そして俺はキコちゃんを片手で抱きかかえたまま思い切り窓枠を引っ張る。

俺たちは部屋の中に向かって、二人してどたーっと倒れ込んだ。

「ああ危なかった…死ぬかと思った…!」

俺は肩につかまっていたキコちゃんを抱きしめていた。なんとか命が助かったと思うと、なかなか腕の力はゆるめられず、ぎゅうっと彼女を胸の中に閉じ込めたままだった。

「あ、あの…一也さん…」

「そうだ、背中見せてキコちゃん!」

俺は起き上がってキコちゃんの手を引き、後ろ向きにさせようとして、腰に手をかけた。

「きゃあっ!何するんですか!」

俺は夢中になって彼女の背中を手のひらで何度か叩いてみたけど、何もなかった。見渡してみると、部屋の中に落ちたはずの彼女の羽根も、あとかたもなくなっていた。

「ご、ごめん…翼がまだあったらって…」

「ふふ、もうないです」

「そっか…」


俺はそのとき、気まずかった。だってキコちゃんは天使になりたかったんだろう。でも、おそらくだけど、その機会はもうなくなってしまったのだ。多分、そうだと思う。俺は、それを彼女に聞いて確かめるのが怖かった。もしそれで、キコちゃんが失った望みを悲しんだりしたら。


多分、俺たちは一緒にはいられなくなってしまう。

俺は、何もない彼女の背中を見つめていた。でも、くるりと振り向いたキコちゃんは、予想に反して明るい笑顔だった。

「そうだ、大きくなれたら、したいことがあったんですよ」

「え…何…?」

彼女は前を向いて、俺をふわっと抱きしめた。温かくい彼女の腕と体に俺は包まれる。俺は女の子に、好きな子に抱きしめられるなんて初めてだった。それに、キコちゃんにそんなことができるなんて今まで思っていなかったから、一気に爆発しそうな緊張と感動に包まれて、体の自由もなくなってしまった。

「私の手で、一也さんを抱きしめて、それから…」

彼女の唇は、温かかった。柔らかかった。俺の世界はそれでぐるっと一回転した。そのあとのことなんて何も考えられなかった。

俺の体中ですべての細胞が歓喜に震え、叫びを上げた。俺はそれを必死に止めて、一瞬のキスのあとで下を向く。


こんなの、背中に翼が生えるより心臓に悪い!


しばらくうつむいたままおろおろしっ放しだった俺の頭に、優しい声が降ってきた。

「責任とって、ずっと一緒にいてください」

はっとして顔を上げると、彼女が微笑んで俺を見つめていた。


その静かな微笑みは、少しも揺るがなかった。

そのとき俺は、自分の幸せは確かな地面に足をつけていて、もう奪われることなんかないと、知ったような気がした。

どうしようもなく、涙がこみ上げる。

返事をしなくちゃ。早く。そう思うのに、きっと二度とは口に出せない幸せがもったいなくて、なかなか言えない。

「…はい」

涙を止めることさえ忘れながらそう言うと、彼女は俺をまた抱きしめてくれた。俺は彼女にあやしてもらいながら泣き、新しい始まりに足をかけた。



おわり


お読み頂きまして、誠にありがとうございました。


「キコちゃん」は力を抜いて書いたので、とても楽しかったです。でも、やっぱり少し物足りない気がしてしまうので、次はもっと掘り下げてお話を書こうかなと思いました。


キコちゃんと一也くんお幸せに、ですね!(笑)


桐生甘太郎

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