「おその惣助物語」一話「惣助」(江戸恋愛小説)

あらすじ

江戸初期下総にて、毎日働く農夫の「惣助」と、惣助が心底惚れている、村外れの茶屋の娘、「おその」。この二人の物語です。

※お話として読みやすいように、訛りなどは少し現代に寄せてあるところもございます。

「小説家になろう」などの小説投稿サイトにも、「桐生甘太郎」名義でアップロードしております。

それでは、江戸の農村へどうぞ。




春。田や畑を耕す農夫や妻たちは汗水を垂らして、泥まみれの鼻の頭に伝ってくる熱い汗を、泥に汚れた手の甲や首元の手拭で拭う。そうして鍬をふるい、鋤を打ちおろして引いた。

畝が出来ると種を撒き、毎朝雑草を引っこ抜いては水を撒く。田の土が呼ぶ頃になれば、用水を率いて丁寧に一つずつ苗を植えた。屈んで苗を植えるので、時折農夫は痛む腰を伸ばし、見下ろした苗の小さないじらしさに満足して、照りつける日を眩しそうに見上げる。

しかし、春から曇りや雨の日が続き、お日さんが顔を出さないとなる年がやってきた。

風も吹かない、薄ら寒い夏の日には、稲は伸びもせず、秋になっても一向に刈り取りに掛かれない。青いままの米を付けただけで、稲穂は死んでしまった。

収穫も出来ずに、籾も獲れないとなれば、もうどうすることも出来ない。農夫も妻も途方に暮れて、土間にじっと座り込んだままの夫に、妻はやっと欠けた湯飲みで白湯を差し出した。そして、こう聞く。

おめえ、どうするね。

そうすると、夫はうやむやに首を振り、下を向いて両手で顔を押さえつけ、手のひらの間からため息を吐いた。

妻は夫が折れてしまいそうになっているから、言葉も掛けられずに躊躇いながらも、夫が立ち上がればそれこそどこまででも働くつもりであった。

そんな夫婦の元へ、何やら自分も悲しい顔をしなければいけないとわかっているだけの、ほんの頑是ない子供がちょいちょいと寄ってきた。そして子供は、おっかさんの膝元へ座りたがる。

いいこだ、おめえは心配おしでねえよ。

妻が子を抱いているのを見て夫はやっと顔を上げ、一度むっと頷くと、六つほどの子供の頭を撫でさすった。そうして、まだ大して世間を知らない子供を置きざって、妻へと顔を向ける。

今晩、申し訳を考えなくちゃなんねえだ。

夫は、困り果てた中に懸命な糸を張り詰めさせる。

んだね、庄屋さまにもこんじゃ申し訳立たねえだから、おらも考えるだよ。

妻も夫に倣い眉を寄せたが、この妻もまた、何が起きようと諦めまいと心に決めていた。

そんな相談をすると、親子は寝間のすのこに敷かれた布団に上がり、三人で川の字になって、子は眠り、親は夜明けまで相談をするのであった。







黒々とした硬い地面をえっちらおっちら鍬で掻き起こして、耕す、二十歳ほどの男があった。男は黙々と鍬を振り下ろして土を柔らかくし、時々汗を拭いながら満足そうに畑の出来具合を眺めた。

細面にきりりとした目、丸い鼻だけが目立つが、それがかえって愛嬌があって、背はさほど高くないが体が細く、女が寄ってこないのではないかとの心配はそれほどなさそうな男であった。

木綿もの一枚で擦り切れた小倉帯を締め、編みようの甘い藁草履を履き、男はまたざくっと土に鍬を振り下ろす。

「よう。どうだい、土の具合は」

二十歳ほどの男が急いで振り返ると、畑と畑の間に少々高くなった道の上、四十ほどの白髪まじりの痩せこけた男が立っていた。こちらも木綿もの一枚で、それから菅笠をかぶっているところを見ると、どこかへ行ってきた農夫らしかった。鍬を持ったまま畑の男はぺこりと頭を下げ、愛想の良い笑みを返す。

「はあ、耕しとるだでえ、いい頃になるまでに、間に合わせなきゃなんねえだあ」

そう言って男は、鼻を気にするように指で忙しなく掻いていた。

「そうけえ。まあ、おめは仕事が真面目だからよ、心配はしてねえけんど」

そう言ってから四十男は畑の端に一足だけ踏み入ると、顔の横に手のひらを寄せて声を低くする。

「他に手伝ってくれるもんもねえでよ、早く惣助が嫁っこもらーねがって相談で、婆さまたちが話込んでっから、教えに来ただよ。惚れてるあまっこがいたら、白状しちまーねえとなあ」

そう言って四十男は面白そうに口元を押さえて、にひひと笑った。それを見て「惣助」と呼ばれた男は顔を真っ赤にすると、急にちっちゃくなってうつむいてしまい、「そ、そーだらこと、おら…」、と困ってしまった。

真面目と愛嬌にくわえて、惣助はどうやら初心なところが抜けきっていないらしい。そんな様子を見て四十男は嬉しそうににたにた笑いながら、「ほんじゃ、まだなあ。忠告はしたでよぉ」と勝手気ままに帰って行った。

広い畑にぽつんと残された惣助は、四十男の言ったことをいつまでも気にするように鍬の柄をもじもじと揉み続け、まだ顔を赤くしていた。顔は下を向いていたが、その目はどこか思い出の中を見ているように定まらなかった。

「そーだらこと…」

それから惣助は気を揉むような仕草に夢中になっていたが、はっと気を取り直して鍬を握り直すと、また一心不乱に畑仕事に取り掛かった。まだあまり陽も暖かくない初春の田舎空に、土を掘り返すざっくざっくという音、草鞋がざりっと土を踏みしめる音がしていた。




惣助は、あの「六つの子」であった。父や母は自分に食べ物を用意してやろうと田んぼを捨てて畑を始め、それからすぐに父が病に罹った。長く床に臥せったままの後、父は助からずに亡くなってしまい、長い看病と働き続けの生活にくたびれていた母も後を追うように亡くなった。その時すでに十四になっていた惣助は、たった一人で畑仕事を始めたが、母がよく教えてくれたことをきちんと守り、なかなかに評判のよい品を納めることが出来ていた。

村中でも惣助をみんな可愛がってくれ、惣助の暮らしがどうにもならない時には、庄屋でさえも胸を痛めた。素直で働き者の惣助は、今ではいっぱしの良き農夫だった。

この話は、江戸に幕府が開いていくらしか経たない頃の下総に住まう、ちっぽけな農夫と、村娘の話である。



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