愛と孤独の妥協点で
グザヴィエ・ドラン、監督引退するんだ。
今日知りました。
『mommy』大好きなんだよな。
あれだけすごい映画撮れるのに、伸びが悪くなったら「アートは役に立たない」「映画では人を救えない」って、ド完璧主義だよ。
でもだからこそ私はドランが好きだったんだ。
ただの日本・東京のパンピー女子であるわたしもまた、他人を信用できない完璧主義人間。
だれにも顧みられず、低空飛行のドン底時期に耐えられないのだ。
以前、「なんでもやっちゃう監督」が自分は好きなんだってことに気づいた。
監督、脚本、音楽、主演など。
それこそドランとか、『Buffalo ´66』のヴィンセント・ギャロとかね。
自分の思い描いた世界を、自分一人でほぼ完ぺきに再現できてしまう才能、情熱。
監督でもなんでもないけど、人として自分もそうありたいと思った。
けど裏返してみたらそれって、「自分の思いを実現させるために信じて任せられるひとがいない」=上手にひとに甘えられない、ってことなんだよなあ。
ああ、痛烈。
妥協が苦手なんだよね。
全部理想通りに進まなかったらもうやる意味ない、死んだほうがマシ!とか真剣に思っちゃう奴。
ここ数年で愛着障害とかACという言葉に出会って、自分もそうなんじゃないか、いやたぶん絶対そうなんだろうな、、と思って今はそのことに向き合っているけれど、ドランの引退騒動の記事よんでいても、今までの監督作品を見ていても、あ、この人もそうなのかな、と感じざるをえない。
「あ、この人はわかってくれるかも」という人が現れても、自分とあまりにも違う思想がチラつく発言がその人から出るのを目の当たりにすると、「やっぱりこの人でもダメかも」と諦めそうになる。
私は諦めが早い。
そのわりに何度も湧き出てくる小さな希望や期待を掬いあげては、心のなかにだけ存在する理想郷を追い求めて、どうにか生きて延びている。
今がダメだと、今までもずっと最悪でこれからもそうだ、と辺り一面真っ黒に塗りつぶしたような気分になる。
終わらない退屈と鬱憤のなかで、ときたま差し出される他人のやさしさに触れて、「まだ大丈夫だ」と気を紛らわせるも、自分が生きていることの圧倒的な悲しみと無力感で、やさしい彼らを失望させてしまう。
いつになったらここを離れられるだろう。
私は地元の中学と高校を卒業して今は大学生だけれど(卒業できるかギリギリの)、周りを見渡すと中高一貫の私立に通っていただとか、今もバイトをしていないという人がゴロゴロ存在している。なぜそのひとたちの親は子にそうさせるのだろうかと考えてみた。一応の想像上答えとしては、「できる限り子どもに夢を見させつづけるため」だと思った。夢を見られなくなると、生きているのは辛い。自分は力を持っている、何かを成し遂げられる、という気概。私は親が守ってくれていた夢の効力が切れかけているのを感じる。
生きるって、多少狂ってないと、酔っていないとできない。
「現実」の破壊的な凶暴さに剥き出しのまま晒されていたのでは、とてもやっていけない。
自分を守ってくれる存在を常に自己判断し、任せて頼って、、、でもそれを見極める目そのものがあまりに曇りすぎているのを感じたら、どうすればいいんだろうね。
今まで何を信じて歩いていたんだっけ?
賢さとか正しさに憧れて盲信していた気がするけれど、天使や仏的存在になって敬遠されるより、ただの人間がいい。
壊れたら新しいものをとる、薄情な人間でいいか。
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