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私が美術館にいく理由(aka 言い訳)

1月から参加しているnoteのメンバーシップ「オトナの美術研究会」の月イチお題記事執筆企画。
今月のお題は「私が美術館に行く理由」。GWからバタバタで今回は参加できないかもー!と思っていたんですが、なんとか滑り込めました。

さてこの疑問。自分のことは棚に上げて、皆何しに来てるんだろ?と思うこと、私もたまにあります。

子どもの頃、脳裏に焼き付いた光景

なんでそんなことを考えるかというと、もしかしたらこの出来事が頭にこびりついているからなのかも。

1974年、モナ・リザの来日。

ところでこの国立西洋美術館のサイトを見ると、「出品点数:絵画2点」となっているんですが(!)、2点だけってすごくないですか?  モナリザの他のあと1点は何が展示されていたんだろう???と調べてみたら、レオナルドをパリに招いた「フランソワ一世の肖像」(フォンテーヌブロウ宮)でした。

いきなり古い話で恐縮。生まれてなかった人も多いと思うけど、私はニュースを見るくらいには大きくなっていたので、この時の大騒ぎぶりは覚えています。改めて動画を探したら、やっぱりすごい……。
田中角栄が一枚噛んでいるんですね。これは知らなかった。

同じ頃に初めて上野にパンダが来てニュースになったんですが(またも古くて申し訳ない!)、自然とその時のイメージと重なりました。鑑賞というより、ああなってしまうと(言葉は悪いけど)見物という感じ。

この光景があまりに強烈な印象だったせいか、今でも、混んでいる美術館を見ると、皆何しに来てるんだろ?(たぶん自分も含めてなんだけど)と、自動的にぼんやり思っちゃうというわけです。

なので「オトナの美術研究会」のちいさな美術館の学芸員さんの問いに改めて。

……私はなんで美術館に行くんだろう?

別の時間、空間へのポータル

考えられることとして、まずは個人的な経験から。

以前の「月イチお題記事執筆企画」 #旅と美術館のお題でも書いたんですが、私が美術館に行くようになったきっかけのひとつが、旅先で何度も訪れたこと。

美術館という空間は私の旅の記憶と直結している。しかも美術館という静かなイメージとは裏腹の、少々冒険めいた経験に。

だからそこに身を置くだけで、今でもなにか特別なことが起きているような密かな高揚感があるし、あの時の気持ちが一瞬で鮮明に蘇る。あの時、あの場所に戻れるような、時間と距離を超えてどこか別の場所に存在しているような気さえするのです。

実際に旅先で見た作品や画家ならなおさらですが、そうでなくても、作品があって人々が鑑賞しているという図式はどこでも一緒。その光景自体が世界各国の美術館とつながっているような錯覚を起こしてくれるのかも。

美術館以外でも、ふとした瞬間に別の場所にいるような感覚を覚えることがあるんですが、美術館というのは安定して瞬間移動できるポータルのようなもの。体はここにあるのだけれど、人知れず、意識がはるか彼方に飛べるというわけです。

それとは別に、馴染みのない作家や作品でも、描かれた風景や題材などから、画家(作家)の視点を通して見られる、どこへでも行けるような感覚もありますよね。この感覚は持つ人多いんじゃないでしょうか。

週末旅行などでどこかに行ったりすると、その移動の距離感そのものが気分を変えてくれてリフレッシュできる一面があると思うんですが、どこまで脳内旅行できるかは個人差があるにしても、美術館ならそれが手軽に実現できる。

どっと疲れるんだけど、さわやかな疲労感。旅行欠乏症にもよく効く薬。

インプットアウトプット

次が職業的な理由。よく言われることだと思うけど、ものをつくる人はアウトプットばかりしていないで、インプットもしなくては、という考え。

グラフィックデザイナーという職業柄、その辺はやはり意識します。もはやほとんど強迫観念に近い。

単にデザインの引き出しを増やすとか具体的なことばかりではなくて、物事の捉え方だとか、アプローチとか、色や構成へのこだわりとか、変わった視点とか、逆に王道とか。そういうものに触れて、自分の頭をできるだけ自由にして、考えられる選択肢を増やしておくことが私にとってのインプット。

だから大雑把に言うとなんでもいいんですけど、美術館、展覧会であれば企画という(作品だけでなく)後付けのものも含めて良質なインプットができる。グラフィックとの相性もいいから、たまに具体的なヒントに結びつくこともあります。

とはいえ、これは全部言い訳で、ただ好きだから行くんだよなーという気持ちもなくはない。

脳内が最高に自由になる空間

ということで、今まで書いたことを一旦忘れると結局これかも。美術館にいる時間、とても自由な気持ちになれるということ。

もちろん興味のある絵や彫刻など作品を見にきているわけだけど、なにを感じるか考えるか、何も制約がない。

目の前にある作品の一部から連想して他のことに思いを馳せることだってできるし、なんなら今晩のおかずを考えていたって誰にも文句は言われない。何も考えずにぼーっとみていたってかまわない。極端なことを言うと、楽しまなくたって、頭の中で作品について悪態をついていたって(口に出したらさすがにまずいけど)全く問題はない。

大抵の場合、鑑賞ペースだって自由。気に入った作品をじっくり見たり、最後まで見たあとで戻ってもう一度みたりも(大抵)できる。他の芸術、例えば演劇やコンサートなどと違うところは、こちらが主体となって自分のペースで楽しめるということなんじゃないだろうか。

じっくりみたり、遠目に見たり、前を通りながら横目で見たり、椅子に座って長時間ぼんやり眺めながら、いろんなことを考えたりぼーっとしたり。作品をきっかけに様々な想像をふくらませたり。

外の世界から隔離されているようでありながら、どこにでも繋がっているような感じも好き。

もちろん人の迷惑にならないように行動はするものの(自由といってもルールやある程度の作法はあるからね)、美術館にいる時、私の脳内は最高に自由なのだ。

いろんなことで頭がいっぱいになっていても、一旦ニュートラルな状態にして、また新鮮な気分で仕事にも打ち込める。これも少し言い訳めいているけれど、必要な時間じゃないだろうか。

居場所としての心地よさ

旅とか交流会、セミナーなどもひとりでするっと行ってしまうのでこれを言うと驚かれることもあるけれど、私はわりと出不精。気が向かない、あるいは気後れするお出かけも実は多い。

でも美術館だけはいつ行っても、どの美術館でも、場違いな感じを抱くことがない。自分がいても良い場所というか、無条件に受け入れられている感じがあって居心地が良いんですよね。

絵を見るのに苦手なんて(たぶん)ないし(あるかな?)、知識があればより楽しめると思うけど、よくわからないならそれでもいい。ガチで何かを吸収したいと意気込んでもいいし、有名な絵だから見に行きたいという物見遊山な動機だってあり。みんなバラバラな受け止め方、楽しみ方でいいよね、みたいな許容が心地よいというか。

絵を見る、彫刻を見る、とても受け身なようでいて、実はそうでもない。100人いれば100通りの感想、楽しみ方があるんじゃないか、と思えるところも居心地のよい理由なのかなと思っています。

仕事ならともかく、プライベートで皆で一斉になにか、みたいなのとか、こうでなくてはいけないとか、あんまり好きじゃないからなー(笑)。

1974年に20歳だったら?

と、ここまでつらつら考えてきて、冒頭のモナ・リザ。

この頃私がもし大人だったとしたら、果たして見に行っただろうか。どうだろう…いくら世界的な名画を見る機会でも行かなかった気がします。対象がなんであれ、美術館では自分なりの時間の過ごし方ができるのが好きなのだから。

「私が美術館にいく理由」を書いていたら、場所として好きという話ばかりになってしまった! (あくまでそこに作品があるという前提ではあるが)

でもそんな場所に好きな作家の作品や興味深い企画があるんだから、最高に贅沢な目的地と言えるんじゃないだろうか。


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