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「食うために働く」はダメなのか

本当にあった就職氷河期

就職氷河期で一番落ち込んでいた時期に社会に放り出された。
夢も希望も持てず、やりたいことが特になかったと言うよりは、やりたいことが何なのか考える以前に、どうせそれを実現できるような能力など自分にはないと思っていたこともあり、随分と長い間非正規雇用で生きてきた。

非正規で生きると言うことは、低賃金且つ有期雇用と言う労働搾取システムに組み込まれることである。そこから抜け出そうにも転職活動に専念できるような経済的バッファなどあるわけがないので、無給状態となる契約と契約の間の隙間期間を作らないように、この地獄のサイクルを延々と繰り返すことを余儀なくされるのだ。世間で言われているような今をときめく「リスキリング」だとか「ウェルビーイング」などのキラキラワードからは完全に隔離された世界である。この人権侵害を現代のアパルトヘイトと言わずして何と言えようか。

もとより職業選択の自由は憲法で保障されているし、男女雇用機会均等法も施行されてから一回り後の世代である。
しかしながら、やりたいことをじっくり考えさせてもらうゆとりも、それに向かってスキルを身につけるための経済的余裕もなく、日々の生活を維持するために「どの仕事だったら今すぐできるのか」と言う軸のみでエントリーし、ふるいにかけられてやっと得られるのが有期雇用の仕事だった。業種や専門性など吟味する余地もない上に「キャリア形成」という概念など無い世界線であることから、そこに本当に「職業選択の自由」があったと言えるのか疑問である。

そんな私だが、ひょんなことから数年前に正規雇用に転換となった。

「イレギュラーズ」

それにしても「正規」や「非正規」などという表現はいったい何なのか。人を表す言葉として不適切も甚だしい。何を持って「正」とするのか。「正」じゃなかったら「イレギュラーズ」なのか。むしろイレギュラーズと言う響きは反骨的でカッコいいかもしれないか。

職場の人たちは皆、私と違い、揃いも揃って「優秀」で「市場価値のある」人たちだ。海外経験も含めて一人で何個も大学を出ている上に、「自分のやりたいことのビジョンを持って、主体的にキャリアを形成していっている」人たちである。
そんな環境に元「イレギュラーズ」の私が放り込まれ、何故か同じ土俵に立たされている違和感を常に強く感じている。自分でも場違いであることを知っているし、きっと周りからもそう思われていることだろう。

ある時、職場のとあるグループに自分の働き方をシェアしなければならない機会があった。仕事に対してどのようなビジョンを持っているか皆が言葉巧みに熱く語る空気の中、私が「目の前の仕事をとにかく淡々とこなしていくだけ」的な話をした結果、彼らの口から飛び出してきた言葉がこうだった。

「それじゃあ、食べるためだけに働くようなもんじゃないですかぁ〜(笑)」

彼らは私より一回りくらい若い世代で、きっと「就職氷河期とか都市伝説でしょw」くらいに思っているか、またはもし同世代だとしても「優秀」で「市場価値がある」人たちなので「不況の煽りをまともに受けるなんて無能なだけ」または「ただの甘え」と思うのだろう。そんな士官学校出の彼らからしたら「食うために軍人になった」一兵卒である私の価値観は思わず笑っちゃうほどジョーク的に聞こえたのかもしれない。

住む世界が異なる彼らに共感も同情も求めていないが、自分のこれまでの生き様を笑い飛ばされたことによって自尊心の著しい低下という思わぬダメージを負うことになってしまった。そんなの気にしなければ良いだけなのだが、このダメージは随分後まで引きずることになった。それは、彼らの言葉をあまりにも無防備な状態で受け止めてしまったからだ。

異世界転生はもうキツい

とにかく食うために働くだけで精一杯だった自分の人生の中で、「自己実現に向けて、自分のキャリアに主体的にコミットしていく」などというキラキラ思想はこれまで持ったことがない。彼らのように、自分のやりたいことは何か、自己実現のためにどのようなキャリア形成が必要なのかを見極め、スキルを身につけ、企業でプロジェクトを達成し、人脈も発展させて次のキャリアへ繋げていく、と言う手順を私は経験したことがない。有期の仕事を転々としてきたため、そのようなロードマップを案内されたことがないし、専門性も無ければ経験業種も一貫性がなく、無節操にバラバラである。
それが雇用形態が変わった途端に横文字のバズワードが飛び交う世界線に連れてこられると言う最近流行りの異世界転生モノをリアルに体験することになった。まだ若ければ異世界で生きていく順応性もあったのだろうが、もうこの歳じゃあ伸び代もほとんどないので正直キツいのだ。

やりたくないことはたくさんあるが、主体的にやりたいことって特にない。
専門性もないし、ビジョンもないし、自分にしかできない特技もない。そもそも仕事を楽しいと思ったことが無く、それでも食べていくためには仕方のないこと、それが自分にとっての仕事だったし、そこに疑問を抱くことも今までなかった。
社会に出てから20年以上経つが、これまで行った数々の現場でそれなりに責任を持って仕事を遂行してきた。環境が変わるたびに、人の名前、業務内容、社内システム、手続きのお作法といった何の経験にも知識にもならないようなその会社に特化した情報も都度都度覚えてきた。サボったり手を抜いたこともないし、稀にエラーはあっても同じエラーを繰り返すことはなかった。だけれども、そう言うのも何もかも笑い飛ばされてしまったら、自分って何ができるのだったっけ、何もできないや、そういえば自分に価値なんてない、生きている価値がないんだ、と元々低かった自尊心は地に落ち、完全に道を見失ってしまった。

答えは自分の中にある

自分を他人と比較したところで、救いになるものは何もなく、時間とエネルギーの無駄遣いである。そもそも相手は職場の人であって、「優秀」だからと言って尊敬する人でも信頼する人でもない。そんな取るに足らない言わばモブの言葉をまともに聞き入れる必要などあるわけがないのだ。社会生活を維持するため表面上は軽く受け流すが(それが難しいのだが)、心の中では「うっせえバカ」と舌を出すくらいが私には丁度良いのかもしれない。
自分に必要なこととして強いて言うならば、当たり屋みたいなのに不意に遭遇しても間に受けない芯の強さを持つことだろう。そのためには自分を知り、そして自分自身を受け入れていくことだ。それが自分を守る武器となり防具となるはずだ。

この記事を書くにあたって件の不快な出来事を言語化していくことにより、随分長い間苦しめられてきたモヤモヤの原因が整理され、また書き進めていくうちに、自分には「武装が必要」であることがよくわかった。これは一歩前進とも言えることで、やはり言語化することと、そのプロセスとして書くことの有効性と必要性を改めて強く感じる。認知療法とも言えるこの作業は今後も続けていきたいと思う。私が知りたい答えは必ず自分の中にあるような感覚を覚える。時間はかかるかもしれないが、それを確実に掴み取っていきたい。

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