見出し画像

実務家教員の弊害

実務家教員の台頭

 そもそもは、大学の教育現場と実社会とのギャップをなくすために、実際に会社で働いている方を「実務家教員」として大学に招聘して、そのギャップを埋めることが目的であった。そのために文部科学省も法整備をしてきた。大学側からして見れば、そんなお題目より、あわよくば就職先にOBとして直結できないかと皮算用。さらに、著名な文化人などを人寄せパンダとするために大学側も積極的に採用してきた。

 その制度が始まってみると、有名大学では大手企業のOBを採用しはじめた。いわば老後の世話を大学がする事になった。その方々は、大企業内で管理職となり、現場を離れて数十年が経過している。知っている現場はしたがって数十年も前のこと。昭和であり、インターネットもない時代の働き方。

大学の真のバロメータ

 良い大学とは、上で述べた結果から、実務家教員の少ない大学と言うことになる。
 大学を出て大学院へ歩を進み、さらに研究職となる。大学に残る、すなわち、教育職に就くと言うことで、学部時代から教育に関わるため塾講師を務め、なかには教職の資格を取るものもいる。それもこれも、教育機関で教壇に立つという目的のため。人によっては、一度大学を離れて一般企業に就職するが、数年後、再び大学教育の世界に舞い戻ってくる、または、呼び戻される人もいる。いずれにしても、「教育」と言うだけではなく、その道の専門家でもある。

 新興のメディア系列の大学を除いて、こうした実務家教員の数は大学自体の方針、別な言い方をすれば「やる気度」の現われでもある。いや、経営度の表れである。そこには、経営側に「教育」という概念はない。
 そうした教員は、教壇に立つなり「今日は何を知りたい?」と学生に問いかける。ノープランで教壇に立っている。結果、昔の自身の武勇伝で終始し、それが繰り返されると学生は嘆く。そもそも、教育手法などと言うものはお持ち合わせてはおらず、自身の仕事についても体系的に、または、学術的な視点から考察したことなどない。あるのは泥臭い現場経験だけ。だから、武勇伝になる。
 そして大学側はといえば、そうした教員に限って上層部が懇願して呼び込んだ教員であるので、そう簡単に排除されないし、その上特権階級でもある。今は文部科学省の強制項目でもある「授業アンケート」のようなもので最悪な評価を喰らったとしても、その大きな傘に守られているのでほとんど無傷で生き続けられる。

 あなたは、あなたの大切なお子さんに、そうした名ばかりの教員にさらすことを大金をかけることを希望しているのでしょうか?

教員の資質

 いくつかの大学のホームページをみると、その大学自身の教育度合いが分かる。つまり、その大学に所属している教員をどのように紹介しているかをみるとわかる。

 教員となるための資格は、勤めた一部上場の企業名ではなく、出身大学が問題になる。きちんとした大学では、教員の学歴欄にきちんとそのことを明記する。「〇〇博士(早稲田大学)」など。ここで見るべきは、どこで修士や博士を取得したかである。当然、Cランク以下の大学では、大学院への入学も容易であるし、論文審査も容易である。Cランク以下の大学では、集める教員もたいしたことがない。そして、大学の中心的組織の教授達も含め、そのことが記載されていない。書きたくないのです。

 教育の原則に、「良い学習者は良い教員によって育てられる」というのがある。やはり、良い教員は、見聞の深さと優れた教育手法で良い学習者を育て、そして、その学習者は教員となって、さらに良い学習者を育てる。そうしたプラスの連鎖が続いていく。昔から、教育でそうした急進的な場所は「予備校」や「塾」。なので、そこの講師から素晴しい教育を受けた学生は、将来、予備校講師として戻ってくる。大抵の塾講師になる動機がそこにある。
 ただ、どうだろうか。今の大学教育では。そこまで熱意を持って最良の指導をする教員はほぼいない。

終わりの始まり

 実務家教員が許可されてからかなりの時間が経った。今では、最初のようなカラ騒ぎもおさまり、定着してきた感もある。ただ、あからさまな有名企業卒を入れることはなくなったが、やはり、上層部の縁故者を呼び入れることは続いている。よく見かける「公募」も形ばかりで、実際に応募してみればライバルは既にその席を確約されていることに気がつく。

 そもそも定年で採用されることの多い実務家教員は、もう、「第2の定年」にかかっている。そして、新たな実務家教員が縁故で呼ばれ教壇につく。今は、第3次戦線くらいになっているのではないだろうか。あの衝突があった最初と比べ、実務家教員との衝突がなくなっている。それは定着したのではなく、大学人側が飲まれてしまっているという証拠でもある。だから、なおさら教員の経歴、そして何よりも熱意を調べる必要がある。

 まあ、受験生側やその保護者が、大学に何を求めるかにもよる。
「楽しいキャンパスライフ」なのか、「充実した授業」なのか、「就職先」なのか・・。でも、考えて欲しい。「ここは大学である」ことを。それは、高等教育を与える場であることを。決して、遊び場や就職斡旋窓口ではないことを見直して欲しい。教育を「儲かる職種」として経営を果たして欲しくない。というと、「大学潰れたら教えることだって出来ないだろう」とのよく聞く反論が聞こえてくる。経営のために大学があるのなら、その大学は淘汰されるべきでもある。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?