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カメラを向ける、ということ。

私は昔、戦場カメラマンとかジャーナリストになりたかった。

東ちづるさんのドイツ国際平和村のレポートを読んで、アジアの子達は遠くて環境の違うドイツよりも沖縄で育てていけばいいのではないかと本気で思っていた。
米軍基地の跡地利用として国連平和大学を誘致し、その中に沖縄国際平和村を作る。

それが17歳の時の金城有紀の夢で、米軍基地の返還は何度沖縄県民が訴えてもまだまだ先になりそうだから、まずは世界を知りたい、世界の状況を伝えるには?みんなが平和に関心を持つには?と考えて、写真や映像の力を信じ、技術を身につけようと思った。剣はペンよりも強し。カメラとペンで「伝える」を本気でやってみたかった。

大学は映像学科を選択。大学は限られた。すごい倍率だった。
だけどもそこには私の目指したようなドキュメンタリーとかジャーナリズムに興味を持っている学生は全くと言っていいほどいなかった。
みんな、アニメや映画が作りたい人たちだった。(私も映画は作りたかったけど。系統が少し違う?)
すぐに中退してしまった。

2つめの大学は通信制の法学部に進み、社会学、国際人権・人道法、刑事政策学と出逢った。政治学を専攻したけど法律の方がおもしろかった。エビデンスの重要性はここで身につけた。
通信制の大学のスクーリングはとても楽しかった。1日が学ぶことで終わる。毎年1ヶ月間だけ東京タワーの近くで寝泊まりし、大学へ行く。外食をして戻り、ギリギリまで勉強し、お風呂に入って寝る。とてもとても贅沢な時間を過ごした。

通信制の大学だったので8月の1ヶ月以外は大学に通わなくてもよかった。

19?20?歳の頃、NGOの企画を見つけて、単身でカンボジア🇰🇭に井戸を掘りにいった。安いカメラを片手に。若いってすごいと思う。

黙って行ったので、帰ってきた時は離れて暮らしているのに沖縄の母親が怒り狂っていた。

カンボジアではたくさんのことを学んだ。支援とは?写真を撮るということ、撮られるということ。

今日このことを書こうと思ったのは戦時中の沖縄の写真を見たからだった。

ほとんどのこどもたちは、カメラを向けると笑顔になる。そして見せて見せて〜となる。彼ら彼女らが「撮って欲しい」写真を撮りたいと思った。

ジャーナリズムや「支援」は時として大きな暴力性を含む。そこを忘れないようにしたい。

たくさんの人の幸せのために誰かが犠牲になる時代はもう終わったと思う。ひとりひとりの幸せと向き合えば、それが広がって、世界はきっと平和になると思う。

私たちひとりひとりが「ごきげん」でいることがとても大事だと思う。

今日も私なりに頑張れた。
おやすみなさい。

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この子たちはカメラを向けられた時、どう思っただろうか。私はこの時の自分の暴力性を、絶対に忘れてはいけないと思っている。

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