「楽しむ」ことが「悪」だと思っていた頃の私へ。

普段の私を知っている方、今の私からは想像がつかないと思いますが、少し前までの私は、「楽しむこと」が「悪である」と思って生きていた時期があった様に思います。思います、というのは、わざわざそう意識はしてはいないけど、きっとそうだったんだろうなーと思うことがあるということで、なんや、また、面倒くさいお話です。

少し前までの私は必死になって、苦しんで、自己犠牲をしてナンボだと思っていたように思います。なんじゃそりゃ。と思うかもしれませんが、うーん。今もキチンと抜けきれているかと聞かれると、正直自信がありません。やっぱり時たま、どうしてもそういう自分が見え隠れする時があります。

人間というのは、楽しめる時に楽しいことをしないと、心から「楽しむ」ことができなくなってしまう。と思います私が今、教育分野に関わる時、子育てをしながら(できてないかもしれませんが)一番気をつけていることがこれで「何もしない時間を楽しむ」ということ。「何かをしていなければ価値がない」ような風に持っていかないこと。をとても意識しています。

みんなが上手に楽しんでいる時に、楽しむことができない癖がついてしまうと、なかなか抜け出すことができないように思います。努力をしていないとダメ。何かを考えていないとダメ。何かを生み出さないとダメ。ダメというのは「価値がない」と感じていたということです。

自分は恵まれている人間だと思ってました。きっとそういう風に言われて育ったんだと思います。けれど、両親から「認められた」ような経験がありませんでした。常に「上」を目指させられていたように思います。「恵まれているのだから」と。だから、できないと「できるはず」「もっと頑張れ」と言われ、できると「できて当たり前」でした。元々の性格が怠惰なので、私は「努力しているフリ」をする子どもに仕上がっていきました。小・中学生の頃は特に優等生のフリをしていたし、真面目でしたが、通わせてもらっていた塾ではずっとおしゃべりをしていたように思います。悪いものはみせず、というか「なかったこと」にして、良いものだけをみせていました。今のズルさはこの頃に形成され、変わっていないのだなぁと、今書きながら気がつきました。(そして、それなりにあの頃の私も傷ついていたのだなぁと気づきました)


そうして私は素直に「ありがとう」が言えない子に育ちました。母とはずっと不仲で、息子の出産を機にようやく少し仲良くなれたと思っていましたが、結局打ち解けて2年くらいで母は死んでしまいました。そして私の後悔は、最後まで母に「ありがとう」を伝えることのないまま、永遠に別れてしまったことになります。

なぜ、私が素直に「ありがとう」が言えない子どもになったのか、というのを考えてみると、どれだけ頑張っても「当たり前」でうまくいかないと「努力が足りない」「考えていない」だったので、努力してうまくいかないと子どもでもそれなりに悔しかったので、「努力しない子」になりました。そうすれば、結果が悪くても「だって本気でやってないもん」という言い訳をすることになります。一つも「有難し」の経験がない子どもになってしまったのだろうと思います。たまたま成し遂げても「あたりまえ」であり、できなくても(努力をしていないから)「あたりまえ」なのでした。でも、何もしていないことに価値はないので、「努力をしているフリ」はし続けていました。なので「楽しむ」ことはなかったように思います。遊びに行った記憶があまりなく、何かをしていないといけない、頑張ってなければ(フリをしていなければ)ならない。といった感じでしょうか。高校の頃も冷めていました。頑張ることをしない人間でした。

「楽」と「楽しい」は違う。楽すると楽しくないし、楽しいことをしようとすると、楽ではない。という言葉があります。私は「楽」をしていきてきたのだと思います。

ですが、望んで「楽」をしていたわけではありません。そして、心情的にも全く「楽」をしたと感じたことはありません。むしろ逆で、「苦しいこと」「努力(のようなもの)」を必死でやっていたように思います。「恵まれているもの」としての役割を果たさなければならないと必死だったように思います。

小学校の高学年の頃から、なんで戦争は起きるのだろう?とか難民キャンプとか従軍慰安婦とか、原爆とか、地球温暖化とか、そゆことにばっかり関心がある子どもでした。ずっと「課題」を見ていたんだと思います。「気づいたものが行動しなければならない!」という今考えるとゾッとしますが、正義感にあふれた子どもでした。(のちに、それぞれの「正義」が「戦争」を作っていることを知ります)
中学では県費で台湾研修に行かせていただいたり、高校生の頃も「従軍慰安婦の記述についての教科書問題」があった頃で、韓国と沖縄と東京のを結んだテレビ電話の会議に参加したりしていました。その頃ちょうど、「ドイツ国際平和村」との出逢いもあり「沖縄の米軍基地の跡地利用は、コスタリカに続き、国連の平和大学アジア校を誘致するんだ!(そして、そこで、アジアの難民を受け入れる!国際平和村をつくるー)」とか本気で思っていました。(のちにフィリピンに国連平和大学はできました)あ、でもこれは、、ちょっと、今でも思っています。

なんかね、きっと、そういうことをしていたら、親からもその他からも認められると思っていたんです。きっと。「気づいた者(恵まれている者)が動く」的な。
でもね、親が私を褒めてくれること(まあ、これを認められる、と思っていた)は一度もありませんでした。褒められたことなかったなぁ。一度も。(父はまだ生きているので、これから褒めてくれるチャンスはあるのかもしれませんが、まあ期待はしてないし、そゆことじゃない。)
私は親に「ありがとう」を言えていないし、「認められてもいない」。なので、やってもやっても「承認欲求」が満たされることがないのでしょう。楽しむことがこわい。そのまんまの自分であることがこわい。やってもやってもこれなら、、、と思っているんだと思います。

結局は「求めているもの」と「求められているもの」が違う。というミスマッチなのだけれど。

結果として、これはずっといろんなことをこじらせる原因になっています。恋愛とか恋愛とか恋愛とか。そのまんまを認めてもらう(好きでいてもらえる)という経験がないので、(相手が求めていないカタチ、自分勝手に)尽くしまくり、相手はそれいらんわー。となってるのに「え?こんなに尽くしたのに?」的なことをうみやすいのだと思います。求められてるとこ、そこじゃないんだよねー、的な。ああ、もう、、これ以上は書かないでおくことにします。

(親も、愛する人も、やってること云々ではなく、そのまんまの私として、とっくに認めてくれていたのかもしれないんだけどね)

去年、オランダ発ポジティヴヘルスを学び、今の自分自身を見つめる訓練をたくさんしました。最初は「今の自分」をさらけ出すのが、本当に嫌でした。自分でも自分を知ることがイヤなのに、なんで他人にその暴露をしないといけないんだろう。とか。「安全の場」が全然私にとっては安全の場ではなくて、最初の時(福井)は自分を知ること、それを話さなければならないこと(これも、今思うと、全くそんなことはないんだけど、「話さなければならない」と思い込んでしまっていた。)認めたくなくて、悔しくて、1日目は泣きました。自分を見つめること、もっというと「ありのままの自分」を「私自身」が認めてあげることができなかった。

去年の4月の地点で「そのまんまの自分」が自分自身でもわからなかった。
そこからだんだんと。ポジティヴヘルスと8月に軽井沢キッズケアラボに参加したことも、自分を知ることができた大きな経験だったと思います。ここもまだ言語化できていないけど、いつか書けたら。

ポジティヴヘルスだって「沖縄を変える!」という大義名分がなければ、きっと行けなかった。でも、今は「楽しそう!」とか「楽しい」が目的で動けているし、あの頃の一歩とは全然違う。目的が違う。

私はようやく、自分の人生を「楽しむ」ことができるようになったのかもしれない。今は「楽しい」ことが「こわくない」。そゆ意味でも2020年は自分のすることの展開がとても楽しみ♪なのでもあります。

なんと、3500文字、、、。
ここまで読んでくれた人はいるのだろうか。。。
自分自身を振り返ることでの気づきが最近大きいので、振り返りながら書いてみました。有益でもないかもしれない、役にも立たないかもしれない。そんな文章でしたが、ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。

他人からの承認欲求というよりも、自分で自分を知り、自分を愛する方がハードルが高い人もいる、というお話でした。(?)

では、また明日。おやすみなさい。

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