中東映画万華鏡01「ある女優の不在」(イラン)
イランの映画監督ジャアファル・パナーヒーのもとに、田舎の若い女性マルズィーエから自殺動画が届く。女優になる夢を絶たれた、人気女優ベーナーズ・ジャアファリーに家族の説得を頼んだが無視された、という。パナーヒーからそのことを聞いたベーナーズは、パナーヒーとともに、彼女の住むアゼルバイジャン州サラン村を訪ねる。そこでわかったのは、マルズィーエが村人から嫌われていること、そしてサラン村には、イラン革命前に活躍した名女優シャールザードが、ひっそりと一人で暮らしていることだった…。
キヤーロスタミーによってイラン映画に目覚めた人なら、誰でもジャアファル・パナーヒー監督の「ある女優の不在」(2018年)を、いわゆるイラン映画らしい、キヤーロスタミーの魂が受け継がれた作品だと思うだろう。イランの地方への旅を描くロードムービー、詩的な言葉をこともなげに話す村人たち、虚構と現実とが入り交じっていて、どこからがフィクションなのかがわからなくなる感じ。まさに、パナーヒー監督がキヤーロスタミーのもとで修行を積んだことを思い起こさせる作りだ。
通常の体験の世界に、たえず不可視の、異次元の世界が触れてきているような、一種のスーフィズムめいた感覚を呼び起こされ、見終わった後に少し酔ったような気分になる。イラン映画は現代世界における神秘体験のひとつだ、と思わずにいられない、そんな作品である。
パナーヒー作品の最大の特徴は、ざらついた手触りのように見えて実は一つ一つのシーンが細部まで計算され尽くされている点だ。映画冒頭の、マルズィーエの自殺動画を見て、パナーヒーは「この動画は自然だ。編集したものには思えない。もし編集したとしたらそれは非常に高度な技術だ」と言うが、まさにこの「高度な技術を使って自然に見せる」のが彼の流儀だ。
おそらく彼は相当な完璧主義者であり、その点でいわゆる「人格者」とか「人柄が良い」というのとは違った強烈な個性を持っている人なのだろうと推測する。そして私は、そのような彼が生み出した作品になぜか強く心惹かれてきた。2010年の自宅軟禁と映画制作禁止以来、特に2013年の「閉ざされたカーテン」の時は、画面全体に監督の落ち込みが溢れており、なんだか作品を通して観客を巻き込む形でセラピーをやっているみたいだなと心配したが、その後の「人生タクシー」(2015年)でちょっと復活したなと感じ、2018年の「ある女優の不在」で「ああ、大丈夫だ」とだいぶ安心したというのが正直な感想だ。
私はこの映画を日本公開時(2019年)に映画館で見て、ブログに感想を書いたのだが、今回、アマゾンプライムで配信されているのを見つけ、再び見てみた。この文章は、当時書いたものをベースに、加筆修正を加えたものである。
☆☆☆
「ある女優の不在」が、イランにおける女性の抑圧の状況と、そこからの脱却をテーマにしていることは、すでに多くの評でも指摘されている通りである。原題は「三つの顔」であり、それは冒頭で動画を送ってきた女優志望のマルズィーエ、人気女優のベーナーズ、そして村に住む革命前の女優シャールザードの三人を指している。
パナーヒー監督はデビュー作以来、女性をテーマにした作品を多く制作している。なかでも最も重要なのは2000年の「チャドルと生きる」だ。原題「円」の通り、イスラーム共和国体制下のイランで生きる女性たちの問題や苦しい状況を、永遠に終わることのない円環状に配置した作品で、その「円」から脱出しようともがく、あるいはあきらめて「円」の中で生きようとする女性たちの努力を描いている。
「ある女優の不在」が、「チャドルと生きる」と違うのは、「円」の構造ではなく、「線」の構造をとっているという点だ。「三つの顔」となる三人の女優は、それぞれがイラン女性の過去・現在・未来を象徴する役割を振り当てられており、過去から現在、そして未来へと、決してまっすぐではない、ジグザグな、けれども一本の「道」を歩いて行くという形になっている。(このあたりが、キヤーロスタミーのコケール三部作を思わせる)
そして「チャドルと生きる」においては、どちらかといえば、その「円」の中でもがく彼女たちの努力そのものが美しいのだ、というスタンスで、そこに「希望」は見えないという描き方だったが、この作品は少し違う。作品の序盤で、自殺動画が送られてショックを受けるベーナーズに、パナーヒーは「どんな逆境の中にも必ず希望はある」と言う。これは2010年の自宅軟禁以来、数々の試練を乗り越えてきた監督自身の述懐であるとともに、女性たちへのエールにもなっている。監督が、全編を通じて女性たちをサポートし、見守る役割に徹しているのも特徴的だ。もちろん、それらもすべて計算の上のことかもしれないが。
☆☆☆
今回、4年ぶりにこの映画を見て、パナーヒーはストーリーテリングがうまいなあと改めて思った。何というか、観客の心に種を蒔くのがうまいのだ。この映画でも、実際には画面に出てこない女優シャールザードについて、登場人物の会話を通じて、観客が自然に心を寄せるように仕向けていく。
シャールザードはイラン映画の金字塔、「ゲイサル」(1969年)で、酒場の歌手を演じた女優だ。中東映画でベリーダンスを見慣れている私でも、彼女の歌と踊りのシーンは、鼻血が出そうになるぐらいセクシーで、びっくりした記憶がある。
「ある女優の不在」では、イラン・イスラーム革命によって演技を禁じられた彼女が、サラン村に越してきた設定になっており、度重なる村人からのいじめに耐えた後、今ではもう嫌がらせを受けることもなく、絵を描きながら静かに暮らしているというストーリーが語られる。作品を通じて彼女の台詞はないが、「ゲイサル」での劇中歌と、本人の声で朗読される詩が披露される。学校の出席確認で名を呼ばれたが、返事をしない私の存在は消えていく…といった内容の、美しい詩だ。
シャールザードも、周囲の人間によって女優の夢を断たれたマルズィーエも、そして映画制作禁止命令を受けたパナーヒー監督も、自らの生きる場を、つまるところ自らの思いを発することを奪われた人々だ。
彼らがそのような境遇に追い込まれた真の原因は何か。そして、声を出すことを禁じられた人々が、どうやって新たに道を切り開き、歩いて行くのか。映画はそれを、観客の心に静かに問いかける。問いかけこそが、最大の抗議になるのだ、と言わんばかりに。
☆☆☆
映画の序盤、すべてはマルズィーエの狂言ではないかと疑うベーナーズは、パナーヒー監督と口論し、二人はいったん別れる。その時に監督が言った台詞が心に残った。「僕は誓いが神に届く場所を探すよ」
誓いが神に届く場所。
夢を絶たれ、希望を絶たれ、声を発することができなくなっても、必ずどこかにそれはある。まずはそこを探して、一歩を踏み出し、頼りない足取りであってもとにかく歩いていくこと。それが監督の信念なのかもしれないと思った。
今日、イランの女性たちの闘いは続いている。パナーヒー監督自身も2022年7月から半年間もの間、逮捕・収監された。この映画が制作されてから5年の月日が流れたが、誓いが神に届く場所はまだまだ遠いのかもしれない。それでも諦めずに歩き続けている人々がいることに、改めて思いを馳せずにいられない。
新作「熊は、いない」(監督の収監中にヴェネツィア映画祭で上映された)の公開も間近に迫っている今、改めて、多くのイラン映画ファンの方に、「ある女優の不在」を見ていただければと願っている。