自分が思っている以上に育ってきた文化に染まっている(2)

 前回、同タイトルで書いたノートで例を3つ挙げたのですが1つ目が長くなってしまったのでノートを分けることにしました。その続きです。簡単に言うと、異文化に触れることで初めて実感する自分の文化があったり、自覚していないけどその文化に想像以上に染まっていたりする、という話です。
前回挙げた3項目は以下の通りです。
1. ”気遣い””察し”の文化
2. ルールに従うだけ
3. 発言・質問をしない(アメリカ人はよくする)
今回は2. 3.についてエピソードとともに説明したいと思います。

2. ルールに従うだけ
 これは「ルールにきちんと従う」という意味では良いこととして語られますが、一方で「ただルールに従うだけでそのルールそのものを疑わない」「既存のルールを守るだけで新たな発想が生まれない」というように批判として語られる方が多い気がします。これについて私はあまりピンときていませんでした。ただ、「常識を疑う」ことから独創的なアイディアが生まれたり、既存の枠組みにとらわれないことでイノベーションが起きたりすると思うので、「”ルールに従うだけ”なのは良くないなあ」という風になんとなく思っていました。しかし、実際に”ルールを疑う”とはどういうことか、実感がありませんでした

 初めて気づいたのは秋学期に履修していたある授業でした。35人程度の少人数で、ディスカッション形式の授業だったので教授との距離が近く、学生の発言も盛んで、イメージしていた通りの”アメリカの大学の授業”という感じでした。その授業は事前に指定された教科書や論文を読んでくるのが前提となっていて、全25回程度の授業のうち自分で選んだ4回、指定された文献の要約や意見をまとめるreaction paperを提出するという課題がありました。4回提出するのをいつの授業にするかは自分で選べるのですが、「授業の前日24時までにオンライン提出」と決まっていました。
1学期の半分が経過した頃、提出がまだ少ないと教授が忠告すると、1人の学生が「提出期限を変更してほしい」と提案しました。「前日の24時までだと厳しいから授業当日の昼まで認めてほしい」という主張です。すると他の生徒も同感だったようで「授業に間に合えば良いはず」「そもそもなぜ前日までなのか」という風に次々に発言していきます。そして教授は「提出された物を授業の前に内容を確認したいからギリギリはダメ」(この授業は15時開始)ということで、教授と学生の交渉により、「当日の朝10時まで」に提出期限が延長されました。私も、授業のある日の午前中が休みだったので、「前日24時までじゃなくて授業までの締切だったら今回書けたのになあ」と思うことは確かにありました。しかし、この教授は授業計画を詳細に組み立てていて、この課題についてもシラバスにも詳しく書かれていたので、私は「授業の前に教授も確認したいんだろうな」と自分なりに解釈して、変更を求めるという発想は全くありませんでした。
この瞬間に、「”ルールを疑う”とはこういうことか!」と気づきました。そして、それが素晴らしいことだとは思えなかったのです。私は「前日24時までに仕上げなきゃいけないから、授業直前ではなく余裕を持って取り組もう」「先に提出する授業日を決めてその文献を優先して読もう」という風に、ルールを所与として自分の行動を対応させていく発想でした。そして、「それが普通じゃないの?」と思ってしまいました。何かしらの理由があって教授が決めてることなんだから、それを守るように行動すべきだ、と思ってしまうのです。

 他の実感したエピソードは省略しますが、このように、「私が所与としていたものに交渉の余地があったのか」と思うシーンは多々あり、ルールに対する認識の違いを実感します。確かに「ルールだから」という理由で思考停止してしまっては非効率・非合理なルールが存在し続けたり(最近の例だと”変な校則”問題など当てはまると思います)、ルールが時代の変化に追いついていなかったりという問題に繋がります。そういう側面において、「日本人はルールを疑わずに従うだけ」という批判があり、「ルールを疑う」必要が訴えられていると思います。私も今回の経験をしてから「確かに”ルールだから”という理由で勝手に納得してきた物が想像以上にあるかもしれない」と考えを巡らすようになりました。
 しかし同時に、「毎回これだと収拾がつかなくなりそう」とも思いました。今回の提出期限の例だと、先に決められてるルールを守れるように自分が行動を変えていく必要があるのではないか、と思ってしまいます。「人それぞれの希望を聞いて交渉して落としどころを見つける」という作業を繰り返すのは時間がかかると思ってしまいました。これが、ルールに従うのが当然という文化が染み付いているということなんだと感じました。思考停止せずにルールを疑う vs 秩序を守るためにルールに従う、という考え方のバランスが非常に難しいと感じました。

3. 発言・質問をしない(アメリカ人はよくする)
 これは高校や大学など、教育機関でよく言われている印象があります。私はよく耳にしてきて、改善すべきだと思っていました。例えば、授業内容に関する質問がある時に、授業中に教授が「質問ある人?」ときいても挙手しないのに、授業が終わった後個人的に質問に行く人を見かけることが日本の大学だと多々あります。大学の授業だけでなく講演会などでもあります。全員が聞いていた話に関することなら、質問もその回答も全員でシェアすべきだと思うからです。また、本当は質問があるのに恥ずかしいからしない、意見を求められていても自分の意見がない、意見があっても発言するのが恥ずかしい、などは議論を活性化せずに冷めさせてしまい、良くないことだと思っています。

 実際にアメリカの大学で授業を受けてみて、確かに日本人と比べて発言・質問が多いということを実感しました。また、教授も内容がひと段落すると「質問ある人?」「何か意見ある?」と学生に確認する場合が多く、発言・質問への意識の違いを感じました。簡単な内容の確認(例:計算式がどうしてそうなるのか、今の説明はこういう解釈であっているか)から、議論を持ちかけるような意見(例:今説明にあった理論とは別にこういう理論も以前習ったがどちらが良いのか、今の主張には反対せざるをえない、なぜならその考え方に基づくと〇〇が〜…)もあります。1人の学生がした発言に対して教授も持論を展開したり「確かにそれは難しい問題だ」と一緒に考えたり、他の学生も主張を始めたりと、議論が盛り上がる瞬間は楽しいです。
 ただ、この発言・質問が活発な状況を何度か経験するうちに、疑問も湧き上がってきました。質問内容が、自分が教授の話を聞いていなかっただけだったり、教科書を読んでいなかったりするだけのことがあるのです。「いや、そこ今説明してたし!」「いやいや、それは教科書に書いてあるじゃん!」という具合に私は心の中で突っ込んでしまいます。しかし、大抵の場合、教授は突っ込む(「それは今説明したから繰り返さない」とか「教科書を自分で確認しろ」とか言う)ことはなく、きちんと回答します。違いはここだ!と気づきました。日本人がなぜ質問しないか、の理由の1つに「自分が間違ってる(何か勘違いしてる、聞きそびれた、理解できていないだけ)のではないか」と疑うから、そしてその場合には自分のミスなのにもう1度説明させるのは申し訳ないと感じる、ということがあると思います。少なくとも私はそうです。「わからないことがあるなら質問しよう」と意識しているにもかかわらず、特に積極的に質問していた訳ではない理由を思い返すと、まさにこう考えていたからです!アメリカの場合は、「自分が聞きそびれたのかもしれないが…」と前置きしながらももう1度説明をお願いしたり、そんなこと触れずに「わからないから説明してほしい」と言ったりする学生がほとんどです。教授・学生双方が「理由に関係なくわからないところは質問する」という認識を共有している文化だからこそ成り立っている気がします。
 そして、それは日本には馴染みにくい気がしました。私自身が「自分で調べればわかることは質問すべきじゃないのでは?」と思ってしまう瞬間があり、おそらく日本ではその風潮が一般的な気がします。教授も、アメリカのように「なんでも質問して」「自分がわからないことはきっと他の学生もわかってないから」と仰る方も時々いますが、少数派です。また、それはおそらく日本の学生があまりにも質問をしないから強調しているけど、アメリカの学生ほどのこまめな質問は求めてないような気がします。

 発言・質問はもっと活発になるべきだと思っていた私ですが、「うーん、これは少し違うかも」と思ってしまったということです。これについても、収拾がつかなくなる、という危惧があります。実際に、発言・質問を積極的に受け入れる教授の授業だと全然予定通りに内容が進まないことや、事前に予習しているはずのことに説明の時間を費やすこともあります。でも、誰も理解していないことを予定通りに進めたところで意味はないとも思います。だからやはり、”ちょうど良い活発さ”というのは難しいというか、無いのかなと思います。発言・質問の基準(例:ただ聞き逃しただけなら繰り返さない、既習のはずの内容は聞かない、など)を設けたら良いと思うかもしれませんが、そうした結果が日本の文化な気がします。「これは自己責任かな?」「こんなこと聞くべきじゃないかな?」と心配して、本当はすべき質問もできなくなってしまうと思います。

まとめ
 以上、前回のノートと2回に渡って、いかに自分が育ってきた文化に染まっているかをお話ししました。明確な結論はなく、「何が言いたいんだよ」という感じが否めませんが(笑)、なんというか、言いたいことは次の3つです。

1. 異文化と触れて比較して、初めて気づいたりピンときたりする文化がある
2. (異文化の良いと思っていた側面であっても)、全肯定できる訳ではなく、自分が育ってきた文化にいかに染まっているか気づく
3. 無意識に自分が染まっていた文化を認識することで、適切な行動を取りやすくなる(どちらか一方の文化に振り切るべき、というわけではなく、「こういう傾向があると自覚した上で、私はどうしよう」と考えられる)

 書き始めてみて、この話題について感じたことを言語化するのがいかに難しいかを実感しました。何が言いたいのかわからなくなってやめようかと何度か思いましたが、とりあえず感じたことを感じたままに書いてみました。こうやって日頃感じていたり、それをまとめて考えたりすることによって、その文化の特徴的な行動って背景があるんだ、ということに気づきます。だから、単純に「日本人の〇〇なところがよくない、改善しよう!(こういう発想自体は本当に大切だと思います!)」と思ったところで、その一面だけを考えただけでは変えられないだろうなと感じました。そういう行動を取っているのにはそれなりの理由・背景・環境があるんだなと気づきました。

とりとめのない文章を最後まで読んでいただき、ありがとうございます!少しでもニュアンスだけでも、伝わっていたら嬉しいです!

 

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