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思い出がまたなくなる

祖父の夢

 先週だったか、早朝に子供達を起きるように電話をし、二度寝していた時のこと。もう十何年かぶりに祖父の夢を見た。それがとてもリアルで、いつもお気に入りだったベレー帽によくみたジャケットを着ており、ただ色が白づくめだった。僕が郵便局でお金を引き出そうとして、それがうまくできなくて窓口の前の椅子で困っていた時に、頭の上にポンと大きな手が置かれ、見上げると祖父だったのだ。僕は泣きながら「おじいちゃん、おじいちゃん」と呼びかけたが、祖父は何も答えずそのまま棒のように僕の頭の上に倒れかかった。それが重くて起こそうとしたけど、全然だめで、そこで目が覚めた。あまりにリアルだったのと、久しぶりだったのが気になり、思わず実家界隈で何かあったのかと母親に電話したくらい。特に何もなかった、というかそこで聞かされたのは、祖母が5年前に亡くなってから住む人もいなくなっていた祖父母の家がとうとう売りに出され、人手にわたり、月末にも解体されるという。母親や叔父夫婦が仏壇の世話で毎日出入りはしていたものの、管理も大変だし、いつかそういう日が来るだろうとは言われていたが、それがいよいよ現実のものになったということだ。

祖父母宅で過ごしたいろいろ

 祖父母の家は、実家から歩いて10分くらいのところ。実家がそんな近くになったのも祖父が近くに娘夫婦を住まわせたいと思い、そこで見繕ったからと思われる。だから、小さい頃からよく遊びに行った。思い出はいっぱいある。
 前にかいたかもしれないが、幼稚園の時、晩ご飯のオムレツが嫌で嫌でしょうがなくて、文句を言っていたら母に「そんな嫌なら出て行きなさい」と怒られた。僕はどうしても硬いニンジンやおいしくないタマネギを食べたくなかったので、本当に家出することにした。幼稚園でプールの用意を入れていたタカラブネのカバンに着替えを詰めてもらい、夕方だったかな、一人でいつも自転車で母に連れられて、祖父母の家に向かう堤防沿いの道をひたすら歩いた。途中で隣のおばちゃんに「こんな時間にどこ行くん?」と聞かれ、「家出するねん」と答えた。今からすると、ようそんな幼児をそんな時間から一人で外歩かせるなあと思うが、牧歌的といえばそれまで。
 祖父母の家では確か焼き魚の晩ごはんだった。オムレツよりはよほどいいと思い、ありがたくいただいた。きっと母から連絡は来ていたのだろう。その後、妹が麻疹になったか何かで実家には戻れなくなり、しばらく祖父母宅で過ごすことになった。

 その次に長く過ごしたのは、小学4年生の冬。母が大病を患い、しばらく入院することになった。父は家事など一切できない人だったので、学校の弁当とかもあるし、着替えを僕と父と妹の3人分をもって、祖父母の家に居候することになった。僕は当時集めていたゾイドを20体くらい全て、父の車に積んでもらい、祖父母宅に持ち込んだ。ファミコンとかは買ってもらえなかった家だったから、唯一の遊び道具だった。
 祖母は朝からお弁当を作ってくれた。子供が好きそうな、肉の甘辛く味付けたやつとか、唐揚げとかおかずをたくさん入れてくれた。母の病気は春まで気づかなければ命はなかった、という状況のもので、年明けすぐに手術があった日は、祖父は仕事に出たが、祖母は仏壇の前で「◯◯の手術がうまくいきますように」と手を合わせて、涙を流していた。子供ながらに事の深刻さに気づいて、自分も泣き出しそうになった。手術から1週間ほどして、梅田で父と妹と映画を見た帰りに谷町四丁目にある国立病院まで見舞いに行った時、別人のような母の痩せっぷりにとんでもないショックを受けた。昼食のヤクルト一本もよう飲めないし、小さな小さなポテトサラダもサジで掬い取るようにして無理やり口に入れる様子は今でも焼きついている。
 2月に母は退院したが、すぐには家事ができないので、しばらく4人で祖父母宅には厄介になった。そして、その後、自分が盲腸の手術で入院することになり、長く祖父母には迷惑をかけることになった。

 最後は高校の時かな。家族が北海道だったかどこだったか忘れたけど、旅行に行く時に自分は参加せずに大阪に残った。とはいえ、自炊とかできないので、1週間くらいだったか、当時はまっていたpcエンジンduoというゲーム機本体を持ち込んで、ひたすらパワーリーグという野球ゲームをやり続けていた。今の長男と同じくらいの時期。長男もゲーム中毒だが、人のことは言えない。毎日遅くまでゲームをしていたが、それでも祖父母は何も言わなかった。朝食のトーストにいつもハムが乗っていたことを覚えている。

祖父母の死

 祖父は、僕が大学4年生の時に亡くなった。ある朝、トイレを行ったときに倒れ、そのまま意識が戻らないまま、生命維持の線を親族で話し合って、最後は止めた。脳の線が切れたのかして、病院にいる間はずっと目が開いていた。起きているようだが、意識はない。乾いてしまうので、どうしても涙が伝ってくる。お見舞いの時、その姿を見るたびに僕は泣いた。それまで人前であまり涙を見せることはなかったけど、あの時を境に結構、涙を見せるようになったかもしれない。

 祖母はそれから長生きした。親族に囲まれ、寂しい思いをしないようにみんなで盛り上げた。僕も結婚して、子供ができてから、何度も孫の顔を見せに行った。親族の一部と折り合いが悪かったので、タイミングを見ての訪問だったが、それでも祖母は喜んでくれた。100歳を過ぎて、さすがに寿命が尽き、長男が6年生の時に亡くなった。そのとき、僕は一度めの持ち家を処分して、池田の賃貸に住み、長男の受験に備えていた。亡くなった日、僕は仕事をしていたけれど、父から「危ない」と連絡を受け、上司に言って早退させてもらった。千里の病院まで会社の下からタクシーを飛ばすと、僕が一番乗りだった。病室に行くと、まだ親族が来ていないので死亡認定はされていないけれど、祖母の手をさするともう冷たくなりかけていた。僕は「おばあちゃん、おばあちゃん」と一人で何度も呼びかけたけど、もう祖母は何の反応も示さなかった。やがて、叔父らも到着し、主治医がやってきてそこで死亡確認となったが、最後に二人だけの時間を過ごせて僕は良かったと思っている。人間の最期は聴覚が最後まで残るというし、呼びかけが聞こえてくれていたらいいなと思えたので。葬式には長男も連れて行った。受験前の秋だったけど、制服を着させて、きちんと挨拶をさせた。人の死を見送るという機会は、僕は高3の時の父方の祖父の死が初めてで、そのときいろいろ思うことがあったので、長男にもそういう経験をさせたかった。その経験がどういうふうに彼の中で根付いているのかは分からないが、連れて行ってよかったと思っている。

見納め

 そんなことを思いながら、先日、次男の誕生会で実家に行ったついでに、祖父母の家を妻と見に行った。直前に祖父の夢を見たのも、人手に渡り取り壊されるタイミングでというのもあり、これは最後に心を刻んでおきなさいという天の思し召しなのだろうと思い、歩いて行った。
 久しぶりの道中は、変わっていない古い家もあれば、新しい家が立ち並んでいるところもあり、時間の経過を感じた。自分が小学1年生の時、遠足の帰りにウンコがしたくて、家の鍵がかかっていて、祖父母宅でしようと思い、向かったが間に合わず、ウンコを漏らしてしまった中間地点の駄菓子屋も、当然ながら滅びていた。窓から散らかった店内が見え、物悲しかった。

 それはさておき、祖父母宅に行くと、やはり人の出入りがなくなっているだけあって、背の高い雑草が玄関先に生えてしまっていた。勝手口も玄関も当然ながら鍵がかかっていて入れなかった。ていうか、開いていても不法侵入になるから入ってはいけないのだが。
 ひとしきり、周りから眺めて外観を写真に収めた。妻にも玄関先で立つ僕の姿を撮ってもらった。後で見せてもらったら、自分が思っている以上に白髪が多かった。鏡で毎日見ているのは、光の加減でそれほどでもないと思っていたが、外ではこんなふうに白髪のおっさんに見えるのだね。オムレツが嫌で家出した時から、40年以上経って、白髪まみれになって、解体前の家を見納めに来るなんて、5歳の自分は当然だけど想像もしてなかっただろうな。

 ヘッダーの写真にしたのは、玄関先の飾りの石。小さい頃、従兄弟と遊んでいた時、これを急峻な山に見立てて、ジョウロで水を流して川を作ってみたり、捕まえたアリやダンゴムシを登山者よろしく歩かせてみたりと、思い出深い石だ。草に隠れて、手でトンネルを作ろうとした隙間までは見えなかったけど、昔のことを思い出して胸が詰まった。家出した日、一家4人で居候した日、正月や盆に親族一同で集まって宴会をした日、家族旅行から離れてゲーム三昧だった日。いろんな思い出がある。あり過ぎて、そこがもうすぐなくなるなんて、信じられない。でも、それが時代というものだし。いつまでも昔のことが昔のままあり続けるということはできないのだから。

 時が過ぎるのは早いなと思う。そして、いろんなことを忘れたくないと思う。導かれるように祖父母宅が壊される直前に見に行けたのも、あの祖父の夢を見たから。良かったと思う。

 

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