『春陽会誕生100年 それぞれの闘い』展覧会記録(その3)

前々回、前回に続いて、その3。これで終わりにします。


椿貞夫

後から知りましたが、岸田劉生の弟子だとか。
ああ道理で。
『冬瓜図』の、細かなところを緻密に描写しつつ、広い面は大胆に処理する、偏執的なとこと、度胸一番の思い切りが同居してる様は、確かに師匠譲りって感じだし、『新緑』の坂道に至っては、「うーん草土社」と言いようがない。
でも、冬瓜の皮の粉っぽさと固さを、白い煙みたいに表現するのは、脂っこい岸田はやらないし、新緑の坂道の傍らに、小さな人影を配されてるのも、土臭さを表すために人臭さを排除した岸田とは、一線を画している。

師匠の影響から逃れようと、自分独自の表現を模索している感じ。
で、『朝子像』である。
真正面から師匠にケンカを売ってませんかこのヒト。

師匠、岸田劉生の『麗子像』と同じ構図、同じモチーフ。
ただ一番デカい違いは『朝子像』は怖くない。
それどころかスッゲェ可愛いです。

二重まぶたの眼をパッチリ開いて、黒い瞳をクリクリと輝かせてる。
ちっちゃい鼻の頭も、ちっちゃいなりに、つまんだようにツンと立ってて、小鼻もキュンとまとまっていて、その愛らしいこと。
オデコの薄い皮膚は、白く光るほどにピンと張っている。
鼻の頭とホッペは、木枯しに吹かれたのか、真っ赤になって、カサカサしているんだけど、その下のみずみずしさが、カサカサに負けない張りを与えている。
麗子と同じような髪形なんだけど、子供特有のシットリ感で、光る事もなく貼りついている。
その陰に小さく見える耳たぶが、サンゴ玉の耳飾りみたいにプクッと丸くって、それがまた可愛らしい。
そして、なんといっても唇が赤い。明るいその血色の良さが、もう健康そのもの。しかもその口角がちょっと上がって微笑んでいる。プクーッと膨らんでいるホッペとともに、本当に、幸せそのもの。
着ている毛糸のカーディガンも、愛情を込めて編まれたようで、ふっくらと暖かそう。その全体をうっすらと覆う毛糸の毛羽が、まるで、ぬくもりが目に見える形に洗われたように、この子を、ふうわりと包んでいる。

もちろん、『麗子像』にだって、岸田劉生の愛情はこもっているのだけれど、ちょっとわかりにくい。絵画表現に対するパトスの方が、目立ちすぎているのかな。

この『朝子像』の場合も、画家の絵画表現へのパトスは凄いんだけど、それは「俺の娘メチャ可愛い!」を訴えたいがためである。
すごくわかりやすい。
自分はこういう、分かりやすい絵が大好きです。

中川一政

分かりやすいというより、「日本の油絵」と言って、荻須高徳だの、片岡球子だのと個人名で出てくるのでない場合、なんとなくこんな感じ、と思い浮かべて、脳内にでてくる映像って、こんな感じじゃないだろうか。
そんな、一般的に油彩画に抱かれているイメージに近い作風。
勝手な思い込みであることは重々承知です。
良い絵は写実的なもの、という思い込みが無くて、油絵は画家の情熱的で個性的な画風を表すもの、という思い込みがあれば、「そうそう、これこれ、こういうの」って感じになっちゃうんじゃないかしら。

自分はなりました。
「おうおうおう、油絵だ油絵だ、油絵はヤッパこうじゃねぇとなあ!」
などという、みょんなテンションに。

人物画『女優像』『少年顔』、風景画の『駒ヶ岳』、静物画の『向日葵』と、各ジャンルそろっていて、どれもヤッパそんな感じで嬉しかったなあ。

油絵だけじゃなくて、尾崎史郎の『人生劇場』の挿絵も手掛けていたとのこと。
それも展示されていましたが、やっぱりどこかで見たようなというか、「新聞小説の挿絵」といえばこんな感じ、という、勝手なイメージにピッタリ合っていて、なんだか不思議な感じ。
50年も前なのに、自分のイメージを読まれたんだろうか。
そんなわけもなく。

一般的な油絵のイメージに近づけて描いたんじゃなくて、中川一政の絵が、今の自分が無意識に抱いている、油絵や新聞小説のイメージは、中川一政の仕事によってつくられたんだろう。中川一政という名前は知らなくても、直接その絵を見ていなくても、彼が多くの仕事を手掛けて、また多くの後進の指導を行ったことで、彼の作品のイメージが刷り込まれているんじゃないか。

そういう事って、他のいろんなジャンルでありそう。
で、自分にもそういう感覚が、いつのまにやら刷り込まれていたわけですね。
自覚してなかったなあ。

木村荘八

『永井荷風「墨東奇譚」挿絵』がずらり。
墨とインクを併用してる? コンテでトーンをつけている?
白くハイライトをいれているのは胡粉?
一気呵成にグイグイ描いてるのに、その中に色々とテクニックが駆使されている感じがたまりません。
岡本一平が米国パンチ誌を訪れた時に、下描きもなくズバッと絵を描いて、彼の地の方々を驚かせた、なんていう話がありましたが、このへんの絵も下描きなしなのかな。
確かに、墨絵にしろ大和絵にしろ、日本古来の絵の描き方だと、下描きって概念はなさそうだ。油彩画みたいな、不透明の画材で塗り重ねる技法じゃないと発生しない工程。

洋画家でもこういうのができるって、やはり春陽会の面目躍如ってことなのかしら。
そのせいか、『パンの会』や『私のラバさん』と、油彩もいい感じに戯画っぽく見える。というか、文化人サークルの連中が自分勝手にクダ巻いてるトコとか、レビューの一場面とか、題材の選択からして戯画家っぽい。ロートレックとか好きだったのかしら。画風は全く違うけど。

戦後の作品

岡鹿之助も戦後ではありますが、それ以外で、印象に残った作品をいくつか。今回ほぼ初めて知った作家さんばかりですが。

加山四郎『室内』
彩色土器と白いシクラメンの植木鉢が乗った、黒光りする木の机、その下の段にエスニック調の布が丸めて押し込んである。対比するように、その背後はオリーブ色のカーテン。傍らには紺色の太い針金で編まれたベル型の鳥籠。中の鳥は、籠と同じくらい青黒く、影のようで、様子がよく分からない。
彩色土器とエスニック生地のあたりで画面が縦に二分割されている。半分ずつ見れば、まるで別の部屋みたいに色味や画面の密度が違う。机や土器のパースが微妙に違っているとか、色々と画面が不安定になるような仕掛けがしてあって、勝手に視線がさまよっていくのが、なんとも不思議な感じ。

南大路一『植物(C)』
まっすぐな棒に色紙を巻き付けたようなものが三本、黄色一色の背景に垂直に並んで立っている。この季節でいうなら、手持ち花火の束か、広島の盆提灯か、短冊や飾りを巻いて墓場に供えられる風車か。
キク科のように、垂直にまっすぐ伸びた一本の茎に、段々に着けた葉や、てっぺんに広げた花に、降りそそぐ陽の光を弾けさせる、ちょうど今この季節の植物のイメージそのものだ。
背景が真っ黄色なのも、夏の陽射しに焼けた土地のようで、葉っぱに対応しそうな部分に、やたら赤が目立つのも、まるでサーモグラフィー映像みたい。
色も形も、植物とはかけ離れているのに、それでもこのイメージは、もう植物以外の何者でもない。すごいなあ。

中村徳三郎『電車が通る』
電車どこ? って思ったら、遠くの鉄橋に小さくやって来ていた。画面の中央にでっかく、白い壺に行けられた植物。生けられているというより、葉っぱの塊みたい。下半分は、温野菜みたいにシナッと垂れた葉っぱと、まだ垂れてないけど同じように黄色くなった葉っぱ。上半分はまだ温野菜になってないけど、緑じゃなくて明るい朱色。確か、こんな野菜があった気がする。そんな葉っぱの塊の周りを、フワーッと、カスミソウみたいな白い小さな花が取り巻いている。
色味も筆の使い方も優しくて、かすんだような画面は、岡鹿之助の系列なのかな。でも、巨大な花瓶に極小な鉄橋なんて、超現実的な景色は、岡鹿之助はやらない。
そんな幻想的な感じに、色や筆致も合わせていて、全く独特の世界になっている。

上原欽二『地平に立つ』
広くて明るいのに、ちょっと重たげな、まだらな青空。
うっすらと紫がかった岩と、ピンク色の砂浜。
そこに立つ、ヒマワリの残骸。赤い筋の残った茎の上に、半ば白い灰になった、黒焦げの花。
ヒマワリだけじゃなくて、砂浜も岩も、ともすれば空すらも、焼き尽くされた後のような、カサカサした色と質感。
それなのに、茎は強くまっすぐに伸びていて、折れそうにない。
花だった部分も、まるで空を見つめているようにしっかりと上を向き、決してうつむきそうにない。
画面全体がガサガサとしていて、ここに描かれた世界そのものが、苦しみに満ちているようだ。
しかし、そんな世界でも立ち続ける力が、この絵のテーマなんだろうか。

田中岑『丘原』
今度は空がやたら狭い。画面のほとんどを朱色の大地が占めている。微妙に濃淡が不均一なんだけど、まるで切り裂いたのか、四角い色紙を貼り合わせたかのように、直線的な色合いの違いがある。
切り裂かれた向こうに、かすかに黄色、緑や青が見える。
タイトルからして、草に覆われた丘の絵なんだろうか。
だから本来は、緑色だ。朱色の補色。
緑の草原を表現するのに、一面を補色で塗りつぶすという発想。
そのせいか、光をやたら感じて、とにかく色が美しい。
色の美しさを、ただ色だけじゃなく、補色を使う事で光を意識させるという演出。すごいなあ。

藤井令太郎『アッカドの椅子』
青銅の座像と、黄色い椅子が向かい合っている。
座像は、アッカド人、いわゆるシュメール人だ。紀元前二千年ごろ。
椅子は、見るからにモダンで、材質も樹脂のようだ。たぶん、この絵が描かれた二十世紀半ば、当時の最新デザインと思われる。
紀元前二千年の座像と、最新の樹脂製の椅子。
それが、対話をするように向き合っている。
過去と未来の対話というテーマなんだろうか。
だけど、それだけにはとどまらない感じがする。
ほとんど座像と椅子だけの、ごく単純な絵なのに、なんとも奥が深い。

他にも色々と語りたい作品はあったけれど、それはまた次の機会にしたい。
宮脇晴とか、ぜひ語りたいけれど、豊田市美術館の常設展の方が、その魅力を伝えやすいと思う。

長々とありがとうございました。
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